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人造聖女と退役勇者の帰還  作者: 笹原ハルキ


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2/10

2話

 男の拳は顎先の手前で止まったまま、次の攻撃は来なかった。


 シグマも一歩も退かない。互いの重心が泥の縁で噛み合い、背後では昏い川が口を開けている。


 次の瞬間、川縁の泥が二人の足下でずるりと崩れた。


 先に均衡を失ったのはシグマだった。

 水を吸う以前から、鎖帷子の重量は肉体を圧迫している。

 踏みとどまろうとした右足が虚空を切り、身体が横へと流れる。

 咄嗟に伸ばした指先は、ただ縋るべき支えを求めた。掴んだのは、男の強靭な肩口だった。

 引きずり込む意図はなかった。義足の金属部が、悲鳴のような短い音を立てた。

 二人まとめて川面へと落ちた。


 水面が激しく割れた。


 背中から落ちた衝撃に、一拍遅れて鎖帷子が全身を底へと引きずり込む。

 氷のような冷たさが腰から肩へと這い上がり、歯の根が勝手に鳴った。

 悲鳴を上げようと口を開いた瞬間に、濁った水が肺を侵す。

 喉が焼け、呼吸が裏返る。

 足掻こうとしても、指先は泥の底を虚しく掻くだけで止まらない。

 濡れた裾が流れを抱き込み、さらに身体を沈めようとする。


 右腕が乱暴に引き上げられた。

 肩が抜けるほどの剛力だった。

 水を吐き出す間もなく陸へ引きずられ、肋が岸の泥にぶつかって鈍く痛んだ。

 膝を立てようとしても、鎖帷子の重みがなお身体を水際へ引き戻そうとした。


 すぐ傍らで、水を蹴り上げる音が響いた。

 男は自力で岸へと這い上がる。

 濡れた前髪が額に貼りつき、義足の継ぎ目からは細い水筋が、糸のように垂れていた。

 片手で無造作に泥を払ったあと、彼はシグマを見下ろした。

 眉間に刻まれた深い溝は、依然として消えていない。


「何をする」


 高い頬骨と鼻梁だけが銀色に浮き上がっていた。目の奥はひどく暗かった。


 シグマは咳き込みながら、緩慢に身を起こした。

 桃色の髪が水を吸い、重く頬と首に貼りついている。

 鎖帷子の裾から滴る水が、泥の表面に細い溝を刻んでいった。

 背後では川のせせらぎが絶えず鳴っているが、その境界を越えた先では、深い森が沈黙を守っている。

 しばらくして、梢のどこかで夜鳥が不吉な声を短く発した。


「支えようと、したのです」

「道連れにしただけだ」

「結果としては、そうなりました」


 男の瞳が険しく細められる。

 殴打する代わりに激しい舌打ちをひとつ落とし、彼は泥を蹴った。

 シグマもそれに倣う。

 濡れた靴の中で水が不快な音を立て、歩くたびに重い裾が脛に絡みついた。

 男が不意に振り返った。

 背後の月光がその肩越しに射し込み、濡れた輪郭を銀の糸で縁取っている。

 その先に広がる森は、目が慣れるほどに闇を深め、幹と幹の間には黒が沈んでいた。


「来るな」

「ここに留まれば、体温を奪われます」

「知るか」

「あなたには、帰るべき場所があるのですね」

「……だから何だ」

「ついて行きます」


 この土地で壁と火のある場所を、シグマは他に知らなかった。

 風が吹き抜けるたび、高い位置にある枝同士が硬く擦れ合った。

 男は何も答えず、背を向ける。

 シグマはその背中の揺らぎを見失わぬよう、月光の零れる地面を追随した。


 木立が唐突に切れた先に、その家は佇んでいた。


 そこにあったのは、聖女養成機関の尖塔や列柱とは何ひとつ似ていない、低い切妻屋根の住処だった。

 戸口には泥避けの板が渡され、壁際には薪棚が張り出していた。


 男は戸口の前で一度だけ足を止め、濡れた手で閂を外し、中へと消えた。

 シグマがそのまま敷居を跨ごうとした瞬間、扉は目前で冷酷に閉ざされた。


「入るな」

「寒いです」

「知るか」


 内側から物音が聞こえてきた。

 戸棚を開く乾いた音。

 何かを引き抜く音。

 濡れた衣服を脱いでいるのか、布が肌から剥がれる際の短い摩擦音が続く。

 間もなく木の扉が半分だけ開き、丸められた布束が外へと放り出された。

