2話
男の拳は顎先の手前で止まったまま、次の攻撃は来なかった。
シグマも一歩も退かない。互いの重心が泥の縁で噛み合い、背後では昏い川が口を開けている。
次の瞬間、川縁の泥が二人の足下でずるりと崩れた。
先に均衡を失ったのはシグマだった。
水を吸う以前から、鎖帷子の重量は肉体を圧迫している。
踏みとどまろうとした右足が虚空を切り、身体が横へと流れる。
咄嗟に伸ばした指先は、ただ縋るべき支えを求めた。掴んだのは、男の強靭な肩口だった。
引きずり込む意図はなかった。義足の金属部が、悲鳴のような短い音を立てた。
二人まとめて川面へと落ちた。
水面が激しく割れた。
背中から落ちた衝撃に、一拍遅れて鎖帷子が全身を底へと引きずり込む。
氷のような冷たさが腰から肩へと這い上がり、歯の根が勝手に鳴った。
悲鳴を上げようと口を開いた瞬間に、濁った水が肺を侵す。
喉が焼け、呼吸が裏返る。
足掻こうとしても、指先は泥の底を虚しく掻くだけで止まらない。
濡れた裾が流れを抱き込み、さらに身体を沈めようとする。
右腕が乱暴に引き上げられた。
肩が抜けるほどの剛力だった。
水を吐き出す間もなく陸へ引きずられ、肋が岸の泥にぶつかって鈍く痛んだ。
膝を立てようとしても、鎖帷子の重みがなお身体を水際へ引き戻そうとした。
すぐ傍らで、水を蹴り上げる音が響いた。
男は自力で岸へと這い上がる。
濡れた前髪が額に貼りつき、義足の継ぎ目からは細い水筋が、糸のように垂れていた。
片手で無造作に泥を払ったあと、彼はシグマを見下ろした。
眉間に刻まれた深い溝は、依然として消えていない。
「何をする」
高い頬骨と鼻梁だけが銀色に浮き上がっていた。目の奥はひどく暗かった。
シグマは咳き込みながら、緩慢に身を起こした。
桃色の髪が水を吸い、重く頬と首に貼りついている。
鎖帷子の裾から滴る水が、泥の表面に細い溝を刻んでいった。
背後では川のせせらぎが絶えず鳴っているが、その境界を越えた先では、深い森が沈黙を守っている。
しばらくして、梢のどこかで夜鳥が不吉な声を短く発した。
「支えようと、したのです」
「道連れにしただけだ」
「結果としては、そうなりました」
男の瞳が険しく細められる。
殴打する代わりに激しい舌打ちをひとつ落とし、彼は泥を蹴った。
シグマもそれに倣う。
濡れた靴の中で水が不快な音を立て、歩くたびに重い裾が脛に絡みついた。
男が不意に振り返った。
背後の月光がその肩越しに射し込み、濡れた輪郭を銀の糸で縁取っている。
その先に広がる森は、目が慣れるほどに闇を深め、幹と幹の間には黒が沈んでいた。
「来るな」
「ここに留まれば、体温を奪われます」
「知るか」
「あなたには、帰るべき場所があるのですね」
「……だから何だ」
「ついて行きます」
この土地で壁と火のある場所を、シグマは他に知らなかった。
風が吹き抜けるたび、高い位置にある枝同士が硬く擦れ合った。
男は何も答えず、背を向ける。
シグマはその背中の揺らぎを見失わぬよう、月光の零れる地面を追随した。
木立が唐突に切れた先に、その家は佇んでいた。
そこにあったのは、聖女養成機関の尖塔や列柱とは何ひとつ似ていない、低い切妻屋根の住処だった。
戸口には泥避けの板が渡され、壁際には薪棚が張り出していた。
男は戸口の前で一度だけ足を止め、濡れた手で閂を外し、中へと消えた。
シグマがそのまま敷居を跨ごうとした瞬間、扉は目前で冷酷に閉ざされた。
「入るな」
「寒いです」
「知るか」
内側から物音が聞こえてきた。
戸棚を開く乾いた音。
何かを引き抜く音。
濡れた衣服を脱いでいるのか、布が肌から剥がれる際の短い摩擦音が続く。
間もなく木の扉が半分だけ開き、丸められた布束が外へと放り出された。
厚手のタオルと、使い古された毛布だった。
「それを使え」
シグマが顔を上げるより早く、男は扉を閉ざすための重心へと戻っている。
