夏至祭り
瞼を通して差し込む光に、目を開ける。大きく伸びをして、窓を振り見れば、薄くなめした牛の革から、朝日が透けていた。
いくら極端に夜が短いとはいえ、もう起きてもいい頃だろう。
ぬくもった心地よい寝具を、どうにか引き剥がして起き上がる。耳をすませば、階下で話し声が聞こえた。和やかな雰囲気に、心がじんわりと温まる。
この家に暮らし始めて、二週間余り。いよいよ、儀式の日がやってきた。
麗らかに日光の差す夏至は、ノール人にとって、元日の冬至と並んで、最も大切な祝日だ。
そして、夏至祭りの開催される、この佳き六月三十一日、ヘリイェイルと親子の契りを交わし、正式に〈契り子〉となる。
もう、親に甘える歳ではない。
ただ、あのおおらかな巨躯に守られているのだ、という安心感は、何ものにも代えがたい宝物のように思えた。
こうして朝、のんびりとしていられるのも、王子でも寵童でもない、ただのステノゴ――エームンドでいるからこそだ。人の上に立つ身分であれば、こうはいかない。
外帝将の〈契り子〉という高い身位ながら、気兼ねない立場。ヘリイェイルは、本当に、生き直す機会を与えてくれたのだ。
寝台から下り、磨き上げられた板張りの床に、足をつける。
足元側に置かれた長持から、この日のために、エストリッドがあつらえてくれた揃えを取り出す。
冴えた濃い青の上着。縁取りには、贅沢にも、幅広の平織りが縫いつけられていた。
上衣など全てを着た上で最後に被ると、しっかりと革帯を締める。そして、見事な意匠の鞘に納められた短剣を提げた。
家名を持つ家柄の、成人男子の証。
ヘリイェイルが、わざわざ新調して、贈ってくれたものだ。ずっしりとした刃の重みに、なんだか、勇猛果敢な戦士になれたような心地になる。
外れないか確認すると、勢い込んで、扉へと歩んでいった。
儀式の会場だと案内された広場は、中央に巨石が据えられただけの、簡素な造りだった。
てっきり、併設された長館で執り行うと思っていたから、いささか面食らう。
なんでも、この長館は神官の務める薬草院で、熱病などの研究を行っている、とのことだった。
確かに、ノール人は寺院や聖堂といった特定の宗教施設を持たないと、本で読んで知っていた。ただ、こうも何もないとは、さすがに思ってもみなかった。
証人となる皇帝とオッドビョルン、そして、司式を担う神官に挨拶し、ヘリイェイルとともに、円状に敷かれた石の中へと入る。
巨石の正面へと回り込んでみれば、赤い蛇の図案の中に、ノール文字が刻まれていた。黒地に赤と白という明瞭な色彩が、目に眩しい。
物珍しく眺めていると、背後から、声が降ってくる。
振り返れば、ヘリイェイルが手招きしていた。
「エイノ、準備が整ったそうだ。始めるぞ」
「――はい、養父上」
歩み寄って、ヘリイェイルと向かい合って立つ。朝だというのに、町の人々が、ずいぶん集まってきていた。
夏の爽やかな青空の下、神官が、朗々と儀式の開始を告げる。
差し出された、抜き身の小刀。ヘリイェイルが受け取って、刃を掌に当てる。ゆっくりと横に引くと、蜂蜜酒の入った杯の上に掲げた。
武骨な拳から垂れ落ちる、赤い雫。
小刀を渡され、同じように血を滲ませる。ひりつく痛みとともに、鮮血の玉が、酒杯へと滴っていった。
ヘリイェイルが、杯を手にし、豪快にあおる。
飲み干してしまうのではと、危ぶむくらいの飲みっぷり。
案の定、渡された中身は、一口程度しか残っていなかった。
本来は、同量を酌み交わす。とはいえ、酒に弱い体質は治らない。
内心苦笑しつつ、有難く、契りの杯を傾ける。蜂蜜のまろやかな甘さの中に、ほんの少しだけ、生々しい鉄の味がした。
あとは、口づけを交わして完了だ。
事前に段取りは聴いているものの、やはり緊張する。
ファールサでの夜以来、クラーム(ハグ)はしても、プス(キス)は求められなかった。きっと、ヘリイェイルは気遣って、遠慮してくれているのだろう。