 厚手のタオルと、使い古された毛布だった。


「それを使え」


 シグマが顔を上げるより早く、男は扉を閉ざすための重心へと戻っている。


「ありがとうございます」

「礼を言う必要はない」

「なぜですか」

「その見窄らしい格好で戸口の前で死なれるのが、鬱陶しいだけだ」

「鬱陶しい、ですか」

「中には入れない。火も貸さない。朝までに、どこかへ消えろ」


 最後に、突き放すような舌打ちがひとつ落ちた。

 扉が閉まる。

 その直後、閂が内側から滑り込み、戸口は完全に他人の領分となった。

 火の音は届くのに、その火の熱は、シグマに許されない。


 シグマは足下の毛布を拾い上げた。

 家の中では、火が小さく爆ぜる音がしている。

 壁一枚向こうに、乾いた木の匂いと暖かい空気があった。

 シグマはしばらくの間、戸口の前に立ち尽くし、投げ与えられた二枚の布を見つめた。

 毛布は端が擦り切れて薄くなり、何度も洗われた硬さがある。

 タオルは厚手で、織り目が密に詰まっていた。

 日常使いの布を、そのまま寄越したのだと知れた。


 シグマは戸口の脇へ静かにしゃがみ込み、濡れた鎖帷子を解き始めた。

 重い。水を抱き込んだ鉄の網が、腕から肩へと無慈悲に食い込む。

 外したそばから地面に置いていくと、鉄の輪が冷えた板の上で、微かな金属音を立てて積み重なった。

 泥が指の間に入り込み、爪の際に黒い三日月のように溜まっている。

 タオルで顔を拭うと、清潔な布はたちまち茶色く汚れた。

 頬に貼りついていた髪の水気が取れると、桃色の毛束は夜気に晒される。


 シグマは毛布を肩に掛け、立ち上がって家を見つめた。


 屋根は深く張り出し、雨や雪が壁に直接当たるのを防いでいる。

 石積みの基礎は低すぎず、地面の湿気が床板に浸透するのを阻む高さで整えられていた。

 板壁に装飾はないが、継ぎ目は寸分の狂いもなく揃い、急ごしらえの粗雑さはない。

 屋根の縁には細い雨どいが巡らされ、その端は樽へと落ちるよう、適切な勾配が保たれている。

 薪棚には庇がかけられ、奥に積まれた薪だけが白く乾いていた。

 軒先には鉄の金具が打ち込まれ、防風灯を吊るすための備えがある。


 そこは祈るための聖域ではなく、ただ生き延びるための城砦だった。


 シグマは戸口から少し離れた風下へと場所を移した。


 板の端を半分だけ借りる位置。

 雨どいから滴る雫を避け、軒の影からも外れすぎない場所を慎重に選ぶ。

 そこならば夜風を正面から受けず、かつ戸口の様子も窺えた。


 薪棚へ目を遣る。

 庇の奥の細枝だけが乾いていた。

 シグマは削り屑と樹皮を掻き集め、石で風を囲い、細紐と枝で火を起こしにかかった。


 最初は煙だけが立った。

 二度目も、火種は育たない。

 位置を変え、呼吸を整え、もう一度紐を引く。

 匂いが変わった。黒い粉の底に小さな赤が宿る。削り屑へ移し、息を送ると、細い炎がようやく立ち上がった。

 シグマはそれを大きくせず、石の内側で静かに育てた。


 火が、灯る。


 シグマはそれをしばらくの間凝視したあと、枝をもう一本だけ足した。

 戸口の板を焦がさず、煙を上げすぎない程度に留める。


 それから毛布を深く肩に掛け、火の傍らに腰を下ろした。

 背は森ではなく、家の方を向いている。

 瞼を閉じても、耳は戸の向こう側から微かに漏れる物音を執拗に追い続けていた。


 川の流れが夜通し石を噛んでいた。

 森の奥では、何かが湿った地面を横切り、獣とも鳥ともつかない短い声がときおり落ちてくる。

 火の周囲だけが狭く明るい。

 その外は、何者が潜んでいても判別のつかない闇だった。

 シグマは毛布の端を握り、火を消さず、大きくもしない。

 枝を一本ずつ足しながら、その小さな明かりだけを維持した。

 やがて膝を抱えたまま、顎が少しずつ落ちていく。

 だが枯葉を踏む音がひとつ近づくたび、瞼だけが開いた。何もなければ、また閉じる。


 夜半、家の中で床板がひとつ、高く鳴った。

 戸の向こう側で気配が凝固する。

 閂に手が掛かりかけて、思い直したような深い沈黙。

 シグマは顔を上げただけで、立ち上がりはしなかった。火が小さく爆ぜる。

