新しい暮らし
温かな毛織の上掛けの中で、身震いする。
もう六月も半ばを過ぎたというのに、朝は、いまだに肌寒い。これで初夏なのだから、冬はどれほど寒いのだろう。
ファールサでも、冬には雪が降ったが、うっすら積もる程度だ。
しかし、この厳寒の地では、暴風雪という荒天に見舞われた時は、外に出ただけで死ぬこともあるという。
温暖な南洋の島国で生まれ育ち、乾燥した灼熱の地で暮らしてきた身で、はたして乗りきれるだろうか。少しばかり不安になる。
羊毛の、ぬくぬくとした心地よさ。
ずっとくるまっていたいが、今日は、ヘリイェイルとともに、スノーヴァーリ家の人々に挨拶しに行くのだ。もたもたするわけにいかない。
そう思っていても、この毛織物の温かさには、かなわない。再び、うつらうつらしていると、扉を叩く、控えめな音がした。
「エームンド様。朝食のお支度が整いました」
スヌンゴの呼び声。途端、微睡みが覚める。
返事をすると、思いきり伸びをして、身支度に取りかかった。
階下に降りれば、皆は、すでに囲炉裏を囲んでいた。
エストリッドが、板の上で、黒麦のブロード(パン)を切り分けている。気づいて、小さな顔が明るく微笑む。
「おはよう、エイノ。よく眠れたかしら?」
「うん。おかげで、温かく過ごせたよ。あれがなかったら、一晩と経たずに凍えていたかも」
ヘリイェイルとソールヴァルドに挨拶しながら、空いている毛織の敷物に、あぐらで座る。
適度な厚みに切られたブロードが、木皿に盛られていく。
「それはよかったわ。綿を、ぎゅうぎゅうに詰めたかいがあったわね」
血色のよい顔が、おかしそうに笑う。
本当にね、と微笑んで返しつつ、ヘリイェイルから順番に配られた皿を、礼を言って受け取った。
「――あ、おはようございます、エームンド様」
「おはよう、グレク」
スヌンゴが、鉄鍋を持って、土間から上がってくる。
そうして、囲炉裏の中心に下がった鉤に、鍋の取っ手をかけた。
ぐつぐつとよく煮込まれた、塩漬けの燻製肉と野菜。香草の匂いが、食欲を刺激する。それぞれの器に盛られると、一斉に食べ始めた。
一口大の肉と蕪を匙ですくい、一息に放り込む。
じんわりと広がる、塩気と脂の旨み。蕪は汁をよく吸っていて、噛んだ瞬間、滋味が一気に弾けた。幸せな心地で咀嚼する。
昨日の夕食に続き、エストリッドの料理は本当においしい。
特に、主菜として出された豚の塊肉の炙り焼きは、格別だった。
寝具と同じように、ヘリイェイルから話を聴いていたエストリッドが、わざわざ献立に取り入れてくれたのだ。
オゴオゴの丸焼きを彷彿とさせる、濃密な脂と肉汁。
もう、頬がとろけて落ちそうだった。スヌンゴとともに、夢中でかぶりつき、久しぶりの豚肉の旨みを堪能した。
燻製肉の脂の浮いた汁に、ブロードをたっぷりと浸す。
硬い生地も、こうしておいしさの海に浸せば、たちまち口の中で、じゅんわりと小麦の香ばしさを味わわせてくれる。
存分に楽しんで、ゆっくりと飲み下す。満足感に、感嘆の溜め息を漏らした。
鈴を転がすような声が微笑む。
「そんなにおいしそうに食べてくれるなら、つくったかいがあるわ」
おかわりを問われて、有難く、空になった器を渡す。
受け取ると、隣で呟く声が聞こえる。
「……私も……」
「あら、グレクも? じゃあ、手伝ってくれたあなたには、お肉をたっぷり入れましょうね」
恐縮しながら、スヌンゴが深皿を差し出す。
並々と注がれた汁と具材。ごろごろとした豚肉の塊に輝く、濃茶色の瞳。
微笑んで囁く。
「よかったね」
頬を上気させて、黄褐色の顔が笑む。立ち込める、手料理の温かな匂い。
身体の芯から、ぬくもりが広がっていくのを感じながら、心尽くしの味を、腹いっぱい楽しんだ。
スノーヴァーリ家の長館は、井戸や物干し場といった作業場を挟んだ隣にあった。
想像よりもずっと近所で、拍子抜けする。
