ヨールの告白
くすんだ晴天の下、神官の祈る朗々とした声が響く。
死期を悟って暴れる、豚の呻き。
広場までの道中は、凍える寒さだったというのに、今は人々の熱気で、もうもうと湯気が立っている。
高くそびえる多くの背中で、様子は見えない。しかし、これから為されることを思えば、音声だけで十分な気がした。スヌンゴも、青い顔で経を唱えている。
鶏を絞めるところを見かけたことはあっても、これほどの大物となると――しかも、すぐに殺さないとなると、恐ろしさは倍増した。
契父から話を聴いた時、さすがに勇気が出ず、前に出て見ることを拒んだ。
冬至を迎えた今日、新しい年が明けた。
ヨールと呼ばれるこの冬至祭りでは、主神オージンに供犠と蜂蜜酒を捧げ、一年の安寧を祈る儀式が行われる。
ノール人の習慣。わかっていても、心は委縮した。いよいよ切迫する生贄の鳴き声に、思わず手を合わせる。
神官の、高らかに祈る声。昂る人々のどよめき。煙る白い湯気。
瞬間、甲高い断末魔が、耳をつんざいた。神官がオージンとアースの神々の名を宣言し、人々は轟いて歓呼した。
新年の到来と太陽の再生を言祝ぐ大音声。
灰色の青空に、威厳溢れる祝辞が響く。
「皆、新年おめでとう! 私からの祝いの品だ! 受け取ってくれ!」
それは、皇帝アルヴァリンの声だった。
籠を腕に提げたエストリッドが、うきうきした様子で促す。
「さあ、行くわよ」
供犠の叫びが耳から離れず、ぎこちなく頷く。愛らしい顔が、戸惑って眉尻を下げる。
「大丈夫? 二人とも、顔が青いけれど」
「……うん、大丈夫……少し、驚いただけだから……」
スヌンゴと顔を見合わせる。
生唾を飲み込んで、軋むように頷く、黄褐色の面立ち。二人で、淡く微笑みを返す。
エストリッドは首を傾げたものの、まあいいわ、と呟いて、連なり始めた列へと歩いていった。
「ああ、やっぱり、陛下はわかっていらっしゃるわね」
家について開口一番、エストリッドが感心した声音で呟いた。
土間に下りて、流しの横の作業台を覗けば、四つの肉の塊と酒壺が広げられていた。
「何がわかっているの?」
「こういう時に、けちけちしていないってことよ。豚肉、鶏肉、牛肉、それからエリ(ヘラジカ)肉。蜂蜜酒も、たっぷり下さったわ。これで、備蓄を残しつつ、心置きなくヨールの夜を楽しめる。民に振る舞う意味を、よくご理解なさっているのね」
なるほど、と納得する。
確かに、吊るしている保存食が減っていく心許なさを思えば、豪勢に下賜する行為は、権威のよい示し方なのかもしれない。
利己的な者は、尊敬を集めない。敬意を示されない者は、高い地位にあれど、容赦なく放逐される。もちろん、皇帝も例外ではない。
その厳しさは、日々凍てついていく寒さで、身に染みて感じていた。
ただの血筋だけでは、この極寒の地を生き抜いてはいけない。民を率いる資格があると、納得させるほどの力がなければ、誰もついてはこないのだ。
「今夜の夕食は、気合いを入れてつくるから。楽しみにしていてね、エイノ」
干し肉でも塩漬け肉でもない、新鮮な生肉。
まだ少し、恐れの残滓は凝っていたが、愛らしい笑顔に、頷いて笑みを返した。
明々と燃える囲炉裏の炎。
角杯を掲げ、オッドビョルンが気難しい顔で宣言する。
「オージン、アースの神々、そして、我らノールの大地に感謝を。――乾杯!」
唱和して、皆で角杯を傾ける。
ベール(ベリー)の甘酸っぱさが、軽やかに喉を滑っていく。水で割ったサフト(蜂蜜煮の果汁)は、ここ半年のお気に入りの飲み物だった。
