4話
木の匙が、椀の縁を低く擦った。
炉の火は赤いのに、部屋の空気は妙に冷えていた。干し肉の塩気と薬草の臭いが、まだ肺の奥に残っている。
ヨハンは椀を持ったまま、向かいを見た。
女は不気味なほど行儀よく座っていた。
椅子へ浅く腰を掛け、匙を運ぶ所作にも淀みがない。
見るたび、腹の底に冷たいものが沈んだ。
昨夜の川縁の感触がどうしても結びつかない。
水を吸った鎖帷子、泥を跳ねる脚、顎下を狙う冷たい刃。
折れそうに細いのに、芯だけが妙にぶれなかった。
卓の向こうの若い相貌は、その記憶と噛み合わなかった。
ふいに、その顔が上がった。
長い睫毛に縁取られた瞳が、遮るものなくこちらを射抜く。
見ていたことを見咎められた気がした。
ヨハンは舌の奥に停滞していた塩気を、無理やり飲み込んだ。
「……何度見ても、おかしい」
シグマは匙を止めた。眉ひとつ動かさない。
「何が、おかしいのですか」
「お前だ。お前の存在そのものだ」
吐き出すように言ってから、ようやく椀を卓へと戻した。
木の底が厚い板に触れ、鈍い重奏音が響く。
シグマは、わずかに首を傾げた。
その滑らかさが、余計に気味が悪い。
「何歳だ」
「二十三です」
「なぜ、俺を追ってきた」
「この土地の理を知っていそうな存在が、他に見当たらなかったからです」
白く不透明な湯気が、二人の間でゆっくり形を変えた。
シグマの輪郭が一瞬だけ滲み、すぐに戻った。
ヨハンは視線を外さず、問いを重ねる。
「……そもそも、あの忌々しい建物は何なんだ」
そこで初めて、シグマの瞳に微かな驚きの破片が差した。
嘲笑ではない。無知の輪郭を測り直すような視線だった。
「このような場所にお住まいならご存知なのかと」
その一言が、椅子の脚元へ冷たい水が流れ込んだように響いた。
ヨハンは眉間を寄せ、椀の傍らの拳を握った。
指先に残った汁気が、乾きかけた木目へ吸い込まれ、薄い染みを作る。
「……何を、だ」
シグマは椀を持ち上げず、湯気の向こうでヨハンの返答を待っていた。
「このあたり一帯は、どこの国にも属さない空白地帯です。だからこそ、ああした建物が置かれていたのです」
シグマは指先で食卓になにやら描いた。
壁の木が、低く鳴った。
ヨハンの身じろぎが止まり、胸の内側だけが時間差で冷えた。
壁の継ぎ目。
雨どいの勾配。
削り出した柱。
薪棚の奥で白く乾いた薪。
ここで積み上げてきた八か月が、その一言で音もなく浮いた気がした。
「そう、だったのか……」
こぼれ落ちた声は、驚くほどに薄く、浅かった。
「八か月もここにいて、何も気づけなかった」
その時、シグマの瞳が初めて見開かれた。
家ではなく、ヨハン自身へ関心が移ったのだった。
「八か月、ですか?」
「ああ」
「では、この家はその期間の内に」
ヨハンは舌打ちを噛み殺し、喉の奥で押しとどめた。
「……建てた」
「あなたが、独りで?」
「他に誰がいるというんだ」
シグマはそこで椀を卓へ戻した。
木の底が板に触れ、乾いた音が残る。
彼女の視線は、今度は隠しもせず室内を歩いた。
桟を越え、匙を越え、最後に寝台の木枠の角で止まる。
長く触れられた木だけが持つ薄い照りが、そこにあった。
指先で触れれば、その人間の体温の残滓まで読み取れそうだった。
「食料も、水も、独りで?」
「見ればわかるだろう。余計な問いを重ねるな」
「薪棚も、雨水の流し方も、一切の無駄がありません」
「勝手に判定するな」
