ノールの父
居並ぶ侍童達を見渡す。
新しい者、馴染んだ者、長年をともにした者――九年間の日々が、心に去来する。
まさか、こうして退宮まで過ごすとは思わなかった。
終えるはずだった命をながらえ、火祭りを翌日に控えた、十二月二十二日。新しい人生へと、足を踏み出そうとしている。
「皆、今日までよく仕えてくれました。無事にこの日を迎えられたのも、あなた達の細やかな心配りのおかげです。心から、礼を言います」
「もったいないお言葉、痛み入ります。青薔薇様におかれましては、どうぞお健やかであられますよう、お祈り申し上げます」
最も年長の侍童が、代表して応える。
一斉に恭しく垂れる、十五の頭。しかと頷くと、スヌンゴに声をかけて、立ち上がった。
ブローノード門に到着し、馬車が、ゆっくりと停まる。
青玉の寵童付きの警護の管轄は、ここまでだ。スヌンゴとともに降りると、丈の高い髭面を仰いだ。
「入宮以来の長年の務め、礼を言います、側近団長」
「あなた様にお仕えできたこと――そして、こうして身に余る栄誉にあずかれたこと、光栄に存じます。どうか、道中お気をつけて」
威儀を正す、親衛軍人の面々。
微笑んで応え、ノール式の荷馬車に乗り換えて、そびえ立つ門をくぐった。
待ち合わせしていた南槍戦士隊の戦士達に案内されて、外帝将館に着くと、大仰なノール語が出迎えた。
「エイノ! グレク! 我が息子達よ、待ちわびたぞ!」
「養父上。本日から、よろしくお願いいたします」
スヌンゴと揃って、頭を下げる。
横目で見遣れば、こそばゆそうな黄褐色の横顔。ともに、親と離別した環境で育った分、同じ父親を持てる喜びが、胸を温めた。
何よりも、エイノ――つまり、エームンドは、父につけてもらった、もうひとつの名なのだ。
誰のものでもない、生まれた時からの名。それだけで、幸せな心地になれた。
居室までの回廊を歩きながら、スヌンゴが呟く。
「やっぱり、いいですね――ええと、きしんてんてんという感じで」
「心機一転ね」
「ああ、そうです。心機一転――」
頭に染み込ませるように、何度も繰り返す声。その熱心な意欲を、有難く思う。
マタラム人でも、ヤワ語とノール語の両方を命名するのは、スティンヴァーリ皇族を父祖に持つ王家だけだ。だから、スヌンゴは、ヘリイェイルが新しく名づけることとなった。
意味は、〈よき務め〉。忠実で勤勉なスヌンゴらしい名だった。
奥まった一室の前で立ち止まると、ヘリイェイルは扉に手をかけて告げた。
「――さあ、まずはエイノの部屋だな」
開いた途端、鮮やかな色彩が目に飛び込む。
ノールの毛織の敷物の上に転がる、大小様々な筒綿に、積まれた敷き綿。寝具の上掛けの飾り布。そして、枕と抱き枕。どれも、上等なヤワ更紗だった。
「マタラムを訪ねると、土産で頂くんだがな。綺麗なものだから、つい、自分でも買ってしまって――いやはや、使いどころがあってよかった」
合点がいって、改めて見渡す。
土産ということは、祖父や父が贈ったものなのだ。高級なのも、納得だった。
「でも、いいのですか? せっかくのお品を」
ここに滞在するのは、三週間ほどである。
今後、皇帝から職を任じられて、再びファールサを訪れる可能性はあるものの、仮住まいには、もったいない気がした。
「布は使ってこそ、価値が出る。それに、中身を出せば、荷物にはなるまい。全部とはいかなくとも、十分、持ち帰れるだろう」
動植物を組み合わせた、ノール伝統の紋様。そして、ヤワ更紗の極彩色。
