雷雨
豪気に角杯をあおり、大きく上下する喉頭を眺める。
景気よく上がる感嘆の声。まだまだ飲み足りぬというように、酒壺から、とくとくと注がれていく。
(本当に、よく飲むなあ――)
ノウルーズなどの酒宴でも思っていたが、ノール人は、水のように酒を飲む。
むしろ、喉を潤すという域を超えているのだから、水よりも、と表した方が、適切かもしれない。
勢いよく口元を拭う拳。気づいて、色の薄い目が向く。
「何かご用でしょうか、エームンド様?」
「いえ――みんな、すごい量のお酒を飲むものですから」
シャフリカシャンを出発して以来、毎夜途切れず、酒が供される。それも糧食のうちだというのだから、驚きだ。
鉱石の玉で飾った髭面が、呵々と笑う。
「そりゃあ、酒ほど、気分のよいものはございませんからね。うまい酒を味わえば、腹の立つことも、綺麗さっぱりです」
そういうものなのだろうか。
酔っ払いほど厄介な相手はいないが、飲んでいる当人としては、楽しいものなのかもしれない。
角杯を差し出して、戦将が笑う。
「少し、召し上がりますか?」
「じゃあ、一口だけ――」
上から下まで身分を問わず、嗜んでいるのだ。きっと、酒宴も多く催される。今のうちに慣れておけば、いざという時に役立つだろう。
受け取って、ゆっくりと杯を傾ける。
冷たさと甘みが、するりと舌の上を滑っていく。
「――おいしい……」
この甘さは蜂蜜か。
寒冷なノールでは、葡萄が育ちにくい分、麦酒や蜂蜜酒が一般的だと聞く。ただ、後者の方が、貴重で高価なはずだ。
戦将が、こっそりと耳打ちする。
「外帝将閣下が、将の我らに賜ってくださったのです。なかなか飲めるものではございませんよ」
「いいのですか? せっかくの品を――」
一口だろうと、減るものは減る。
しかし、戦将は、にこやかに微笑んで語った。
「構いませんよ。こうして無事に帰路につけるのも、あなたが身を賭してくださったおかげ。勇敢な戦士と酒を酌み交わせるのなら、いくらでもお分けしますとも」
どうぞ、と快く手で示されて、礼を言う。
戦将は、予備の角杯に麦酒を注ぐと、乾杯のかけ声を上げた。
「――お、エームンド様も、お飲みになりますか」
「こりゃいい! よしよし、皆で乾杯だ!」
聞きつけて、周囲が歓声に湧く。
杯を打ち鳴らす、硬く軽い音。豪快にあおる皆に合わせ、角杯を大きく傾ける。
するすると、喉を爽やかに滑る甘み。身体が、ふわふわと心地よい。
「おお、いい飲みっぷりで。――さあ、どうぞ。おかわりは、たくさんございますから」
空になった杯に、今度は麦酒が注がれる。もったりとした麦の香ばしさが、おもしろく喉を覆っていく。
頭に反響する楽の音。その、上機嫌な調子。自然と、身体が旋律に乗る。
いてもたってもいられなくて、角杯を握り締めるまま、勢いよく立ち上がった。
意識が浮上する。
瞬いて、上体を起こした途端、頭に激痛が走った。
「――あ、痛っ……」
たまらず両手で抱えて、背を丸める。
頭が割れそうだ。身体も、内側から水分が抜けたように渇いている。みぞおちのあたりが、ぐるぐると気持ち悪い。片手を胸に当てて、苦しく喘ぐ。
と、薄暗かった視界が、急に明るくなる。
落ち着いた、しかし高い音色が、頭に響く。
「――エイノ、起きたのね」
なんとか目線を上げて、その姿を視認する。開いた戸布から漏れる光が、眩しくて痛い。
「……ヘルガ……僕は、いったい……」
膝をついて、傍らに木桶を置くと、慮る声が応えた。
「昨夜、大変だったのよ。あなた、すごく酔っ払って――それで、外帝将閣下が連れ出して、私に面倒を見るようお申しつけになったの」
「……そんなことが……」
確かに、心地よくなって、腰を上げたあとの記憶がない。誰かと何かを話していたような気もするが、それもずいぶんおぼろげだ。
おそらく、かなり迷惑をかけた。詫びようと口を開きかけて、はたと止まる。
