表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人造聖女と退役勇者の帰還  作者: 笹原ハルキ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/10

4話

 木の匙が、椀の縁を低く擦った。

 炉の火は赤いのに、部屋の空気は妙に冷えていた。干し肉の塩気と薬草の臭いが、まだ肺の奥に残っている。


 ヨハンは椀を持ったまま、向かいを見た。

 女は不気味なほど行儀よく座っていた。

 椅子へ浅く腰を掛け、匙を運ぶ所作にも淀みがない。

 見るたび、腹の底に冷たいものが沈んだ。


 昨夜の川縁の感触がどうしても結びつかない。

 水を吸った鎖帷子、泥を跳ねる脚、顎下を狙う冷たい刃。

 折れそうに細いのに、芯だけが妙にぶれなかった。

 卓の向こうの若い相貌は、その記憶と噛み合わなかった。


 ふいに、その顔が上がった。

 長い睫毛に縁取られた瞳が、遮るものなくこちらを射抜く。

 見ていたことを見咎められた気がした。

 ヨハンは舌の奥に停滞していた塩気を、無理やり飲み込んだ。


「……何度見ても、おかしい」


 シグマは匙を止めた。眉ひとつ動かさない。


「何が、おかしいのですか」

「お前だ。お前の存在そのものだ」


 吐き出すように言ってから、ようやく椀を卓へと戻した。

 木の底が厚い板に触れ、鈍い重奏音が響く。

 シグマは、わずかに首を傾げた。

 その滑らかさが、余計に気味が悪い。


「何歳だ」

「二十三です」

「なぜ、俺を追ってきた」

「この土地の理を知っていそうな存在が、他に見当たらなかったからです」


 白く不透明な湯気が、二人の間でゆっくり形を変えた。

 シグマの輪郭が一瞬だけ滲み、すぐに戻った。

 ヨハンは視線を外さず、問いを重ねる。


「……そもそも、あの忌々しい建物は何なんだ」


 そこで初めて、シグマの瞳に微かな驚きの破片が差した。

 嘲笑ではない。無知の輪郭を測り直すような視線だった。


「このような場所にお住まいならご存知なのかと」


 その一言が、椅子の脚元へ冷たい水が流れ込んだように響いた。

 ヨハンは眉間を寄せ、椀の傍らの拳を握った。

 指先に残った汁気が、乾きかけた木目へ吸い込まれ、薄い染みを作る。


「……何を、だ」


 シグマは椀を持ち上げず、湯気の向こうでヨハンの返答を待っていた。


「このあたり一帯は、どこの国にも属さない空白地帯です。だからこそ、ああした建物が置かれていたのです」


 シグマは指先で食卓になにやら描いた。

 壁の木が、低く鳴った。

 ヨハンの身じろぎが止まり、胸の内側だけが時間差で冷えた。

 壁の継ぎ目。

 雨どいの勾配。

 削り出した柱。

 薪棚の奥で白く乾いた薪。

 ここで積み上げてきた八か月が、その一言で音もなく浮いた気がした。


「そう、だったのか……」


 こぼれ落ちた声は、驚くほどに薄く、浅かった。


「八か月もここにいて、何も気づけなかった」


 その時、シグマの瞳が初めて見開かれた。

 家ではなく、ヨハン自身へ関心が移ったのだった。


「八か月、ですか?」

「ああ」

「では、この家はその期間の内に」


 ヨハンは舌打ちを噛み殺し、喉の奥で押しとどめた。


「……建てた」

「あなたが、独りで?」

「他に誰がいるというんだ」


 シグマはそこで椀を卓へ戻した。

 木の底が板に触れ、乾いた音が残る。

 彼女の視線は、今度は隠しもせず室内を歩いた。


 桟を越え、匙を越え、最後に寝台の木枠の角で止まる。

 長く触れられた木だけが持つ薄い照りが、そこにあった。

 指先で触れれば、その人間の体温の残滓まで読み取れそうだった。


「食料も、水も、独りで?」

「見ればわかるだろう。余計な問いを重ねるな」

「薪棚も、雨水の流し方も、一切の無駄がありません」

