1話
「シグマはいつも変よね。祈りもイマイチ、できることといえば剣だけ」
その言葉を思い返しながら、シグマは歩を速めた。
尖頭窓から射し込む光がどろりと赤く、磨耗した床石を染めていた。煙の匂いが、布の奥まで染みていた。
身に纏った鎖帷子の裾が床を打つたび、硬質な金属音が冷たい天井へと跳ね返る。
角を曲がった先、薄暗い回廊の奥に、見覚えのない男たちがいた。
兜ごしに見えるその手に、剣が鈍い光を返す。
革鎧に胸鎧を重ねている。
背後には槍兵がひしめき、獲物を求める獣のような視線を、廊下の隅々まで走らせていた。
胸当ての留め具には、機関の者が身につけない三叉の刻印が打たれていた。
「最後の聖女はどこだ」
「仕留め損なえば、こちらの命がないぞ」
「くまなく探せ。一刻を争う」
「もう逃げ出したのではないか」
シグマがその姿を晒した瞬間、先頭にいたあばた面の男が息を呑んだ。
男は肩を怒らせ、殺意を孕んだ身体をこちらへ向ける。
「残党だ。かかれ──」
男の眉が吊り上がり、剣先がシグマの喉を指し示す。
その一瞬の隙に、シグマは間合いを消失させた。
重装の重みを感じさせぬ速さで、影が滑るように懐へ潜り込む。
先頭の男を革鎧の上から撫で斬りにし、返す足でその腹を容赦なく蹴り飛ばした。
背後で槍を構えていた兵は、回避する暇さえ与えられない。
吹き飛ばされた肉体が鋭い穂先をまともに受け止め、後ろの兵ごと一塊に貫いた。
血に濡れた三人分の重量がもつれ合う。がらんと、虚しい音がして剣が落ちた。
次の瞬間、庭側の開口部から槍が伸び、シグマの首筋を薄皮一枚で掠めていく。
中庭は、燃えていた。列柱の隙間が朱色に染まり、その熱気の中で男が半歩、踏み込んでくる。
シグマは壁際へと深く、低く沈み込み、死を運ぶ穂先をやり過ごした。袖の鎖が短く鳴る。
振り向く所作すら省き、槍の下を潜り抜けた。
伸びきった男の腕に沿って密着し、肘を鎖骨の下へ打ち込む。
骨が砕ける確かな感触が伝わり、男の膝が石の床へと折れた。
生じた空白へ、シグマの身体が滑り込む。
庭側へと倒れ伏した槍兵を見下ろし、シグマは静かに顔を上げた。
廊下の突き当たりに、最後の一人が立ち尽くしている。
剣は抜いているものの、その切っ先は幽霊のように泳いでいた。
腰が引け、背中を壁に貼りつかせたまま動けない。
シグマと、目が合った。
男の喉がひきつった音を立てる。
次の瞬間、追い詰められた獣の絶叫をあげて飛び込んできた。
横薙ぎの刃が手首の内側を舐め、血管の奥にちりと痺れが走る。
シグマはそれを弾いた。
右から回り込んだ拳が兜の側面を強打し、男の頭蓋をぐわんと揺さぶる。
無防備に晒された鼻梁へ肘を押し返すと、小枝が折れるような感触が腕に残った。
男が崩れ落ち、回廊に静寂が戻った。
絶命したあばた面の男の胸当てから、折り畳まれた紙が半分のぞいていた。
血で貼りつき、その端だけが冷たい石の上に垂れている。
シグマはかがみ込み、それを静かに引き抜いた。
アルファ。横線。
シータ。横線。
ミュー。横線。
カイ。横線。
シグマ。
四つの名にだけ、拒絶のような線が引かれている。
線の引かれていない名は、自分だけだった。
回収されたのだ、とシグマは思った。ならば、アルファたちには行き先がある。
シグマは紙を折り、懐の奥へしまい込んだ。鎖帷子の重みを膝で押し返すようにして、彼女は立った。
礼拝堂の脇を抜ける回廊を行く。
列柱のあわいから中庭の火がちらつき、尖頭アーチの影が床石の継ぎ目を細く、鋭く切り裂いていた。
長年の往来によって鏡のように磨耗した石を踏み、シグマは聖女棟の重厚な樫の扉を押し開けた。
衣擦れの音も、安らかな寝息も返ってこない。
壁際には寝台が墓標のように等間隔に並び、そのひとつには上着が裏返しのまま脱ぎ捨てられていた。
椅子は脚をこちらへ向けて倒れている。
壁龕の祈祷書だけが閉ざされたままだ。
窓の鉛桟の隙間から這い込んできた煙が、口の中に苦味を残した。
急いで引きずり出された形跡はない。呼ばれて、自らの足でこの部屋を去ったのかもしれなかった。
隣接する管理棟の方へと足を進めると、渡り廊下にヴェルナーが横たわっていた。
