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帰還の蝶【長編・本編全話登録済み】  作者: 清水 朝基
第九章 岩狼の帝国
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芽生え

 小さな背中で揺れる、灰茶色の長い髪。秋の和やかな陽光を透かして、きらきらときらめいている。

 その美しい景色に、感嘆の溜め息が漏れる。

 夏の爽やかな日差しに抜ける色も美しかったが、秋も秋で、また格別だ。冬は、どんな色を見せてくれるのだろう。

(……本当に……綺麗だなあ……)

 とくとくと、鼓動が温まる。

 髪なんて、全然興味はなかったのに、エストリッドのものだと思うと、それだけで、どんな宝石よりも価値があるように感じられた。ずっと見ていたくて、冬支度の手を動かさなければいけないのに、つい、視線を送ってしまう。

 エストリッドが、切り終えた青菜を、隣のざるに移す。

 ふと覗く横顔。大きな青灰色の瞳は深く輝き、通った小さな鼻も、ふっくらと赤い唇も、全てが完璧で愛らしかった。

 これで、声だって、春の小鳥のように心地よいのだ。おしゃべりを聴いているだけで、明るく心弾んだ。

 厨を、くるくると立ち働く姿。手際よく、洗練された所作。

 いつまでも眺めていたい。こんなにも素晴らしい女人が、この世に存在していたなんて、今まで知らなかった。

 確かに、姉は、女神スリの化身と称賛されるほどの美人だった。弟として、誇らしく感じていた。

 しかし、エストリッドは、燦然と輝いているのだ。見ているだけで胸が高鳴り、幸せな気持ちでいっぱいになる。

 ノール神話でいうならば、さしずめ豊穣の女神のフリッグだろうか。

 切った根菜を載せる、小さな手。白くて可愛らしい、両の手。野菜を山盛りにしたざるを抱えて振り返った姿を、拝むように眺める。

 と、ごん、と重い音がする。

 振り見れば、ソールヴァルドが侮蔑に目を光らせていた。

「エッタ。こいつ、気持ち悪いんだぜ。ずっと、お前のこと見てやんの」

 瞬く、青灰色の瞳。途端、いたたまれない思いが胸に湧く。

 声変わりしたての不安定な調子が、嘲りながら指を差す。

「エッタのこと、好きなんだろ。果実をいじられて、女みたいに鳴いて昇るくせに、一人前の男のつもりかよ」

 愛らしい顔が強ばる。

 一気に血の気が引いて沸騰する。弾けて、悲鳴を上げた。

「――そんなんじゃない! 誰が、こんな小うるさい女なんか、好きになるものか!」

 はっとして、口に手を当てる。

 見上げれば、慮った微苦笑があった。

「ごめんなさい、エイノ……私、おしゃべりだから――」

 違う。違うのに、喉がつかえて、声が出ない。

 眼前の、凶悪な笑み。反省した舌の根も乾かずに、なんて幼稚なのだろう。

 相手にしなければいいのだ。振り回される価値などない。それなのに――。

(これ以上……エッタに、知られたら……)

 べったりと、感触が絡みつく。胸の頂点が、ざわついて震える。耳元で、男の笑う声がした。

 みぞおちが、ぐるぐると渦巻く。両手で口を押さえて喘ぐ。

(……っ気持ち悪い……!)