昨日から思っていたが、やたらと建物同士の距離が近い。これも、寒冷地ならではの知恵なのだろうか。
唖然として眺めていると、ヘリイェイルに呼びかけれられる。
慌てて、あとについていき、木枠に魔除けの紋様の彫られた扉をくぐった。
スティンの大居館と違い、中央に出入り口のあるスノーの居館は、左右に翼を広げた鳥のような形をしていた。踏み固められた土間が、一段高い板張りの部屋を、一直線に繋げている。
忙しく立ち働く、身なりの貧しい男達。奴隷か召使いか――ヘリイェイルが、スヌンゴを養子とした意味を、まざまざと知る。
家庭内の事柄は、ノールでは基本的に女の領分だ。
とはいえ、エストリッド一人で、男四人の世話をするのは、さすがに荷が重い。力仕事はスヌンゴがするなど分担して、家を守ることとなった。
そして、スヌンゴのたっての希望で、主従関係は続いている。
せっかく兄弟になったのに、少し残念な気もするが、いきいきと立ち働く姿を見ていると、ヘリイェイルの名づけた通り、誰かに仕える方が、スヌンゴにとっては幸せなのかもしれない。
玄関から右手に折れて、土間を進みながら、仕切り布の上がった景色を眺める。
武具の手入れをする者。機織りをする少女。机に向かって、書き物をする者。食事の下ごしらえをしつつ、おしゃべりに花を咲かせる婦人達。
大っぴらな居住空間は、ノールの長館ならではだった。
唯一、毛織物の幕が下りた向こうから、人影が現れる。
結い上げた髪を布で覆った、ふくよかな姿。鉱石の玉の連なった留め具飾りに、身位の高い婦人だと知る。
と、ヘリイェイルが手を掲げて挨拶した。
「おお、ベッラ。これから出仕か?」
「ハリヤ兄上。――ええ、今日は、皇女殿下と遠乗りをする約束をしていますの」
乗馬にすら、男女が関係ないとは。
拓けた思いで感心していると、灰色の瞳が、柔和にこちらを向いた。
「それで、そちらの可愛い坊やは?」
「今度、俺の〈契り子〉になる子だ。――といっても、もうそんな歳でもないがな」
ヘリイェイルよりも濃い色の瞳が、推測するような表情を宿す。きっと、それでも、よくて十四、五歳くらいだろう。
視線を上げて、少し高い位置にある目を見る。そして、意識して、落ち着いた低めの声で挨拶した。
「はじめまして。エームンドと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「スノーヴァーリのバリリヨットよ。甥っ子が増えるなんて嬉しいわ。こちらこそ、よろしくね」
クラーム(ハグ)とプス(キス)が来るかと身構えたが、初対面では、さすがに選択肢に入らないらしい。
バリリヨットは握手を交わすと、
「じゃあ、私はこれで。――ハリヤ兄上。オッド兄上は、執務室にいらっしゃるけれど……またラタトスクに吹き込まれたみたいで、あまりご機嫌がよろしくないから」
と言って、戸口へと去っていった。
頭上で、大きな溜め息が降ってくる。
「ああ……なんとも間の悪い……」
振り仰いで瞬く。金灰色の髭面が、困ったように微笑む。
「……少し、いろいろあってな。悪い人ではないんだ。嫌なことを言うかもしれんが、許してやってくれ」
「僕なら大丈夫です。養父上が、いますから」
肩に乗る、大きく武骨な手。その、温かな重み。灰色の瞳を見上げて微笑む。
よし行くぞ、と呟いて、ヘリイェイルは歩き出した。
板壁と扉のついた最奥まで進むと、怒号と何かを打つ音がした。
再びの、弾ける打撃音。低い呻き声。
しかし、ヘリイェイルは構わず、取っ手を回した。
「――兄上。戻りました」
巨躯の背後から、顔を出して覗けば、壮年の男が、二つ折りにした革帯を振り上げているところだった。
おそらく打たれていたのであろう。対面には、板張りの床に座し、深く頭を垂れた中年の男がいた。
