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帰還の蝶【長編・本編全話登録済み】  作者: 清水 朝基
第八章 北への飛翔
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旅立ち

 楽しい日々ほど、あっという間に過ぎていくもので、年が明けて、春になった。そうして今、真に最後の時を迎えている。

 再会してからの十七日間、アフシンの案内で、居住区をくまなく歩いた。

 幼い頃、駆けっこをして遊んだという小路(こみち)。賑やかな市場。父親の仕事を自慢する、誇らしげな笑顔。知己を見かけては挨拶し、様々な話題を語り合う横顔。

 知らない歳月がなくなるほど、アフシンは、たくさんの思い出を分けてくれた。その仕上げというように、ノウルーズの十二日目、実家の私室に招かれた。


 二人で上掛けにくるまって、素肌の温かさを感じる。中途半端にまとまって崩れた荷物を、ぼんやりと眺める。

 明ければ、もう、スィーズダ・ベダルの日だ。

 家族と近しい親族だけで過ごし、アフシンは、夕方、円城内の宿舎へと戻っていく。だから、今日が、二人きりで過ごせる最後の日だった。

 長く伸びていく、窓枠の影。切ない声が、逞しい胸を通して響く。

「……どうして……時は、過ぎていくんでしょうね……」

 そっと、視線を上げる。青い瞳が潤んできらめく。

「いとしい兄上。俺は、あなたに出会えて、本当に幸せでした。この春の花の時代は、俺の一生の宝物です」

「アフシン……」

 おもむろに、手が繋がる。

 深く合わさった掌。胸に引き寄せて、手を重ねる。

「僕も、幸せだったよ。君がいたから、僕は生きてこられた。君こそが、僕にとっての光だった――」

 今、改めて思う。

 覚悟などしたところで、嫌悪におののく心は消えていかない。恥辱から目をそむける夜を過ごし続けてもなお、壊れずにいられたのは、このぬくもりがあったからだ。

「僕の輝く星〈アフシン〉――本当に、ありがとう。ずっと、忘れない……」

「……兄上……」

 凛々しい面立ちが、途端に幼く、くしゃくしゃになる。震える涙声が、切なく語る。

「俺も、忘れません。ずっと、ずっと――大好きです」

 たまらず、腕を首に回して抱き締める。

 背中を包む、逞しい腕。――ずっと支えてくれた、いとおしい人の、まだ細かった腕。

 掻き抱く体温を刻みつけるように、きつく、強く、ひたすらに抱き締めて、惜しむ時に涙した。


 年末年始の行事が全て終わり、街が再び動き始める一月十四日、出発の朝を迎えた。

 身支度を整えて、最後の荷造りをし、昼を食べた。

 よく晴れた春の青空の下、荷馬車に積まれた箱や包みを点検して、ヘリイェイルが大きく頷く。