「ありがとうございます」
「礼を言う必要はない」
「なぜですか」
「その見窄らしい格好で戸口の前で死なれるのが、鬱陶しいだけだ」
「鬱陶しい、ですか」
「中には入れない。火も貸さない。朝までに、どこかへ消えろ」
最後に、突き放すような舌打ちがひとつ落ちた。
扉が閉まる。
その直後、閂が内側から滑り込み、戸口は完全に他人の領分となった。
火の音は届くのに、その火の熱は、シグマに許されない。
シグマは足下の毛布を拾い上げた。
家の中では、火が小さく爆ぜる音がしている。
壁一枚向こうに、乾いた木の匂いと暖かい空気があった。
シグマはしばらくの間、戸口の前に立ち尽くし、投げ与えられた二枚の布を見つめた。
毛布は端が擦り切れて薄くなり、何度も洗われた硬さがある。
タオルは厚手で、織り目が密に詰まっていた。
日常使いの布を、そのまま寄越したのだと知れた。
シグマは戸口の脇へ静かにしゃがみ込み、濡れた鎖帷子を解き始めた。
重い。水を抱き込んだ鉄の網が、腕から肩へと無慈悲に食い込む。
外したそばから地面に置いていくと、鉄の輪が冷えた板の上で、微かな金属音を立てて積み重なった。
泥が指の間に入り込み、爪の際に黒い三日月のように溜まっている。
タオルで顔を拭うと、清潔な布はたちまち茶色く汚れた。
頬に貼りついていた髪の水気が取れると、桃色の毛束は夜気に晒される。
シグマは毛布を肩に掛け、立ち上がって家を見つめた。
屋根は深く張り出し、雨や雪が壁に直接当たるのを防いでいる。
石積みの基礎は低すぎず、地面の湿気が床板に浸透するのを阻む高さで整えられていた。
板壁に装飾はないが、継ぎ目は寸分の狂いもなく揃い、急ごしらえの粗雑さはない。
屋根の縁には細い雨どいが巡らされ、その端は樽へと落ちるよう、適切な勾配が保たれている。
薪棚には庇がかけられ、奥に積まれた薪だけが白く乾いていた。
軒先には鉄の金具が打ち込まれ、防風灯を吊るすための備えがある。
そこは祈るための聖域ではなく、ただ生き延びるための城砦だった。
シグマは戸口から少し離れた風下へと場所を移した。
板の端を半分だけ借りる位置。
雨どいから滴る雫を避け、軒の影からも外れすぎない場所を慎重に選ぶ。
そこならば夜風を正面から受けず、かつ戸口の様子も窺えた。
薪棚へ目を遣る。
庇の奥の細枝だけが乾いていた。
シグマは削り屑と樹皮を掻き集め、石で風を囲い、細紐と枝で火を起こしにかかった。
最初は煙だけが立った。
二度目も、火種は育たない。
位置を変え、呼吸を整え、もう一度紐を引く。
匂いが変わった。黒い粉の底に小さな赤が宿る。削り屑へ移し、息を送ると、細い炎がようやく立ち上がった。
シグマはそれを大きくせず、石の内側で静かに育てた。
火が、灯る。
シグマはそれをしばらくの間凝視したあと、枝をもう一本だけ足した。
戸口の板を焦がさず、煙を上げすぎない程度に留める。
それから毛布を深く肩に掛け、火の傍らに腰を下ろした。
背は森ではなく、家の方を向いている。
瞼を閉じても、耳は戸の向こう側から微かに漏れる物音を執拗に追い続けていた。
川の流れが夜通し石を噛んでいた。
森の奥では、何かが湿った地面を横切り、獣とも鳥ともつかない短い声がときおり落ちてくる。
火の周囲だけが狭く明るい。
その外は、何者が潜んでいても判別のつかない闇だった。
シグマは毛布の端を握り、火を消さず、大きくもしない。
枝を一本ずつ足しながら、その小さな明かりだけを維持した。
やがて膝を抱えたまま、顎が少しずつ落ちていく。
だが枯葉を踏む音がひとつ近づくたび、瞼だけが開いた。何もなければ、また閉じる。
夜半、家の中で床板がひとつ、高く鳴った。
戸の向こう側で気配が凝固する。
閂に手が掛かりかけて、思い直したような深い沈黙。
シグマは顔を上げただけで、立ち上がりはしなかった。火が小さく爆ぜる。