あでやかな顔に浮かぶ、微妙な表情。気遣うような、哀れむような――悲痛さの混ざった色。
逡巡するように一呼吸ついて、ヘルガは語り出した。
「誰かに危害を加えたとかではないから、安心して。……ただ、昨夜のあなたは――その、とても積極的で……閣下は、そのことを心配なさっていたわ」
走る痛みとともに、奇妙に反響する声。
うまく意味が取れず、怪訝に眉をひそめる。
聡く気づいて、ヘルガが木桶から水を汲み、器を口につけてくれる。背中を支えられながら、ゆっくりと飲み下す。みぞおちから、水分が急激に行き渡る。
少し気分がまともになって、息をつくと、ヘルガは言葉を継いだ。
「あなたが何を話していたのか、わからないわ。閣下は理解されていたようだから、ちゃんとした言葉だとは思うんだけど――なんだか妙に色っぽくて、閣下は、男と一緒にいてはいけないからって、私をお呼びになったのよ」
さあっと、血の気が引く。めまいがして、吐き気が湧き上がる。
(――最悪だ……)
よりにもよって、寵童の頃の言動が表出するとは。
しかも、察するに、ヘリイェイルを誘惑したのだ。
忌まわしい幻を見ていたのか――どちらにせよ、迷惑どころの話ではない。今すぐ訪ねて、謝罪しなければ。
腰を上げかけて、視界がぐるりと巡る。ヘルガが声を上げ、幼子を叱る口調がたしなめる。
「もう、じっとしてないと。二日酔いは、そう簡単には治らないのよ」
二日酔い。二日酔いというのか――そんな場合ではないのに、脈打つ頭が、新しい単語を記憶しようとする。本当に、なんて痛みなのだろう。
「――ほら、お医者様から、お薬をいただいたから。ちゃんと飲んで」
この体調では、どうしようもない。
おとなしく受け取って、水とともに流し込んだ。
ファールサ暦の二三一年二月十五日、ソル暦では二五九年五月十六日の麗らかな晩春の昼下がり、ついに国境の関所にたどり着いた。
東西を貫くヴィットスノー山脈の、唯一の谷間に築かれた門。
ノール語では、灼熱の国〈ムースペッルスヘイム〉の門番である、巨人スルトの名がついているように、高々とそびえ立っていた。
隊列を組み、落石に気をつけながら、ゆっくりと隘路を歩んでいく。
とうとうファールサを去るのだと思うと、不思議と、郷愁のような感慨が湧いた。
無事に全員が通過し、砦を守るコルプ戦士団の東鴉戦士隊に挨拶を済ませたのち、麓の森の切れ目で、野営地を張った。
ようやくの祖国に、皆ほっと安堵し、その日は、日暮れを待たずに酒宴が始まった。
薄青い春の星空を眺める。肌寒い夜気に、器の湯気が細く長く揺らめく。口をつけてすすれば、香草の、薬のような独特な風味がした。
あの夜以来、誰も、酒を勧めてこなくなった。
聞けば、ヘリイェイルが、飲ませないよう厳命したという。
謝る戦将達に詫び、もう二度と飲酒はしないと誓った。
とはいえ、飲み物が白湯ばかり、というのも味気ない。シャフリカシャンで求めた茶葉を少しずつ飲んでいたが、それももう、なくなってしまった。
そこで、この香草茶の出番である。
ファールサでいう茶とは違い、乾燥させた香草を抽出してつくる。なかなか癖のある味わいだが、慣れてしまえば、それが楽しみになる、不思議な飲料だった。
隣で湧き上がる、豪快な笑い声。
角杯を片手に、呵々と歓談する横顔を見遣る。
以前なら、交友を深めるために、それぞれの輪の中に入っていくよう促された。
しかし、今は、夜になると、必ずヘリイェイルが傍にいるようになった。
そして、どっしりと座る背後には、愛用の槍が横たわっている。よほどの醜態をさらしたのだと思うと、たまらなくて、申し訳なかった。
ふと、小用を思い出す。もう夜もだいぶ更けたというのに、宴は一向に終わる気配がない。
会話の切れ目を見計らって、ヘリイェイルに小声で告げた。
「――養父上。少し、用を済ましてまいります」