「――よし。これで全部だな。エイノ、グレク。忘れ物はないな?」

「はい、養父上(ちちうえ)。いつでも出発できます」

 二人で見上げて返事をする。

 外帝将らしい、威風堂々とした衣の揃え。威厳ある父親(ちち)の佇まいに、惚れ惚れする。

 一方、自分達は従者の格好だ。

 ファールサでは養子が敬遠されている上、小柄で紅顔となれば、それはつまり、遊び〈バーズィー〉の対象となる。

 修練のために高貴な身分の子息を預かっている、と説明すれば、理解も得られやすい。相応の待遇を受けつつ、身を守るための策だった。

 ヘリイェイルが振り返って、領事に挨拶する。

「じゃあ、あとは頼んだぞ」

「お任せを。道中、どうかお気をつけて」

 頷いて、巨躯が軽々と馬に乗る。

 スヌンゴとソールヴァルドとともに、荷馬車に乗り込むと、御者のかけ声が飛び、おもむろに発進した。

 仕事始めの、活気溢れる大通り。気づいた人々が、口々に挨拶する。ヘリイェイルが手を掲げ、皆の心遣いに応える。

 と、一人、大声で呼びかける住民がいた。

 初春の光の中で輝く姿。一瞬、いとおしい人と重なって、鼓動が跳ねる。

「ハリヤー! またなー! 元気でいろよー!」

「おう! ヤルネ、達者でな!」

 ヘリイェイルが大きく腕を振る。

 応えて弾ける笑顔。その、よく似た面立ちを思う。

 今頃、教師の訓示を聞き終えて、授業か鍛練に励んでいるだろう。きっと――必ず、立派な軍人となって、幸せな人生を歩んでいく。

(どうか、君の行く末に、幸多からんことを――)

 経典でもなく、聖典ハーンでもなく、心から祈る。温かな思いが、胸を満たす。

 振り返れば、そびえ立つブローノード門が、ゆっくりと遠ざかっていた。

 これから郊外にあるスピユット戦士団の野営地へと向かい、シャフリカシャンを発つのだ。

 人生のほぼ半分を過ごした街。

 苦しさと痛み――そして、喜びの詰まった日々。

(さようなら、美しい都〈シャフリカシャン〉――さようなら――)

 居住区の壁が途切れる。

 前を向いて、遥か遠く、ブローノードへと続く街道を見はるかした。


 野営地に着いて、ヘリイェイルが出立の挨拶とともに、〈契り子〉の紹介を終えると、スピユット戦士団は早速、隊列を組んで、帰路を進んでいった。

 帝都ブローノードまでは、二通りの行き方がある。

 ひとつは、航路と運河を交えた北西の道。もうひとつは、北をひたすら真っ直ぐ進む陸路だ。今回は、後者を行く予定だった。

 日数でいえば、前者の方が、ずっと早い。

 しかし、航路とは名ばかりの、両岸が近々と迫ったナズディーク海峡――ノール語では、ビフロスト海峡――を渡るには、高額な通航権か、被渡航国の発行した通航料免除証明書が、必要になる。