本来は、子供や病人といった、酒が飲めない者のための飲料だそうだが、醜態をさらすより、ずっといい。
何より、肉の濃厚な脂をさっぱりと流してくれる酸味が絶妙で、料理をより美味しく感じられた。
贅を凝らした料理を味わいながら、祝宴に集った面々を眺め渡す。
オッドビョルンに始まり、次男ヴィグマールとその妻、それから子供達。そして、ヘリイェイルにバリリヨット、エストリッド。養い子であるスヌンゴと自分。
ヨールの夜は、家族で過ごすもの。
そう聞いた時、てっきり、ヘリイェイルの家で祝うものだと思っていた。ただ、よくよく考えてみれば、契父とエストリッドにとって、このスノーの居館が実家なのだ。
ソールヴァルドがスティンの長館に帰るなら、スノーヴァーリの一族に収まるのが筋である。それに、祝い事は、人数が多い方がいい。
とはいえ、初対面の時の印象が強すぎて、腰が引けたのも事実だ。
打たれていたのはヴィグマールで、少なからず、ああいうことがあるらしい。
そして、オッドビョルンとエストリッドの間に流れる、微妙な距離感。
家事の苦手なヘリイェイルのために、手伝いで暮らしていると聞いているが、何か事情があるのだろうか。
(……いろいろな家族が、いるものだな……)
マタラムでは、栄養不足で乳飲み子が亡くなることは、非常に稀だ。
突然の死に見舞われることあっても、それは前世の行いを浄化し、再び生まれるための緩衝期間だったと見なされる。子は宝だが、基本的に、すくすく育つものだった。
ファールサも、身分によるが、それでも死の危険度が低い分、子の数は多くない。少数の、まさに精鋭を、神の賜物として重んじる。
しかし、ノールでは、幼子は死と隣り合わせの存在だ。寒さと乏しい食料に耐えられない子は、あっけなく命を落としてしまう。
必然、子だくさんになり、生き残った子を大切に育て上げる。
養子が一般的なのも、次男であるヴィグマールがスノーヴァーリ家の跡継ぎなのも、そういう厳寒の地で生きるがゆえの、悲しい事情があってのことだった。
それでも、人である以上、うまくいかない時もある。
兄のスルシコが、姉にきつく当たっていたように。ナスリーンが、父ファルジャードを憎んでいたように。スクワトと喧嘩したまま、死に別れてしまったように。
それぞれの事情を抱えた、新しい家族。
温かく迎えてくれた契父のためにも、この人達の輪に馴染みたかった。
呼びかけられて、思案から覚める。焚き火に照らされた青灰色の瞳が、明々と輝いている。
「お味はどうかしら?」
「おいしいよ。特に、この豚と鶏の煮込みなんて、好物の詰め合わせみたいだよ」
厚めの輪切りにした豚肉とぶつ切りにした鶏肉が、ごろごろと入った、贅沢な一品。
長い時間をかけて煮込まれた肉は、ほろほろと崩れ、野菜の滋味をよく吸って、本当においしかった。
「やっぱり! 気に入ってくれると思ったの。ヨールの夜に食べる、特別な料理なのよ」
どうりで、二種類も肉が入っているわけだ。
香辛料をふんだんに使用するマタラムやファールサとは違い、風味は素朴である。
しかし、直感的な脂の旨みは、身体に優しく染み渡るようだった。
むしろ、こういう凍える夜には、ぴったりにさえ思える。ノールにはノールの、土地に合った味があるのだ。
エストリッドが、板張りの床に手をつき、おもむろに身体を滑らせる。
少し寄った距離。囁く声が、耳をかすめた。
「――安心して。お父様は、お母様の話を耳に入れなければ、静かだから」
エストリッドの母――つまり、オッドビョルンの妻だ。ちょうど十年前、猛威を奮ったあの熱病で亡くなったと聞いている。
