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人造聖女と退役勇者の帰還  作者: 笹原ハルキ


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8/10

8話

 夜の港町は、昼の喧騒をうしなっていた。


 川岸の露店は畳まれ、石畳には荷馬車の深い轍だけが残っている。

 潮に、安煙草、揚げ魚の古い油、遠い工房の冷えた灰の匂いが混じっていた。

 

 ヨハンは外套のフードを深く被り、場末の酒場の隅にある席に腰を下ろした。

 正規の航路はすでに封鎖されている。

 狙うべきは人を運ぶ客船ではなく、検査を急いで抜けたがる荷船だ。

 積み込みの騒乱に乗じて積荷に入り込み、出港後は、人の目の届かぬ区画へと身を隠す。


 カウンターの向こうから、店主が使い古されたジョッキを置いた。

 白い泡が縁を越え、汚れた卓を濡らしていく。

 玉ねぎのピクルスと鰯の小皿がひとつ滑り込んできた。


 ヨハンは無言でジョッキだけを引き寄せた。

 小皿には手をつけない。

 カウンターの店主の手と、出入口だけを視野の端に置いたまま、一口だけ喉に流し込む。


 隣のテーブルでは、焼けて赤ら顔の船乗りたちが、声を上げて笑い合っていた。

 ヨハンを目の端で値踏みした一人が、彼の義足へと視線を落とし、すぐさま隣の男の肘を突いた。笑い声が一拍だけ薄れては戻った。

 雑音の底から、単語だけを拾う。


 船の便が極端に減っている。

 検問がより厳しくなった。

 港で女を伴った男は執拗に問い詰められると噂が出回っている。


 奥のテーブルに樽を運び終えた男の肩から、擦り切れたロープ屑が、白く細かく落ちた。

 別の卓に置かれた木箱の蓋には焼印が押され、ガラス器の注意書きが、真っ赤に滲んで浮き上がっている。

 その隣から、荷役の段取りを話す声が低く漏れてきた。


 三番埠頭、夜明け前の荷積み。

 急ぐ理由は、正規の検査という網を掻い潜るため。


 ジョッキを傾けながら、その声の方向だけを耳で押さえる。

 今夜の収穫は、それで十分だ。


 ヨハンは、卓に刻まれた無数の傷を見つめた。

 シグマは身内ではない。

 棲家を捨てたあの時点で、袂を分かつべきだった。

 それでも、できなかった。


 椅子が、床板を擦って音を上げた。

 出口へと向かう途上、カウンターの男がヨハンの足元を射抜くように見た。

 視線は即座に外され、汚れた布で卓を拭く。

 だが、その視線が完全に消え去る前に、男の顎が入口の方向へと、ほんのわずかに、合図を送るように動いた。

 ヨハンは表情を一切変えず、重厚な扉を押し開けた。


 外の空気が、熱を持った頬を打つ。

 扉の脇に身を寄せ、街灯の届かぬ死角に背を預けた。

 路地の奥に動く影はない。

 三十秒の間、周囲の気配を精密に測り取る。

 あの男の顎の動きが何を意味するのかは、未だ判然としない。

 だが、義足を見られた。噂は、あっという間に世を渡る。


 宿の方向へは戻らない。

 逆方向へ一度足を進め、大通りを横切り、川沿いから大きく回り込む。


 大通りを渡り、川沿いの暗い道へと滑り込んだ。

 人の流れに紛れ込みながら、背後に張り付く気配を測り続ける。

 表通りには検問の兵が立ち並び、その威圧感が肌を刺す。

 義足は見咎められるだろう。川沿いの道を選んだのは、その危険を避けるためだった。


 裏通りへと折れる。

 表通りよりも闇が深く、人影は疎らだ。

 一曲がり目を過ぎたところで、背後の足音が不自然に増殖した。

 距離を保ち、獲物を追い詰めるような足運び。


 前方からも別の影が動く気配がした。

 直後、路地の両端から影が湧き出した。

 五人。正面に二人、左右の建物の陰にそれぞれ一人、そして背後を一人。

 身に纏った革鎧に、冷たく光る長剣。

 それは、正規の捜索隊の装束ではなかった。


「その義足……『嵐刃』テオドールは貴様か」


 正面に立つ男が、底を擦るような声で告げた。

 指先の感覚が、そこで一度切れた。


「……そいつは死んだよ」


 短剣を抜き放ちながら、彼は静かに応じた。


「俺はヨハンだ」


 正面の男が、間を詰めて踏み込んでくる。

 右に捌き、返す動作で肘を打ち込みに行った。

 その刹那、右足が一拍だけ遅れ、地を蹴る力が逃げる。

 肘打ちは空を切り、標的を浅くかすめるに留まった。

 左から二人目が肉薄する。

 右脚に全体重を乗せて向き直った瞬間、義足の継ぎ目が鈍く軋んだ。

 息が喉の手前で詰まり、肺へ戻るまでに一拍の遅れが生じる。

 三人目が、側面から襲いかかる。脳内が肉体の遅滞に追いつかない。

 刃が肉を裂く、その寸前であった。


 星が落ちてきた。

 頭上で何かが光り、弧を描いて落下した。


 ぎらつく銀の刃が尾を描き、男の肩口に剣先が叩き込まれる。

 剣の切っ先はヨハンの喉元を僅かに外れたあと取り落とされ、石畳を虚しく噛んだ。

 黒い影が、男の背を踏み台にして、路地へと舞い降りた。

 着地の衝撃を滑らかに殺す。

 そのフードの奥から、桃色の髪がひと筋、夜闇にこぼれた。

