帝都ブローノード
「おお、見えたぞ! ブローノードだ!」
ヘリイェイルが、馬上で声高く歓呼する。
振り見れば、森の開けた向こう、なだらかな丘陵の頂に、長大な木造の館があった。
船をひっくり返したような、ノール式の長館。道中、各町村の長の屋敷を見てきたが、これほどの規模のものは初めてだった。
感嘆して眺めていると、馭者を務める上級兵士が、肩越しに振り返って、指し示した。
「エームンド様。あちらが、皇帝陛下のご政務所であるスティンの大居館でございます」
「あれが――」
時の皇弟であった父祖が、兄帝に抗した館。マタラムへと逃れる旅路の出発点だ。
マタラムの王宮やファールサの宮殿に比べれば、色味の少ない質素な造り。しかし、その無駄を削ぎ落とした威容は、見る者を圧倒する風格があった。
今は、ソル暦の六月十六日。
夏の初めの爽やかな風の渡る中、とうとうたどり着いたのだ。
ヘリイェイルが、隣を行く戦将に呼びかけ、伝令を命じる。
戦将は承知の意を告げた途端、かけ声を発して、拍車を入れた。胴体のずんぐりとした青毛のノール馬が、遠く木組みの門へと駆けていく。
いつ見ても、馬の疾駆する姿は圧巻だ。
ファールサ馬の速力に比べれば、ノール馬は鈍重と聞くが、それでも目を瞠るものがある。
もとは騎馬民族だったファールサ人と違い、航海の民であるノール人には、乗馬の習慣がない。馬といえば、もっぱら農耕や運搬に用いられる役馬だ。
しかし、だからこそ、権威の象徴として、家名を持つ旧家の子弟は、乗馬の技術を磨く。
特に、気性の荒いファールサ馬を乗りこなす者には、敬意の眼差しが向けられる。ヘリイェイルも、その一人だった。
いずれは、自分も、外帝将の契子として、乗れるようにならなければならない。
あの速度を思えば、少し怖くはあるものの、この冷涼な草原を走れたら、きっと気持ちいいだろう。ヘリイェイルと、遠乗りに出かけてもいいかもしれない。
荷馬の軽やかな歩みとともに、先端を削ぎ落した丸太の柵が近づいてくる。
風に乗って耳を撫でる、賑やかな喧騒。いよいよだという思いに、心が躍った。
柵に沿って並ぶ櫓に立つ、見張り達を見上げる。
知己なのだろう。その中の一人が、槍を振り上げて、声高く挨拶した。
「おかえりなさいませ、外帝将閣下! ご無事のご帰還、何よりでございます!」
「おお、ありがとう! 皆も息災のようだな!」
武骨な手を掲げ、太くおおらかな声が朗々と応える。
木彫りの門の紋様が、ついに、くっきりと見える。先頭を行くヘリイェイルに続いてくぐれば、内部の活況が目に飛び込んできた。
雑然と立ち並ぶ、三角屋根の小ぶりな家屋。せわしなく行き交う、大柄な人々。草木染めの、自然な風合いの衣服。舞い飛ぶ土埃に、そよぐ夏草。
都というには、荒々しく粗野な雰囲気。
しかし、躍動する景色は、カラトゥアンにもシャフリカシャンにもない迫力があった。
馭者の意図を的確に汲んで、荷馬は、入り組んだ道を軽快に進んでいく。そして、丘の麓の門を過ぎたところで、ゆっくりと歩みを止めた。
荷台から降り、スティンの大居館を仰ぐ。
近くで見ると、さらにその巨大さが迫ってくる。これほどのものを木材で建てるには、相当な技術が必要だろう。船大工が家屋をつくることの意味を、深々と感じる。
馬を厩舎係に預けたヘリイェイルに促され、スヌンゴとソールヴァルド、腹心の戦将達とともに、館へと歩を進める。
武骨な手が、大きな木扉を押し開ければ、奥行きの遠い空間が、目の前に広がった。
木の風合いそのままの、板張りの床。
集会場も兼ねているのだろう。両隣には、長机と椅子が整然と並び、中央には、囲炉裏が切られていた。
ひときわ豪奢な装飾が施された椅子の前まで進み出ると、それぞれの位置に座す。
ほどなくして、右斜め前の小さな通用口が開き、すらりと背の高い姿が現れた。
ヘリイェイルが礼をするのに合わせて、両の拳を床につき、頭を垂れる。
板張りの床を踏む気配。そして、腰かける衣擦れ。よく通る清涼な声が、威厳に満ちて告げる。
「外帝将、よく戻った。損失なき勝利、喜ばしく思うぞ」