「ですが、屋根も、炉も、水場も、すべて整っています。生き延びるためのものが、ここには揃っている」
次にシグマの視線は、部屋ではなくヨハンの身体へ移った。
義足の継ぎ目から始まり、膝、腰、肩と上がっていく。
家具を採寸するのと、同じ目だった。
「食料も、水も、独りで? 怪我を負ったときは。熱を出したときは。雪が深く積もる日も、木を伐る腕が上がらない日も、あったはずでしょう」
木の匙が、ヨハンの指のあいだで冷えていた。
「なぜ、ここに住んでいるのですか」
湯気が細く崩れる。椀の表面に張りかけた脂の膜が、かすかに揺れた。
「独りきりで」
煮汁の匂いだけが、答えの代わりに漂っていた。ヨハンの指が、椀の縁を離れた。
ヨハンは立ち上がったというより、腰が先に浮いた。
卓へついた掌の下で板が軋み、椀の中の汁が片側へ寄る。膜になりかけた脂が端でよれ、薄く裂けた。
「お前は変すぎる!」
シグマは顔を上げた。
驚きはない。何がヨハンを怒らせたのか、測る目だった。
ヨハンは卓越しに身を乗り出し、骨ばった指をシグマの額へ突きつけた。
「人の暮らしをほじくるな」
一語ずつ噛むみたいに言った。
「ほじくる、とは」
「そういうところだ」
シグマの目が、指先へ落ちた。
次の瞬間、その指を摑んだ。
柔らかく見える指だった。だが止め方は妙に正確で、節の上を外さない。
「人に指をさしてはいけませんよ」
ヨハンは息を呑み、反射で手を引いた。
椅子の脚がまた床を擦る。
「触るな」
低く、硬い声だった。
「寄るな。勝手に入ってくるな。勝手に触るな」
ヨハンは指を引いた手を握り込み、そのまま言った。
「そういうところだ。お前は、人との距離がまるでわかっていない」
シグマは瞬きをひとつした。
ようやくそこで、自分が咎められているらしいと理解した顔になる。
「距離」
「どこまで訊いていいか、どこから先に踏み込むなってことだ」
「では、先ほどの問いは、踏み込みすぎでしたか」
「そうだ」
「指に触れたことも」
「そうだ」
シグマは少し考えるそぶりを見せた。
渡された規則を、頭のどこへ置くか決めているような、短い沈黙だった。
「では、教えてください」
ヨハンは眉を寄せた。
「何をだ」
「どこから先が、あなたの領分なのか」
シグマはそこで一度だけ瞬いた。
「伏せておきたいことは、伏せてもよいのですね」
ヨハンはすぐに答えなかった。
喉に、乾いた熱が残っている。
「……当然だ」
「私も、同じように?」
壁の向こうで、風が低く擦れた。
ヨハンはすぐには答えなかった。
「……お前が嫌だと言うなら、そこから先はやめる」
シグマは一度だけ瞬いた。
「わかりました」
ヨハンは椀の縁に指を掛けた。
ぬるくなった汁の表面で、脂の膜がわずかに寄った。
「だが、三日いるなら話は別だ」
「……はい」
「この家では、勝手に開けるな。勝手に触るな。俺が止めたら、そこでやめろ」
「戸棚も箱も」
「そうだ」
「話も」
「そこまでだと言ったら、やめろ」
「わかりました」
そこで初めて、ヨハンは椅子に背を預けた。
「寝る場所は土間だ。毛布は貸す」
「ありがとうございます。外よりずっといいです」
短く言い切ると、シグマはすぐ次を寄越した。
「その間、何をしていればよいですか」
ヨハンは眉をしかめる。
「今は何もしなくていい。食え」
「……わかりました」
そう答えてから、シグマはようやく椀へ目を落とした。
ヨハンは、その一動作だけで胸の奥が少し軋むのを感じた。