「わかった。行っておいで」
残りの茶を飲み干して、器を敷物の上に置く。歓談の邪魔をしないよう、そっと立ち上がった。
満ち始めた月明かりを頼りに、森の中へと分け入っていく。
のびのびと、夜空に枝を広げる樹々。繁茂する下生えを、乗り越えるように踏み歩む。
国境に近づくにつれ、緑が豊かになってきてはいたが、南と北とでは、植生が違うようだ。少しだけ、しっとりとした、森の息吹のようなものを感じる。
遠ざかった喧騒に、場所を定める。
膝丈の上着の裾を革帯に挟み、下衣と下着の窓から引き出して、しゃがみ込んだ。
用済みの水が、小さな弧を描いて落ちていく。その様を眺めながら、偉大な発明だと、改めて思う。
ファールサの下衣も、股の分かれた脚覆いだが、窓はついていない。理由は定かではないものの、馬に乗るからではと、以前、ヘリイェイルが考察していた。
ノール人は、勇猛な戦士にあるまじき行為として、男色をひどく厭う。だから、何があるわけでもない。
ただ、下半身をさらさずに用を足せるというのは、思いのほか、安心できるものだった。
水滴をよく切って、窓の中に仕舞い込む。革帯に提げた水筒の栓を抜き、左手を洗う。
道具類を革帯に吊るしたり、女人は長衣の留め具に垂らしたり、つくづくノールの衣服は実用的だ。
背後で気配がして、肩越しに振り返る。
見覚えのある顔。確か、第四戦士隊の戦士だったか。素行が芳しくなく、懲罰を受けているところを見かけたことがある。
「――ああ、エームンド様。いらっしゃったんですね」
目顔で会釈しつつ、水筒に栓をする。
腰を上げかけたところで、大柄な体躯が隣に並んだ。引き出すまま、遠くへと飛ばしていく。
立ったままで為すことにも、人前で平然といることにも驚きつつ、後ずさりながら、立ち上がる。
踵を返すと、突然、大声が嘆息を漏らした。
何事かと、振り返って、様子を窺う。くだを巻いた音声が、妙な節回しで語る。
「まあた、今夜も全滅でしたよお。本当に、女達は手厳しい」
ただ、愚痴をこぼしたいだけなのだろう。
小さな不満の芽を摘み取っておくことは、組織の統率に資する。逡巡して、とりあえず、話のひとまとまりは聞こうと決める。
「ブローノードを出発してからこの方、ろくに女を抱けてねえ」
従軍公娼の制度には、寡婦や男手不足の村の娘が結婚相手を探す、という側面もある。身体に負担をかけないためにも、一晩一人が原則だ。
だから必然、あぶれる者が出る。そうでなくとも、拒否権と糧食を鑑みれば、全員に行き渡るように手配するのは、無理な話なのだ。
戦士という高い地位にあるなら、承知すべきこと。
胸中で溜め息をつく。
どれほど人事を尽くしても、こういう短慮な者は一定数生まれる。悪い評判は、ただの噂ではないようだ。
「そこでだ、エームンド様よお。俺の槍を、受けてくれませんかねえ」
「……え……?」
一瞬、耳を疑う。
この男は、いったい、何を言っているのか。
「俺、聞いちまったんですよ――王〈シャー〉の寵童だったんだって? それも、最上級の」
男が、おもむろに振り返る。
嫌な笑い。
悪寒が走って、とっさに駆け出す。しかし、
「――あっ⁉」
急激に視界がぶれて、地面に叩きつけられる。
背中にのしかかる重み。男の昂った息が、耳にかかる。
革帯の金具が外される音。腰に当たる、熱と質量。
肌着の中に手が入り、胸をまさぐられる。摘ままれて、高い声が上がる。
「すげえ……本当に、女と同じだ。声もたまんねえ……女みてえな、良い匂いがする……」
ねっとりと、首筋に舌が這う。寒気にわななく。
誰が吹聴したかなんて、考えずともわかる。
それでも、ノールでは最も忌避される行為のひとつを――こんな卑劣なことを煽るほど、憎まれていたというのか。
無遠慮に弄り回す、男の指。久しぶりの刺激に、身体が過敏に反応する。
(嫌だっ……果てたくない……!)