「ご期待に沿えましたこと、安堵の限りにございます。これも、ステノゴ王子殿下が、宮殿にて、ご尽力くださったからこそ。人を動かす手腕は、鮮やかなものでございました」
真摯に語る声。心配りに胸が詰まる。
皇帝の深みのある声が、静かに呟く。
「……そうか、君が――」
呼びかけられて、顔を上げる。淡緑の瞳と目が合う。その、全てを見通すような輝き。
慮る笑みが、白雪の顔に浮かぶ。
「苦労をかけたな……本当に、すまなかった」
瞬間、強ばっていた何かが、ひとつ、ほどけた気がした。
素直な心持ちで応える。
「いえ――故国のために、為したことですから」
胸のつかえが取れたように、端正な顔立ちが、ふっと緩む。穏やかな口調が語りかける。
「外帝将の〈契り子〉になるのだったな。――知っての通り、私の母は、外帝将の姉にあたる。父祖を同じくする者同士、従兄弟としても親しく付き合えたら、嬉しく思う」
「もったいないお言葉、誠に痛み入ります」
そもそも、マタラム王家の始祖である皇弟は、帝位簒奪を企てた廉で追われた。
六〈ヌム〉の王子というこの身分も、世代を越えた皇帝の寛大な許しがあって、成り立っている。畏れ多く、頭を垂れる。
「――陛下。せっかくにございます。改めて、我が二人の息子をご紹介いたしましょう」
ヘリイェイルが、和やかな口調で話し始める。
名をノール語に改めたことを説明すると、それぞれの得意分野を語った。
「報告には聞いていたが、まさか、これほど違和感がないとはな。異国の言葉が堪能な者は、いくらいても足りん。まったく助かるよ。お前の希望通り、スピユット戦士団の筆記士に任命しよう。――ムニンのエームンド。よろしく頼む」
「身命を賭して、お励み申し上げます。また、少しばかりではございますが――ヒンドゥシュ語も習得しておりますので、お役に立てましたら、幸甚にございます」
勢いよく振り返った、灰色の瞳と目が合う。
驚いた表情。皇帝の軽快に笑う声が響く。
「すでに契父を越えているとはな! いい拾い物をしたな、外帝将!」
「いや、まったくで――」
嬉しさ半分、面目のなさ半分、といった面立ち。
よけいなことを言ったかと危ぶんでいると、皇帝が笑いを収めて言った。
「気にするな。我が叔父殿は、子を持てたことが、よほど嬉しいのだ。息子が父親を越えるという物語を、体験したかっただけなのだから」
意外な心持ちで瞬く。親を越えるなど、考えたこともなかった。
敬老と孝行を重んじる、マタラムとの違い。
得心して、居住まいを正し、礼をする。
「〈オージンの乙女〉と契るほどの偉大な戦士である養父上に、若輩の僕が、かなうはずもありません。配下に任じられたからには、誠心誠意、相勤めますので、ご指導ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願いいたします」
「……エイノ……」
うるうると潤む、灰色の瞳。いとしむ思いが滲む様に、温かく微笑む。ここまで来てよかったと、改めて思う。
「さて――」
皇帝は、肘掛けの上で頬杖をつき、悠然と長い脚を組んだ。
冗談めいた口調が、笑みを含みながら告げる。
「プス(キス)もクラーム(ハグ)もしたいところだろうが、今は仕事をせねばな。――外帝将、報告を頼む」
短い返答とともに、ヘリイェイルの顔が、さっと引き締まる。
姿勢を正すと、厳粛な声音で、帰路の状況など、未報告の事項を話し始めた。
スティンの大居館を辞しても、初夏の空は、まだだいぶ明るかった。
しかし、近衛従士団の長館や丘の麓の家々からは、煮炊きの煙がたなびいている。
もう夕食時なのだ。北に進むにつれ、どんどん日が長くなっていて、どうにも感覚が狂う。
ヘリイェイルに連れられて、外帝将の長館を右手に、近衛従士団の長館を左手に、内郭の門を出る。
来た時の出入り口を背にした方向。
北西のこちら側は、スピユット戦士団に所属する戦士達が、多く住む区画だという。
雑然とした家並みで、今は見えないものの、少し歩けば、フィスクヴァーグ河の船着き場に出る、とのことだった。
方角を重んじるために家を石塀で囲うマタラムや、計画的に造成されるファールサとは異なる、無造作な配置の家々。
踏み固められて自然とできたであろう曲がりくねった土の道を、ヘリイェイルは、ずんずん大股で進んでいく。