ノールの民として生きると決めた。それでも、故郷の色柄があるだけで、こんなにも心安らぐとは。新しい家でも使えたら、どんなに素敵だろう。
「ありがとうございます。大切にいたします」
金灰色の髭面が微笑んで、柔らかく頷く。
それから、廊下に出るよう促すと、すぐ左手にある扉を押し開けた。
「こっちがグレク、お前のだ」
先ほどより、少し小さめの部屋。
侍童用の相部屋で長年過ごしてきたために、広すぎると落ち着かないという、スヌンゴの希望に沿ったものだ。
「しかし、本当にいいのか? 右隣なら、エイノの部屋と、同じくらいの広さなんだが」
「いえ、十分です。掃除がしやすい方がいいので」
スヌンゴは、二部屋分、世話するつもりなのだ。
なんとなく察して、一応、説明しておく。
「家のことは、外帝将館付きの下働きの人達がしてくれるから、君はしなくていいんだよ」
「そうなんですが……何もしないのも、落ち着かないので……」
黄褐色の面立ちに浮かぶ、困り果てた微笑。これはもう、性分というものだろう。
着替えを始め、身の回りのことは、自分でできるようになりたいが、うまく折衷していくしかない。
どうしたものか、思案しかけていると、頭上から、慮る声が降ってきた。
「お前達の間柄は、皆に話してある。彼らも仕事だから、全面的にとはいかないが――多少の手伝いくらいは、しても問題ないぞ」
途端、スヌンゴの顔が輝く。声を弾けさせて、勢いよく頭を下げる。
「ありがとうございます! 精一杯、励みます!」
「……ほどほどにね」
苦笑して、釘を刺す。はい、と元気いっぱいな返事。
途端、金灰色の髭面が、にやりと広がる。
「まさに、よき務め〈グレク〉! いやはや、ぴったりだな!」
ヘリイェイルの呵々と笑う声が、部屋中に響いた。
肌着といった、退宮時に支給された衣類などの荷物を、居室に運び終えると、挨拶回りが始まった。
二階に上がり、まずヘリイェイルの私室の位置を案内される。
そして、その隣の部屋――扉の前に、二人も守衛のついた部屋。ものものしい雰囲気に、居室の主の重さを知る。
戦士達の丁重な礼を受け、ヘリイェイルが扉を押し開ける。
途端、声変わり前の甲高い少年の声が、耳を刺した。
「放せよ! このッ! 兄上に、言いつけてやるからな!」
「どうとでも言え。務めから逃げ出すような恥知らずの言葉に耳を傾けるほど、皇帝陛下は愚かではないからな」
大きな溜め息。
振り見れば、金灰色の髭面が、困った表情を浮かべていた。少年を捕らえる戦士に声をかけて、歩み寄る。
「すまない。手間をかけたな」
「――外帝将閣下。いえ、これしき、たやすいことですよ」
戦士が注意深く様子を窺いつつ、少年から離れる。
何やら悪態をつきながら、少年が立ち上がる。
幼い顔立ちだが、ずいぶん背が高かった。さらに長躯の髭面を見上げて、鼻にしわを寄せる。
「ヘリイェイル、こいつ、しつけがなってないよ。おれがだれなのか、ちゃんとわからせてやってよ」
「……何者かわかっていないのは、お前の方だ、ソールヴァルド。口の利き方を忘れたか」
地の奥底から轟くような声。灰色の目が、刃のように鋭く光る。
少年は鼻白んで、しかし不服そうに返事をした。
「……はい、外帝将閣下」
おもむろに、彫りの深い横顔から、冷徹さが消える。
ヘリイェイルは気を取り直すように溜め息をつくと、少年の肩に手を置いた。
「見苦しいところをすまなかった。――この子はソールヴァルド。皇帝陛下の弟御で、今は、俺の従者としてお預かりしている」
会話の流れを理解して、納得する。身分よりも実力を重んじるノール人の気質を、垣間見た気がした。
