芽生え
小さな背中で揺れる、灰茶色の長い髪。秋の和やかな陽光を透かして、きらきらときらめいている。
その美しい景色に、感嘆の溜め息が漏れる。
夏の爽やかな日差しに抜ける色も美しかったが、秋も秋で、また格別だ。冬は、どんな色を見せてくれるのだろう。
(……本当に……綺麗だなあ……)
とくとくと、鼓動が温まる。
髪なんて、全然興味はなかったのに、エストリッドのものだと思うと、それだけで、どんな宝石よりも価値があるように感じられた。ずっと見ていたくて、冬支度の手を動かさなければいけないのに、つい、視線を送ってしまう。
エストリッドが、切り終えた青菜を、隣のざるに移す。
ふと覗く横顔。大きな青灰色の瞳は深く輝き、通った小さな鼻も、ふっくらと赤い唇も、全てが完璧で愛らしかった。
これで、声だって、春の小鳥のように心地よいのだ。おしゃべりを聴いているだけで、明るく心弾んだ。
厨を、くるくると立ち働く姿。手際よく、洗練された所作。
いつまでも眺めていたい。こんなにも素晴らしい女人が、この世に存在していたなんて、今まで知らなかった。
確かに、姉は、女神スリの化身と称賛されるほどの美人だった。弟として、誇らしく感じていた。
しかし、エストリッドは、燦然と輝いているのだ。見ているだけで胸が高鳴り、幸せな気持ちでいっぱいになる。
ノール神話でいうならば、さしずめ豊穣の女神のフリッグだろうか。
切った根菜を載せる、小さな手。白くて可愛らしい、両の手。野菜を山盛りにしたざるを抱えて振り返った姿を、拝むように眺める。
と、ごん、と重い音がする。
振り見れば、ソールヴァルドが侮蔑に目を光らせていた。
「エッタ。こいつ、気持ち悪いんだぜ。ずっと、お前のこと見てやんの」
瞬く、青灰色の瞳。途端、いたたまれない思いが胸に湧く。
声変わりしたての不安定な調子が、嘲りながら指を差す。
「エッタのこと、好きなんだろ。果実をいじられて、女みたいに鳴いて昇るくせに、一人前の男のつもりかよ」
愛らしい顔が強ばる。
一気に血の気が引いて沸騰する。弾けて、悲鳴を上げた。
「――そんなんじゃない! 誰が、こんな小うるさい女なんか、好きになるものか!」
はっとして、口に手を当てる。
見上げれば、慮った微苦笑があった。
「ごめんなさい、エイノ……私、おしゃべりだから――」
違う。違うのに、喉がつかえて、声が出ない。
眼前の、凶悪な笑み。反省した舌の根も乾かずに、なんて幼稚なのだろう。
相手にしなければいいのだ。振り回される価値などない。それなのに――。
(これ以上……エッタに、知られたら……)
べったりと、感触が絡みつく。胸の頂点が、ざわついて震える。耳元で、男の笑う声がした。
みぞおちが、ぐるぐると渦巻く。両手で口を押さえて喘ぐ。
(……っ気持ち悪い……!)
いよいよたまらず、床板に滑りそうになりながら、靴下のまま、勝手口から飛び出す。
右手の奥に見える厠。
しかし、せり上がる蠕動を抑えきれず、膝をついて、ぶちまけた。
仕事を終えた夕刻、家の脇の物置小屋と厠の間を通って、裏庭に出ると、はたしてエストリッドの姿があった。物干し場で、洗濯物を取り込んでいる。
「……エッタ」
歩み寄って、そっと呼びかける。小さな白い顔が、笑んで応える。
「あら、エイノ。おかえりなさい」
あれから一日、エストリッドは、変わりなく接してくれている。
背中をさすり、落ち着いたあとは肩を貸し、急遽、麦の粥をつくってくれた。
勝手口前の汚れはもう、跡形もない。午睡している間に、きっと片づけてくれたのだろう。
手厚い看護のおかげで、その日の夕食は、まともに摂れた。ただ、二人きりになる機会がなく、今になってしまった。
目顔で問いかける面立ち。ゆっくりと深呼吸をして、口を開く。
「……あの……昨日は、ごめん……あんなこと、言うつもりじゃなかったんだ……」
青灰色の瞳が瞬く。柔らかな息が、明るく苦笑する。
「あら、何のこと?」