 ヨハンは、驚愕に目を上げた。


「……お前、なぜ」


 返答はない。

 四人目が右斜め前方から突進してくる。

 シグマはその軌道へ流れるように身を入れ、刃をヨハンの右肩の外で受け止めた。


 ヨハンが正面を切り払うあいだに、彼女は左後方へ滑り込み、背後からの切っ先を逸らす。

 ヨハンが右へ動けば、彼女は即座に左側を埋めた。

 男たちのうちの一人が、シグマに肉薄してフードを乱暴に掴み取った。

 引き剥がされた瞬間、鮮やかな桃色の髪がばらりと撒かれた。


「……聖女だ」


 その声が出た瞬間、肉薄していた男の踏み込みが止まった。

 シグマは、フードを掴んだその手首を返し、そのまま地面へと叩き伏せた。


 ヨハンをテオドールと呼んだ男が、傷を庇いつつ舌打ちをした。

 撤退を告げる前に、その目が一瞬だけヨハンへ向いた。

 何かを確かめるような、一秒だった。

 それから剣を鞘に収め、踵を返す。仲間たちもそれに従い、暗がりに消えた。

 ヨハンは、それを追わなかった。


「走るぞ」


 ヨハンの声より早く、彼女はすでに動き出していた。


 路地を三つ潜り抜け、川沿いの暗がりでようやく足を止めた。

 ヨハンは壁に手をつき、激しい呼吸を繰り返した。

 右脚の継ぎ目に熱が溜まり、一歩ごとに鈍く疼いた。

 肺に空気を取り込もうとするたび、胸の奥で何かが執拗に引っかかり、吐き出すまでに長い時間を要した。壁を押す掌には、制御できぬ余分な力がこもっている。

 隣ではシグマが、変わらぬ姿勢で立っていた。

 呼吸は荒れているが、その膝が折れることはない。


「なぜ、来た」

「あなたが、戻らなかったからです」

「……お前、俺を庇ったな」

「駄目でしたか」

「俺を、負傷者扱いするなと言っているんだ」


 シグマは、一拍の間を置いた。


「ですが、あなたの身体は、本調子ではありませんよね」

「……この脚のことを言っているのか」

「いいえ、違います」


 シグマは、壁につかれたヨハンの掌を見つめた。

 空気を吸うたびに、手のひらが壁を強く圧迫する。

 右脚の物理的な軋みとは別の遅滞が、呼吸のたびに彼の動きを蝕んでいる。


「脚以外のどこか……内臓が悪いのですか」


 ヨハンは、何も答えなかった。

 シグマもそれ以上、答えを促さなかった。


 今夜中にこの港町を脱出することは、もはや不可能であった。

 夜の港の表口は鎖で閉じられていたが、三番埠頭の奥では荷役灯がまだ動いていた。

 無人の倉庫や空き家に身を隠せば、その痕跡が命取りになるだろう。


 川から遠く離れた、狭隘な通りにある安宿へ向かった。

 宿の扉を開ける前に、廊下の幅を一歩で確かめた。義足で立ち回るには苦しい幅だった。

 部屋はまた、ひとつしか確保できなかった。

 女将は一度だけシグマを頭から足まで見た。

 部屋の鍵を渡す前の、その一秒が、他の客より長かった


 寝台は窓の下へと押し込められ、その脇に椅子がひとつ、部屋の中央よりわずか前に、向きを定めずに置かれていた。

 ヨハンが窓際に立てば、シグマの座る椅子まで、腕を伸ばせば届いてしまうほどに狭い。

 戸口を確かめようとすると、シグマの頭越しに目をやるしかない。

 ヨハンが体重を移すたびに、足の下で、板が鈍く鳴った。


 シグマは椅子に深く腰を下ろしていた。

 膝の上に置かれた両手には、乾ききった血の痕が、指の股や爪の脇にこびりついている。

 彼女は親指の腹で、それをゆっくりと擦った。落ちない。

 それが自分の血か返り血か、確かめようともしなかった。

 ヨハンは窓の外、冷たい闇を凝視したまま動かない。


「もし、あなたが戻らなかったら、私はどうしたらよかったのですか」


 ヨハンは、答えなかった。

 シグマは、指先を擦るのをやめた。


「ひとつ、聞いてもいいですか」

「何だ」

「求められるからそこにいることと、自分でそこにいたいと思うことは、同じではないのでしょうか」


 ヨハンは、ゆっくりと振り返った。

 シグマは、膝の上の自らの手を見つめていた。

 血のこびりついた指先は、ほとんど閉じていたが、第一関節だけが浮いていた。


「……自分で考えろ」


 ヨハンは再び、窓の外へと視線を戻した。

 視界の先には、夜の通りが広がっている。

 彼の指先が、窓枠の鋭い角を強く押しつけた。


「夜明け前に動くぞ。三番埠頭に、積荷を急ぐ船がある」


 ヨハンは窓の外を見たまま、矢継ぎ早に続けた。


「人ではなく、貨物として紛れ込む。桟橋際に魚油の麻袋が積んである。その列の奥だ。ガラス器の木箱には近づくな。割れれば音で露見する。俺が先に入るから、荷役鐘が二打ちしたら、お前が動け」


 シグマは、血のついた手を膝に置いたまま、ヨハンを見上げた。


「私にも、果たすべき役割があるのですね」


 ヨハンは、答えなかった。

 だが、その言葉を否定することもなかった。

 しばらくの時間が流れたあと、シグマは自分の荷へと静かに手を伸ばした。


「それまで、身体を休めろ」


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