早足で、なんとかついていけているものの、気を抜いたら、迷ってしまいそうだ。
少し不安になり、声をかけようとした時、ヘリイェイルの足が止まった。
藁葺き屋根の、小ぶりな家。木扉の前に立って、金灰色の髭面が微笑んだ。
「――さあ、着いたぞ」
目の前の景色に、思わず瞬く。
外交を担う外帝将の屋敷にしては、こぢんまりとした様相。てっきり長館だと思っていたから、面食らってしまう。
隣で、おもしろそうな声が笑う。
「小さくて、驚いただろう」
「えっ、あ……いえ……」
図星を当てられて、視線がさまよう。
気分を害したふうもなく、どこか誇らしげな口調が語る。
「大きな家は、暖まりにくいからな。見栄を張っても、凍え死んだら意味がない」
振り仰げば、穏やかな微笑があった。
ノール人にとっては、質実な暮らしこそが尊いのだ。もう一度、家を仰ぎ見る。
柱や扉の枠に施された、木彫りの魔除けの紋様。素朴ながらも、精巧な意匠。
これからは、この家が、帰るべき場所となる。おおらかな父親の待つ、この家が。
優しく呼びかけられて、視線を向ける。招く仕草に、微笑んで頷く。
ヘリイェイルが扉を開けると、そこは高い天井の広間だった。横幅のある土間の一段上に、板張りの床が広がっている。
大きな重低音が、朗々と呼ばわる。
「エッタ――帰ったぞー!」
とたとたと板張りの床を行く、軽やかな足音。
現れたのは、小さな少女だった。
「おかえりなさい、叔父様。ご無事で何よりですわ」
青灰色の大きな瞳が、おもむろにこちらを向く。柔らかな笑顔が、優美に挨拶する。
「あなたが、叔父様の〈契り子〉になる方ね。――はじめまして、私はエストリッド。スノーヴァーリの当主オッドビョルンの娘で、ハリヤ叔父様は、お父様の弟なのよ」
「はじめまして、エストリッド様。お話は伺っております。エームンド・ムニンスブリーヴと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
分家とはいえ、皇族に連なる身位の高い相手だ。失礼のないよう、丁重に応じる。
と、青灰色の瞳が、不思議そうに瞬く。少しおかしそうに微笑んでから、エストリッドは言った。
「あら、そんなに格式ばらなくていいのよ。血の繋がりはないとはいえ、これから従兄妹になるのだもの」
「――エイノ。エッタは、この家の一切をしてくれているんだ。一緒に住むことになる。気兼ねしなくていい」
上から降ってきた声に振り見る。
その、遥か高い背丈。反して、エストリッドは自分とそう変わらない。
こんな小さな少女が、家政を取り仕切っているのか。
想像とかけ離れた姿に戸惑っていると、後ろで苛立った声が唸る。
「なあ、もうおれ、お腹空いたんだけど」
振り返れば、不満げな幼い顔。
これからは、ソールヴァルドとも暮らすことになる。思い出して、膨らんでいた希望がしぼむ。
ヘリイェイルが、大きく頷いて同意する。
「そうだな。――エッタ、頼めるか」
「あら、私を誰だとお思いになって? 従士の知らせが届いた時から、準備は進めていますのよ」
丸い腰に手を当て、エストリッドが快活に笑う。そうして厨へと足を向けかけ、高い声が鋭く飛ぶ。
「叔父様! 靴は、そちらの箱に揃えてくださいと、何度言ったらわかりますの! ――ああ、靴下までっ!」
「おお、すまん、すまん」
しかし、ヘリイェイルは、からからと笑いながら、奥へと進んでしまう。
エストリッドが、底が格子状になった箱に長靴を仕舞い、追いかけるように、脱ぎ捨てられた毛織の靴下を拾い上げる。
外帝将の威厳とは、ほど遠い光景。
唖然として眺めていると、のんびりとした声が問いかける。
「そういえば、エッタ。この春で、いくつになった?」
磨き上げられた板張りの床に、点々とついた巨大な足跡。歯噛みしつつ、呆れた声が飛んでいく。
「十九です、叔父様! もう、いい加減覚えてくださいな!」
「おお、じゃあ、エイノとひとつ違いだな」
よかったなあ、と間延びした声。何がです、と、きりきり答えながら、雑巾か厨かを迷う小柄な姿。
もうどうにも耐えきれなくて、盛大に吹き出し、声を上げて笑った。




