7話
報告が届けられたのは、陽光が赤く濁り始めた夕刻のことだった。
ゲルハルトは広げた地図の上に人差し指を置いたまま、部下の報告を聞いていた。
短く刈り込んだ黒髪、太い首筋、深く腰を下ろしてなお威圧を隠せない背と肩。
伏せた瞳だけが静かで、部下の言葉の綻びを針のように拾っていく。
卓には街道図と聞き込みの記録が散らばり、油の乏しいランプが紙の端を黄色く照らしていた。
部下が紙をめくるたび、その巨大な影が卓の上を生き物のように滑っていった。
「桃色の髪を持つ女の目撃例はございません。ただ、若い女を伴った旅人の情報が一件──」
「若い女の目撃情報はすべてを差し出せと言ったはずだ。続けろ」
ゲルハルトは顔を上げなかった。
地図を押さえつけた指先が、古い紙の繊維を微かに押し潰している。
「一昨日の朝、中継街の正門を通過した二人連れです。連れの男の右脚が、義足だったとのことです」
その言葉が出た瞬間、ゲルハルトの指が止まった。
爪の下から血の気が引き、白く変わる。
彼はその指先を一度だけ見下ろした。
「義足か」
「はい。門番が記憶しておりました」
椅子が短い悲鳴を上げた。
ゲルハルトは唐突に立ち上がった。
椅子の背が壁に衝突し、重い衝撃音が響く。
部下は反射的に背筋を凍らせ、一歩退いた。
ただ彼が立ち上がっただけで、部屋の空気が希薄になり、一気に狭まったかのような錯覚を覚える。
「顔立ちは。背丈はどうだった」
「そばかすが散り、背が高いと。髪は、陽に晒されて色が抜けたような、乾いた色をしていたそうです」
ランプの炎が細く揺らめいた。
ゲルハルトは地図の一点を射抜くように見つめたまま、唇を微かに震わせた。
「……テオドール」
それは部下の耳には届かぬほどの、密やかな囁きだった。
その名を唇に乗せた刹那、頬の筋がひとつ波打ち、唇の端がわずかに吊り上がって、すぐに消えた。
次の瞬間には、ゲルハルトの瞳に氷のような冷徹さだけが残っていた。
「港町へ即座に人員を割け。女の捜索は続行。義足の男に関するあらゆる情報を、一切の漏れなく掻き集めろ」
「はっ」
「見つけ次第、俺へ直接報告せよ。本隊へ上げる必要はない。命令を違えるな」
最後の一節に、部下が一瞬だけ当惑の目を向けた。
ゲルハルトはその視線を無言で受け止め、有無を言わせぬ圧力を放つ。
部下は即座に深く頭を下げ、戸を開けて闇の中へと消えていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
ゲルハルトは両手を卓に突き、中継街から港町へと伸びる細く頼りない街道の線を指でなぞった。
ゆっくりと、爪先が紙を擦る砂を噛むような音が、自らの鼓膜にのみ届く。
二日の遅滞。だが港に辿り着けば、船、倉庫、宿、蜘蛛の巣のような抜け道まで、すべての急所はすでに掌握の内にあった。
昨夜のうちに、網は放ってある。
指先が港を示す印の上で止まった。彼は紙の表面を軽く引き裂くように引っ掻いた。
「ようやく、見つけたぞ」
その声は低く、喉の奥から絞り出すような響きだった。
*
夜明け前、部屋に漂う空気はまだ、見知らぬ他人のようによそよそしかった。
寝台はひとつしかなく、夜の間、その境界線として中央に置かれた外套が、砂漠の堤のような皺を残している。
シグマの髪は、編み込まれていた跡を淡く残し、肩先で無防備に乱れていた。
ヨハンは桶に溜まった水で口をすすぎ、濡れた指先を拭うことさえせずに荷紐を締め直した。
シグマが身じろぎをするたびに、布が擦れ合う微細な音が届く。
野宿よりも壁が近く、そして、言葉にできぬ隔たりもまた、肌を刺すほどに近かった。
二人は昨夜の出来事には一切触れぬまま、淡々と出立の支度を整えていった。
港町の市は、朝の光の中ですでに群衆で膨れ上がっていた。