 いよいよたまらず、床板に滑りそうになりながら、靴下のまま、勝手口から飛び出す。

 右手の奥に見える厠。

 しかし、せり上がる蠕動を抑えきれず、膝をついて、ぶちまけた。


 仕事を終えた夕刻、家の脇の物置小屋と厠の間を通って、裏庭に出ると、はたしてエストリッドの姿があった。物干し場で、洗濯物を取り込んでいる。

「……エッタ」

 歩み寄って、そっと呼びかける。小さな白い顔が、笑んで応える。

「あら、エイノ。おかえりなさい」

 あれから一日、エストリッドは、変わりなく接してくれている。

 背中をさすり、落ち着いたあとは肩を貸し、急遽、麦の粥をつくってくれた。

 勝手口前の汚れはもう、跡形もない。午睡している間に、きっと片づけてくれたのだろう。

 手厚い看護のおかげで、その日の夕食は、まともに摂れた。ただ、二人きりになる機会がなく、今になってしまった。

 目顔で問いかける面立ち。ゆっくりと深呼吸をして、口を開く。

「……あの……昨日は、ごめん……あんなこと、言うつもりじゃなかったんだ……」

 青灰色の瞳が瞬く。柔らかな息が、明るく苦笑する。

「あら、何のこと?」

 予想外の返答に面食らう。

 秋風にそよぐ残りの衣服を、手早く洗濯籠に放りながら、何のてらいもない口調が話す。

「私ね、嫌な記憶は全部、忘れることにしているの。大切なことだけを、覚えていられるように。だから、気にしなくていいのよ」

 ということは、つまり、やはり傷つけたのだ。申し訳なくて、言い募る。

「いや、でも、エッタ」

 すっと、唇の前に、人差し指が突き出される。

 エストリッドは穏やかに笑んで、言葉を紡いだ。

「もう、いいの。あんなお子様のせいで、私達が、わざわざ気を揉む必要なんてないんだから。――この話はお終い」

 そうして、夕食の準備をしなきゃ、と呟いて、洗濯籠の取っ手を掴んだ。満載の衣類をものともせず、一息に抱え上げて、ずんずんと勝手口へと歩いていく。

 灰茶色の長い髪が、さらさらと流れる、小さな背中。その、堂々とした佇まい。

 戸惑いながらも、ほっと胸を撫で下ろした。


 *


 サカ暦七七五年カパ(四番目)の月の中旬。

 豪奢な花嫁衣装を纏った姿を見つめる。大プダンダの導きに従い、リシ・ヤドニャが執り行われていく。

 乾季も終盤の今日、スキリコとスイムティは、婚礼の式を挙げた。

 プマンクの妻は入門するという慣習に従い、スイムティも、かつてスキリコがそうしたように、受式することとなった。これからは、夫婦で教えの道を歩むのだ。

 儀式を終え、スイムティが深く額(ぬか)づく。

 これで、残すは披露宴だけだ。つつがなく進むよう、段取りを頭に巡らせつつ、腰を上げた。


「……父上。本当に、行かれるのですか?」

 籐(とう)の籠に詰まった衣類や日用品。振り返って、声の主(ぬし)を見上げる。

 不安そうに口を引き結ぶ、まだ幼さの残る顔立ち。

 にじって正面を向く。そうして、手で座るよう指し示した。

 スカレミィが、どこか不承不承な様子で、腰を下ろす。己によく似た面差しを見つめて、静かに口を開いた。

「許してくれ。ステノゴを、諦めるわけにはいかないんだ」

 スイムティは無事、嫁いでいった。今は、夫とともに、老師の庵で暮らしている。

 夫婦になって、まだ一週間余りだが、気は合うようだ。

 全く知らない相手との縁組もある中で、子供の頃から知っている男にめあわせられたのは、幸いだったかもしれない。

 ただ、こうして、スカレミィと二人暮らしになってみると、寂しさと気詰まりが、胸に募った。

 スメラティは、相変わらず、通いで来てくれている。とはいえ、父一人に娘一人での生活は、妙な緊張感があった。

 何より、すっかり適齢期を過ぎてしまったスメラティを、もはや引き留めるわけにはいかない。スカレミィが家事のできる年頃になった以上、潮時だった。

 これで、可愛い子供の時分なら、父娘(おやこ)の時間をたっぷり楽しめただろう。

 しかし、この難しい時期を、男親として向き合うのは、正直、荷が重かった。

 図りかねる距離感。それなら、母親の元で暮らした方がいい。

 もちろん、ステノゴを見つけたい、という思いもある。ただ、言い訳に利用しているのも、確かだった。

 ファールサ人の商人気質は、記録にも現れる。何でもかんでも、筆記して管理する。だから、問い合わせれば、ステノゴの消息も、わかるかもしれない。

(……それでも――)

 膝の上で握り締めた、小さな右手に触れる。丸い瞳を一心に見つめて、乞い願う。

「十四の誕生日までには戻るから。嫁ぎ先も考えておく。――だから、許してくれ」

 噛み締めた口元が、ふるふるとわななく。薄い色の瞳が滲み、弾け飛ぶように、腰を上げて駆け出した。

 とっさに名を叫ぶ。しかし、スカレミィは戻ってこなかった。

 追いかけた方がいい。頭の中で、妙に嫌な予感が閃く。

 肩越しに籐(とう)の籠を一瞥し、立ち上がりかけた、その時。

 突き上げる衝撃に倒れ伏す。

 轟く地鳴り。父を呼ぶ悲鳴。

 しかし、激しい揺れに起き上がることもままならない。身体を丸め、両手で頭を抱える。名を繰り返して応えながら、心の内で読経する。

(聖なるクヌニ山よ! どうか、鎮まりたまえ……!)