腹を深く裂かれ、見開かれた瞳は灰をかぶって濁っている。
礼拝の刻を告げる、彼の足音だけは記憶に鮮やかだった。
三十七歩。決して石畳の継ぎ目を踏まない、几帳面な歩法。
シグマは片膝をつき、指先で彼の瞼を閉じた。すぐに立ち上がり、歩みを再開する。
保管室では、培養槽の蓋がすべて開いていた。
ひとつずつ、中を覗き込む。
どの槽も空だった。
底には胚の影ひとつ、沈殿していない。
棚へ手を伸ばすが、そこにあるはずの記録の束も消え失せている。
木枠にも、隣接する什器にも、暴行の痕跡はなかった。
行き先を示すものは、内側には何ひとつ残っていなかった。
外へ出ると、南棟が赤々と燃えていた。
崩れ落ちた梁から立ち上る熱気が、頬にべたりと貼りつく。
足元で、繊細な音がした。
砕け散ったステンドグラスの破片が、その輝きを保ったまま、石畳に散乱していた。
靴底で、それを踏みしだく。
薄いガラスが砕け、赤と青の光が石の上で混濁して紫がかった。綺麗だった。
焦げ付いた石の縁で、足が止まる。
命令はなかった。呼ぶ声もなかった。
鎖帷子の重量が、鉛のように両腕を下へと引きずる。
シグマは一度だけ小さく首を振り、燃える聖堂をあとにした。
黄昏に沈みかけていた一帯が、炎の照り返しで不吉なまでに明るい。
背後で聖女養成機関が崩壊し、立ち上る炎がシグマの輪郭を浮かび上がらせた。
裏門の外へ出たところで、森との境界に動く影があった。
逃げ遅れた者かと思い視線を向けると、男が一本の樹木に手をついて立っていた。
男の得物よりも先に、その立ち方の歪みが目に付いた。
重心が不安定に浮いている。
木に手をつき、辛うじて均衡を補っているのだ。
ズボンの下の右脚だけ、運びが違っていた。
──義足だった。
男はシグマの姿を認めるなり、来た方向へ踵を返した。
速い。
義足が跳ね、地面を叩く。
急な傾斜に差し掛かっても、その重心は微塵もぶれない。枝を避ける肩の動きには、一切の迷いがなかった。
ここへ来たばかりの、不慣れな者の足ではない。
鎖帷子の裾を鳴らし、シグマも深い森へと足を踏み入れた。
この地に行く末を知っていそうな存在は、他に見当たらなかった。
この男は外から来た。
機関の中ではなく、その先の道を知っている。
消えた聖女たちの行き先に届くとすれば、まずはこの男だった。
しばらく追わせたところで、男が足を止めた。
ゆっくりと振り返る。
短剣に添えられた指先が、わずかに動いた。
シグマは速度を緩めず接近した。
男は視線を外さぬまま、木立の間を縫って斜面を下る。
あえて足場の悪い湿地へと、彼女を誘導している。
川へ落とすつもりなのだと、シグマは直感した。
土は柔らかさを増し、靴底から冷ややかな水気がせり上がってくる。
川のせせらぎが近づく。
水際まで引きつけたところで、男は短剣を抜いた。
義足が跳ねた。
金属が噛み合う、鋭く短い音が響く。
剣先がシグマの首元へ斜めに走り、受け止めた腕の鎖が軋んで、刃の重みが肘の奥まで伝播した。
泥が跳ね、視界を汚す。
川岸のぬかるみにあっても、その義足は決して滑らなかった。
下から撥ね上がる刃が顎の下を執拗に狙い、それを受けるたびに、手首の内側へ痺れのような熱が蓄積されていく。
水面がすぐそこに迫っていた。
男が自分を葬ろうとしているのは明白だった。
だが、その顔は妙に乾いていた。
男が懐へと踏み込んでくる。
肉体を密着させ、質量で前へと押し込む。
その手が、シグマの兜の縁を掴んだ。
兜が引き剥がされ、湿った川風が剥き出しの頬を冷たく叩いた。
男の拳は、彼女の顎先の間近で止まった。
骨ばった指の影が、白磁のような頬に落ちる。
男の吐息が触れるほどの距離だった。
近づいて見えた顔立ちは思っていたより若く、頬にはまだ硬くなりきらない線が残っていた。
止まった。
そう認識した瞬間、腹の底で何かが解けていくのを感じた。
横隔膜が奇妙にひきつる。
喉の奥で呼吸が跳ね、口元が勝手に、微笑の形を象っていた。
声が、漏れた。
男が唖然として、目を見開いているのがわかった。
「あ〜、ははっ、あはは、脚が速いんですね。それに、強い」
男の眉が険しく寄った。
拳は顎の先で止まったまま、落ちてこなかった。




