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人造聖女と退役勇者の帰還  作者: 笹原ハルキ


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1/10

1話

「シグマはいつも変よね。祈りもイマイチ、できることといえば剣だけ」


 その言葉を思い返しながら、シグマは歩を速めた。

 尖頭窓から射し込む光がどろりと赤く、磨耗した床石を染めていた。煙の匂いが、布の奥まで染みていた。

 身に纏った鎖帷子の裾が床を打つたび、硬質な金属音が冷たい天井へと跳ね返る。


 角を曲がった先、薄暗い回廊の奥に、見覚えのない男たちがいた。

 兜ごしに見えるその手に、剣が鈍い光を返す。

 革鎧に胸鎧を重ねている。

 背後には槍兵がひしめき、獲物を求める獣のような視線を、廊下の隅々まで走らせていた。

 胸当ての留め具には、機関の者が身につけない三叉の刻印が打たれていた。


「最後の聖女はどこだ」

「仕留め損なえば、こちらの命がないぞ」

「くまなく探せ。一刻を争う」

「もう逃げ出したのではないか」


 シグマがその姿を晒した瞬間、先頭にいたあばた面の男が息を呑んだ。

 男は肩を怒らせ、殺意を孕んだ身体をこちらへ向ける。


「残党だ。かかれ──」


 男の眉が吊り上がり、剣先がシグマの喉を指し示す。

 その一瞬の隙に、シグマは間合いを消失させた。


 重装の重みを感じさせぬ速さで、影が滑るように懐へ潜り込む。

 先頭の男を革鎧の上から撫で斬りにし、返す足でその腹を容赦なく蹴り飛ばした。

 背後で槍を構えていた兵は、回避する暇さえ与えられない。

 吹き飛ばされた肉体が鋭い穂先をまともに受け止め、後ろの兵ごと一塊に貫いた。


 血に濡れた三人分の重量がもつれ合う。がらんと、虚しい音がして剣が落ちた。


 次の瞬間、庭側の開口部から槍が伸び、シグマの首筋を薄皮一枚で掠めていく。


 中庭は、燃えていた。列柱の隙間が朱色に染まり、その熱気の中で男が半歩、踏み込んでくる。


 シグマは壁際へと深く、低く沈み込み、死を運ぶ穂先をやり過ごした。袖の鎖が短く鳴る。

 振り向く所作すら省き、槍の下を潜り抜けた。

 伸びきった男の腕に沿って密着し、肘を鎖骨の下へ打ち込む。

 骨が砕ける確かな感触が伝わり、男の膝が石の床へと折れた。


 生じた空白へ、シグマの身体が滑り込む。


 庭側へと倒れ伏した槍兵を見下ろし、シグマは静かに顔を上げた。


 廊下の突き当たりに、最後の一人が立ち尽くしている。

 剣は抜いているものの、その切っ先は幽霊のように泳いでいた。

 腰が引け、背中を壁に貼りつかせたまま動けない。


 シグマと、目が合った。


 男の喉がひきつった音を立てる。

 次の瞬間、追い詰められた獣の絶叫をあげて飛び込んできた。

 横薙ぎの刃が手首の内側を舐め、血管の奥にちりと痺れが走る。


 シグマはそれを弾いた。

 右から回り込んだ拳が兜の側面を強打し、男の頭蓋をぐわんと揺さぶる。

 無防備に晒された鼻梁へ肘を押し返すと、小枝が折れるような感触が腕に残った。


 男が崩れ落ち、回廊に静寂が戻った。


 絶命したあばた面の男の胸当てから、折り畳まれた紙が半分のぞいていた。

 血で貼りつき、その端だけが冷たい石の上に垂れている。

 シグマはかがみ込み、それを静かに引き抜いた。


 アルファ。横線。

 シータ。横線。

 ミュー。横線。

 カイ。横線。

 シグマ。


 四つの名にだけ、拒絶のような線が引かれている。

 線の引かれていない名は、自分だけだった。

 

 回収されたのだ、とシグマは思った。ならば、アルファたちには行き先がある。

 シグマは紙を折り、懐の奥へしまい込んだ。鎖帷子の重みを膝で押し返すようにして、彼女は立った。


 礼拝堂の脇を抜ける回廊を行く。

 列柱のあわいから中庭の火がちらつき、尖頭アーチの影が床石の継ぎ目を細く、鋭く切り裂いていた。

 