ただ、赤子が生まれれば、初めてのプスは誰か、親族で争奪戦になるほど――そして、一生の話の種になるほど、ノール人にとっては、大切な愛情表現なのだ。
それを遠ざけてしまっているのは、息子として申し訳なかった。
(ただの挨拶……親愛の、印だから……)
幼い頃、母が額にしてくれたように。ただ、それが唇になるだけだ。
降り注ぐ日差しの中、そびえ立つ影。
思わず息を呑む。視界が明滅し、一気に暗くなる。
――押し当てられた、分厚い唇。舌が割って入って、そして。
と、影が、すとんと落ちる。
瞬いて見下ろせば、膝をついたヘリイェイルの姿があった。金灰色の髭面が、穏やかに微笑む。
「――さあ、エイノ。いつでもおいで」
夏の朝日にきらきらと輝く、灰色の瞳。その、慈愛に満ちた色。
喉が震える。滲むまま、はい、と応える。
ゆっくりと腰をかがめて、唇を触れ合わせた。途端、視界が急上昇する。
見渡せば、割れんばかりに歓呼する人々の輪が、眼下に広がっていた。
抱え上げられたのだと知って、金灰色の頭へと視線を落とす。振り仰いで、おおらかな笑顔が歓喜する。
「エームンド! 我が契子よ! 誉れ高き勇敢な戦士よ! おお、今こそ、契りは成された!」
「――契父上……」
そっと、その筋骨逞しい肩に手を預ける。しっかりとした乗り心地の、逞しい腕。
大きな手を振り、数多の祝福に応える契父と同じように、片手を掲げて、人々の笑顔に感謝した。
天高く昇った太陽の下、陽気で勇壮な音色がこだまする。
そこかしこで、角杯を合わす硬く軽い音が景気よく響き、歓談する声が渦となって、青空に突き抜けていた。
広場の外縁に設置された食卓で、楽しげな景色を眺める。
昼食は、焼き魚と酢漬けの野菜、そしてオスト(チーズ)を、ブロード(パン)で挟んだ携帯食だ。
麦類を主食とする、ノールならではの魚料理。
マタラムの海水魚よりも淡白だが、フィスクヴァーグ河で獲れたという川魚は新鮮で、スヌンゴと夢中で食べた。
ノールでは、豚肉も、魚も、マタラムと同様に一般的な食材だという。一方で、左手は不浄である、という概念はなく、食事でも普通に使う。
似ているところもあれば、異なるところもある。文化というものは、不思議なものだ。
腹ごしらえの済んだ人々が、おもむろに、巨石の周りに集まり出す。自然と輪になると、楽の音に合わせて、踊り始めた。
手に手を取り合い、軽やかに足踏みする老若男女。
角笛と横笛、そしてハルパ(擦弦竪琴)の旋律に、サックピーパ(小型のバグパイプ)の独特な節回しが、重く勇ましく乗っていく。打楽器の重低音が、まるで鼓動のように、血を躍らせる。
原始的な何かに、訴えかけるような躍動。
気がつけば、身体が旋律に合わせて跳ねていた。
エストリッドが、辛抱たまらないといった様子で、勢いよく立ち上がる。
「――エイノ! 行くわよ!」
「えっ、ちょっ、エストリッド⁉」
手首をしかと掴む、華奢な白い手。
引っ張られるまま、輪の中へと躍り出る。戸惑う暇もなく、快活な声が明るく指示を出す。
「はい! 右、左、前、前、前!」
密接した周囲とぶつかりそうになりながら、なんとか食らいついていく。
絶え間ない足踏み。しかし、拍は一定で、調子は取りやすかった。落ち着いてみると、意外と難しくないことに気づく。
「いいわね、エイノ! じゃあ、次は手を放すから、真似してね」
手が離れ、腰に両手を当て、一歩、二歩。
さらさらと流れる灰茶色の長い髪が、夏の陽光に、きらきらと透ける。
そうして片手を合わせ、跳ねながら一回り。再び両手を繋いで、元の姿勢に戻る。
ほんの少しだけ低い目線に問いかける。
「どう、エストリッド? 合っていたかな?」
「上出来よ! ――でも、エッタと呼んでくれたら、もっと素敵ね!」
不意打ちに、答えがまごついてしまう。やはり、どうにも抵抗があった。
