10話
荷室は低く、背を伸ばせば梁に触れた。肩の高さまで積まれた魚油の麻袋が、船の揺れに合わせてかすかに鳴った。
板の継ぎ目から差し込む夜明け前の光は細く、浮いた埃だけを白く照らしていた。
船はもう岸を離れていた。海のうねりが船底から鈍く伝わり、そのたびに荷の列がわずかに軋んだ。魚油と湿った麻の臭いがこもり、息を吸うたび喉の奥に貼りつく。
ヨハンは船底に近い天井の下で背を丸め、梁に触れぬよう首をわずかに傾けたまま、シグマを見ていた。
右脚の継ぎ目にはまだ熱が残り、埠頭から飛び移る際にシグマを引き上げた腕にも、鈍い疲労が残っていた。
シグマは荷袋の影に膝をつき、呼吸だけを静かに整えていた。
耳元では断ち切られた髪の端が揺れ、頬には乾いた血の筋が細く残っていた。
「……お前、聞いたのか。俺のこと」
ようやく絞り出した声は、思っていたより低く、掠れていた。
シグマはすぐには答えなかった。
ヨハンの横顔を見たまま、船がきしむ音と水の音が重なるのを一拍待ってから、口を開く。
「聞きました」
「どこまでだ」
「あなたが、テオドール・アウエルシュタットと呼ばれていたこと。嵐刃と呼ばれていたこと」
「……それだけか」
「ゲルハルトという男が、その名に執着していたことも」
ヨハンは短く息を吐いた。狭い荷室の空気が、さらに重くなった。
「あれは昔の名だ」
「ヨハンは本名ではないと」
「ああ」
それきり、ヨハンは黙った。
シグマも続きを急かさない。
船は黒い海を進んでいた。船底から響く低い軋みが荷室を揺らす。
ヨハンの視線がシグマの耳元で止まった。断ち切られた髪の端が、船の揺れに合わせて頬に触れていた。
「船を降りたら、適当なところへ逃げろ」
唐突に落とされた言葉に、シグマの瞳がわずかに動いた。
ヨハンは彼女を見ず、荷袋の向こうの暗がりだけを見ていた。
「港に着けば人が増える。荷も船も入り乱れる。お前一人なら紛れ込める」
「いやです」
「……何だと」
「いやです」
今度ははっきりと言った。
声は静かだったが、揺れなかった。
「あなたと行きます」
「お前は何も分かっていない」
「いいえ」
「分かっていないんだ」
ヨハンの声が低く沈む。
だがシグマは目を逸らさない。
「分かっていないのは、あなたの方です」
「何だよ……」
「検問は、私が通しました。皮屋でも、私が口を挟みました。埠頭でも、私はあなたを助けました」
「……俺一人では、満足にできないと?」
「ええ。少し心配ですね」
シグマは躊躇なく言い募った。
何ら忖度しない言いように、ヨハンの眉間に深い皺が寄った。
言い返すより早く、シグマがもう一歩踏み込む。
「その体で、一人でゆくおつもりですか」
言葉が止まった。
ヨハンの喉が一度だけ動く。
シグマはそこで退かなかった。
「脚のことだけを言っているのではありません」
「……」
「戦闘中、あなたの動きは鈍かった。呼吸も乱れていた」
ヨハンの奥歯が鳴った。
怒鳴る代わりに、荷袋の縫い目へ爪を立てる。
「俺を足手まといのように言うな」
「事実ですので」
「事実だとしても、口にするな」
「置いていかれたくないので」
きっぱりと言い切られて、ヨハンはようやく彼女を見た。
荷室の薄暗がりの中で、シグマの顔は奇妙なほど静かだった。
目が、まっすぐヨハンを見ていた。
「……テオドールは死んだことになっている。アウエルシュタットはもう滅びた。俺は、その王家の者だった」
シグマは黙っていた。
「三叉の鷲の下で戦っていた頃の名だ。あの名を知る連中に見つかれば、俺だけでは済まない」
ヨハンは膝を立て、背を板壁へ押しつけた。
湿った木の冷たさが背中から這い上がる。
「ゲルハルトは追手の一人だ。昔を知っている。だから厄介なんだ」
「執念深そうでしたからね」
「もう八年は逃げている。あの男の上にいる奴が厄介でな」
「私と別行動にしたいのは、私が巻き込まれるからですか。それとも、邪魔だから?」
「……両方だ」
その言葉だけは、妙に早く出た。
言ってから、ヨハン自身がその速さに眉をしかめた。
