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人造聖女と退役勇者の帰還  作者: 笹原ハルキ


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5/10

5話

 戸の隙から差し込む空は、底の知れぬ藍から白藍へと解け、その下縁へ細く朱が滲みだしていた。


 夜の冷えを残したまま、朝がひとあし先に差し込んでくる。

 炉床の灰に埋もれた炭が、鈍く赤みを返した。


 ヨハンは戸の合わせ目に屈みこみ、練った泥を薄く噛ませた。

 戸が一度でも動けば、その乾いた泥は脆く欠けて落ちる。

 多すぎれば閉まりを損ない、少なすぎれば風で剥がれる。


 泥の固着を確かめてから、ヨハンは音を殺して戸を開けた。

 外へ出ると、軒の端へ渡しておいた細い麻糸を、指先で拾い上げる。

 糸の先には、乾燥した木片がいくつも吊るされていた。

 薄く削ぎ落とした板片と枝片が、数珠繋ぎに連なっている。

 他者の手で戸が開かれれば、糸が引かれ、木と木が触れ合って乾いた音を立てる。

 背後で布が擦れる音がした。シグマが身を起こしたのだ。


「それは、印ですか」

「そんなところだ」

「入念な仕掛けですね」


 ヨハンはそこでようやく、緩慢な動作で振り返った。


「これくらい当然だろう」

「そうでしょうか。養成機関にも、似たような仕組みがありました」


 シグマは一息ついて、言った。


「あちらは、冷たい金属でした。逃げ出した者がいれば、しゃらしゃらと、耳障りに鳴るのです」


 ヨハンの指が、糸に触れたまま凍てついた。

 一拍の沈黙を置いてから、彼は一度だけ彼女を直視した。

 沸き上がる舌打ちを口の中でひとつ押し潰す。


「……行くぞ。遅れるな」


 ヨハンは戸口の脇に立ててあった、使い込まれた袋を取り上げた。

 干し上げた革の袋は、口紐のあたりだけが持ち主の手脂で黒ずんでいる。

 中を掌で探り、縄、布、細身の刃の感触を確かめる。

 腰に帯びた短剣の位置を微調整した。棍棒を背負う。

 戸の内側へ、鋭い目を走らせる。

 炉、棚、刃物、干し肉、そして、まだ何をしでかすか知れない女。

 この場に置き去りにするより、視界に繋ぎ止めて歩く方が、いくらかましだった。

 シグマはすでに、毛布を完璧な形に畳み終えていた。

 昨夜借りたものを板の端へ揃え、己の身ひとつですっくと立ち尽くしている。

 ヨハンが袋のひとつを差し出すと、彼女はすぐさま両手でそれを受け止めた。

 ヨハンと袋を見比べて、シグマの肩がそわりと上がる。


「それを持て。道中は邪魔になるなよ」

「はいっ」


 今度の返答は、風のように早かった。

 シグマは戸口をまたぎ、朝の冷気を深く吸い込んだ。

 その足取りは、わずかに弾んでいるようにも見えた。


「こうして森へ入るのは、初めてです」

「火おこしを一人でできるのにか」

「本だけはたくさん読んできましたので」


 ヨハンは静かに戸を閉め、細工の位置を最後にもう一度、網膜に焼き付けた。


「足元に注意しろ」


 一歩森へ踏み込むと、光の粒子はたちまち細く、鋭くなった。

 葉に残った朝露が斜光を受けて白く、青く冷たく光り、下草と苔は湿り気を深く含んで沈んでいる。

 踏み込むたびに土は音を呑み、落葉だけが薄く擦れ合った。