しばらくして、床板の軋みは奥へと遠ざかっていった。扉は最後まで、開かれることはなかった。
朝、戸の閂が鳴り響いた。
シグマはゆっくりと目を開けた。
火はまだ、生きていた。灰の底に赤が潜み、細い煙が天へと真っ直ぐに立っている。
石の脇には、昨夜のうちに仕留めた蛇が一本、枝に通されて掛けられていた。
男が外へ姿を現した。
片手には斧。その目の下には、薄い影が差している。
斧を持ち直す前、かすかに咳き込むような短い呼吸がひとつ混じった。
彼の視線はまず煙へと落ち、次いで火床を射抜いた。そこで、凍りつく。
細長い蛇の胴が火の上で、ゆっくりと熱を帯びていた。
男が、露骨に眉をひそめた。
「……何をしてるんだ、お前は」
シグマは火の傍らで振り向いた。
頬には乾燥した泥がつき、指先にも土がこびりついている。
「見てください。空腹でしたので、捕らえました」
男の額に、深い皺が刻まれる。
シグマの指先は泥で黒ずみ、爪の際にも土が噛み込んでいた。
手首の裂け目には泥が乾いて貼りつき、膝にも浅い擦り傷が走っている。
「その手で触るな。傷があるだろう」
「あとで、洗います」
「それでは遅い」
「破傷風、ですか」
男の手が、一瞬だけ静止した。
「言葉は、知っているのか」
「知っています」
「なら、なぜ放っておく」
「この程度ならば、支障なく動けますので」
「動けるかどうかの話をしているのではない」
男はまだ斧を握ったまま、火の上の蛇を凝視した。
「そのまま炙っても、食える部位は少ない」
「左様ですか」
「皮を剥げ。骨も細かい。焼くなら火力を弱めろ」
「お詳しいのですね」
シグマは蛇を持ち上げた。
朝の薄明の中で、濡れた鱗がてらてら光る。
「森の中では、祈ること以外のすべてを禁じられていました」
指先で胴を押さえ直す。
「ですから、一度試してみたかったのです」
「何を」
「自分で捕らえ、自分で喰らうことを」
男の動きが、完全に止まった。
斧の柄を握る拳を震わせ、眉間の皺だけが深く、暗くなっていく。
彼は蛇ではなく、シグマの手元を、その傷ついた皮膚を凝視していた。
「家へ入れ」
「入っても、よろしいのですか」
「傷を洗うだけだ。済んだら即座に帰れ」
ヨハンの視線は、火ではなく、乾いた泥の貼りついた裂傷へ落ちていた。
「……わかりました」
家の内部は手狭だったが、雑然とはしていなかった。
炉の前に低い作業台と桶が寄せられ、壁の桟には匙や布が整然と掛けられている。
寝台も机もコップも、装飾ではなく、使う箇所だけが削れ、触れる箇所だけが滑らかになっていた。
男は桶に水を満たし、布を浸してから、シグマの手首を乱暴に掴んだ。泥を拭う。
傷口に染みたのか、シグマの指が微かに震えた。
「痛いです」
「だろうな」
「昨日は、平気でした」
「昨日よりも、今の方が手遅れになる」
男は手際よく泥を除去し、薬草を潰した緑の塊を塗り込んだ。
膝も腕も、同じように処置していく。
布を当てる力加減には一切の容赦がない。
けれど、傷の縁だけは驚くほど正確に避けていた。
シグマは、その無骨な手元を凝視していた。
骨ばった指。
爪の際には落としきれなかった土が残っている。
頬には薄いそばかすが散り、衣服も髪も手入れは行き届いていないのに、瞳だけが妙に綺麗だった。
見上げた先で、ハシバミ色の瞳が一度だけシグマを射抜く。
乱れた前髪は、日光に晒されて色が抜けて見えた。
「名前は」
シグマが問うと、男の手がわずかに止まった。
「聞くな」
「では、何とお呼びすれば」
「呼ぶ必要はない」
「それは不便です」
男は眉間の皺を深めたまま、濡れた布を桶へと戻した。
「私は、シグマです」
「勝手に名乗るなと言っている」
「もう、名乗りました」
「……」
男は忌々しげに舌打ちした。
少し遅れて、口を開く。
「ヨハンだ」
「ヨハン」
「呼ぶなと言っている」
短い舌打ちが落ちた。




