8話
夜の港町は、昼の喧騒をうしなっていた。
川岸の露店は畳まれ、石畳には荷馬車の深い轍だけが残っている。
潮に、安煙草、揚げ魚の古い油、遠い工房の冷えた灰の匂いが混じっていた。
ヨハンは外套のフードを深く被り、場末の酒場の隅にある席に腰を下ろした。
正規の航路はすでに封鎖されている。
狙うべきは人を運ぶ客船ではなく、検査を急いで抜けたがる荷船だ。
積み込みの騒乱に乗じて積荷に入り込み、出港後は、人の目の届かぬ区画へと身を隠す。
カウンターの向こうから、店主が使い古されたジョッキを置いた。
白い泡が縁を越え、汚れた卓を濡らしていく。
玉ねぎのピクルスと鰯の小皿がひとつ滑り込んできた。
ヨハンは無言でジョッキだけを引き寄せた。
小皿には手をつけない。
カウンターの店主の手と、出入口だけを視野の端に置いたまま、一口だけ喉に流し込む。
隣のテーブルでは、焼けて赤ら顔の船乗りたちが、声を上げて笑い合っていた。
ヨハンを目の端で値踏みした一人が、彼の義足へと視線を落とし、すぐさま隣の男の肘を突いた。笑い声が一拍だけ薄れては戻った。
雑音の底から、単語だけを拾う。
船の便が極端に減っている。
検問がより厳しくなった。
港で女を伴った男は執拗に問い詰められると噂が出回っている。
奥のテーブルに樽を運び終えた男の肩から、擦り切れたロープ屑が、白く細かく落ちた。
別の卓に置かれた木箱の蓋には焼印が押され、ガラス器の注意書きが、真っ赤に滲んで浮き上がっている。
その隣から、荷役の段取りを話す声が低く漏れてきた。
三番埠頭、夜明け前の荷積み。
急ぐ理由は、正規の検査という網を掻い潜るため。
ジョッキを傾けながら、その声の方向だけを耳で押さえる。
今夜の収穫は、それで十分だ。
ヨハンは、卓に刻まれた無数の傷を見つめた。
シグマは身内ではない。
棲家を捨てたあの時点で、袂を分かつべきだった。
それでも、できなかった。
椅子が、床板を擦って音を上げた。
出口へと向かう途上、カウンターの男がヨハンの足元を射抜くように見た。
視線は即座に外され、汚れた布で卓を拭く。
だが、その視線が完全に消え去る前に、男の顎が入口の方向へと、ほんのわずかに、合図を送るように動いた。
ヨハンは表情を一切変えず、重厚な扉を押し開けた。
外の空気が、熱を持った頬を打つ。
扉の脇に身を寄せ、街灯の届かぬ死角に背を預けた。
路地の奥に動く影はない。
三十秒の間、周囲の気配を精密に測り取る。
あの男の顎の動きが何を意味するのかは、未だ判然としない。
だが、義足を見られた。噂は、あっという間に世を渡る。
宿の方向へは戻らない。
逆方向へ一度足を進め、大通りを横切り、川沿いから大きく回り込む。
大通りを渡り、川沿いの暗い道へと滑り込んだ。
人の流れに紛れ込みながら、背後に張り付く気配を測り続ける。
表通りには検問の兵が立ち並び、その威圧感が肌を刺す。
義足は見咎められるだろう。川沿いの道を選んだのは、その危険を避けるためだった。
裏通りへと折れる。
表通りよりも闇が深く、人影は疎らだ。
一曲がり目を過ぎたところで、背後の足音が不自然に増殖した。
距離を保ち、獲物を追い詰めるような足運び。
前方からも別の影が動く気配がした。
直後、路地の両端から影が湧き出した。
五人。正面に二人、左右の建物の陰にそれぞれ一人、そして背後を一人。
身に纏った革鎧に、冷たく光る長剣。
それは、正規の捜索隊の装束ではなかった。
「その義足……『嵐刃』テオドールは貴様か」
正面に立つ男が、底を擦るような声で告げた。
指先の感覚が、そこで一度切れた。
「……そいつは死んだよ」
短剣を抜き放ちながら、彼は静かに応じた。
「俺はヨハンだ」
正面の男が、間を詰めて踏み込んでくる。
右に捌き、返す動作で肘を打ち込みに行った。
その刹那、右足が一拍だけ遅れ、地を蹴る力が逃げる。
肘打ちは空を切り、標的を浅くかすめるに留まった。
左から二人目が肉薄する。
右脚に全体重を乗せて向き直った瞬間、義足の継ぎ目が鈍く軋んだ。
息が喉の手前で詰まり、肺へ戻るまでに一拍の遅れが生じる。
三人目が、側面から襲いかかる。脳内が肉体の遅滞に追いつかない。
刃が肉を裂く、その寸前であった。
星が落ちてきた。
頭上で何かが光り、弧を描いて落下した。
ぎらつく銀の刃が尾を描き、男の肩口に剣先が叩き込まれる。
剣の切っ先はヨハンの喉元を僅かに外れたあと取り落とされ、石畳を虚しく噛んだ。
黒い影が、男の背を踏み台にして、路地へと舞い降りた。
着地の衝撃を滑らかに殺す。
そのフードの奥から、桃色の髪がひと筋、夜闇にこぼれた。
ヨハンは、驚愕に目を上げた。
「……お前、なぜ」
返答はない。
四人目が右斜め前方から突進してくる。