微笑んで、ノール式に手を差し出す。
「はじめまして。エームンド・ムニンスブリーヴと言います。よろしくね」
虚をつかれたように見開く、緑の瞳。
白い手が持ち上がりかけ、はっと引っ込む。顔を最大限にしかめて、苦々しい声が突き刺してくる。
「〈槍なし〉なんかと、交わす握手はねえよ」
知らない言い回し。
しかし、ヘリイェイルの顔色が、さっと変わって、よい意味ではないのだと察する。
「……そう。わかった」
淡く微笑んで、手を下ろす。
血色のよい顔が苛立ちに染まり、癇癪めいた声が軋む。
「ヘリイェイル! おれは認めないからな! こんな女々しい〈槍なし〉が〈契り子〉なんて、絶対に!」
言うが早いか、弾けて駆け出す。
捕まえようとした戦士の手もすり抜け、扉が乱暴に開いて閉まった。
急に静かになった部屋で、長く深い溜め息が落ちる。
困り果てた、金灰色の髭面。心から慮る声が、消沈して告げる。
「エイノ、本当にすまない。あとで、きつく叱っておく」
ふるふると首を振る。
確か、兄である皇帝アルヴァリンとは、親子ほどの歳の差があったはずだ。どう高く見積もっても、年下には変わりない。わざわざ対抗する気にはなれなかった。
後学のためにと、見上げて尋ねる。
「養父上……その、〈槍なし〉とは、どういう意味なんですか?」
考えあぐねる、微妙な面立ち。灰色の瞳が、哀しげに揺れる。
「槍は、ファールサ語でいう弓、ヤワ語では根のことだ。男色の経験のある男を指す――酷い侮蔑の言葉だ」
男の大切な場所を失くし、女のように男に組み敷かれた男。
息が詰まる。血の気が引いて寒い。ねっとりと尻を這う、肥えた手の感触がした。
悪寒に震えながら、金灰色の面立ちを見つめる。
「……本当に、よかったのでしょうか……僕は……こんな、汚い身体で……」
皇帝が弟を託すほど信を置く、類い稀なる戦士。
その〈契り子〉に値するなど、どうして思い上がってしまったのだろう。
両肩に、温かく大きな重みが乗る。真摯な深い声が、鼓膜を震わす。
「エイノ、聴いてくれ。――確かに、ノールでは、男色は忌避されている。特に、相手を務める者は、軟弱だと謗られる。しかし、俺は、お前が勇敢だと知っている。どれほどの思いで日々を過ごしてきたかを、知っているんだ。だから、お前は、堂々と顔を上げて、ヘリイェイルの契子だと名乗ればいい。――それと」
太い眉毛が、ぎゅっと寄る。灰色の瞳が、強く光る。
「二度と、己を汚いなどと言うな。まだ幼かったお前を捕らえ、ほしいままにした者こそ、悪なのだから」
喉が、せり上がる。うまく飲み込めなくて、それでも有難さに頷く。
「――はい、養父上」
じっと見つめる、灰色の瞳。その、心配する色。
しかし、勇気づけるように、ぽんぽんと肩をはたくと、声音を切り替えて告げた。
「さて、紹介すべき者は、まだまだたくさんいる。さくさく行くぞ」
そうして大股に歩みを進め、扉を豪快に引き開けた。
出だしはくじいたものの、外帝将館の人々に挨拶回りを終え、初日は、あっという間に過ぎていった。明日は、ノール人居住区の重役達との顔合わせだ。
風呂屋に行って、さっぱりと汗を流し、皆で歓迎の夕食を楽しむ夜。急激に眠気がやってきて、先に就寝することにした。
春を感じる風の中、酔い覚ましにとついてきたヘリイェイルが、上機嫌な声音で話す。
「どうだった? 円城内とは、また違った趣だったろう」
「はい。ノールの方々だけなので、不思議な感覚でした」
宮殿を始め、円城内は、様々な人々が集結している。