 だから、限られた大商人や国賓以外の者には、なかなか利用しづらい行程なのだ。そして、相手国を攻めたあとの復路となれば、当然、選択肢には入れられない。

 こうして、国境の関所のある谷を通る道が、選ばれたのだった。


 シャフリカシャンの円城も見えなくなり、太陽が地平線へと沈み始めた頃、今夜の宿営地が決まった。

 天幕を張り、焚き火と糧食が整うと、飲めや歌えやの大宴会が始まった。

 角笛に横笛、打楽器、弓で弾く細長い木枠の竪琴。

 革袋に管をつけた奇妙な楽器から、気の抜けた、しかし朗々と響く音色が、独特の節をつける。そこに、力強い真っ直ぐなノール語が乗っていく。

 そうして、男も女も隔てなく、火を囲んだ。

 賑やかな談笑が飛び交い、手を取り合って踊る姿。ファールサでは、決して見られない光景だ。

 手拍子をしながら楽しく見物していると、隣から、ヘリイェイルが囁いた。

「誰か、気に入った子はいるか?」

 意味を図りかねて瞬く。

 踊り、笑う風景を見渡して、低い声が続ける。

「彼女達は従軍公娼――つまり、戦士や兵士の夜の相手をする役目を負っている」

「……ああ、そういう……」

 昼間は、料理や繕い物といった雑事をこなしていた。だから、戦えない女人も同行しているのだと合点していた。

 しかし、誰かを慰み者にするのは、どこも同じなのだ。

「せっかくですが、養父上。僕は……」

 悲痛をすすぐために咲いて散り、別れを惜しんで、最後の花遊び〈グリ・バーズィー〉をした。

 そのいとおしい人との思い出だけで、もう十分だ。一人で処理できるものを、わざわざ誰かを苦しませる必要などない。

 金灰色の髭面が、ゆっくりと頷く。穏やかな声が告げる。

「おしゃべりをして、ただ一緒に眠るだけでいい。この戦いでは、お前が一番の功労者だ。選ばなければ、あとがつかえる」

 そういうことなら致し方ない。頷いて、承知の意を伝える。

 とはいえ、急なことで、何を基準に選んだらいいか、皆目わからない。

 焚き火に光る灰色の瞳を見つめると、優しい笑みが浮かんだ。

「すぐに決めなくてもいい。少し話して、この女だと決めたら、こう言うんだ。――お前に、俺の猛き槍を贈りたい、と。相手が承諾すれば、成立だ」

「断られることもあるんですか?」

 まさか、受け入れる側に選択権があるとは。意外な心地で問う。

 すると、金灰色の髭面が大きく頷いた。

「もちろんだ。女にだって、好みはある。勇猛な戦士だと認めるからこそ、槍を受け取る。卑怯な小物に、身を委ねる理由などないからな」

「それは、確かにそうですね――」

 心からの実感で同意する。

 当然、務めとして従軍している以上、完全には無理だろう。それでも、融通が利くのなら、たとえつらくても、日々をやり過ごせるというものだ。

 アフシンが、この心にとって、かけがえのない支えだったように。

「まあ、とりあえず、話してくるといい。女と話す訓練だと思って――な、エイノ?」

 確かに、ファールサで、まともに話した女人といえば、ナスリーンと妃達、そしてその侍女達だけだ。

 ただ、それも頭巾ありきで、素顔を見て話すのは、愛の遊び〈エーシュキ・バーズィー〉で、姉に事の経緯を説明して以来だった。

 少し会話するだけだ。男も女も関係ない。これから長い道中をともに行くのだから、親しくしておくに越したことはなかった。

 しかし、改めて意識すると、妙に緊張が高まる。

 ためらっていると、豪快に背中をはたかれた。

「――さあ、行ってこい。いい子を見つけてくるんだぞ」

 力強すぎる激励に咳き込みかけつつ、観念して腰を上げる。

 見下ろせば、心躍った満面の笑みがあった。

 その、興味と喜色の浮かぶ顔。父親らしい行いのひとつなのだと知って、戸惑いつつも、淡く笑みをこぼす。

「それでは、いってきます、養父上」

「おう、頑張れよ」

 豪気な励ましを背に、足を踏み出した。


(……どうしよう……)