その、小綺麗な身なり。オッドビョルンの次男で跡継ぎの、ヴィグマールだろうか。
ヘリイェイルが、目顔で開いたままの扉を示す。
すると、短い髭の若い顔が、ほっとした表情を宿し、一目散に這い出ていった。
気勢を削がれたのか、妙に平静な声が問う。
「……ハリヤ。ファールサに、行っていたのではなかったのか……?」
「昨日、帰着いたしました。従士から、知らせがあったはずですが」
おもむろに、赤黒く染まっていた面立ちから、憤怒の気が抜けていく。
ゆっくりと下がっていく革帯。どこか宙に浮いた声が呟く。
「……ああ、そうだ――そうだったな……確かに、従士が来た……」
ヘリイェイルが歩み寄り、所在なげにぶら下がった手から、革帯を取り上げる。そして、オッドビョルンの薄い腰に巻くと、金具を留めた。
両肩に手を置かれ、押し下げられるまま、茫然と座る姿。
この男が――スノーヴァーリ家の当主にして、ヴァーリ地方の行政を司る、ヴァーリ戦士団の戦士団長だとは。
目の前の光景に戸惑っていると、薄青色の瞳が滲み、雫がこぼれた。
「……また……やってしまった……」
武骨な指先が、そっと涙を拭い取る。穏やかな低い声が語る。
「大丈夫ですよ。憎くてやっているわけではないと、わかっていますから。――お元気そうでよかった」
筋骨の逞しい腕が伸び、確かに抱き締める。
抱き返す、長い腕。滲む声が囁いた。
「ああ――よかった、ハリヤ……よく、無事で帰ってきた……」
ヘリイェイルは、感触を確かめるように、一瞬きつく力をこめると、おもむろに離れて語った。
「俺が無傷で帰ってこられたのも、宮殿に強力な味方がいたからこそ。今日は、その〈契り子〉となる勇敢な戦士を、紹介しに来ました」
金灰色の髭面が頷き、はっと覚める。
すかさず歩み寄って座り、頭を垂れた。
「この度、弟御と親子の契りを交わすこととなりました、エームンドと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
ああ、と短い返答。顔を上げれば、品定めするような視線があった。
薄青色の瞳が正面を向いて、問いかける。
「――ハリヤ。手紙には、十九だと書いてあったが……?」
「ええ、今年の秋で、二十歳になります。マタラム人は、細身で小柄ですから」
灰褐色の髭に縁取られた顔が、こちらへと戻ってくる。愛想のよい表情を貼りつかせて、続きを待つ。
「まあ、確かに――征服するには手頃だな」
思わず、怪訝に眉をひそめる。
ファールサのマタラム侵略は、正当であったというのか。
ヘリイェイルに目顔で制されて、息とともに心を呑み込む。冷静な声音が、敬意を表しつつ、挨拶する。
「――それでは兄上。我らは、これにて失礼いたします」
言うだけ言って、ヘリイェイルが立ち上がる。
あとに続いて腰を上げると、微かな声が尋ねてきた。
「……ハリヤ、エッタは……?」
「元気にしていますよ。綺麗な家に帰れた上に、うまい料理も食べられて、助かっています」
「……そうか……」
ヘリイェイルは頷いて、では、と改めて礼をした。
静かに促され、踵を返す。そうして、賑やかな土間へと歩んでいった。
居館の外に出ると、ヘリイェイルは大きな溜め息をついた。金灰色の眉が、申し訳なさそうに下がる。
「すまなかった。いくらなんでも、あんなことを言うなんてな」
「……いえ――」
淡く首を振る。
尋常でないことはわかった。そこに不満をぶつけても、詮のないことだ。
ただ、冷静になってみると、不思議だった。
ファールサがマタラムを支配しても、スティンヴァーリには、何の利益もない。だからこそ、ファルジャードを追放し、メフルダードを王〈シャー〉に据えたのだ。
疑問を話すと、ヘリイェイルは微妙な顔をした。慮る口調が、慎重に答える。
「通常の意味の他に、もうひとつ使い方がある。――相手を、肉体的に支配する場合だ」
すっと、背筋が冷える。