ただ、それと息子に暴力を振るうこととに、何の因果があるのだろうか。
目顔で問いかけると、エストリッドは哀しげに淡く微笑んだ。
「お父様は、ヴァーリ(狼)の男だから。当時、まだ九歳だった私から見ても、お父様の嘆きようは、娘ごときが泣いてはいけないと涙を呑むくらい、心の痛むものだった。妻を喪ったあの日、お父様の心は壊れてしまったのよ」
狂うほどの愛。
しかし、たとえヴァーリの民の情が濃やかだったとしても、我が子を打つ理由にはなりえない。
青灰色の瞳を、静かに見つめる。愛らしい面立ちが、微苦笑を漏らす。
「――エイノ。理解しがたいかもしれないけれど、これが私達なの。すぐに死んでしまう子よりも、生涯を添い遂げる伴侶を重んじる。だって、子はまたなせるもの。でも、夫や妻に、代わりはいない」
血色のよい唇が、ゆっくりと、息を吸って吐く。
オッドビョルンと語り合うヴィグマールを見つめて、囁く声が語る。
「それなのに……お兄様は、生き残ってしまった。同じように熱病に罹ったのに、一人だけ治ってしまったのよ」
視線が向いて、青灰色の瞳と目が合う。滲んだ色が、焚き火の光にきらめく。
「……酷いと……思わないでね、エイノ」
そっと頷く。
板壁の向こうで唸りを上げる、風雪の音。その、獣の咆哮のような激しさ。
きっと今、外に出たら、あっという間に凍りついてしまうだろう。
「それが、君達ヴァーリの民の――生きるための掟なんだね」
愛らしい顔が、ほっと緩む。そして、いつも通りの明るい声が尋ねた。
「――おかわり、いる?」
もちろん、と答えて、深皿を差し出す。
大きな匙ですくい上げられる、肉の塊と野菜。そして、旨みたっぷりの汁。
礼を言って受け取ると、贅沢に盛られた料理を、存分に味わった。
勝手口の扉が閉まり、風の唸りが遠ざかる。
左右ひとつずつある囲炉裏から遠いここは、いまだ寒いが、それでも外よりずっとましだった。
「おお、寒い寒い」
ヘリイェイルが、雪を払いながら、長靴を脱ぐ。厠の付き添いをしてくれたのだ。
ヨールの夜は魔が通る、といわれている。慣れない雪はもちろん、さらわれないための用心だった。
「いやあ、何も出くわさなくてよかったな」
「本当ですね」
同じように、雪を払い、靴を脱いで、板張りの床に上がる。二人で震えながら、足早に火元を目指す。
炭の中にうずもれた熾火。手をかざせば、じんじんと、血が温まっていった。
ほっと息をつき、ヘリイェイルと就寝の抱擁を交わす。
すっぽりと収まる安心感。分厚い筋肉から放たれる、熱い体温。逞しい胸を通して、慈しみに満ちた声が、いとしく告げる。
「愛している、エイノ。我が契子よ。よい夢を」
「契父上も。――おやすみなさい」
幸せに満たされて、挨拶を返す。
ノール式に頭を撫でる代わりに、大きな右手が頬をさすり、額に口づけが落ちる。温かく微笑み合うと、それぞれに用意された客間へと入っていった。
戸布を上げ、寝台の上に飛び込む。毛布のふわふわとした感触が、心地よかった。
(……豚と鶏の煮込み、おいしかったなあ……)
うとうととしかけて、はっと起き上がる。寝る支度をしなければ。
革帯の金具に手を伸ばしかけたところで、ひそめた声がかかる。
「――エイノ。少し、いいかしら? 話したいことがあるの」
エストリッドだった。
承諾を告げると、仕切り布から、白い面立ちが覗いた。すでに就寝した家族を慮るように、隙間から滑り込んでくる。
そうして、持参した毛織の敷物に腰を下ろすと、口を開いた。
「……ねえ、あなたは……私のこと、どう思う?」
意外な問いに瞬く。いささか思考を巡らし、言葉を紡ぐ。