 ヨハンは慣れ親しんだ足取りで、獣道へと滑り込んだ。

 右脚の義足は、枯葉を踏みしだく瞬間にだけ、乾燥した微かな異音を返す。

 地面の窪みも、濡れた石にもものともせず、森に順応した身体が補正した。

 シグマはその影を忠実に追った。

 ヨハンが払った枝が元の位置へ戻るのを待ち、隙間を潜り抜ける。


「どこへ向かっているのですか」


 ヨハンは前方を凝視したまま、短く応じた。


「仕掛けを検分しに行く」

「鹿や猪ですか」

「かかる日もある」


 そこでシグマは一度、口を噤んだ。

 もう半歩だけ遅れて、足元の露を散らさぬよう、注意深く地を選んで歩む。


「何が、かかっているのでしょうね」


 ヨハンは、行く手を阻む枝を短く払いのけた。

 背中ひとつ分の距離という、見えない糸を保ったまま、二人は同じ道を辿っていく。


 最初の罠は、谷へと滑り落ちる手前の、地形がくびれた場所にあった。

 細い道が二股に割れ、片側へと鹿の糞が点々と続いている。

 低木の根元に回したくくり罠は深く、無慈悲に締まり、その先で若い鹿が横倒しになっていた。


 腹部が細かく上下し、前脚が短く引きつる。

 濡れた鼻先から泡が細く垂れ、首の内側の白だけが朝の光を受けていた。

 脚が虚しく地を掻き、湿った土が細く跳ねる。


「見ろ」


 ヨハンは、短く、冷徹に命じた。

 シグマは鹿を見つめた。

 罠の食い込み、前脚のもつれ、喉を覆う白い産毛、腹の絶え絶えな上下。

 その順序で、彼女はひとつずつ見た。

 ヨハンは獲物の可動域を見極め、その側へと回り込んだ。

 縄を掛け直し、持ち込んだ棍棒を拾い上げる。

 振り下ろす動作に、一切の迷いが介在しなかった。

 鈍い衝撃音がひとつ響き、鹿の脚が、弦を張り詰めたように突っ張る。

 次の瞬間には、気絶した肉の重みが、地面へと崩れ落ちた。


 ヨハンは膝をつき、獲物の頸を指し示した。


「頸動脈だ。側から、一気に断て」


 シグマは刃を握ったまま一拍だけ止まり、白い毛の上へ刃先を置いた。

 次の瞬間、頸へ沈める。

 温い血が指の股を走り、最後のもがきが手首へ返ってきた。

 肉はなお抗ったが、シグマは力を込め、その抵抗ごと押し切った。


 鹿の脚が完全に静止するまで、シグマは刃を引くことはなかった。

 濃密な血の匂いが、朝の清冽な冷気を強引に押し退けた。

 鉄に似た錆びた匂いが、指に残る熱とともに、彼女の記憶に刻まれる。

 シグマは、自らの指に付着した朱色の鮮血を、ただ見つめていた。

 喉の奥に、針のような小さな引っかかりだけが残った。


 ヨハンはそのまま、解体用の袋を取るために立ち上がった。

 その動作には、僅かに焦燥に似た勢いがつきすぎていた。

 義足の継ぎ目が不快な音を立てて噛み合い、右の太腿へ、焼けるような鈍い痛みが走る。

 彼は息を一瞬だけ詰め、だが、その苦悶を一切表に出さぬまま、袋を掴み取った。


 肩へ袋を掛け直したところで、遅れて、得体の知れない苛立ちが胸中に込み上げる。

 自分は一体、何をやっているのだ、と、腹の底で呟いた。


 振り返ると、シグマはなおも、指先の血を凝視し続けていた。


 二人で鹿を、川のせせらぎの方へと引きずっていった。

 土が擦れ、蹄が石に当たるたび、乾いた音が短く返る。


 下りきった先の水流は浅く、透き通っていた。

