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人造聖女と退役勇者の帰還  作者: 笹原ハルキ


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6/10

6話

 丹念に築いた棲家を捨て、二人は戻れない道へ踏み出した。


 ヨハンは一度も振り返らない。背の荷の中で、硬い道具同士が低く触れ合う。

 シグマもまた荷を分かち、その半歩後ろを影のように従った。


 深い森の中では、二人ともほとんど言葉を交わさなかった。

 夜明けが深まるにつれ、湿った土の匂いに、人里の煙と家畜の臭いが混じり始める。

 街道へ出れば危険は濃くなる。

 それでも、この森に留まる理由はもうなかった。


 陽が西に傾く頃、ヨハンはようやく足を止めた。

 街道からわずかに外れた、抉れたような窪地だった。


 火はあくまで小さく、くべる枝も厳選した。

 煙の立ちにくい、芯まで乾ききった木を二、三本だけ組み、干し肉を炙るだけの簡素な食事で済ませる。

 焚き火の微かな明かりが、二人の膝と荷の端を、剥き出しの傷口のように赤く染めていた。

 長い沈黙が流れたあと、ヨハンが重い口を開いた。


「お前、さっき、自分以外の聖女と言ったな」


 シグマは炙った干し肉を手にしたまま、瞳だけを緩慢に上げた。


「ええ。……まさか、私を聖女であると知らずに泊めたのですか」

「名乗らなかったのはお前の方だ。なぜ隠していた」

「大抵の人間は、私のこの顔を見れば、それと理解しますので」


 シグマは少し間を置いた。


「しかし、今回の迎えは、様子が違いましたね」

「なぜだ」

「剣を向けられたので」


 ヨハンが顔を上げる。


「迎えならありえません。あの人たちは廊下ですでに剣を抜いていた。ほかの聖女の部屋も、突然いなくなったみたいで、設備も荒らされていた──」

「それで名乗らなかったと言うのか」

「はい」

「襲われて、反撃したと?」


 シグマはそこで、自らの記憶の糸をたぐった。


「……そうなるのかもしれません。自分ではよくわかりませんでした。体が先に動いていましたので」


 ヨハンは、しばらくの間黙殺した。

 焚き火の揺らぎの向こうで、シグマの横顔は年齢に比して幼く見える。

 その美貌のくせに、口にしていることはひどく乾ききり、救いようがない。


「聖女というのは、何をするものだ」

「用途は様々です。祈り、儀式、婚姻、同盟、継承、慰撫──」

「なんだ、それは。人間扱いされてないじゃないか」

「役目が果たせればよいので、聖女は個別の誰かである必要がありません」

「保護されるんじゃないのか」

「配される場所へ連れてゆかれるのです。それを迎えと呼んでいただけで」


 ヨハンは干し肉を噛み切った。

 鋭い塩気が舌にこびりつき、離れない。


「……俺も追われる理由がある」


 シグマはそれ以上、踏み込んだ問いを重ねなかった。

 焚き火の光が爆ぜるたびに、荷の中の金属具が短く、鋭く赤を反射する。

 二人とも、それぞれの深淵のような沈黙をそれ以上崩さぬまま、夜が過ぎ去るのを待った。


 翌朝、目的の街は予想していたより近かった。


 山を下りきった先、川沿いの街道が開けた場所に、古びた石壁と重厚な門が姿を現した。

 山から港へ向かう街道の中継点として栄えた、小さな街だ。

 城郭は低く、至る所に継ぎ当ての跡がある。

 川と切り立った崖に挟まれ、入るにも出るにも門をくぐるしかない。


 門前には荷馬車が列をなし、衛兵が通行人の顔と荷物を射抜くような目で見ていた。

 通行証より先に、その目は女の顔と髪へ向いている。

 脇の掲示板には赤い触れが出ていた。

 若い女、桃色の髪。見つけ次第、兵へ通報せよ。まだ糊も乾いていない。

 ヨハンは歩みを密かに緩めた。

 門脇にも、荷車溜まりの柵にも、同じ紙が貼られていた。


「髪を隠せ。俯け。余計な口を利くな」

「はい」


 列は緩慢に進み、やがて二人の番が来た。


「止まれ」


 兵が槍の石突で地を打つ。