「そうだね――綺麗な人だと思うよ。その、見た目だけじゃなくて――心映えというか、物事への姿勢というのかな。いつも前向きで、はっきりしていて。僕は、どうしても悪い方に考えがちだから、すごいなと思ってる」
実際、エストリッドの明るさに救われてきた。
暗い影に囚われて、不安に俯きそうになる時も、毅然と顔を上げて進む姿は、勇気を奮い起こしてくれた。輝く笑顔を見れば、心がぬくもりに満たされた。
小柄ながら、頼もしい背中。陽光を纏って、さらさらと揺れる、灰茶色の長い髪。晴れた秋の海のような、澄んだ青灰色の瞳。
こうして相対している今も、温まる鼓動が、優しい幸福をもたらしてくれる。エストリッドは、存在そのものが輝かしかった。
しかし、愛らしい顔は曇っていた。
不安げな面持ちで、豊かな赤い唇が告げる。
「ありがとう、エイノ。……でも、私は、そんな素敵な人間じゃないのよ」
どういうことだろうか。
戸惑って、眉根を寄せる。溜め息が、ゆっくりと、細く長く吐き出されていく。
「……私ね、寡婦なの。十六の時に結婚して、翌年すぐに、夫を熱病で亡くして――たった八ヵ月間の、結婚生活だったわ」
それから、微かな声が、おもむろに語り出した。
エストリッドには、同い年の恋人がいた。名をビリイェルといって、ヴァーリ地方の財政を担う主計士の見習いだった。
見習いは、主人の館に住み込み、必要な技能を習得する。
日々をともに過ごす中で、二人は惹かれ合い、いつしか将来を誓い合う仲になった。
出会ってから四年。密かに育まれていた恋は、しかし、ついに明るみになる。
ノールでは、十六歳から成年とみなされる。そして、家名を持つ家の子女であれば、誕生日とほぼ同時に結婚するのが慣例だ。
だから、十四歳になった娘に、多くの縁談を持ちかけたオッドビョルンの対応は、ごく一般的なことだった。
エストリッドは思い悩み、とうとう、ビリイェルと結婚したいと打ち明けた。
皇族の分家たるスノーヴァーリ家の息女と、ヴァーリ地方西部に位置する町の町長の三男。
当然、釣り合うはずもなく、オッドビョルンは激怒し、厳しく反対した。
「もし、時が戻せるのなら、当時の私に言ってやりたい。――どんなにお父様が理不尽だったとしても、あなたはとんでもない愚か者よって」
まさに、売り言葉に買い言葉。頭に血が上ったとは、このことだ。
エストリッドは駆け落ちを画策し、ビリイェルに持ちかけた。
しかし、ビリイェルは首を振った。目をかけてくれているスノーの当主に、恩義を感じていたからだ。
懇願の末、恋人の承諾を得たエストリッドは、計画を実行に移した。まだ肌寒い晩冬の朝のことだった。
手に手を取り合い、二人で出奔した逃避行は、しかし、あっけなく終わりを告げた。
仕事を始めようと、外の物置小屋に向かう途中だった下男が、身を寄せ合って歩く二人の身なりを不審に思い、誰何したのだ。結局、誤魔化しきれず、事は露呈した。
騒ぎを知ったオッドビョルンは、凄まじい形相で激昂した。ビリイェルに誘拐の嫌疑をかけ、エストリッドを軟禁した。
そうして、ビリイェルには、東狼戦士隊の北方隊への転属が言い渡された。オッドビョルンは、執行までの間、家畜小屋での謹慎を命じた。
それから、三ヵ月が経ち、夏至祭りが間近に迫った頃。
エストリッドは、父親の持ちかけた話を聞いて、泣いて拒絶した。なんと、分家筋の当主の後添えとして嫁がせる、というのだ。
その男のことは、知っていた。古くにスノーヴァーリから分かれ、ブローノードの北地区を統括する首長だった。若い女が好きで、ヴァーリの心を忘れた恥知らずな男だ。