予想外の返答に面食らう。
秋風にそよぐ残りの衣服を、手早く洗濯籠に放りながら、何のてらいもない口調が話す。
「私ね、嫌な記憶は全部、忘れることにしているの。大切なことだけを、覚えていられるように。だから、気にしなくていいのよ」
ということは、つまり、やはり傷つけたのだ。申し訳なくて、言い募る。
「いや、でも、エッタ」
すっと、唇の前に、人差し指が突き出される。
エストリッドは穏やかに笑んで、言葉を紡いだ。
「もう、いいの。あんなお子様のせいで、私達が、わざわざ気を揉む必要なんてないんだから。――この話はお終い」
そうして、夕食の準備をしなきゃ、と呟いて、洗濯籠の取っ手を掴んだ。満載の衣類をものともせず、一息に抱え上げて、ずんずんと勝手口へと歩いていく。
灰茶色の長い髪が、さらさらと流れる、小さな背中。その、堂々とした佇まい。
戸惑いながらも、ほっと胸を撫で下ろした。
*
サカ暦七七五年カパ(四番目)の月の中旬。
豪奢な花嫁衣装を纏った姿を見つめる。大プダンダの導きに従い、リシ・ヤドニャが執り行われていく。
乾季も終盤の今日、スキリコとスイムティは、婚礼の式を挙げた。
プマンクの妻は入門するという慣習に従い、スイムティも、かつてスキリコがそうしたように、受式することとなった。これからは、夫婦で教えの道を歩むのだ。
儀式を終え、スイムティが深く額づく。
これで、残すは披露宴だけだ。つつがなく進むよう、段取りを頭に巡らせつつ、腰を上げた。
「……父上。本当に、行かれるのですか?」
籐の籠に詰まった衣類や日用品。振り返って、声の主を見上げる。
不安そうに口を引き結ぶ、まだ幼さの残る顔立ち。
にじって正面を向く。そうして、手で座るよう指し示した。
スカレミィが、どこか不承不承な様子で、腰を下ろす。己によく似た面差しを見つめて、静かに口を開いた。
「許してくれ。ステノゴを、諦めるわけにはいかないんだ」
スイムティは無事、嫁いでいった。今は、夫とともに、老師の庵で暮らしている。
夫婦になって、まだ一週間余りだが、気は合うようだ。
全く知らない相手との縁組もある中で、子供の頃から知っている男にめあわせられたのは、幸いだったかもしれない。
ただ、こうして、スカレミィと二人暮らしになってみると、寂しさと気詰まりが、胸に募った。
スメラティは、相変わらず、通いで来てくれている。とはいえ、父一人に娘一人での生活は、妙な緊張感があった。
何より、すっかり適齢期を過ぎてしまったスメラティを、もはや引き留めるわけにはいかない。スカレミィが家事のできる年頃になった以上、潮時だった。
これで、可愛い子供の時分なら、父娘の時間をたっぷり楽しめただろう。
しかし、この難しい時期を、男親として向き合うのは、正直、荷が重かった。
図りかねる距離感。それなら、母親の元で暮らした方がいい。
もちろん、ステノゴを見つけたい、という思いもある。ただ、言い訳に利用しているのも、確かだった。
ファールサ人の商人気質は、記録にも現れる。何でもかんでも、筆記して管理する。だから、問い合わせれば、ステノゴの消息も、わかるかもしれない。
(……それでも――)
膝の上で握り締めた、小さな右手に触れる。丸い瞳を一心に見つめて、乞い願う。
「十四の誕生日までには戻るから。嫁ぎ先も考えておく。――だから、許してくれ」
噛み締めた口元が、ふるふるとわななく。薄い色の瞳が滲み、弾け飛ぶように、腰を上げて駆け出した。
とっさに名を叫ぶ。しかし、スカレミィは戻ってこなかった。
追いかけた方がいい。頭の中で、妙に嫌な予感が閃く。
肩越しに籐の籠を一瞥し、立ち上がりかけた、その時。
突き上げる衝撃に倒れ伏す。
轟く地鳴り。父を呼ぶ悲鳴。
しかし、激しい揺れに起き上がることもままならない。身体を丸め、両手で頭を抱える。名を繰り返して応えながら、心の内で読経する。
(聖なるクヌニ山よ! どうか、鎮まりたまえ……!)