 どれほど経っただろうか。

 轟音がやみ、ぶれる視界が止まった。

 跳ね回る心臓を押さえつつ、手をついて、ゆっくりと起き上がる。揺れは、収まったようだった。

「――父上っ……! ちちうえぇっ!」

 途端、火がついたように、泣く声が響く。南西の方、娘達の寝室がある棟(むね)だ。

 名を叫び、一目散に駆け出す。

 縁側の屋根の下で震える、小さな身体。

 しかと抱き締めて、安堵とともに涙した。


 雨季の到来を間近に感じる湿った風が、クラムビル(ココナッツ)の葉を揺らす。

 崩れかけた石塀を積み直し、材木を運搬する人々。竹の網代を編む、巧みな職人技。

 あれから約一週間。

 激しい地揺れは、町や麓の村に、少なからず被害を出した。雨季になれば、浸水する地域もある。優先順位を定め、大急ぎで復旧が行われていた。

「バガワド様。少し、ご相談が」

 呼びかけられて振り見る。

 この麓の村々を統括する村落長だった。話を聴きながら、手元のクラムビル紙をめくり、指示を出す。

 人繰りに資材の手配、合同葬儀の司式、被害に遭った島民達の心身の手当て。

 為すべきことは、山ほどある。到底、島を出る状況ではなくなった。

 ふと、昼時を告げ知らせる声が響く。

 空を仰げば、太陽は頭上高く昇っていた。村落長に、いったん帰宅する旨を伝え、登山道のある北東へと歩み出した。


 そよそよと、透かし彫りの白檀が香る。

 午睡する、次女の横顔。扇ぎながら、苦しい思いで見つめる。

 一人きりで地揺れを経験したのが、よほど怖かったのだろう。幼子に戻ったように、まとわりつき、片時も離れなくなった。

 そんな憐れな我が子を、たった一人、置いていけるはずもない。結局、日中の世話は、スメラティに頼むこととなった。

「――失礼いたします」

 断りの声に振り見る。

 縁側に座し、一礼から顔を上げたスメラティが、控えめな声で尋ねる。

「今、少し――お話ししても、よろしいでしょうか」

「ああ、何かあったか?」

 頷くと、再び頭を下げて、歩み寄ってきた。

 そうして居住まいを正し、スメラティは口を開いた。

「ステノゴ王子のご捜索の件――私が、お引き受けいたしたく存じます」

 意外な言葉に目を瞠る。戸惑って、声をこぼす。

「……いや、しかし……あまりに危険だ。それに、もう、君に頼るわけには……」

「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですが、もう十分、行き遅れておりますから」

 ふっと、黄褐色の面立ちが緩む。真摯な、しかし柔らかい口調が告げる。

「ステノゴ王子のお側には、きっと、スヌンゴがいるはずにございます。私は、会って、確かめたいことがあるのです」

 濃茶色の瞳が、懐かしむような色を宿す。温かく、いとしむ声が語る。

「まだ子供の頃――私は、スヌンゴの恋心を、半ば冗談のように思っていました。三つも年下で、弟のように感じていましたから。しかし、大人になった今、思い返せば、スヌンゴほど、誠実で優しい人もいません。ですから、もし、私のことをまだ覚えてくれているのなら、私の思いを伝えたいのです」

 そんなことがあったのか。

 不思議な感慨に、胸が満たされる。半ば宿命(さだめ)のように、その声を聴く。

「――バガワド様。こういうことは、時が経てば経つほど、成就が困難になります。雨季に入り、スティンヴァーリへの航路が開ける今、機を逃す手はございません。どうぞ私に、ご念願をお申しつけくださいませ」