 長年の往来によって鏡のように磨耗した石を踏み、シグマは聖女棟の重厚な樫の扉を押し開けた。

 衣擦れの音も、安らかな寝息も返ってこない。

 壁際には寝台が墓標のように等間隔に並び、そのひとつには上着が裏返しのまま脱ぎ捨てられていた。

 椅子は脚をこちらへ向けて倒れている。

 壁龕の祈祷書だけが閉ざされたままだ。

 窓の鉛桟の隙間から這い込んできた煙が、口の中に苦味を残した。

 急いで引きずり出された形跡はない。呼ばれて、自らの足でこの部屋を去ったのかもしれなかった。


 隣接する管理棟の方へと足を進めると、渡り廊下にヴェルナーが横たわっていた。


 腹を深く裂かれ、見開かれた瞳は灰をかぶって濁っている。

 礼拝の刻を告げる、彼の足音だけは記憶に鮮やかだった。

 三十七歩。決して石畳の継ぎ目を踏まない、几帳面な歩法。

 シグマは片膝をつき、指先で彼の瞼を閉じた。すぐに立ち上がり、歩みを再開する。


 保管室では、培養槽の蓋がすべて開いていた。

 ひとつずつ、中を覗き込む。

 どの槽も空だった。

 底には胚の影ひとつ、沈殿していない。

 棚へ手を伸ばすが、そこにあるはずの記録の束も消え失せている。

 木枠にも、隣接する什器にも、暴行の痕跡はなかった。

 行き先を示すものは、内側には何ひとつ残っていなかった。


 外へ出ると、南棟が赤々と燃えていた。

 崩れ落ちた梁から立ち上る熱気が、頬にべたりと貼りつく。

 足元で、繊細な音がした。

 砕け散ったステンドグラスの破片が、その輝きを保ったまま、石畳に散乱していた。

 靴底で、それを踏みしだく。

 薄いガラスが砕け、赤と青の光が石の上で混濁して紫がかった。綺麗だった。


 焦げ付いた石の縁で、足が止まる。

 命令はなかった。呼ぶ声もなかった。

 鎖帷子の重量が、鉛のように両腕を下へと引きずる。


 シグマは一度だけ小さく首を振り、燃える聖堂をあとにした。


 黄昏に沈みかけていた一帯が、炎の照り返しで不吉なまでに明るい。

 背後で聖女養成機関が崩壊し、立ち上る炎がシグマの輪郭を浮かび上がらせた。


 裏門の外へ出たところで、森との境界に動く影があった。

 逃げ遅れた者かと思い視線を向けると、男が一本の樹木に手をついて立っていた。


 男の得物よりも先に、その立ち方の歪みが目に付いた。

 重心が不安定に浮いている。

 木に手をつき、辛うじて均衡を補っているのだ。

 ズボンの下の右脚だけ、運びが違っていた。

 ──義足だった。

 男はシグマの姿を認めるなり、来た方向へ踵を返した。


 速い。

 義足が跳ね、地面を叩く。

 急な傾斜に差し掛かっても、その重心は微塵もぶれない。枝を避ける肩の動きには、一切の迷いがなかった。

 ここへ来たばかりの、不慣れな者の足ではない。


 鎖帷子の裾を鳴らし、シグマも深い森へと足を踏み入れた。

 この地に行く末を知っていそうな存在は、他に見当たらなかった。


 この男は外から来た。

 機関の中ではなく、その先の道を知っている。

 消えた聖女たちの行き先に届くとすれば、まずはこの男だった。


 しばらく追わせたところで、男が足を止めた。

 ゆっくりと振り返る。

 短剣に添えられた指先が、わずかに動いた。


 シグマは速度を緩めず接近した。

 男は視線を外さぬまま、木立の間を縫って斜面を下る。

 あえて足場の悪い湿地へと、彼女を誘導している。

 川へ落とすつもりなのだと、シグマは直感した。


 土は柔らかさを増し、靴底から冷ややかな水気がせり上がってくる。

 川のせせらぎが近づく。

 水際まで引きつけたところで、男は短剣を抜いた。


 義足が跳ねた。

 金属が噛み合う、鋭く短い音が響く。


 剣先がシグマの首元へ斜めに走り、受け止めた腕の鎖が軋んで、刃の重みが肘の奥まで伝播した。

 泥が跳ね、視界を汚す。

 川岸のぬかるみにあっても、その義足は決して滑らなかった。

 下から撥ね上がる刃が顎の下を執拗に狙い、それを受けるたびに、手首の内側へ痺れのような熱が蓄積されていく。


 水面がすぐそこに迫っていた。

 男が自分を葬ろうとしているのは明白だった。

 だが、その顔は妙に乾いていた。


 男が懐へと踏み込んでくる。

 肉体を密着させ、質量で前へと押し込む。


 その手が、シグマの兜の縁を掴んだ。


 兜が引き剥がされ、湿った川風が剥き出しの頬を冷たく叩いた。


 男の拳は、彼女の顎先の間近で止まった。

 骨ばった指の影が、白磁のような頬に落ちる。

 男の吐息が触れるほどの距離だった。

 近づいて見えた顔立ちは思っていたより若く、頬にはまだ硬くなりきらない線が残っていた。


 止まった。

 そう認識した瞬間、腹の底で何かが解けていくのを感じた。


 横隔膜が奇妙にひきつる。

 喉の奥で呼吸が跳ね、口元が勝手に、微笑の形を象っていた。

 声が、漏れた。

 男が唖然として、目を見開いているのがわかった。


「あ〜、ははっ、あはは、脚が速いんですね。それに、強い」


 男の眉が険しく寄った。

 拳は顎の先で止まったまま、落ちてこなかった。

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