3話
炉の火が小さく爆ぜた。
ヨハンは濡れた布を桶へ落とした。薬草と湿った布の臭いが、まだ部屋に残っている。
向かいでシグマは、膝を揃えたまま浅く腰を掛けていた。
椅子の背にもたれず、両足は床を踏み、重心は前に出ている。
昨夜、川縁で組み合ったときの感触が、まだヨハンの腕に残っていた。
細いのに、芯だけが逃げない身体だった。
ヨハンは眉間を寄せた。
「もう出ていけ」
シグマはすぐには動かなかった。
火の爆ぜる音越しに、静かにヨハンを見る。
ヨハンの視線の高さで瞳を止め、その奥で、返答の形を無機質に測っているようだった。
桶の縁に掛かっていたヨハンの指が止まる。
濡れた木肌の、吸い付くような冷たさが指先に貼りついたまま、視線だけを彼女へと戻す。
「お前を置く理由がない」
「三日だけ、ここで支度をさせてください」
ヨハンは口を閉ざした。
シグマは視線を逸らさない。
「……何のための三日だ」
「食料を確保します。水を運ぶ手段と、森を抜けるための道具も必要です」
「勝手にしろ」
「あなたの戸口のそばで事を始める以上、先に断るべきだと思いました」
シグマは膝の向きを揃え直した。
薬草の青い匂いだけが、停滞した空気の中に残っている。
「手当てを受けました」
「だから何だ」
「その分は支払います」
「いらない」
「必要です」
「面倒くさい女だな」
「三日滞在する分も、労働で支払います」
ヨハンは短く舌打ちをした。
「いらない」
「必要です。支払わなければ、置いてもらえないでしょう」
「そもそも、置いてもらおうとするな」
シグマは浅く腰を起こした。
喉がかすかに上下し、肩先がわずかに持ち上がる。
さっきまで傷の具合を検分していた目が、今はヨハンの相貌を射抜くように固定されている。
「では、何をすれば足りますか」
ヨハンは言葉を飲み込んだ。
桶の縁に残っていた一滴の雫が、床板の上へ落ちた。
シグマは踵を床に押しつけたまま、次の音節を待っている。
沈黙が、糸のように細く長く伸びていく。
シグマが小さく、息を継いだ。
「支払えるのは、労働だけですが」
炉の火が勢いよくはぜた。
膝の上の指が静かに揃い、彼女は唇を引いた。
椅子の脚が板を短く擦る。
ヨハンは腰を浮かせかけ、中途半端な姿勢で硬直した。
喉の奥に引っかかった息が、遅れて重く落ちる。
「……誰も、そんな話はしてない」
火を挟んだ向こうで、シグマは瞬きすらしない。
ヨハンの否定する声だけが、砂を噛んだように擦れていた。
「先に定めておきたかっただけです」
「勝手に決めるな」
「決めておかなければ、困ります」
ヨハンは膝の上の拳を握りしめた。
爪が掌の肉に深く食い込む。
彼は低く、長く息を吐き出した。
吐ききったあとで、顔をわずかに背ける。
「……で、何ができる」
「薪割り、水汲み、掃除、調理」
「大きく出たな」
「足りるまで、やります」
ヨハンは部屋の隅へ視線を投げた。
鼻先で短く、乾いた音が鳴った。
「……勝手にしろ」
シグマの顎が、了解を示すようにわずかに落ちた。
「それで、足りますか」
「知るか」
「では、足りると判断されるまで働きます」
「黙って働け」
椅子の脚が床を擦り、乾いた音を立てた。
シグマは立ち上がると、肘を身体の近くへ畳んだまま、薪の束と斧へと視線を走らせた。
そのまま土間を横切り、迷いのない足取りで壁際へと向かう。
シグマは土間の脇の斧を引き寄せた。
刃が垂直に落ち、丸太の中心が乾いた音を立てて裂ける。
二本、三本。
薪は無駄なく積み上がり、さすがに呼吸だけが少しずつ荒くなった。
戸口にもたれたまま、ヨハンはその山を黙って見ていた。
「もういい」
制止の声を受け、シグマは斧を下ろした。
刃を土間の脇へ戻すと、そのまま桶へ手を伸ばす。