 藍色の影と白い飛沫が石の上で砕け散り、岸辺の草は水気を吸って、濃密な翡翠色に直立している。

 陽の当たる浅瀬だけが、砂を明るく透かし見せていた。

 そこへ血が滴り落ちると、鮮やかな朱がふっと花開くように広がり、やがて薄れて消えていった。


 ヨハンは鹿の脚を開かせ、その腹へと刃を滑り込ませた。

 白く、生暖かい湯気が立ち上る。

 内臓の放つ独特の匂いが、川の匂いと混ざり合い、妙に甘ったるく鼻を突いた。


「持て」


 シグマは脚へ手を掛けた。

 言われるよりも先に動いたその指先は、しかし、さっきよりもずっと慎重で、怯えるような手つきだった。

 指の置き方をヨハンが厳しく修正する。


「そこじゃない。こっちを掴め」


 シグマは、言われた通りに重心を持ち直した。

 ぬめるような内膜が指へとまとわりつく。

 親指が一度だけ滑りかけたが、彼女は渾身の力を込めてそれを繋ぎ止めた。


 まだ温かな脚の重量が腕へと沈み込み、その足下では冷たい川水が靴の中へと侵入してくる。

 革が水を吸い、冷えが足先からじわじわと這い上がった。


 ヨハンは膝を置きやすい石へ重心を逃がし、足場の悪い水際に立つシグマへ重みを預けた。

 血は水へ解けて流れ、石はぬめり、踏ん張るたびに靴底が危うく滑る。

 どこを残し、どこを捨てるべきか。

 どの角度で刃を返すべきか。

 シグマはその冷えと泥濘の中で、ひとつずつ学習していった。


 鹿の処理を終える頃には、陽光は高く、森の緑は白い光の下で、その輪郭をより濃く、深くしていた。

 水の音だけが途絶えることなく響き、二人の手元には、昼の明るさがそのまま落ちている。


 ヨハンが肉を袋へ納めようとした、その刹那、彼は動きを止めた。


 顔が上がるよりも早く、彼の耳だけが森の深淵へと向けられる。

 枝が擦れ合う、微かな乾いた音が、水音の背後で短く鳴動した。

 次いで、風の匂いの中に、革の脂と、鉄のさびたような臭気がわずかに混じる。

 顎が引かれ、手の甲が低く持ち上げられた。


 止まれ、という、無言の合図だった。


 シグマも反射的に顔を上げ、木立の間へと鋭い視線を走らせた。

 だが、一歩目が踏み出される前に、ヨハンの手がもう一度、今度はより短く、強く動く。

 動くな、と押し殺すような意思を持って命じていた。


 そこでようやく、ヨハンは立ち上がった。

 勢いを抑えてはいたが、右脚の継ぎ目が短く、乾いた音を鳴らす。

 ヨハンはそのまま、森の奥を射抜くように見据えた。

 絶え間なかった水の音が、急に遠ざかった気がした。


 茂みの向こうで、枝が鳴る。

 それは、明らかに人の重さだった。

 獣よりも重心が高く、慎重に、かつ確実に間合いを詰めてくる足運び。


 ヨハンの耳が、不意に、自らの棲家の方角へと向けられた。

 からり、と、乾いた木が触れ合う、あの軽い音。

 少し遅れて、戸板が返る、あの鈍い衝撃。


 鳴子と戸の音だと悟った瞬間、ヨハンの顔から一切の温度が消えた。侵入されたのだ。


 さらにその後方から、枝を踏み分ける音が連続して響いた。

 二人ぶん。革の軋みと金具が触れ合う微細な音が、斜面を横切りながら、確実にこちらへと近づいてくる。


 獲物を探して彷徨う足ではなく、目的を達して引き上げる、迷いのない足取りだった。


 次の瞬間、シグマがヨハンの袖を、力強く掴んだ。

 