首を振り、喘いで耐える。
滲んだ視界の中、樹々の隙間に、何かを捉えた。
爛々と光る、緑の瞳。ざまあみろ、と幼稚な顔が笑っていた。信じられない思いで、その様を見つめる。
差別されるなら、価値観の問題だ。まだ、納得できたのに。
口を引き結ぶ。涙が、とめどなく頬を伝う。
(……あ……だめ……)
忍耐しすぎて、官能が下っていく。否応なしに、ひくついてしまう。察したように、男の手が伸びる。
「染みてんじゃねえか。今、楽にしてやるよ」
下衣と下着の紐が解かれる音。すられて、びくっと跳ねる。
「あーあー、すげえぬるぬるだ。こんなに感じるなんてなあ……本当に、女と変わらねえ」
摘ままれ、しごかれて、たまらず果てる。
心が、冷たく縮んでいく。あらゆる音が、遠ざかっていく。悶えて呻きながら、果てて射る至りを感じる。
(……なんて、思い上がりだったのだろう……)
この身体が、自分の元に帰ってきたなんて。長い歳月をかけて仕込まれた官能は、消え去るはずがないのに。
乾いた笑いがこぼれる。溢れて甘く喘ぎ、腰を揺らめかす。
濡れた声で、はしたなくねだれば、勝手に盛り上がって終わる。いつも、そうだった。
「この淫乱め。俺のこの太い槍で、たっぷり鳴かせてやるからよお」
衣擦れの音。硬い熱。
〈追肥〉もなしに、ジャハーンに無茶を叱られるな、と、ぼんやりと思う。
(……でも、仕方ないでしょう……? 薔薇は、囲われた庭で、咲くしかないのだから……)
ぼやけた景色の中で、駆けくる人影が見える。
巨大な体躯の――あれは、いったい、誰だろう。
「……がッ! かっ、が!」
詰まった呻き声が弾け、熱が離れる。
緩慢に振り向くと、男の肢体が、びくびくと跳ねていた。
太い喉から伸びる、黒い棒。
茫洋と眺めて、首を傾げる。宵闇に、怒号が轟く。
「よくも俺の契子を……ッ!」
樹々を透かした月明かりが、猛々しい影を照らす。ヘリイェイルが、黒い棒を握ったまま、立っていた。
その、凄まじい形相。棒を手にした腕が引かれると、男が傾いで倒れた。
ぼんやりと、静かになった男を見つめる。血管の浮き出た拳が、棒を放り出して膝をつく。
「――エームンドッ!」
確かめるように、両頬に触れ、身体の外側をはたく。
そして、何も履いていない下半身を見て、はっと顔を上げた。察して答える。
「……まだ……」
瞬間、視界が振れる。
背中に伝わる、わななく感触。苦悶の叫びが、鼓膜を打つ。
「すまなかった……! 俺がいたというのにッ!」
途端、意識を覆っていた膜が弾ける。音が聞こえ、色が見える。
遠く、愉快に笑う、数多の歓声。陽気な楽の音。夜の戸張の下りた森。薄青い月影。梟のさえずり。
広い背中にしがみつく。応えて、力がこもる。深い安堵感が、心に広がっていく。
「――養父上っ……!」
その温かな腕に守られながら、声を上げて泣いた。
明けた早い朝、ヘリイェイルが天幕を訪れた。
「それでは、閣下。私はこれで」
「ありがとう、ヘルガ。世話をかけた」
辞する背中を見送ると、慮る声が厳粛に尋ねた。
「……どんな者であれ、我が配下の戦士達は、陛下からお預かりした大切な財産だ。俺には、外帝将として、事情を説明する責がある。昨日の今日で、つらいとは思うが……当時の状況を、話してもらえないだろうか」
昨夜は、更けきった時を鑑みて、事を伏せておくこととなった。
ヘリイェイルは、見守りとしてヘルガを呼び、柔らかな体温にくるまれて、眠りについた。
その心遣い。おかげで、今朝は、ずいぶん落ち着いた心持ちで起床した。
灰色の瞳を、真摯に見つめて頷く。
「もちろんです、養父上。お話しいたします」
それから、事の経緯を語った。しかし、ソールヴァルドのことは、話さずにおいた。
皇弟が、外帝将の養い子を――それも、もとは他国の王子だった者を、乱暴するよう仕向けたとなれば、それこそ、大変な事件になる。
ようやく、ファールサとの和平が成就したのだ。これからという時に、事を荒立てたくはなかった。
自分が飲み込めば、全ては収まる。
定まった心を見つめながら、ヘリイェイルの呼び声に集った皆を眺め渡す。
「――昨夜、残念にも、恥ずべき者が現れた」
抱えていた遺体を放り、太く低い声が、朗々と語る。
「この者は、己の欲を満たすために、我が契子を襲い、辱めんとした」
途端、ざわめきが噴出する。おぞましいと青ざめ、囁き合う人々。
槍の柄が風を切って唸り、骸に突き立つ。