戸口横の樽を一瞥しただけで通り過ぎ、シグマは家の裏手へ回った。
斜面の根元、石で囲った浅い水溜めに木樋から細い水が落ちている。
桶を沈め、重みを背に戻る。
二往復で、炉の脇には飲み水の桶が二つ並んだ。
「その手で持つな」
ヨハンの鋭い声が空間を打った。
シグマは桶を下ろす。
「持てます」
「持てるかどうかの問題じゃない」
「では、次は手首を使いません」
言葉を置くやいなや、三度目は桶の胴を抱え込むようにして持ち上げた。
ヨハンは片手で強く眉間を押さえた。
シグマは鍋を洗って桟へ掛けた。
柄の向きまで揃える。
それでは足りず、土間、炉前、寝台の下へと視線を走らせた。
薪のささくれも灰も、桶の底の泥の輪まで、触れた場所から順に整っていく。
「そこまででいい」
シグマの手がぴたりと止まる。
振り向くより早く、桶の縁へ布を戻していた。
「まだ、終わっていません」
「終わったんだ」
「では、次は何を」
ヨハンは次の言葉を飲み込んだ。
シグマは、踵をまったく同じ角度に保ったまま床を踏んでいる。
視線をずらす。
薪は積み上がり、水桶は満ちている。
鍋は口を伏せて整然と並び、外へ投げた布までが、戸口の板の上できっちりと重ねられていた。
その整い方に、喉の奥がざらつく。
昼の光が卓の端まで這い寄ってきた。
窓の外で、枝の影が木漏れ日と擦れ合っていた。
「もういい。飯にする」
シグマの瞳が、一度だけ瞬いた。
ヨハンは布袋の口を解いた。
岩のように固くなった黒パンをひとつ、干し肉の塊、玉ねぎと蕪を二つずつ、棚の奥から乾いた薬草の葉を少し。
卓へ置くたび、木の皿が小さく、乾いた音を立てる。
「使え」
「二人分、ですか」
「そうだ」
シグマは迷わず包丁を取り、玉ねぎと蕪と干し肉を鍋へ入る形に切り分けた。
鍋に水が満ち、乾いた葉が浮く。
鍋肌の震えだけを見て火加減を整える。
やがて匂いが立った。
干し肉の塩気に玉ねぎの甘みが重なり、黒パンも汁を吸う厚みで切り分けられて、皿と椀が鍋のそばへ揃った。
ヨハンはしばらく卓を眺めていたが、鍋の中を確認しようとして二歩寄った。
もう半歩、背後から踏み込もうとした瞬間、シグマの左足が音もなく引かれた。
鍋の前へ身体が滑り込み、鋭い肘が先にヨハンとの境界線を塞ぐ。
湯気が二人の顔の間で白く膨らんだ。
ヨハンの足が床の上で止まる。
「……見ますか」
火加減を訊くのと同じ声だった。
「鍋を見ただけだ」
「背後に立たれると、困ります」
ヨハンの視線が、シグマの肩、肘、そして鍋を完璧に遮蔽する腰の位置へと落ちていく。
「……そうか」
一歩、引く。
今度は床板をわざと鳴らした。
古い木が短く軋む。
そのまま横へ回り込み、正面から鍋の中を覗き込んだ。
シグマの肩から、わずかに緊張が抜けた。
干し肉の脂が表面に広がり、蕪の角が崩れ始めている。
ヨハンは無言のまま下がった。
椀を二つ引き寄せ、汁を注ぐ。肉も蕪も、どちらの器にも同じだけ沈んだ。
「食べていいですか」
「そのために作ったんだろう」
「確認しました」
「毎回やるのか」
「必要なら」
ヨハンは鼻から、重い息を抜いた。
床板が鳴った。
シグマの目が一度だけ上がり、音の位置を拾ってから、自分も椅子へ手をかけた。
ヨハンは椀を持ち上げた。
熱が掌へと染み込んでくる。
干し肉の塩気に、蕪の甘みがほどけた。
「……食えるな」
「はい」
シグマも椀を持ち上げる。
口へ運ぶ直前、一度だけヨハンを見た。
ヨハンはその視線を受け流し、黒パンを千切った。
食事の間、ヨハンがわずかに動くたびに床板が鳴った。
そのたびに、シグマの目だけが先に上がる。
木の匙が椀の縁を打つ音が続く。
湯気の向こうで、若すぎる顔は一度も緩まなかった。