 川縁から、一段上の茂みへと、肉体ごと彼を引き寄せる。

 濡れた葉が頬を打ち、足元の土が脆く崩れた。

 体勢を崩したヨハンの頭が、弾みでシグマの胸元へ沈み込んだ。

 柔らかな膨らみの奥で、どくん、どくんと脈が打つ。

 近すぎる鼓動に、呼吸が一瞬だけ乱れた。


「お前……!」


 凄む声さえ、微かな吐息よりもわずかに大きい程度だった。


「申し訳ありません、つい……緊急の事態でしたので」


 シグマも、ひそやかな囁きで返す。

 二人ともそのまま、息を殺して身を伏せた。

 葉擦れの音の向こう側を、招かれざる足音が通り過ぎていく。

 枝を払う気配が近づき、そして、ゆっくりと離れていった。

 ヨハンは呼吸を殺したまま、顔だけをわずかに持ち上げた。

 シグマの胸元に額が触れたまま、彼は身動きが取れなかった。

 その姿勢のまま、シグマの、どこか遠い声が落ちた。


「私を、探しているのかもしれません」


 ヨハンは目だけで、先を促した。


「迎えを、受け損ねましたから」

「迎えとはなんだ」

「機関へ来た者たちです。他の聖女たちは、おそらく抵抗をせず、それを受け入れたのでしょう」

「他の……聖女だと?」

「私は“あの格好”をしておりましたから。彼らにも、見分けがつかなかったのかもしれません」


 足音がようやく、遠い忘却の彼方へと去っていった。

 革の軋みも、金具の触れ合う音も、斜面の向こう側へと沈殿していく。

 そこでやっと、二人の肉体から少しずつ、張り詰めた力が抜けていった。


 ヨハンは、気配が完全に消え去るまで身を起こそうとはしなかった。シグマも、同様だった。


 助けるつもりで引いたのだとしても、そのやり方はあまりにも乱暴すぎる。

 ヨハンは苦虫を噛み潰した顔で、濡れた前髪を掻き乱した。

 近すぎた体温と柔らかな感触が、まだ思考の回路を邪魔していた。


 当のシグマは、すでに先を見据えて木立を睨んでいた。

 呼吸は、氷のように整っている。

 こちらの抱く気まずさなど、最初から彼女の勘定には入っていない、そんな顔だった。


 棲家へと戻ると、戸口の前でヨハンの足が凍りついた。

 戸の合わせ目に噛ませておいたあの泥は、脇で半ば乾いた欠片となって地に落ちていた。

 外へ渡した糸は断ち切られ、木片のひとつが軒先で、裏返しのまま放置されている。


 ヨハンは戸へと手を掛けたまま、しばらくの間、固まった。

 耳だけが、先に家の中の静寂を探っている。

 それから、意を決して戸を開け放つ。


 寝台も棚も、見かけ上は、昨日までの形を保っていた。

 だが、土間には見知らぬ泥の跡が刻まれている。

 半歩踏み入り、停止し、そして向きを変えた跡。

 奥まで踏み込むことをせず、ただ様子だけを窺って引き上げた、不吉な足取りだった。


「……迎え撃ちますか」


 背後から、シグマが低く、凪いだ声で言った。

 そこには、一抹のためらいもなかった。

 さっき、茂みへと彼を引き込んだ時と、まったく同じ種類の声。

 先に命の安全を確保し、その後に、為すべきことを決めるような。

 ヨハンは窓の外、広がる森へと視線を投げた。

 その声は、低く、乾ききっていた。


「……いや」


 もう一度、庭木の濃い陰と、窓から見通せる斜面の死角を検分した。


「ここは捨てる。今から言うものだけ、早急にまとめろ」


 シグマは、即座に頷いた。

 はい、という肯定の言葉すら発さず、すでに土間の中を射抜くような目で見つめている。

 何を持てばいいかを待つ目だった。


 ヨハンは炉の脇へと寄り、迷いのない手つきで棚へ手を伸ばした。

 携えるべきものだけを冷徹に選び取り、置いていくものには、二度と未練の指先で触れることはなかった。

 窓の外を窺うその目は、もはや穏やかな昼を迎えるものではなかった。

 枝の重なり、影の深度、そこから覗ける戸口の角度。彼は別の時間の速さで、すべてを測り直していた。

 シグマは、その手元を、じっと見つめていた。

 ヨハンは寝台にも棚にも目を戻さず、持ち出すものだけを選び取っていった。


 その横顔を見て、シグマも何も言わず、ただひとつの袋を強く掴み取った。

 今から二人は、同じ方向へ逃げるしかなかった。

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