スノーの当主の――男の目は誤魔化せても、女の勘は欺けない。仕事の相談と称して、何を目当てに訪ねてきているかは、明白だった。
三十歳以上も離れた、醜く汚い男。
それも、すでに妻子もいる跡継ぎがいるというのに、後妻を娶るなど、常軌を逸している。
しかし、オッドビョルンは縁談を取りまとめ、強引に推し進めた。
おそらく、何かしらのやり取りの末、利があると判断したのだろう。それとも、狂気のままに突き進んだのか――真相はわからない。
「何度謝っても、お父様は許してくださらなかった。それでも、お兄様の計らいで、こっそり出発を見送ったの。……それが、彼を見た最後だった……」
七月一日の、夏の朝。玄関扉の隙間から覗いた、丸く縮こまった背中――。
――ビリイェルが、遭難者を捜索中に崖から滑落し、行方不明になった。
そう、オッドビョルンから聞いたのは、それから三ヵ月も経たない頃のことだった。
峻険なるヴィットドード山脈。
その名の通り、〈白い死〉と恐れられるように、地元の者でも、ひとたび迷えば命はない。行方不明とはすなわち、死を意味した。
嬉々として語る声が、ぐるぐる反響した。
ビリイェルが、死んだ。――いや、殺した。己の浅はかな我がままのせいで、彼は死んだのだ。たった一人で、死なせてしまった。
妙に優しい声音が、縁談を進めようと言った。茫然とした意識のまま、頷いた。
「――それから当日までのことは、よく覚えていないの。全てが空虚で、哀しかった。そうして私は、婚礼の日を迎えた」
夜になって、ようやく、事態の深刻さに気がついた。
結婚するとは、夫婦になるとは――夜をともにする、ということだった。
下卑た笑い。臭い息。卑猥に揶揄する枯れた声。這い回る手と舌。
嫌だと叫んだのに、痛いと泣いたのに、それすら男は悦んだ。
無遠慮に押し入られて肉は裂け、身体は砕けた。奥深くまで、べっとりと汚れが染みついた。
「あの時は……夜が来るのが、本当に怖かった……身体が、どんどん汚れていく気がして……心も、汚らしく触られているように思えたの」
「……エッタ……」
せり上がった喉を、つかえながら飲み込む。滲む視界で、青灰色の瞳を見つめる。
エストリッドは、ひとつ鼻をすすると、ゆっくりと深呼吸し、話を続けた。
「でもね、最初に言ったように、結婚生活は、長くは続かなかった……あの男は、私の身体を食い荒らすだけ食い荒らして、死んでいったのよ」
骸を焼く炎を眺めて、ただただ茫然とした。
恋人も、純潔も、失ってしまった。
ヴァルキュリャとして、天上の国〈アースガルズ〉に昇る資格すら、もはやないのだ。ただ、年上の継子夫婦の世話になりながら、長い長い余生を過ごすだけ。
「もう、絶望しかなかった……だから、せめて、首を吊ろうと思ったの」
慈悲の雫〈エイル〉を飲んで眠り、聖地の樹に吊るされる、あの儀式のように。花婿の槍によって、〈オージンの乙女〉となる花嫁のように。
「……でも、たぶん、結び目が甘かったのね。首に縄をかけた瞬間、私は床に叩きつけられた。そうして助かってしまったのよ」
物音で気づいた義理の息子は、介抱しつつも、とんでもないことだと青ざめた。結局、離縁を申し渡され、一年も経たずに出戻った。
「何も手につかなかったわ。毎日毎日、泣き暮らしていた。でも、冬が終わりに近づいてきて、ようやく、助けが来てくれた。――叔父様が、巡行から帰ってきたのよ」
事情を聴いたヘリイェイルは、オッドビョルンをきつく諫めた。
――このまま放っておいては、取り返しがつかなくなります。兄上は、本当にそれでいいのですか!