 歓声の上がる景色を眺めながら、途方に暮れる。

 送り出されたはいいものの、誰から声をかければいいか、皆目、見当がつかなかった。

 察するに、すでに懇意の関係が出来上がっているらしく、仲睦まじい雰囲気の男女が多い。そんなところに、わざわざ割って入る気にはなれなかった。

 それでも、自分が選ばなければ、他の男達が決められないのだ。

 女達に身体を売らせる、という点には、思うものが数多あるが、外帝将の〈契り子〉となった以上、我(が)を通すわけにはいかない。

 見回して、腰を下ろしてもよさそうな場所を探す。――懇(ねんご)ろにない取り合わせ。

 しかし、やはりなかなか見つからず、困り果てていると、音色の異なる声が耳をかすめた。

 足を向けてみれば、天幕を背に、男が女人の腕を引っ張っていた。

「――っもう! 嫌だって言ってるでしょ!」

「なんでだよ! せっかく久しぶりなのに!」

 甲高い子供の声。よくよく見れば、ソールヴァルドだった。

 歩み寄って、鋭く声を飛ばす。

「放しなよ。嫌がっているじゃないか」

 気づいて炯々と燃える、緑の瞳。嘲笑う声が降ってくる。

「なんだよ、〈槍なし〉。こいつは、おれの女だ。じゃまするな」

「私が、いつ、あなたのものになったって言うの。もう、いい加減にして!」

 ぶんと、女人が、掴まれていた手首を振り下ろす。ほどけて離れた、少年の白い手。

 再び伸びるのを阻むように、間に割り込む。そしてすかさず、同じ高さの顔を見て告げた。

「あなたに、僕の猛き槍を贈りたい」

 瞬く、青緑の瞳。

 しかし、すぐに得心した色が浮かんで、淡く微笑んだ。

「有難く頂戴いたします、エームンド様。勇敢な戦士の槍を受ける栄誉を、どうぞ私に」

 差し出された華奢な手を取る。

 途端、癇癪じみた声がわめく。

「――はあ⁉ ふざけんなよ! 〈槍なし〉のくせに、横取りするんじゃねえよ」

 傷つく必要などないのに、ぐさりと心に突き刺さる。

 それでも、振り返って、決然と宣言した。

「養父上は、選ぶべき順番は、僕が最初だと仰った。それなら、優先権は僕にある。彼女の了承も得た。君に、文句は言えないはずだ」

 幼い面立ちが、ぐっと詰まる。

 聞き分けはなくても、やはり、ヘリイェイルには弱いらしい。歯噛みする顔を冷たく見上げるまま、後ろに促す。

「――さあ、行きましょう。養父上に、お知らせしなければ」

 頷くのを認めて、手を引いていく。

 背後で、苛立たしく唸る言葉が聞こえる。

「……〈槍なし〉のくせに。覚えてろよ」

 十四歳の少年のものとは思えない声音。

 背筋が冷えるのを感じながら、賑やかな輪の中へと戻っていった。


 豪快に酒をあおる姿に呼びかけて、報告すると、ヘリイェイルは微妙な顔をした。

「ああ――ヘルガ、君か……」

 何か、不都合でもあるのだうか。

 尋ねかけたところで、ヘルガが膝をつき、両手を胸に当てて、深く頭(こうべ)を垂れた。

「外帝将閣下。エームンド様は、ソールヴァルド様から、お助けくださったのです」

 得心した、金灰色の髭面。

 ただ、ヘリイェイルは表情を緩めなかった。

「しかし、今後、ソールを拒絶するなら、半分になるぞ。それでいいのか?」

「第二兵士隊のハレ・ヘルゲソンから、結婚の申し出を受けました。叶うことなら、武功を上げた方の子を持ちたく――どうか、ご容赦ください」

 武骨な手が、三つ編みにした髭をしごき、大きな溜め息が落ちる。どこか疲れた面立ち。

 逡巡するように、灰色の瞳が揺らめいたあと、再び深い吐息がこぼれた。

「そうか……わかった。ソールには、俺から話しておく」

「お心遣い、感謝いたします」

 ヘルガが深く一礼する。厳しい表情のまま、ヘリイェイルは頷くと、かけ声を呟いて立ち上がった。

 分厚い手が打ち鳴らされ、大音声(だいおんじょう)が、炎の躍る宵闇に突き抜ける。

「――皆、聴いてくれ。この戦いで、最も勇猛に戦った戦士が、槍を授ける女を見初めた。あとは、それぞれ、ゆっくり休むといい」

 拍手。祝いの声。

 途端に、寄り添う影が、そこかしこで抜け出していく。

 本当に、後ろがつかえていたのだ。無事に役目を果たせて、ほっとする。

「さあ、エームンド様。私達も行きましょう」

 ヘルガが立ち上がり、そっと腕に触れる。

 しかし、ヘリイェイルの言動が気にかかった。

 どこか、苦々しげな面持ち。まるで、ヘルガがソールヴァルドから離れることが、気に食わないような。

「でも、養父上に事情を伺わないと。あなたに、何か不便があるのなら――」

「お気遣い、ありがとうございます。ですが、ここで、話すことではございませんから」

 憚って低めた声。その、強い語調。

 戸惑いながらも、再び促されるまま、天幕へと歩んでいった。


 戸布を閉めて開口一番、ヘルガは真剣な面持ちで告げた。

「どうか、閣下をお責めにならないでください。契約を反故にしたのは、私の方なのです」

 いったい、どういうことなのか。

 問うて見つめると、明瞭な声音が、言葉を継いだ。

「ブローノードを出発して、少し経った頃――私は、閣下と、ある契約を取り交わしました。――意思にかかわらず、ソールヴァルド様のお相手を務め、その代わりに、往復分の手当を受ける、と」