シグマはその軌道へ流れるように身を入れ、刃をヨハンの右肩の外で受け止めた。
ヨハンが正面を切り払うあいだに、彼女は左後方へ滑り込み、背後からの切っ先を逸らす。
ヨハンが右へ動けば、彼女は即座に左側を埋めた。
男たちのうちの一人が、シグマに肉薄してフードを乱暴に掴み取った。
引き剥がされた瞬間、鮮やかな桃色の髪がばらりと撒かれた。
「……聖女だ」
その声が出た瞬間、肉薄していた男の踏み込みが止まった。
シグマは、フードを掴んだその手首を返し、そのまま地面へと叩き伏せた。
ヨハンをテオドールと呼んだ男が、傷を庇いつつ舌打ちをした。
撤退を告げる前に、その目が一瞬だけヨハンへ向いた。
何かを確かめるような、一秒だった。
それから剣を鞘に収め、踵を返す。仲間たちもそれに従い、暗がりに消えた。
ヨハンは、それを追わなかった。
「走るぞ」
ヨハンの声より早く、彼女はすでに動き出していた。
路地を三つ潜り抜け、川沿いの暗がりでようやく足を止めた。
ヨハンは壁に手をつき、激しい呼吸を繰り返した。
右脚の継ぎ目に熱が溜まり、一歩ごとに鈍く疼いた。
肺に空気を取り込もうとするたび、胸の奥で何かが執拗に引っかかり、吐き出すまでに長い時間を要した。壁を押す掌には、制御できぬ余分な力がこもっている。
隣ではシグマが、変わらぬ姿勢で立っていた。
呼吸は荒れているが、その膝が折れることはない。
「なぜ、来た」
「あなたが、戻らなかったからです」
「……お前、俺を庇ったな」
「駄目でしたか」
「俺を、負傷者扱いするなと言っているんだ」
シグマは、一拍の間を置いた。
「ですが、あなたの身体は、本調子ではありませんよね」
「……この脚のことを言っているのか」
「いいえ、違います」
シグマは、壁につかれたヨハンの掌を見つめた。
空気を吸うたびに、手のひらが壁を強く圧迫する。
右脚の物理的な軋みとは別の遅滞が、呼吸のたびに彼の動きを蝕んでいる。
「脚以外のどこか……内臓が悪いのですか」
ヨハンは、何も答えなかった。
シグマもそれ以上、答えを促さなかった。
今夜中にこの港町を脱出することは、もはや不可能であった。
夜の港の表口は鎖で閉じられていたが、三番埠頭の奥では荷役灯がまだ動いていた。
無人の倉庫や空き家に身を隠せば、その痕跡が命取りになるだろう。
川から遠く離れた、狭隘な通りにある安宿へ向かった。
宿の扉を開ける前に、廊下の幅を一歩で確かめた。義足で立ち回るには苦しい幅だった。
部屋はまた、ひとつしか確保できなかった。
女将は一度だけシグマを頭から足まで見た。
部屋の鍵を渡す前の、その一秒が、他の客より長かった
寝台は窓の下へと押し込められ、その脇に椅子がひとつ、部屋の中央よりわずか前に、向きを定めずに置かれていた。
ヨハンが窓際に立てば、シグマの座る椅子まで、腕を伸ばせば届いてしまうほどに狭い。
戸口を確かめようとすると、シグマの頭越しに目をやるしかない。
ヨハンが体重を移すたびに、足の下で、板が鈍く鳴った。
シグマは椅子に深く腰を下ろしていた。
膝の上に置かれた両手には、乾ききった血の痕が、指の股や爪の脇にこびりついている。
彼女は親指の腹で、それをゆっくりと擦った。落ちない。
それが自分の血か返り血か、確かめようともしなかった。
ヨハンは窓の外、冷たい闇を凝視したまま動かない。
「もし、あなたが戻らなかったら、私はどうしたらよかったのですか」
ヨハンは、答えなかった。
シグマは、指先を擦るのをやめた。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「求められるからそこにいることと、自分でそこにいたいと思うことは、同じではないのでしょうか」
ヨハンは、ゆっくりと振り返った。
シグマは、膝の上の自らの手を見つめていた。
血のこびりついた指先は、ほとんど閉じていたが、第一関節だけが浮いていた。
「……自分で考えろ」
ヨハンは再び、窓の外へと視線を戻した。
視界の先には、夜の通りが広がっている。
彼の指先が、窓枠の鋭い角を強く押しつけた。
「夜明け前に動くぞ。三番埠頭に、積荷を急ぐ船がある」
ヨハンは窓の外を見たまま、矢継ぎ早に続けた。
「人ではなく、貨物として紛れ込む。桟橋際に魚油の麻袋が積んである。その列の奥だ。ガラス器の木箱には近づくな。割れれば音で露見する。俺が先に入るから、荷役鐘が二打ちしたら、お前が動け」
シグマは、血のついた手を膝に置いたまま、ヨハンを見上げた。
「私にも、果たすべき役割があるのですね」
ヨハンは、答えなかった。
だが、その言葉を否定することもなかった。
しばらくの時間が流れたあと、シグマは自分の荷へと静かに手を伸ばした。
「それまで、身体を休めろ」