 しばらくして、床板の軋みは奥へと遠ざかっていった。扉は最後まで、開かれることはなかった。


 朝、戸の閂が鳴り響いた。


 シグマはゆっくりと目を開けた。

 火はまだ、生きていた。灰の底に赤が潜み、細い煙が天へと真っ直ぐに立っている。

 石の脇には、昨夜のうちに仕留めた蛇が一本、枝に通されて掛けられていた。


 男が外へ姿を現した。

 片手には斧。その目の下には、薄い影が差している。

 斧を持ち直す前、かすかに咳き込むような短い呼吸がひとつ混じった。

 彼の視線はまず煙へと落ち、次いで火床を射抜いた。そこで、凍りつく。

 細長い蛇の胴が火の上で、ゆっくりと熱を帯びていた。

 男が、露骨に眉をひそめた。


「……何をしてるんだ、お前は」


 シグマは火の傍らで振り向いた。

 頬には乾燥した泥がつき、指先にも土がこびりついている。


「見てください。空腹でしたので、捕らえました」


 男の額に、深い皺が刻まれる。

 シグマの指先は泥で黒ずみ、爪の際にも土が噛み込んでいた。

 手首の裂け目には泥が乾いて貼りつき、膝にも浅い擦り傷が走っている。


「その手で触るな。傷があるだろう」

「あとで、洗います」

「それでは遅い」

「破傷風、ですか」


 男の手が、一瞬だけ静止した。


「言葉は、知っているのか」

「知っています」

「なら、なぜ放っておく」

「この程度ならば、支障なく動けますので」

「動けるかどうかの話をしているのではない」


 男はまだ斧を握ったまま、火の上の蛇を凝視した。


「そのまま炙っても、食える部位は少ない」

「左様ですか」

「皮を剥げ。骨も細かい。焼くなら火力を弱めろ」

「お詳しいのですね」


 シグマは蛇を持ち上げた。

 朝の薄明の中で、濡れた鱗がてらてら光る。


「森の中では、祈ること以外のすべてを禁じられていました」


 指先で胴を押さえ直す。


「ですから、一度試してみたかったのです」

「何を」

「自分で捕らえ、自分で喰らうことを」


 男の動きが、完全に止まった。

 斧の柄を握る拳を震わせ、眉間の皺だけが深く、暗くなっていく。

 彼は蛇ではなく、シグマの手元を、その傷ついた皮膚を凝視していた。


「家へ入れ」

「入っても、よろしいのですか」

「傷を洗うだけだ。済んだら即座に帰れ」


 ヨハンの視線は、火ではなく、乾いた泥の貼りついた裂傷へ落ちていた。


「……わかりました」


 家の内部は手狭だったが、雑然とはしていなかった。

 炉の前に低い作業台と桶が寄せられ、壁の桟には匙や布が整然と掛けられている。

 寝台も机もコップも、装飾ではなく、使う箇所だけが削れ、触れる箇所だけが滑らかになっていた。

 男は桶に水を満たし、布を浸してから、シグマの手首を乱暴に掴んだ。泥を拭う。

 傷口に染みたのか、シグマの指が微かに震えた。


「痛いです」

「だろうな」

「昨日は、平気でした」

「昨日よりも、今の方が手遅れになる」


 男は手際よく泥を除去し、薬草を潰した緑の塊を塗り込んだ。

 膝も腕も、同じように処置していく。

 布を当てる力加減には一切の容赦がない。

 けれど、傷の縁だけは驚くほど正確に避けていた。


 シグマは、その無骨な手元を凝視していた。

 骨ばった指。

 爪の際には落としきれなかった土が残っている。

 頬には薄いそばかすが散り、衣服も髪も手入れは行き届いていないのに、瞳だけが妙に綺麗だった。

 見上げた先で、ハシバミ色の瞳が一度だけシグマを射抜く。

 乱れた前髪は、日光に晒されて色が抜けて見えた。


「名前は」


 シグマが問うと、男の手がわずかに止まった。


「聞くな」

「では、何とお呼びすれば」

「呼ぶ必要はない」

「それは不便です」


 男は眉間の皺を深めたまま、濡れた布を桶へと戻した。


「私は、シグマです」

「勝手に名乗るなと言っている」

「もう、名乗りました」

「……」


 男は忌々しげに舌打ちした。

 少し遅れて、口を開く。


「ヨハンだ」

「ヨハン」

「呼ぶなと言っている」


 短い舌打ちが落ちた。

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