「……そんな……なんて酷い……」

 女達には、選択権が与えられているのではなかったのか。どんな事情であれ、銀貨で解決するなど、いくらなんでもあんまりだ。

 ヘルガが、ゆるゆると首を振る。慮る声が、真摯に語る。

「いいえ、エームンド様。閣下は、個人的な頼みだと仰いました。断る権利はある、と。それに、そもそもの俸給に手当を上乗せするのは、異例のこと。他の公娼からすれば、大変な不平等になります。そこまでしなければならないご事情とは、よほどのこと――そして、私は、多くの銀貨が必要でした。ですから、私は、自らの意思で、契約を承ったのです。それを往路のみで打ち切りたいと申し出るのは、明らかな非。責めを負うべきは私です」

「でも、だからといって……」

 金灰色の髭面に浮かぶ、厳しい表情。

 外帝将という権力の前で断れるはずがないのに、その面持ちには、気遣いも何も見られなかった。

 豪快でおおらかな父親(ちち)の顔に隠された、冷たい一面。少しずつ見えてきた光明が、闇に浸食されていくような気がして、苦しかった。

 しかし、ヘルガは、あくまで平静に言葉を紡いだ。

「一度した約束は、何をもってしても必ず果たす――それが、私達、ノール人の誇りなのです。どうか、ご理解ください」

 納得はできない。

 ただ、この感情は、あくまで自分の都合だ。二人が――ヘルガが、承知しているのなら、部外者が口を差し挟むべきではなかった。

「……わかりました。話してくれて、ありがとうございます、ヘルガさん」

「ヘルガで構いませんわ、エームンド様」

 緊張のほどけた、柔和な声音。ほっと息をつく。

 わだかまりは残っているものの、これから先、十分に時はある。ヘリイェイルとも話して、少しずつでも飲み込めたらと思う。

 不意に、ヘルガが、長衣の肩紐を留める金具に、手を伸ばす。精巧な彫金細工の紋様。

 美しさに見惚れていると、はらりと、前身頃が垂れ落ちる。豊かに膨らんだ両の胸の、その形が、より鮮明に露わになる。

 そうして、白い手が、おもむろに革帯へと下っていった。

 意図を察して、慌てて制す。

「――っま、待ってください……! あの、僕は、そういうことは……」

 青緑の瞳が、不思議そうに瞬く。

 こんなにも迷いがないとは。しどろもどろになりながら、経緯を説明する。

「ええと、養父上が、僕が選ばなければ、あとがつかえると仰って……でも、僕は、その気がないというか――その……誰かを、慰み者にしたくないというか……」

 握り合わせた両手に、そっと手が重なる。

 心遣いに満ちた、優しい眼差し。慮る声が問いかける。

「それは……あの暴言と、関係がありますのね?」

 口を引き結んで頷く。

 思い出すだけでも、心が軋んだ。ヘリイェイルが言っていた通り、本当に酷い言葉だ。

 ヘルガは淡く微笑むと、後身頃の紐を器用に前へと引っ張り出し、楕円形の金具で留めた。そうして、優しい声音で言った。

「少し、お話しましょうか」

 それから、ヘルガは、ゆっくりと身の上を話した。

 南西のコルプ地方の国境にある村の出身で、夫と一人息子がいたこと。

 その息子が、九歳の時、夏至祭で目を離した間に、行方不明となってしまったこと。懸命に探したものの見つからず、同じ年の冬に、夫を熱病で亡くしたこと。

 息子を取り戻すために、従軍公娼に応募したこと――。

「みんなは、もう諦めなさいと言ったわ。辺境の村では、よくあることだから。遊んでいる時、家の手伝いをしている時――ふと一人になった時に、ファールサの人買い達は、男の子をさらっていくの。わざわざ、越境までして」