川岸の露店、泥を噛む荷馬車、魚を捌く音。
売り手の怒号が飛び交い、風は塩気と干し魚の饐えた匂い、獣脂と濡れた麻袋の腐臭をまとめて運んできた。
ヨハンは迷いのない足取りで進み、瞳だけを鋭く動かして店を選別していく。
他人の肩がぶつかりそうになるたび、彼は荷を背負った腕を外側へ張り出し、シグマをその強固な内側へと囲い込んだ。
軒先に熊の頭骨が吊るされた店の前で、彼はようやく歩調を緩めた。
シグマはその半歩後ろ、彼の背の影に身を隠すようにして歩いた。
その瞳は忙しなく周囲を走っている。
真鍮の重り、布の質を確かめる指、客へ向けられる貼り付いた笑み。
シグマの目は忙しなくそれらを拾っていた。
子どもが脇を駆け抜け、魚籠を担いだ男が強引に割り込む。
ヨハンの手が驚くほどの速さでシグマの肘を引き、その肩が一度だけ彼の腕へぶつかった。
二人は沈黙を保ったまま、その直後から歩幅だけが揃っていった。
店主は、四十を過ぎた脂ぎった顔の男だった。
ヨハンの荷から毛皮を無作法に引き抜き、毛並みを逆撫でし、革の仕上げを執拗に爪で擦る。
指先は熟練していたが、視線は途中から品物ではなくヨハンの相貌に張り付いていた。
価格を口にするより先に、男は問いを投げかけた。
「どこの山から下りてきた」
「山の方だ。それ以上は、言う必要もない」
「山の方、では広すぎるな。どこの縄張りだ」
店主は毛皮を卓の上に放り出したまま、ヨハンの手に目を落とした。
骨ばった節の張り、爪の縁の荒れ、刃物によるたこの位置。
ひとつひとつを、品定めするように拾い上げる。やがて、その口元が皮肉に歪んだ。
「……あんた、本職の猟師の手じゃないな。訛りも、あまりに上品に過ぎる。一体、どこのモンだ」
近傍の売り手たちが、手を動かしたまま急に静まり返った。
店主が暖簾の奥へと一度だけ合図を送る。
棚の陰から小僧が顔を出し、脱兎のごとく通りへと走り去っていった。
ヨハンは沈黙で応じた。
喉の奥で呼吸を止め、荷紐を握りしめる指が白く強張っていく。
掌の下で、革が小さく軋みを上げた。
シグマが静かに前へ出た。
ヨハンの肩より半歩だけ先に出て、店主へ優雅に頭を下げる。
「失礼をいたします」
声の質が変わっていた。
抑揚が整い、言葉の端が丁寧に切りそろえられている。
「このお方は、山の猟師に委託されて品をお持ちしたに過ぎません。適切な値がつくのであれば持ち帰るよう、言いつかっております」
「本人は姿を現さぬのか」
「不慮の負傷を負われまして、街へ下りることが叶わぬ状態にございます」
店主の瞳が、シグマの綻びのない口元で一瞬だけ停止した。
次いで彼女の肩、腕、そして手元へと視線が落ちる。
それから再びヨハンへと視線を戻し、意図的に時間を置いてから、一言、値を告げた。
ヨハンが短く首を縦に振った。
代金を渡す際、店主はもう一度、執拗にシグマを凝視した。
首筋、肩の線、腕の曲線を、品物を検分するかのようにゆっくりと拾い上げる目だった。
シグマはその不躾な視線に気づいていながら、まばたきひとつせず、凪いだ瞳でそれを受け流した。
代わりに、代金を受け取る手だけをわずかに引く。
その動きよりも早く、ヨハンが代金を引き取り、袋の口を乱暴に閉ざした。
革紐が、きつく鳴る。
「行くぞ」
店主は笑わなかった。
ただ、しらけきった目を一度だけヨハンへ向け、興味を失った。
店を離れ、人混みに紛れてから、ヨハンが地を這うような低い声で言った。
「どこで覚えたんだ。あんな、人を欺くようなことを」
シグマは前方を見据えたまま、平坦な声で答えた。
「養成機関に出入りする、権力を持つ方々の相手をさせられていたので」
ヨハンの歩幅が一瞬だけ狭まった。
顎の横の筋が動き、横顔が強く強張る。