しんと静まり返った朝の空気の中、地の底から轟く声が宣告する。
「エームンドの名誉のために言う。我が契子は、断じて〈槍なし〉などではない。敵国においても、果敢に生き抜き、戦ってきた知恵者だ。もし、この中で、我が契子に悪しき心を向ける者がいるならば、生きて故郷に帰れないものと思え。――以上、解散ッ!」
号令と同時に、強ばった面持ちで、人々が散開していく。
ばらけた人混みの間、薄く笑みを浮かべる顔があった。
その、妙に安堵した、幼稚な面持ち。
真相が露見して叱責されると、思っていたのだろうか。
すーっと、心が冷めていく。
土気色の遺体が、雑役を担う一般兵士達に運ばれていく。
どれほどの重大事か、全くわかっていないどころか、保身ばかりを考えていたとは。
もはや怒りすら湧かず、凪いだ心持ちが広がる。出立の準備をすべく、ただ静かに、その場をあとにした。
意識が浮上し、ゆっくりと瞼を開ける。
船底をひっくり返したような、斜めにせり上がる天井。なめらかな木目を眺めつつ、伸びをする。毛織の寝具の、ふかふかとした感触が心地よい。
昨日の夕方、国境の緩衝地帯を抜け、関所の補給拠点である村に到着した。
砦の守備隊長を務める村長の歓待を受け、ヘリイェイルと二人の腹心の戦将、スヌンゴ、ソールヴァルドとともに、宿泊したのだった。
転げ落ちないよう気をつけつつ、寝台に腰かける。
マタラムのものほど板面は高くはないが、ファールサ式の低さに慣れてしまっていると、落差に感覚が狂う。
何より、頑健なノール人に合わせて、家具も、建具も、全体的に大きな造りなのだ。本当に、巨人の国〈ヨトゥンヘイム〉に迷い込んだようだった。
肌着の上に、丈の短い上衣を着て、下衣を履き、膝丈の毛織の上着を被る。
深い青に染め抜かれ、精緻な紋様の平紐で縁取りがされた表地。家名を持つ名家の子弟が纏う、上等な品だった。
革帯を締めかけて、土間へと続く仕切り布の揺れる気配に振り見る。
声変わりの始まった、不安定な調子が尋ねる。
「なあ、起きてるか?」
こんな朝早くに、何の用だろう。訝しみつつも、平静に返事をする。
すると、布の端から、白い顔が覗いた。おもむろに押し上げて、少年が、縮こまりつつ入ってくる。
そして、すかさずあぐらで座し、ノール式の最敬礼をした。
「――ごめんなさいっ!」
ただ、その燃えるような赤髪の頭を見つめる。
冷たく流れる沈黙。
辛抱たまらなくなったのか、おずおずと、ソールヴァルドが顔を上げる。
謝罪は済んだと言わんばかりの、安直な期待に満ちた色。思わず嘆息する。
「……絶たれた命は戻らない。君は、皇帝陛下とご遺族に、どう説明するつもりなの? 思い通りにならない腹いせに、外帝将の養い子を乱暴するよう、そそのかした、とでも?」
ヘリイェイルは、当然の報いだと断じた。
しかし、よけいなことを吹き込まれなければ、彼も、妙な気を起こさなかっただろう。
「それなら……どうすればいいんだよ」
青ざめながらも、むっとした表情。
寒々として、薄く笑みをこぼす。締めかけの革帯を解いて、目の前に差し出す。
「自ら手を汚してみたら? ――ほら、これで、僕を縛って辱めればいい。憐れに泣いて、許しを乞えばいいかな? 君の気の済むように、演じてあげるよ」
少年の拙い顔が、白んで固まる。
まだうっすらと丸みの残る頬に、ぽろぽろと涙が落ちる。わななく唇。
また何かわめくかと構えたが、ただ深々と頭を垂れて、去っていった。
春の晴天の下、威勢のよい声が響く。
槍を打ち鳴らす、軽快な音。何やら眺めている集団に尋ねる。
「おはよう。みんな揃って、どうしたの?」
「――ああ、おはようございます、エームンド様。いや、ソールヴァルドが、急に稽古をつけてほしいと言い出しましてね。さっきから、ずっと転がされているんですよ」
見遣れば、確かに、ヘリイェイルの巨躯に突撃しては、返り討ちに遭っていた。稽古というより、当たりに行っているだけなのが、素人目にもわかる。
「今さら気張ってもなあ――型が全然だぞ」
「まあ、従士団長は叔父御が務めておられるし、陛下の頭痛の種が減るなら、いいんじゃないか?」
「でもよ、いったいどういう風の吹き回しなんだか。また変な悪だくみを、考えていなけりゃいいんだが」
戦将達の、疑心の眼差し。気迫のこもった、少年の調子外れな声。朝日に強く輝く、緑の瞳。
ひたすらに真っ直ぐ立ち向かうその姿を、静かに見つめた。