 頑健な子は奴隷軍人に、見目のよい子は花童に。

 ファールサ人にとって、ノール人の男子は、非常に優良な商材だった。

 メフルダードは、変えていくと宣言した。今後は、子を奪われる親も減るだろうか。

「結婚して一緒にやり直そうと、言ってくれる人もいた。でも、私は諦めきれなかった。だって、私さえ、目を離さなければ――ずっと、手を繋いでいれば、あの子は今も、元気に走り回っていたはずだから」

 スクワトと、無邪気に町を駆けていた日々。屋台の立ち並ぶ通り。揚げグダン(バナナ)の甘い香り。

 あの、何も知らなかった、幼い頃。

「でも、一農民に、シャフリカシャンへの旅費なんて、到底賄えない。その点、従軍公娼なら、連れていってもらえる。だから、応募したの」

「それで、息子さんは――」

 目を伏せて、ヘルガが悲しく首を振る。青緑の瞳が、灯火に潤む。

「……見つからなかった。同じ境遇の人達と一緒に、売春宿から捨てられた子供を保護する施設を訪ねたけれど――いなかった」

 大きく深い溜め息。

 その時の光景を思い出すように、視線が虚空を漂う。

「領事閣下が仰るには、今が十一歳なら、病でもない限り、手放すことはない――仮に、二十歳になって出られたとしても、無事ではいないだろう、と」

 ジャハーンに案内された花街が浮かぶ。

 享楽的で、毒々しい景色。通りで客引きをする少年達。欲情した目で、品定めする男達。

「確かに、そうだったわ。あんな状態になってしまったら、連れて帰れない。――働かぬ者の口は減らせ。それが、掟だから」

 白銀の地で暮らすがゆえの厳しさ。

 その凍てつく冬は、きっと、想像以上のものだろう。

「――それで、結婚を?」

 ヘルガが小さく頷く。栗色の長い睫毛が、ゆっくりと瞬く。

「諦めたくなかったけれど……私も、暮らしを立てないといけないから……」

 あでやかな横顔が、ふっと歪む。微かに震える嘲笑が、こぼれ落ちる。

「……酷い母親ね」

「そんなこと……」

 悪いのは全て、奪った者達だ。人を人とも思わぬ悪鬼。

 息子がさらわれさえしなければ、ヘルガも、こんなつらい選択をしなくて済んだのだ。

 そっと、その細い手を取る。包み込んで、心から語る。

「きっと、息子さんは、あなたを恨んだりしていないと思います。遠い旅路を乗り越えて探しに来た思いは、きっとどこかで、繋がるはずです」

 因果応報。為せば、為した結果が返ってくる。

 ノール神話では、輪廻という概念はない。それでも、巡り巡れば、希望が生まれるかもしれない。何が起こるかなど、誰にもわからないのだから。

 青緑の瞳が、潤んできらめく。手が重なって、淡く滲む声が紡ぐ。

「あなたは優しいわね――あの子も……母親思いの、優しい子だった……」

 ステノゴ、と呼ぶ、慈しみ深い声。

 助けることもできず、サトリアに生んでくれた恩も、仇(あだ)で返した。淫行も、殺生も、大義名分を振りかざして為してきた。

 おもむろに、細い腕が伸びる。

 柔らかな体温。温かな匂いに包まれる。

(……母上……)

 叶うことなら、もっと、たくさん話したかった。無事に十四歳になって、婿に赴く晴れ姿を、見てほしかった。輪廻して、また母の元に生まれたかった。

 一定の調子で背中を叩く手。大丈夫と、あやす声。優しい、母親(はは)の声。

 たまらず、そのぬくもりにしがみついて、幼子のように涙した。

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