彼はそれ以上、何も語らずに歩き続けた。
市を抜けると、路地は急速に息苦しいほど細くなった。
石壁が目前に迫り、潮の香りと生ごみの臭いが澱みの中にこもっている。
濡れた石畳の上で、自分たちの足音だけが、どこか他人の音のように返ってきた。
ヨハンが、先に沈黙を破った。
「あの捜索隊、お前を殺すために探しているわけではないな」
シグマがふいに顔を上げた。
「生きたまま、確保したいんだ。なぜ、これほどの手間をかけてまで、お前を探し求める」
シグマは即座には答えなかった。
路地の先に干された白い洗濯物が、海風に煽られて激しく揺れている。
そこへ一度だけ虚ろな目を投じ、記憶から言葉を掬い上げた。
「機関が焼かれた日。私が訓練から戻った時には、他の聖女の姿はすでに消えていた。兵士の持っていた名簿には、私以外の名にのみ横線が引かれていました」
「お前を取り逃がしたことに泡を食っているというわけか」
「ええ。きっと、そういうことなのでしょうね」
シグマは、まるで他人事のような響きで言った。
路地の壁に近い方の手が、いつのまにか自らの袖口を引きちぎるように固く摘んでいる。
「聖女は、連れて行かれた先で、どうなるのですか」
問い終えたあとで、声だけがわずかに震えた。
ヨハンは腕を組み、視線を路地の濡れた石へ落とした。
「……決して、良い話じゃない」
その一言を絞り出したあと、彼の左手の親指が上腕の肉を強く押し潰した。
押された場所の布が、歪な皺となって寄る。
「そうですか」
シグマはそれ以上、追及しなかった。
ヨハンは間を置いてから、静かに問うた。
「なぜ俺に事情を明かした」
「なぜ、と言われても」
シグマは言葉を失い、ずいぶんと高い位置にあるヨハンの横顔を見上げた。
「あなたは私の事情に巻き込まれているから」
ヨハンは答えなかった。
靴の先で、石の欠片をひとつ弾き飛ばす。
欠片は壁にぶつかり、乾いた音を立てて落ちた。
「……別に、今更の話だろ」
それだけだった。
口の端を薄く結んだまま、目はただ路地の先にある闇を向いている。
シグマは、その頑なな横顔を見つめた。
これ以上の追及は、この男を完全に閉ざしてしまう。
そのような絶対的な硬質さが、今の彼女にはありありと見えていた。
宿へと戻る直前、ヨハンは市の外縁を一周するように歩いた。
先ほど皮屋の奥から飛び出していった小僧が、広場の隅で兵の袖を執拗に引いているのが視界に入る。
そこで彼の足が、半歩だけ、地へ縫い付けられたように止まった。
人だかりの向こう側で、捜索隊の一団が商人たちに何らかの羊皮紙を見せ、聞き込みを行っていた。
男が持っているのは正式な書状だ。
そこには、赤黒い封蝋が、傷口のように押されていた。
ヨハンは人垣の陰に身を潜め、その封蝋の紋章へ目を凝らした。
距離はあった。だが、あの三つに裂けた翼の輪郭だけは、見間違えようがなかった。
三叉の鷲。
右脚の金属の継ぎ目に、焼けるような熱を帯びた、激しい痛みが走った。
膝の裏の力がわずかに抜けかけ、心臓の鼓動が一拍、大きく遅れる。
胃の底が、音もなく一気に冷え切っていった。
三叉の鷲。幾度も戦場で仰ぎ見た、呪わしい旗印だった。
失った脚の記憶と、鮮明につながる。
ヨハンは人垣から弾かれたように離れ、足音を殺して来た道を戻る。
背後ではシグマが無言でついてきた。
彼女は何も問いかけなかった。
ただ、ヨハンの歩幅が先ほどとは一変して速まり、右脚を庇うという習癖が影も形も消え去っていることだけを、その目に焼き付けていた。
宿を目前にした路地で、シグマが重い口を開いた。
「知り合いの、旗印でしたか」
ヨハンは歩みを止めなかった。返答すらしない。
シグマは、その背中を見つめ続けた。
右脚を庇う癖は、もう戻らなかった。