 ヨハンは足を止め、荷を下ろした。兵は不作法に袋の中を探る。

 獣皮、干し肉、縄、何かの種子。

 次いで、兵の疑念に満ちた視線がシグマへと移った。


「そっちの女、顔を上げろ」


 その刹那、シグマはすっと顔を上げた。

 不意を突かれた兵が面食らう。

 シグマは、ごく薄く、氷のような笑みを浮かべた。

 それは怯えとも愛想とも取れる笑みだった。

 その瞳は真正面を捉えず、兵の顎のあたりで止まっている。

 ヨハンは間髪を入れずシグマの肩を抱き寄せ、その冷たさを遮るように口を挟んだ。


「身内の者です。人里に慣れておらず、粗相があればご容赦を」


 兵はシグマを凝視し、掲示板の触れ書きと見比べた。

 だが、そこに描かれた絵は、あまりにも稚拙で雑だ。

 桃色の髪は外套に隠している。ただの、荷を持たされた哀れな娘にしか見えぬはずだった。


「喋れないのか、この娘は」


 シグマは唇をわずかに動かしかけて、思い止まる。

 代わりに、ヨハンの袖口へと、力のない視線を落とした。

 兵の警戒心が、わずかに弛緩した。


「行け」


 二人はそのまま、重苦しい門をくぐり抜けた。

 冷たい石壁の陰を離れたところで、ヨハンが低く、押し殺した声で告げる。


「なぜ勝手に顔を上げた」

「俯いている方が怪しかったので」

「俺が喋る前に動くな」

「ですが、あの兵は見たがっていました」


 ヨハンは舌打ちを、喉の奥で辛うじて堪えた。

 彼女の理屈は正しい。それが、何よりも腹立たしかった。


 街の中は、喧騒と朝の匂いに満ちていた。

 焼かれた粉もの、動物の脂、濡れた石畳、馬糞。

 広場の壁にも同じ触れがべたべたと貼られ、兵の姿もあちこちに見える。

 ヨハンは表通りを避け、迷宮じみた裏通りへ身を隠した。

 路地は狭く、低い軒と張り出した二階が空を細く切っている。

 安宿、皮屋、雑貨屋が寄り添い、干し魚と鞣し革の臭いが混じっていた。


 シグマの瞳が、その小さな背中を一瞬だけ追った。

 古びた皮屋の前で足を止める。

 軒先には鹿の生皮が三枚、乾燥のために無残に張られていた。

 奥から、爪の縁まで黒く汚れた男が出てくる。ヨハンの荷から毛皮を引き出し、裏側まで執拗に検める。

 毛並みを逆撫でし、厚みを確かめてから、ゆっくり目を上げた。


「この辺じゃ見ない鞣しだな。山の奥の方か」


 ヨハンは答えなかった。


「悪い品ではないが、うちが出せるのはこの値だ」


 提示された金額は、想定していた半分をも下回っていた。


「安すぎる」

「中継街の相場だ、これ以上を出す店など存在せん。港まで行けば三割は上乗せできようがな」


 ヨハンは無言で毛皮をひったくり、荷の中へと戻した。


「港はどこへ行けば出る」

「街道をそのまま下れば三日だ。この季節、荷馬車に乗せてもらえるなら二日で着く」


 ヨハンは、迷いなく踵を返した。

 三軒先にある、陰気な宿に部屋を取った。

 兵の姿はなく、客の出入りも極端に少ない。

 部屋は一つしか確保できなかった。

 二階の突き当たり。

 寝台が一つ、椅子が一つ、そして小さな窓が一つ。

 床板は一歩ごとに軋んだ。

 壁の漆喰は角から無残に剥がれ落ち、下地の闇が覗いている。


 ヨハンは荷を下ろすと、すぐ窓際へ寄った。

 通りには兵が規則的に巡回している。

 路地の奥には、街の外へ抜けられそうな細い隙間が見えた。

 しばらくして階下から野卑な声が上がる。

 女将が誰かと密談していた。

 断片しか聞こえないが、一度だけ「二階」「女連れ」という語が混じった。

 ヨハンは弾かれたように窓を離れた。


「夜明けを待たずに、ここを発つ」


 シグマが、静かに顔を上げた。


「港へ向かう。毛皮はそこで処理する。人の波が多ければ、紛れ込むのも容易だ」

「……すでに、見つかってしまったのですね」


 彼女が発したのは、それだけだった。

 シグマは荷を解かなかった。

 椅子に腰掛けたまま戸口の方を向き、踵はいつでも立ち上がれる角度で、硬い床を踏んでいた。

 

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