そう言って、帰宅するまま、憔悴したエストリッドを家に連れていった。
「――ああ、あの時の光景は、今でも忘れないわ」
険しく強ばっていた面立ちが、ふっと緩む。懐かしむ色が、青灰色の瞳に温かく灯る。
「叔父様ってね、ああ見えて、生活能力が全くないの。もう、本当に、酷い状態だったんだから」
散乱した衣類。汚れたまま放置された、数多の皿。いつのものかわからない、おそらく食品だった何か。膨大な書物。飛び出す鼠。
そこはもはや、家とは呼べない、名状しがたい魔の空間だった。
あんな状態で、どうやって暮らしていたのか、いまだにわからない。
「一気に目が覚めたわ。というより、目が覚めざるを得ない状況だったわね」
こんなところで寝たくない。かといって、家には帰りたくない。
そうして猛烈に家事をこなすうち、鬱屈した心持ちは消えていた。
「叔父様が、どれほど狙っていたのかは、わからないわ。――でも、とにかく、家を預かるようになって、私はまた、歩けるようになった。こうして、お父様とも、火を囲んで笑えるようになったのよ」
いまだ、微妙な距離はある。しかし、それはきっと、時が解決するものなのだろう。
語り終えて、エストリッドが、おもむろに息をつく。どこか不安を宿した瞳が、それでも真っ直ぐに見つめてくる。
「エイノ。もう一度聞くわ。――私のこと、どう思う?」
考えるまでもなかった。
エストリッドの歩んできた道のり。
苦難を乗り越えてきた強さは、称賛に値するものだ。それがたとえ、過ちから始まったとしても、謗る理由にはならない。
「綺麗だと思うよ。強くて、果敢だと思う。つらい目に遭ったのに、明るく振る舞うなんて、そうそうできることじゃない。尊敬するよ」
「……本当に……?」
微笑んで、はっきりと頷く。
じっと見つめる、青灰色の瞳。じんわりと潤んで、淡い声が、こぼれ落ちる。
「……好き……」
まるで、心が溢れ出るように、切ない音色が囁く。
「エイノ……私、あなたのことが好き……あなたに、恋しているの……」
「……え……?」
一瞬、思考が追いつかず固まる。おもむろに、言葉の意味が染み込んでくる。
(……好き、恋――? エストリッドが、僕のことを……?)
途端、視界が拓け、色が弾ける。
胸の内で燦然と輝く、ぬくもりの名を知る。
「僕も好きだよ、エッタ」
アフシンとの思い出が、褪せてしまった理由。
女の子にときめいていたあの頃に、自分は戻ってきたのだ。
しかし、あの頃とは、ずいぶん変わってしまった。何も知らない無垢な男の子は、性の悦楽に目覚め、淫行を学んでしまった。
真に汚れているのは、この身だ。はしたなく腰を振ってきた、この卑猥な心だ。
「……でも、結婚はできないから……ごめん」
涙が詰まったように、エストリッドは何も言わなかった。
哀しい色を宿す、青灰色の瞳。胸を刺す表情に、心が定まっていく。意を決して、口を開いた。
それから、歩んできたこれまでの道のりを語った。
寵童であったこと、どのように王〈シャー〉に取り入ったかを――その浅ましさを。
「僕も、夜が来るのが怖かった。でも、それは最初だけで……だから、僕は……」
そっと、白く小さな両手が、握り合わせた手に重なる。
顔を上げれば、エストリッドは、ふるふると頭を振った。
「あなたは、勇敢に戦ったんだわ。天に恥じない立派な戦士よ」
「エッタ……」
青灰色の瞳が、灯火に強く輝く。きらめく声が、真っ直ぐに告げる。
「好きよ、エイノ。どうか、私の恋人になって」
この手を繋げたら、どんなにいいか。
しかし、互いの立場を思えば、当人達だけで、軽々しく決めるものではなかった。
ためらっていると、エストリッドは、いささか苦笑まじりに言った。
「私はもう、一度結婚した身だもの。――それに、エイノ。あなたのご父祖はかつての皇弟殿下で、あなた自身は叔父様の〈契り子〉なのよ。節度ある交際なら、お父様が、とやかく言うはずがないわ」
第一、恋と結婚は別物だしね、と軽やかに笑う面立ち。
ノールでは、そういうものなのか。
少し気が引けるものの、ここまで言われて、無下にするのも違う気がした。大事に構えなくていいのならと頷く。
「でも、義伯父上に、お許しをもらってからね」
「じゃあ、決まりね!」
ぱあっと、愛らしい顔が華やぐ。頬がほころんで、穏やかな幸せに満たされる。
温まる鼓動を感じながら、灯火に輝く瞳を見つめた。
翌朝、それぞれの父親に、交際したいと申し出た。
ヘリイェイルは手を叩いて喜び、オッドビョルンは、そうか、とだけ言った。
いささか肩透かしを食らった心持ちで、それでも、寄り添うぬくもりを噛み締めた。




