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人造聖女と退役勇者の帰還  作者: 笹原ハルキ


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3/10

3話

 炉の火が小さく爆ぜた。


 ヨハンは濡れた布を桶へ落とした。薬草と湿った布の臭いが、まだ部屋に残っている。

 向かいでシグマは、膝を揃えたまま浅く腰を掛けていた。

 椅子の背にもたれず、両足は床を踏み、重心は前に出ている。


 昨夜、川縁で組み合ったときの感触が、まだヨハンの腕に残っていた。

 細いのに、芯だけが逃げない身体だった。

 ヨハンは眉間を寄せた。


「もう出ていけ」


 シグマはすぐには動かなかった。

 火の爆ぜる音越しに、静かにヨハンを見る。

 ヨハンの視線の高さで瞳を止め、その奥で、返答の形を無機質に測っているようだった。

 桶の縁に掛かっていたヨハンの指が止まる。

 濡れた木肌の、吸い付くような冷たさが指先に貼りついたまま、視線だけを彼女へと戻す。


「お前を置く理由がない」

「三日だけ、ここで支度をさせてください」


 ヨハンは口を閉ざした。

 シグマは視線を逸らさない。


「……何のための三日だ」

「食料を確保します。水を運ぶ手段と、森を抜けるための道具も必要です」

「勝手にしろ」

「あなたの戸口のそばで事を始める以上、先に断るべきだと思いました」


 シグマは膝の向きを揃え直した。

 薬草の青い匂いだけが、停滞した空気の中に残っている。


「手当てを受けました」

「だから何だ」

「その分は支払います」

「いらない」

「必要です」

「面倒くさい女だな」

「三日滞在する分も、労働で支払います」


 ヨハンは短く舌打ちをした。


「いらない」

「必要です。支払わなければ、置いてもらえないでしょう」

「そもそも、置いてもらおうとするな」


 シグマは浅く腰を起こした。

 喉がかすかに上下し、肩先がわずかに持ち上がる。

 さっきまで傷の具合を検分していた目が、今はヨハンの相貌を射抜くように固定されている。


「では、何をすれば足りますか」


 ヨハンは言葉を飲み込んだ。

 桶の縁に残っていた一滴の雫が、床板の上へ落ちた。

 シグマは踵を床に押しつけたまま、次の音節を待っている。

 沈黙が、糸のように細く長く伸びていく。

 シグマが小さく、息を継いだ。


「支払えるのは、労働だけですが」


 炉の火が勢いよくはぜた。

 膝の上の指が静かに揃い、彼女は唇を引いた。

 椅子の脚が板を短く擦る。

 ヨハンは腰を浮かせかけ、中途半端な姿勢で硬直した。

 喉の奥に引っかかった息が、遅れて重く落ちる。


「……誰も、そんな話はしてない」


 火を挟んだ向こうで、シグマは瞬きすらしない。

 ヨハンの否定する声だけが、砂を噛んだように擦れていた。


「先に定めておきたかっただけです」

「勝手に決めるな」

「決めておかなければ、困ります」


 ヨハンは膝の上の拳を握りしめた。

 爪が掌の肉に深く食い込む。

 彼は低く、長く息を吐き出した。

 吐ききったあとで、顔をわずかに背ける。


「……で、何ができる」

「薪割り、水汲み、掃除、調理」

「大きく出たな」

「足りるまで、やります」


 ヨハンは部屋の隅へ視線を投げた。

 鼻先で短く、乾いた音が鳴った。


「……勝手にしろ」


 シグマの顎が、了解を示すようにわずかに落ちた。


「それで、足りますか」

「知るか」

「では、足りると判断されるまで働きます」

「黙って働け」


 椅子の脚が床を擦り、乾いた音を立てた。

 シグマは立ち上がると、肘を身体の近くへ畳んだまま、薪の束と斧へと視線を走らせた。

 そのまま土間を横切り、迷いのない足取りで壁際へと向かう。


 シグマは土間の脇の斧を引き寄せた。

 刃が垂直に落ち、丸太の中心が乾いた音を立てて裂ける。

 二本、三本。

 薪は無駄なく積み上がり、さすがに呼吸だけが少しずつ荒くなった。

 戸口にもたれたまま、ヨハンはその山を黙って見ていた。


「もういい」