どれほど経っただろうか。
轟音がやみ、ぶれる視界が止まった。
跳ね回る心臓を押さえつつ、手をついて、ゆっくりと起き上がる。揺れは、収まったようだった。
「――父上っ……! ちちうえぇっ!」
途端、火がついたように、泣く声が響く。南西の方、娘達の寝室がある棟だ。
名を叫び、一目散に駆け出す。
縁側の屋根の下で震える、小さな身体。
しかと抱き締めて、安堵とともに涙した。
雨季の到来を間近に感じる湿った風が、クラムビル(ココナッツ)の葉を揺らす。
崩れかけた石塀を積み直し、材木を運搬する人々。竹の網代を編む、巧みな職人技。
あれから約一週間。
激しい地揺れは、町や麓の村に、少なからず被害を出した。雨季になれば、浸水する地域もある。優先順位を定め、大急ぎで復旧が行われていた。
「バガワド様。少し、ご相談が」
呼びかけられて振り見る。
この麓の村々を統括する村落長だった。話を聴きながら、手元のクラムビル紙をめくり、指示を出す。
人繰りに資材の手配、合同葬儀の司式、被害に遭った島民達の心身の手当て。
為すべきことは、山ほどある。到底、島を出る状況ではなくなった。
ふと、昼時を告げ知らせる声が響く。
空を仰げば、太陽は頭上高く昇っていた。村落長に、いったん帰宅する旨を伝え、登山道のある北東へと歩み出した。
そよそよと、透かし彫りの白檀が香る。
午睡する、次女の横顔。扇ぎながら、苦しい思いで見つめる。
一人きりで地揺れを経験したのが、よほど怖かったのだろう。幼子に戻ったように、まとわりつき、片時も離れなくなった。
そんな憐れな我が子を、たった一人、置いていけるはずもない。結局、日中の世話は、スメラティに頼むこととなった。
「――失礼いたします」
断りの声に振り見る。
縁側に座し、一礼から顔を上げたスメラティが、控えめな声で尋ねる。
「今、少し――お話ししても、よろしいでしょうか」
「ああ、何かあったか?」
頷くと、再び頭を下げて、歩み寄ってきた。
そうして居住まいを正し、スメラティは口を開いた。
「ステノゴ王子のご捜索の件――私が、お引き受けいたしたく存じます」
意外な言葉に目を瞠る。戸惑って、声をこぼす。
「……いや、しかし……あまりに危険だ。それに、もう、君に頼るわけには……」
「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですが、もう十分、行き遅れておりますから」
ふっと、黄褐色の面立ちが緩む。真摯な、しかし柔らかい口調が告げる。
「ステノゴ王子のお側には、きっと、スヌンゴがいるはずにございます。私は、会って、確かめたいことがあるのです」
濃茶色の瞳が、懐かしむような色を宿す。温かく、いとしむ声が語る。
「まだ子供の頃――私は、スヌンゴの恋心を、半ば冗談のように思っていました。三つも年下で、弟のように感じていましたから。しかし、大人になった今、思い返せば、スヌンゴほど、誠実で優しい人もいません。ですから、もし、私のことをまだ覚えてくれているのなら、私の思いを伝えたいのです」
そんなことがあったのか。
不思議な感慨に、胸が満たされる。半ば宿命のように、その声を聴く。
「――バガワド様。こういうことは、時が経てば経つほど、成就が困難になります。雨季に入り、スティンヴァーリへの航路が開ける今、機を逃す手はございません。どうぞ私に、ご念願をお申しつけくださいませ」
真っ直ぐな光を灯す瞳。
すがりつきたい衝動に駆られて、それでも逡巡する。
すやすやと、小さな寝息を立てる横顔。その、まだあどけなさの残る面立ち。瞼にかかったほつれ毛を、指先で、そっと梳く。
スメラティは知っているのだ。
主寝室に、いまだ荷ほどきしないまま、籐の籠を置いていることを。それはまさしく、行方をくらましたステノゴへの未練だった。
ゆっくりと、息を吐き出す。正面を向き、団扇を脇に置いた。
「……君に、頼もう」
黄褐色の手が、揃って板張りの床につかれる。
スメラティは承知の意を告げると、深々と額づいた。
*
眼前に広がる景色を見渡す。
海岸というには、いかつい岩肌の浜。凪いで静かな、濃密な色彩の青。鈍色の晴天。
想像とは全く異なる風景。唖然として立ち尽くす。ヘリイェイルが隣に立って、おかしそうに尋ねる。
「驚いたか、エイノ?」
「……こんなにも、さえざえとしているとは思いませんでした」
確かに、冬が始まって、ここ最近は、天候の優れない日が続いていた。とはいえ、まさか、これほど色味に乏しいとは。