「俺のそばにいれば、お前も追われる。あいつらが生きたままお前を欲しがっているのは、お前自身の事情だけじゃない。俺の側にいるからだ」
「そうでしょうね」
「だったら」
「それでも、私は行きます」
今度はヨハンが沈黙した。
シグマは膝の上で指を組み直し、ひとつずつ言葉を置いていく。
「私は、呼ばれた場所へ行くだけのものでした」
「……」
「連れて行かれれば従い、使われれば留まり、要らなくなれば捨てられる。それで十分だと思っていました」
船体が波を受け、荷室全体がわずかに傾いた。
積み荷のどこかで麻袋が擦れ、乾いた音を立てる。
「でも、今回は違います」
「違わない」
「違います」
シグマの声が、初めてわずかに強くなった。
「私は、あなたと行きます」
ヨハンは何も言わない。
シグマはその沈黙の中で、さらに言葉を継ぐ。
「命じられたからではありません」
「……」
「役目だからでもありません」
一拍、置いた。
「私が、そうすると決めました」
ヨハンは目を閉じた。
こめかみの奥で、何かが鈍く脈打った。
ゲルハルトの声、三叉の鷲、埠頭の篝火、そして今、目の前で静かにこちらを見返すシグマの顔。
それらが狭い荷室の中で、逃げ場もなく重なっていた。
「勝手な女だな」
「はい」
「褒めていない」
「存じています」
シグマは一拍置いて、続けた。
「あなたの役に立ちますよ」
「なぜそう言い切れる」
「私は、強いです」
「……」
「だから、あなたの足を止める荷にはなりません」
「それはたまたまだ」
「いいえ」
シグマは首を振った。
ヨハンは息を吐いた。
笑いにも舌打ちにもならない音だった。
しばらくして、低く言う。
「この船は海を渡り、ユルドゥズの大陸へ入る。追手の手も、今よりは少し鈍る」
「少なくとも、今よりはいいですね」
シグマは、その地名を口の中で転がすように小さく繰り返した。
「ユルドゥズ……馴染みのない土地ですね」
「あそこへ入れば、名前も身元も少しは薄まる。消えるなら、今はそこしかない」
「……楽しみですね」
ヨハンは弾かれるように彼女を見た。
無知ゆえの強情ではない。
刹那を生きている火花のような女だと思った。
「……ユルドゥズへ入るまでは、俺の指示を聞け。船を降りた後は、俺から離れるな」
「承知しました」
その返答を聞いてから、ヨハンはようやく目を逸らした。
シグマは小さく息をついた。
安堵というには淡く、だが先ほどまでより確かに柔らかい息だった。
「……ありがとうございます」
「なぜ礼を言うんだ」
「私がそうしたいのです」
ヨハンは返事をしなかった。
ただ、荷袋の陰へ半分隠した手が、さっきまでより少しだけ緩んだ。
その時、甲板の上で足音が走った。
短く怒声が交わされ、船が一度、大きく傾く。
積み荷の列が低く軋み、荷室の天井近くで麻屑がぱらりと落ちた。
ヨハンが顔を上げる。
板の継ぎ目から見える海面の色が変わっていた。
黒に近かった水が、灰白の朝を映して広がっている。
はるか先には、夜明けの光を受けた陸影が低く横たわっていた。
「着いたのですか」
「まだだ。だが、あれがユルドゥズの陸だ」
ヨハンは外を窺ったまま、低く続けた。
「港に入る前に荷改めがある。そこで見つかれば、今度は海へ飛び込んでも逃げ切れない」
シグマは黙って頷いた。
ヨハンはなおも外を見ていたが、不意に腰の革袋へ手をやった。
中を探る指先が、途中で止まる。金属がひとつ、乾いた音を立てた。
シグマがその手元を見た。
「どうしました」
ヨハンはすぐには答えなかった。
袋の中から硬貨を一枚つまみ出し、夜明けの光へかざす。
磨耗した面に刻まれた紋は、第一大陸の貨幣鋳造所のものだった。
その瞬間、ヨハンの顔からわずかに血の気が引いた。
「……しまった」
シグマの視線が、硬貨とヨハンの顔を往復する。
「通貨が違う」
短く言い切ってから、ヨハンは舌打ちを噛み殺した。
シグマは一拍遅れて、その意味の大きさを測ろうとする顔になった。
「両替をすればよいのでは」
「馬鹿言え。正規にやれば足がつく」
ヨハンは硬貨を握り込んだ。
板の継ぎ目の向こうで、ユルドゥズの陸影が朝の光に浮かび上がっていた。