 制止の声を受け、シグマは斧を下ろした。

 刃を土間の脇へ戻すと、そのまま桶へ手を伸ばす。

 戸口横の樽を一瞥しただけで通り過ぎ、シグマは家の裏手へ回った。

 斜面の根元、石で囲った浅い水溜めに木樋から細い水が落ちている。

 桶を沈め、重みを背に戻る。

 二往復で、炉の脇には飲み水の桶が二つ並んだ。


「その手で持つな」


 ヨハンの鋭い声が空間を打った。

 シグマは桶を下ろす。


「持てます」

「持てるかどうかの問題じゃない」

「では、次は手首を使いません」


 言葉を置くやいなや、三度目は桶の胴を抱え込むようにして持ち上げた。

 ヨハンは片手で強く眉間を押さえた。

 シグマは鍋を洗って桟へ掛けた。

 柄の向きまで揃える。

 それでは足りず、土間、炉前、寝台の下へと視線を走らせた。

 薪のささくれも灰も、桶の底の泥の輪まで、触れた場所から順に整っていく。


「そこまででいい」


 シグマの手がぴたりと止まる。

 振り向くより早く、桶の縁へ布を戻していた。


「まだ、終わっていません」

「終わったんだ」

「では、次は何を」


 ヨハンは次の言葉を飲み込んだ。

 シグマは、踵をまったく同じ角度に保ったまま床を踏んでいる。

 視線をずらす。

 薪は積み上がり、水桶は満ちている。

 鍋は口を伏せて整然と並び、外へ投げた布までが、戸口の板の上できっちりと重ねられていた。

 その整い方に、喉の奥がざらつく。


 昼の光が卓の端まで這い寄ってきた。

 窓の外で、枝の影が木漏れ日と擦れ合っていた。


「もういい。飯にする」


 シグマの瞳が、一度だけ瞬いた。

 ヨハンは布袋の口を解いた。

 岩のように固くなった黒パンをひとつ、干し肉の塊、玉ねぎと蕪を二つずつ、棚の奥から乾いた薬草の葉を少し。

 卓へ置くたび、木の皿が小さく、乾いた音を立てる。


「使え」

「二人分、ですか」

「そうだ」


 シグマは迷わず包丁を取り、玉ねぎと蕪と干し肉を鍋へ入る形に切り分けた。

 鍋に水が満ち、乾いた葉が浮く。

 鍋肌の震えだけを見て火加減を整える。

 やがて匂いが立った。

 干し肉の塩気に玉ねぎの甘みが重なり、黒パンも汁を吸う厚みで切り分けられて、皿と椀が鍋のそばへ揃った。


 ヨハンはしばらく卓を眺めていたが、鍋の中を確認しようとして二歩寄った。


 もう半歩、背後から踏み込もうとした瞬間、シグマの左足が音もなく引かれた。


 鍋の前へ身体が滑り込み、鋭い肘が先にヨハンとの境界線を塞ぐ。

 湯気が二人の顔の間で白く膨らんだ。

 ヨハンの足が床の上で止まる。


「……見ますか」


 火加減を訊くのと同じ声だった。


「鍋を見ただけだ」

「背後に立たれると、困ります」


 ヨハンの視線が、シグマの肩、肘、そして鍋を完璧に遮蔽する腰の位置へと落ちていく。


「……そうか」


 一歩、引く。

 今度は床板をわざと鳴らした。

 古い木が短く軋む。

 そのまま横へ回り込み、正面から鍋の中を覗き込んだ。

 シグマの肩から、わずかに緊張が抜けた。

 干し肉の脂が表面に広がり、蕪の角が崩れ始めている。

 ヨハンは無言のまま下がった。

 椀を二つ引き寄せ、汁を注ぐ。肉も蕪も、どちらの器にも同じだけ沈んだ。


「食べていいですか」

「そのために作ったんだろう」

「確認しました」

「毎回やるのか」

「必要なら」


 ヨハンは鼻から、重い息を抜いた。

 床板が鳴った。

 シグマの目が一度だけ上がり、音の位置を拾ってから、自分も椅子へ手をかけた。

 ヨハンは椀を持ち上げた。

 熱が掌へと染み込んでくる。

 干し肉の塩気に、蕪の甘みがほどけた。


「……食えるな」

「はい」


 シグマも椀を持ち上げる。

 口へ運ぶ直前、一度だけヨハンを見た。

 ヨハンはその視線を受け流し、黒パンを千切った。

 食事の間、ヨハンがわずかに動くたびに床板が鳴った。

 そのたびに、シグマの目だけが先に上がる。

 木の匙が椀の縁を打つ音が続く。

 湯気の向こうで、若すぎる顔は一度も緩まなかった。

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