所が変われば、海も変わる。文化が違うように、景色も、その土地に則するのだ。
ヘリイェイルが、呵々と笑う。
「さえざえか! まったく、言い方次第だな」
淡く苦笑をこぼして、視線を戻し、改めて眺める。
本当に、全体的に灰色がかっている。
このラクス海沿岸の港町ラクスムンは、ブローノードからフィスクヴァーグ河を北東に遡り、支流を下ったところにある。
道中のヘリイェイルの解説によれば、景勝地として有名で、ブローノードの名家の子弟達にとっては、よく行楽に訪れる地のひとつなのだという。
そして、これほど海が凪いでいるのは、陸にかなり食い込んだ入江になっているからで、狭い航路を進んだ先には、ノール海が広がっている、とのことだった。
そこから鮭が遡上してくるために、ラクス(鮭)海と名づけられたそうだ。
「叔父様、何がそんなにおかしいんですの?」
エストリッドが、巨躯を見上げて尋ねる。
マタラムの海について語る声を聞きながら、頬を撫でる寒風を感じる。
冬が本格的に始まる前の、三人だけの小旅行。
ヘリイェイルが言い出したのは、ちょうど冬支度が終わった頃だった。
秋の間中、忙しく立ち働いたエストリッドを労い、契子にヴァーリ地方の一端を見学させる。
そういう名目で休暇を取り、スヌンゴとソールヴァルドに留守を託して、二泊三日の旅に出かけたのだった。
おそらく、それは――主に、ソールヴァルドを説き伏せるための――方便だろう。
この一ヵ月間、優位を悟った態度に相対するのは、正直つらかったし、穢れた身体のことを知られて、エストリッドへの接し方も、わからなくなってきていた。
だから、こういう伸びやかな環境で、ゆっくり話しながら、気持ちを切り替えられるなら、有難いことだった。
足元で呼びかける声がして、振り見る。
膝を抱えたエストリッドが、平らな岩の表面を、手で軽く叩く。
「あなたも座ったら?」
ためらいつつも、隣に腰を下ろす。ヘリイェイルは、いつの間にか、いなくなっていた。
「……綺麗ね。私、海を見たのは初めてだわ」
「……そうなんだ」
頷いて、それきり、エストリッドは何も言わなかった。
潮騒も海鳥のさえずりもない静寂。そっと、横目で見遣る。
しんしんと染みる冷気に紅潮した、鼻先と頬。血色のよい、真っ赤な唇。遠くを見つめる瞳は、ラクス海の色そのものだった。
とくとくと、胸が高鳴る。分厚い毛織の外套にくるまるほど寒いのに、妙に身体の芯が熱かった。
身体の奥底から言葉がほとばしり、気がつけば、詩を奏でていた。
エストリッドの美しさを――その心映えが、どれほど素晴らしく、高潔かを――その気高さを、ノールの物語詩に登場するヴァルキュリャになぞらえて詠じた。
「――その……この前のお詫び、じゃないけれど……」
急に照れくささが湧いてきて、誤魔化すように付け足す。
エストリッドは、常とは違う、微かな声で呟いた。
「……いいと思うわ……ありがとう……」
膝を抱えた腕に口元をうずめたまま、青灰色の瞳が、ちらりと視線を送ってくる。
ゆっくりと瞬く、灰茶色の長い睫毛。初冬の陽光に透けて、きらきらと輝いて見えた。
「……ねえ、エイノ」
「……うん」
「寒いわ。……もっと、こっちに来て」
手をつき、少し腰を上げて、距離を詰める。
触れるか触れないかの間隔。
エストリッドが身じろいで、ぴったりと埋まる。右の上腕が、毛織物を通して、ほんわりとぬくもる。
ためらうように、少しだけ乗る重み。白くたなびく呼吸の気配。息づく体温。
跳ねる鼓動を聴きながら、静かな海を見つめた。
翌日、ラクスムンの中心にある宿を出発する段になって、ヘリイェイルが手を差し出すよう告げた。
「――まあ! 琥珀ね!」
エストリッドが、掌に置かれたものの正体を知って、歓声を上げる。
「ミョッルニルのお守りだ。ラクスムンといえば、琥珀の名産地だからな」
確か、雷神ソールの大鎚だったか。改めて、掌の中を見つめる。
初冬の光に輝く、深い褐色と橙色。鉱石や鉄と違い、どこか温かみのある感触。
三方向に分かれた一片の端には、小さく穴が開いていて、革紐が通してあった。
「琥珀にはね、魔除けの力があるのよ。持っていると、悪いものから身を守ってくれるの」
蜂蜜を溶かし込んだような、柔らかくうねる色合い。確かに、強い力が宿っていそうな、不思議な魅力があった。
握り締めて、押し頂く。
二人で、それぞれ礼を言うと、契父は、にやりと豪快に笑った。