 真っ直ぐな光を灯す瞳。

 すがりつきたい衝動に駆られて、それでも逡巡する。

 すやすやと、小さな寝息を立てる横顔。その、まだあどけなさの残る面立ち。瞼にかかったほつれ毛を、指先で、そっと梳く。

 スメラティは知っているのだ。

 主寝室に、いまだ荷ほどきしないまま、籐(とう)の籠を置いていることを。それはまさしく、行方をくらましたステノゴへの未練だった。

 ゆっくりと、息を吐き出す。正面を向き、団扇を脇に置いた。

「……君に、頼もう」

 黄褐色の手が、揃って板張りの床につかれる。

 スメラティは承知の意を告げると、深々と額(ぬか)づいた。


 *


 眼前に広がる景色を見渡す。

 海岸というには、いかつい岩肌の浜。凪いで静かな、濃密な色彩の青。鈍色の晴天。

 想像とは全く異なる風景。唖然として立ち尽くす。ヘリイェイルが隣に立って、おかしそうに尋ねる。

「驚いたか、エイノ?」

「……こんなにも、さえざえとしているとは思いませんでした」

 確かに、冬が始まって、ここ最近は、天候の優れない日が続いていた。とはいえ、まさか、これほど色味に乏しいとは。

 所が変われば、海も変わる。文化が違うように、景色も、その土地に則するのだ。

 ヘリイェイルが、呵々と笑う。

「さえざえか! まったく、言い方次第だな」

 淡く苦笑をこぼして、視線を戻し、改めて眺める。

 本当に、全体的に灰色がかっている。

 このラクス海沿岸の港町ラクスムンは、ブローノードからフィスクヴァーグ河を北東に遡り、支流を下ったところにある。

 道中のヘリイェイルの解説によれば、景勝地として有名で、ブローノードの名家の子弟達にとっては、よく行楽に訪れる地のひとつなのだという。

 そして、これほど海が凪いでいるのは、陸にかなり食い込んだ入江になっているからで、狭い航路を進んだ先には、ノール海が広がっている、とのことだった。

 そこから鮭が遡上してくるために、ラクス(鮭)海と名づけられたそうだ。

「叔父様、何がそんなにおかしいんですの?」

 エストリッドが、巨躯を見上げて尋ねる。

 マタラムの海について語る声を聞きながら、頬を撫でる寒風を感じる。

 冬が本格的に始まる前の、三人だけの小旅行。

 ヘリイェイルが言い出したのは、ちょうど冬支度が終わった頃だった。

 秋の間中、忙しく立ち働いたエストリッドを労い、契子(むすこ)にヴァーリ地方の一端を見学させる。

 そういう名目で休暇を取り、スヌンゴとソールヴァルドに留守を託して、二泊三日の旅に出かけたのだった。

 おそらく、それは――主に、ソールヴァルドを説き伏せるための――方便だろう。

 この一ヵ月間、優位を悟った態度に相対するのは、正直つらかったし、穢れた身体のことを知られて、エストリッドへの接し方も、わからなくなってきていた。

 だから、こういう伸びやかな環境で、ゆっくり話しながら、気持ちを切り替えられるなら、有難いことだった。

 足元で呼びかける声がして、振り見る。

 膝を抱えたエストリッドが、平らな岩の表面を、手で軽く叩く。

「あなたも座ったら?」

 ためらいつつも、隣に腰を下ろす。ヘリイェイルは、いつの間にか、いなくなっていた。

「……綺麗ね。私、海を見たのは初めてだわ」

「……そうなんだ」

 頷いて、それきり、エストリッドは何も言わなかった。

 潮騒も海鳥のさえずりもない静寂。そっと、横目で見遣る。

 しんしんと染みる冷気に紅潮した、鼻先と頬。血色のよい、真っ赤な唇。遠くを見つめる瞳は、ラクス海の色そのものだった。

 とくとくと、胸が高鳴る。分厚い毛織の外套にくるまるほど寒いのに、妙に身体の芯が熱かった。

 身体の奥底から言葉がほとばしり、気がつけば、詩を奏でていた。

 エストリッドの美しさを――その心映えが、どれほど素晴らしく、高潔かを――その気高さを、ノールの物語詩に登場するヴァルキュリャになぞらえて詠じた。

「――その……この前のお詫び、じゃないけれど……」

 急に照れくささが湧いてきて、誤魔化すように付け足す。

 エストリッドは、常とは違う、微かな声で呟いた。

「……いいと思うわ……ありがとう……」

 膝を抱えた腕に口元をうずめたまま、青灰色の瞳が、ちらりと視線を送ってくる。

 ゆっくりと瞬く、灰茶色の長い睫毛。初冬の陽光に透けて、きらきらと輝いて見えた。

「……ねえ、エイノ」

「……うん」

「寒いわ。……もっと、こっちに来て」

 手をつき、少し腰を上げて、距離を詰める。

 触れるか触れないかの間隔。

 エストリッドが身じろいで、ぴったりと埋まる。右の上腕が、毛織物を通して、ほんわりとぬくもる。

 ためらうように、少しだけ乗る重み。白くたなびく呼吸の気配。息づく体温。

 跳ねる鼓動を聴きながら、静かな海を見つめた。


 翌日、ラクスムンの中心にある宿を出発する段になって、ヘリイェイルが手を差し出すよう告げた。

「――まあ! 琥珀ね!」

 エストリッドが、掌に置かれたものの正体を知って、歓声を上げる。

「ミョッルニルのお守りだ。ラクスムンといえば、琥珀の名産地だからな」

 確か、雷神ソールの大鎚だったか。改めて、掌の中を見つめる。

 初冬の光に輝く、深い褐色と橙色。鉱石や鉄と違い、どこか温かみのある感触。

 三方向に分かれた一片の端には、小さく穴が開いていて、革紐が通してあった。

「琥珀にはね、魔除けの力があるのよ。持っていると、悪いものから身を守ってくれるの」

 蜂蜜を溶かし込んだような、柔らかくうねる色合い。確かに、強い力が宿っていそうな、不思議な魅力があった。

 握り締めて、押し頂く。

 二人で、それぞれ礼を言うと、契父(ちち)は、にやりと豪快に笑った。

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