そうこうしているうちに、曲が変わり、足の運びが変化する。
エストリッドは気分を害したふうもなく、活発な調子で、踊り方を教えてくれる。
「本当に飲み込みが早いわね! すごいわ、エイノ!」
朗らかな笑顔につられて、ふらふらになるまで、踊り明かした。
すっかり夜も更け、焚き火が宵闇を照らすようになっても、夏至祭りは続いた。
ヘリイェイルは、もう歳だな、と呟きながら帰宅し、スヌンゴは、気の合う友ができたらしく、炎の向こうで談笑している。
隣で、ゆったりと角杯を傾ける横顔を見遣る。
まさか、高位の女人も飲酒するとは思ってもみなかった。驚いていると、もう十九歳だもの、とエストリッドは笑った。
緩やかに、満足げな溜め息。空になったのか、ふと青灰色の瞳が向く。
「――そろそろ、帰りましょうかね」
「もう、いいの?」
確か、まだ二杯目だったはずだ。
大酒喰らいばかり見てきたから、意外な心地で問う。
「明日は、二人とも出仕するでしょう。ソールは、エイナール義叔父様のところに、鍛練に行くというし。だから、掃除と洗濯をするには、もってこいなのよ」
ちょっと惜しいけれどね、と冗談めかして、エストリッドが肩をすくめる。得心して微笑む。
「そっか。いつもありがとう――」
今だ、と頭の中で、何かが告げる。唾を飲み込んで、その名を呼んだ。
「――エッタ。君のおかげで、気持ちよく過ごせているよ」
青灰色の瞳が瞬く。言葉が沁み渡るように、炎に照らされた顔が上気していく。
優しい声が、満面の笑みで告げる。
「私もよ、エイノ。あなたがいると、楽しいわ」
途端、鼓動が飛び跳ねた。視界が開け、色が鮮やかに光り輝いて見える。
戸惑っていると、エストリッドは、おもむろに腰を上げた。
華奢な白い手が、差し出される。手を取れば、言いようのない気恥ずかしさが湧き上がった。
繋がった、柔らかなぬくもり。全身に広がって、身体が熱い。
わけもわからず、手を引かれるまま、家路についた。
革帯を解いて、上着に上衣、靴下を脱ぎ、洗濯籠に入れる。肌着だけの姿になると、勢いよく寝台に飛び込んだ。
ふかふかした毛織物の感触。仰向けになり、斜めにせり上がる天井を見つめる。
灯火に赤々と照らされた、多様な木目。素材を活かした造りは、マタラムにもファールサにもない、清廉な美しさがあった。
(……疲れた……)
今日は、出仕の初日だった。
皇妃と皇子達に始まり、近衛従士団の副将であり、皇帝の叔父にあたる従士団長に、着任の挨拶をし、ともに働く筆記士達から、自己紹介を受けた。
特に難しい仕事をしたわけではない。隊の中でも若手だという筆記士から、仕事内容の説明を聴き、実際に手を動かした。
配属されたスピユット戦士団本隊の第一筆記士隊は、主に、ファールサ語の文書の翻訳と管理を行う。
指示された通り、ノール語の文書をファールサ語に訳すだけの、平易な作業。
たったそれだけなのに、間違えたらと思うと、緊張して、妙に疲労感が募った。
働くとは、威厳を示して指図する立場とはまた違う、別種の責任があるものなのだ。そう考えると、スヌンゴは、本当にすごいと思う。
ゆっくりと、息を吐き出す。同時に、嫌な感覚を覚える。
気持ちは疲れているのに、頭は――身体は、妙に冴えていた。
極度の緊張で昂ったのだろう。それでも、こんな形で現れるとは。
(……おととい、処理したばかりなのに……)
両手をつき、後ずさりつつ、上体を起こす。寝台の頭側の木板に枕を立てかけ、もたれかかる。下衣と下着の紐を解くと、腰の部分だけ露わにして、引き出した。
白雪の手を思い浮かべながら、握り込む。
兄上、と呼びかける、いとおしい声。触れ合う唇。抱き締める、力強い腕。
この記憶に、ずっと助けられてきた。穢らわしい欲も、アフシンを思っているのだと信じれば、清かに感じられた。
それなのに、今夜は何かが違った。
確かに大切な思い出なのに、遠く色褪せて見えた。
(どうして……?)