厚みのある武骨な手が、そっと肩に置かれる。
「――エイノ。お前には、鋼の意志がある。何ものにも折れない、強い心だ。どんなに恵まれた体格でも、戦場を前にして逃げ出したら、意味がない」
確かにそうだろう。
それでも、こうして組み敷かれてきた事実は――侮られ、つけ入られる隙は、消えないのだ。
肩に乗る、温かでおおらかな重み。
きっと、自分は、このぬくもりに値しない。
不安に駆られて、灰色の瞳を見つめる。深みのある低い声が、穏やかに語る。
「今すぐには、難しいと思う。それでも、俺は、お前が契子であることを誇りに思う。――愛しているよ、エイノ」
逞しい腕の中に、すっぽりと収まる。力強い拍動が、分厚い筋肉を通して聞こえる。
少し埃っぽい、ほこほこした匂い。晴れやかに照り輝く、乾季の太陽のような体温。凝り固まった澱が、淡く溶けていく。
それでも、同じ言葉を返すには、まだつらくて、覚めるような青い上着を握り締めた。
配下の様子を見に行くと言って、外帝将の長館に向かったヘリイェイルと別れ、家の扉を開ける。
帰りの挨拶を告げるものの、返事はない。
靴を脱いで、囲炉裏の先、居間の隅へと歩み寄る。
背の高い機織り機の前に佇む、小さな姿。近づくと、そっと声をかけた。
「――エストリッド」
と、華奢な肩が跳ね上がる。
勢いよく振り返って、慌てた声が弾ける。
「ななな何っ⁉ 何か用⁉」
「え、あ……挨拶しただけなんだけれど……」
合点して、紅潮した顔が、おもむろに平静になっていく。
そうして胸を撫で下ろすと、エストリッドは眉尻を下げた。
「ああ、もう本当に、何事かと思ったわ――エイノ、お願いだから、エッタと呼んで」
「……でも……」
愛称に、特別な意味はない。
むしろ、親族の間柄で本名を呼ぶ時は、公の場であったり、怒っていたりと、改まった状況に限られる。
ただ、エストリッドは、ヘリイェイルから家の鍵を預かった、立派な家庭の主なのだ。
ノールでは、それは一人前の婦人の証だった。そんな女人に対して、親しく呼びかけるなど、なんだか馴れ馴れしく思えて、気が引けていた。
小ぶりな白い顔が、淡く傾ぐ。丸い腰に両手を宛がうと、頓着のない調子で告げた。
「まあ、いいわ。私が慣れればいい話だものね。――ところで、叔父様は?」
展開の速さに、思わず気圧される。
しかし、とりあえずは回避したのだ。胸中で安堵して、口を開く。
「状況を確かめに、外帝将の長館に行ったよ」
「それなら、昼食には戻ってくるわね。作業場で、グレクが薪割りをしているから、呼んできてくれるかしら?」
承知の意を告げると、エストリッドは背を向けて、機織り機に相対した。
全体を眺めてから、杼を手に取り、横糸を通していく。紡ぎ櫛で筬打ちする、軽快な音。
踵を返して歩き出したところで、声が飛んでくる。
「――水汲みも頼むわね!」
「わかった!」
土間に下り、厨で木桶を探す。
壁沿いに据えられた木棚の下段に、それらしいものを見つけた。これで合っているか怪しいが、スヌンゴなら、きっと知っているだろう。
金属の取っ手の、ひんやりとした感触。
携えて戸口まで行くと、背後で、エストリッドが声を上げた。
「エイノ、勝手口から出た方が早いわよ!」
振り返れば、白い手が、右側を示していた。
その人差し指の先、流し台の向こうには、確かに扉があった。
礼を言うと、頷いたきり、すぐさま機織りに戻ってしまう。
紡ぎ櫛をしかと握り、横糸を容赦なく詰めていく、小さな手。灰茶色の長い髪が流れる背中は、華奢ながら、妙に勇ましく見えた。
(本当に、竹を割ったような女人が多いんだなあ……)
ヘルガを始め、平民ゆえの逞しさと思っていたが、ノールの婦人は、男に対して、全く物怖じしないらしい。
まさに、既成概念の転回。
いささか、たじたじとなりながら、勝手口の取っ手を掴んだ。