文官なら、ファールサ人や地方出身の原住民、軍人はノール人と、その顔立ちは多種多様だ。
しかし、円城外は、出身で居住区が分かれる。
商売や結婚などで多少は混ざっていても、基本的に、ノール人居住区には、ノール人を父祖に持つ者達が暮らしている。
「それにしても、皆さん、背が高いですね。巨人の国〈ヨトゥンヘイム〉に迷い込んだようです」
十四歳だというソールヴァルドでさえ、頭半分ほど高かった。
挨拶回りする中でも、年上だと予想していた戦士が、成人したばかりの十六歳の新任だったなんてことが、しょっちゅうだった。本当に、ノール人は大柄だ。
ヘリイェイルが、しみじみと頷く。
「確かに、そうだなあ。幼い時分は、他国と大差ないはずなんだが――十二、三くらいになると、急激に伸び始めるからな」
すらりと伸びる、長身を思う。
二歳離れているのに、入宮した時から、アフシンとは同じ背丈だった。それから、あれよあれよと追い越され、気がつけば、目線は肩の位置になっていた。
掻き抱かれて爪先立ちになる、あの瞬間。
心が、きゅんと疼く。ヘリイェイルの大きな歩幅に合わせるように、足取りを早める。
回廊の奥、居室の前に着くと、丁寧に礼をした。
「それでは、おやすみなさい、養父上」
「ああ、おやすみ、エイノ。いい夢をな」
金灰色の髭面に広がる、優しい微笑。慈しみ深い景色に、心からの安堵が満ちる。
改めて頭を下げかけて、しかし、両肩に乗った重みに止まる。
迫りくる影。覆い被さって、そして、
「――嫌……っ!」
とっさに手を突き出す。
驚いた髭面。混乱の中、なんとか後ずさる。
今、ヘリイェイルは、何をしようとしたのか。いったい、何が起ころうとしていたのか。
がたがたと、身体の奥底から震えが走る。
おもむろに、彫りの深い顔が、申し訳なさそうに歪む。金灰色の長い髪に手を当てながら、弱りきった声が語る。
「……すまない。怖がらせるつもりはなかったんだが――すぐにプス(キス)したがるのは、ノール人の悪い癖だな」
「……ノール人の……癖……?」
灰色の瞳を見つめて瞬く。劣情も何もない、理性的な目。
途端、本の匂いが鼻をつく。〈緑の学院〉の図書室。ノール語の勉強にと、読んでいた物語。
母は、我が子に、おやすみのプスをして――。
ノールでは、家族など、親しい間柄での一般的な挨拶なのだ。
冷静な思考が下りてきて、申し訳なさが胸に募る。
「……すみません……その、僕……失礼なことを……」
まさか、男同士でも、唇にするとは知らなかったとはいえ、とんだ勘違いだ。もっと取るべき態度があったのではと恥じる。
しかし、ヘリイェイルは、気を悪くしたふうもなく、眉尻を下げて言った。
「いや、俺が悪かった。少し考えればわかるものを、喜びすぎたな」
今日一日の風景が、心に去来する。
俺の契子だ、と自慢げに紹介する姿。語学が堪能なのだと褒め、将来が楽しみだと、豪快に笑う顔。
本当に、待ち望まれていたのだ。
「――あの、養父上」
接吻は、まだ少し勇気がいる。しかし、ノール式の挨拶は、他にもある。
「クラーム(ハグ)なら――」
途端、金灰色の髭面が、喜色に輝く。
筋骨逞しい腕が、大きく広がる。歩み寄り、すっぽりと収まった。
ほこほことした、春光のような匂い。安心感が、心をくるむ。顔を上げれば、優しい父親の顔があった。
「おやすみなさい、養父上。どうぞ、よい夢を」
「ああ、エイノ。おやすみ」
仕上げに、ぎゅっと抱き締められる。
確かな幸せを感じて、穏やかに微笑み合った。