「勝手に判定するな」

「ですが、屋根も、炉も、水場も、すべて整っています。生き延びるためのものが、ここには揃っている」


 次にシグマの視線は、部屋ではなくヨハンの身体へ移った。

 義足の継ぎ目から始まり、膝、腰、肩と上がっていく。

 家具を採寸するのと、同じ目だった。


「食料も、水も、独りで? 怪我を負ったときは。熱を出したときは。雪が深く積もる日も、木を伐る腕が上がらない日も、あったはずでしょう」


 木の匙が、ヨハンの指のあいだで冷えていた。


「なぜ、ここに住んでいるのですか」


 湯気が細く崩れる。椀の表面に張りかけた脂の膜が、かすかに揺れた。


「独りきりで」


 煮汁の匂いだけが、答えの代わりに漂っていた。ヨハンの指が、椀の縁を離れた。


 ヨハンは立ち上がったというより、腰が先に浮いた。

 卓へついた掌の下で板が軋み、椀の中の汁が片側へ寄る。膜になりかけた脂が端でよれ、薄く裂けた。


「お前は変すぎる!」


 シグマは顔を上げた。

 驚きはない。何がヨハンを怒らせたのか、測る目だった。


 ヨハンは卓越しに身を乗り出し、骨ばった指をシグマの額へ突きつけた。


「人の暮らしをほじくるな」


 一語ずつ噛むみたいに言った。


「ほじくる、とは」

「そういうところだ」


 シグマの目が、指先へ落ちた。

 次の瞬間、その指を摑んだ。


 柔らかく見える指だった。だが止め方は妙に正確で、節の上を外さない。


「人に指をさしてはいけませんよ」


 ヨハンは息を呑み、反射で手を引いた。

 椅子の脚がまた床を擦る。


「触るな」


 低く、硬い声だった。


「寄るな。勝手に入ってくるな。勝手に触るな」


 ヨハンは指を引いた手を握り込み、そのまま言った。


「そういうところだ。お前は、人との距離がまるでわかっていない」


 シグマは瞬きをひとつした。

 ようやくそこで、自分が咎められているらしいと理解した顔になる。


「距離」

「どこまで訊いていいか、どこから先に踏み込むなってことだ」

「では、先ほどの問いは、踏み込みすぎでしたか」

「そうだ」

「指に触れたことも」

「そうだ」


 シグマは少し考えるそぶりを見せた。

 渡された規則を、頭のどこへ置くか決めているような、短い沈黙だった。


「では、教えてください」


 ヨハンは眉を寄せた。


「何をだ」


「どこから先が、あなたの領分なのか」


 シグマはそこで一度だけ瞬いた。


「伏せておきたいことは、伏せてもよいのですね」


 ヨハンはすぐに答えなかった。

 喉に、乾いた熱が残っている。


「……当然だ」


「私も、同じように?」


 壁の向こうで、風が低く擦れた。

 ヨハンはすぐには答えなかった。


「……お前が嫌だと言うなら、そこから先はやめる」


 シグマは一度だけ瞬いた。


「わかりました」


 ヨハンは椀の縁に指を掛けた。

 ぬるくなった汁の表面で、脂の膜がわずかに寄った。


「だが、三日いるなら話は別だ」

「……はい」

「この家では、勝手に開けるな。勝手に触るな。俺が止めたら、そこでやめろ」

「戸棚も箱も」

「そうだ」

「話も」

「そこまでだと言ったら、やめろ」

「わかりました」


 そこで初めて、ヨハンは椅子に背を預けた。


「寝る場所は土間だ。毛布は貸す」

「ありがとうございます。外よりずっといいです」


 短く言い切ると、シグマはすぐ次を寄越した。


「その間、何をしていればよいですか」


 ヨハンは眉をしかめる。


「今は何もしなくていい。食え」

「……わかりました」


 そう答えてから、シグマはようやく椀へ目を落とした。

 ヨハンは、その一動作だけで胸の奥が少し軋むのを感じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