心が、全く疼かない。
目の前にあるのは、自らを慰めようとする、自分の手だった。
握り込まれた、汚い欲の塊。
放したいのに、身体は早くしろと急かしてくる。脈打つ官能に、たまらずすり上げる。
滴る透明な雫。塗り込めば、快感が、腰を伝って背筋を駆けてくる。膨張し、硬化し、放熱する肉を、この手が必死に行き来する。
(嫌だっ――汚い……汚い!)
浅ましくて、気持ち悪くて、きつく目をつむる。目尻に、涙が滲んだ。
どくどくと、官能が脚の中心に溜まる。身体の命じるまま、弾けて吐き出した。
夏の盛りが過ぎ、七月も末日になった頃。
すっかり片づいたブローノード郊外の野営地で、兵士隊の解散式は執り行われた。
冬支度の忙しくなる秋を前に、召集された兵士達は故郷へと帰っていき、農民や職人としての生活に戻る。
そして、従軍公娼は、それぞれの事情に合わせて、進路を決めていた。
「ヘルガ、ハレ。道中、どうかお気をつけて」
多くの兵士と従軍公娼の乗り合う荷馬車。
そののどかな景色を背景に、大きな荷物を背負った二人を見上げる。青緑の瞳が、優しく微笑む。
「ありがとう、エイノ。あなたに出会えてよかったわ。元気でいてね」
荷馬車に乗り込む背中を見送る。
寄り添い合う、ふたつの革袋。旅の無事を祈りながら、遠ざかっていく風景を眺める。
ヘルガは、ヴァーリ地方の東部にあるハレの家に、結婚の挨拶をしてから、コルプ地方の故郷の村に帰ることになっていた。
長い旅路だが、新婚気分でのんびり過ごせるいい機会だと、二人は笑った。
(……いつか、僕も――)
誰かと恋をして、伴侶と添うのだろうか。家庭を持ち、子を育てる日々を送るのだろうか。
望めば、ヘリイェイルは、きっとすぐに、娶るべき相手を見繕ってくれるだろう。孫が生まれたら、きっと、空が割れるほど喜ぶはずだ。
しかし、それは、ひどく難しいことのように思えた。
出仕初日の夜以来、アフシンとの思い出は、過去のものとなってしまった。よすがにと試してみても、色は褪せたまま、心を癒してはくれなかった。
代わりに、よく夢を見るようになった。
縛られ、泣き叫ぶ、幼い夜。
〈花見〉は数えきれないほど受けてきたのに、なぜかあの夜が、繰り返し流れてきた。
ヘリイェイルは、己を汚いなどと言うな、と憤ってくれた。まだ幼かったお前を捕らえ、ほしいままにした者こそ、悪なのだから、と。
それでも、辱められたことは事実だった。身体はいまだに悦楽を欲し、処理しなければ、頭が冴えて寝つけないのだ。
ムニンスブリーヴの称号は、〈契り子〉の儀式が成されたことにより、正式に家名となった。俺達の契子ですよ、と、遺灰入れに語りかける顔は、幸せそのものだった。
息子をなして、子々孫々に繋いでいけたら、どんなにいいだろう。
(でも、僕は……)
誰かを組み敷くなど、考えられなかった。あんなにもつらく苦しい思いを、他の誰かに味わわせるなんて、そんなおぞましいことはできない。
荷馬車の列が、緩やかな曲がり道に沿って、ゆっくりと南東に頭を向ける。
針葉樹のすっくと伸びる森へと消えゆく姿を眺めながら、先の見えない将来を見つめた。




