修復
強い解放感が噴く。おもむろに、熱が引いていくのを感じる。
天井を見つめて瞬く。疼くはずの矢筒は、何も反応しなかった。もう十分だと、冷めた身体で直感する。起き上がり、宵闇に沈む人影を振り見る。
「ジャハーン――僕……もう、大丈夫みたいだ……」
静かな低い声が、そうか、と応える。淡々としながらも、安堵の滲む声音。
残すは、今までのように臥位ではなく座位で、手の力も弱めて、射られるようにするだけだ。
(……やっと、ここまで来た……)
仕込まれた悦楽からの脱却。喜びのままに、汚れを拭い、手を洗う。下着と寝間着を整えると、右手に腕輪をはめた。
晩秋の月影に冴える、鉄細工の光。いとおしく、狼とノール文字の意匠をなぞる。
もし、アフシンに会えたなら――何を話して、どんな時を過ごそう。
ジャハーンが、念のために用意していた道具類を片づけ始める。〈香水器〉に〈花壺〉、香油瓶、そして〈角〉。
途端、違和感が湧き上がる。
ただ話すだけで、終わっていいのだろうか。
「……ねえ、ジャハーン」
道具箱の蓋が閉まり、留め金の音が弾ける。ためらいつつも、浮かんだ思いを口にする。
「もし――また、誰かのために咲くことがあったら……身体は、元に戻ってしまうのかな……?」
意図を図りかねて、目顔が先を促す。平淡な面立ち。
それでも、どことなく悪い気がして、慎重に言葉を継ぐ。
「その……嫌だなって――もう咲くことはないのに、人生最後の相手が――と思うと……それなら、僕を思ってくれる人のために咲きたい。……アフシンの、ために」
名を聞いた瞬間、整った目元が、ぎゅっと歪む。冷静だった黒い瞳が、揺らいで光る。
「……戻るか否かは、知見を持っていないから、明言しかねる。ただ――」
指の長い手が、腰に提げた短刀の鞘に触れる。腹から轟く声が、低く空気を震わせる。
「再び薔薇を手折ることがあれば、次は容赦しない」
憤怒と嫉妬に燃え立つ、男の眼。
今、抱いてと囁けば、ジャハーンは組み敷いてくるだろう。
(でも、それは――)
この生真面目な〈庭師〉を傷つけるだけだ。
そっと、名を呼びかける。おもむろに、語っていく。
「アフシンが、過ちを繰り返すような子ではないことくらい、君だってわかっているはずだよ、ジャハーン」
はたと、黒い瞳が瞬く。
身の内に湧いた感情を反芻するように、呼吸が震える。腕を広げて微笑む。
「ねえ、歌って? 眠たくなっちゃった」
途端、視線が定まり、強い光が宿る。逞しい腕が伸び、柔らかく抱えられる。
広い胸に身を預けると、優しい歌声が響き始める。低く静かな音色。
うとうとと微睡んで、安らかな眠りに落ちていった。
遠くまで続く、壮観な隊列を見渡す。
秋も終わる九月八日、マタラムを支配していた文官と軍人が、シャフリカシャンに帰着した。
今日は、その任務完遂を労う式典が催され、正后の名代として、王〈シャー〉とともに参列していた。
上座にしつらえられた席から立ち、朗々と演説する、長躯の背中。仰ぐ人々。
和平条約を携えた使者が発ってから、七ヵ月弱。
故郷は解放され、豊かな島々は、マタラム人の手に戻ったのだ。宙に浮いていた実感が、今ようやく、しみじみと湧く。
しかし、同時に、もう帰れないのだ、という寂寥も感じていた。
身体は男に戻りつつあるが、それでも、淫行を重ねた事実は消えない。こんな穢れた心身で、故郷の地を踏むわけにはいかなかった。
来賓席の外帝将を見遣る。
いつもの陽気な雰囲気とはうってかわり、スティンヴァーリ帝国の皇帝の代理として座す、威厳に満ち溢れた姿。晩秋の日差しに透けて輝く様は、光明のようだった。
ゆっくりと、心が定まっていく。
父祖の生まれ育った土地。新しい人々と暮らし。
本でしか知らないかの国では、どんな日々が待っているのだろう。
この身体には、まだ課題が残っている。それでも、見通しは立ってきた。一人で処理できるようになれば、選択の幅は、ぐっと広がるのだ。
――これからあなたは、自由に行ける。
メフルダードから勧められた王書官の職は、辞退した。アフシンのことを除けば、もう、ファールサに惜しむべきものはない。
それならば、いっそのこと、〈契り子〉になってみても、いいのではないか。
そうして生まれ変わり、ノールの民として生きる。
せっかく拾ってもらった命だ。この髪と瞳をくれた父祖の地で、生き直してみてもいい。
そっと、墓廟の方角を見遣る。
歴代の妃とともに眠る、姉を思う。
(お許しください、姉上――僕は、もう少し、生きてみたいのです――)
柔らかな秋風が、向かいから吹いてくる。その、名残りの暖かさ。
王〈シャー〉の言葉を聴き終えて、支配を放棄した一団が、一斉に礼をした。
その夜、ようやく、兄のスセハトの手紙を開いた。
内容は、意外にも、あっさりとしたものだった。
要約すれば、いつでも待っているから帰ってこい、という端的な要望で、恨み言は、ひとつも書かれていなかった。
これなら、さっさと読んでしまえばよかったと、後悔しても遅い。罪悪感を覚えつつ、一人、返事を書いた。
冬が深まりつつある頃、とうとう、男に戻れた。
喜び勇んで外帝将に使者を送り、早速、訪問の約束を取りつけた。
「――お返事が遅くなり、誠に申し訳ございません、外帝将閣下」
長大な毛織の壁掛けに囲まれた客間。
ノール式に、あぐらで座り、両の拳を敷物の上につく。そうして頭を垂れれば、男が行う敬礼になる。
「お申し出いただきました〈契り子〉の件、お受けしたく存じます」
妙に長い沈黙。怪訝に思って、視線を上げる。
金灰色の髭の中心で、半開きのままの口。瞠った目。戸惑って問いかけようとした瞬間、大音声が客間に轟いた。
「おおッ! オージンよ! アースの神々よ! 我が願い、叶いましたぞ!」
あまりの音量に全身が跳ねる。目を丸くして、様子を凝視する。
諸手を挙げて喜ぶ巨躯。隅に控える部下やその妻達に、嬉々として、俺の〈契り子〉だぞ、と言い回る無邪気さ。
微笑ましくて、思わず顔がほころぶ。決心してよかったと、温かな思いが湧く。
居住まいを正し、改めて礼をする。
「ふつつか者ではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます」
「私も、初めて親となる。互いに手探りしつつ、よりよくやっていきましょう」
興奮冷めやらぬ、喜色の溢れる声。
こちらまで幸せな気持ちになって、心から微笑む。それから、一呼吸置くと、表情を改めて告げた。
「外帝将閣下。ひとつ、お願いがございます。――契子となるからには、今後は、ノールの民として、生きる所存にございます。つきましては、兄のスセハトには、所在を知らせないでいただきたく存じます」
途端、歓喜の色が、しぼんでいく。
金灰色の髭面に戸惑いを滲ませながら、外帝将が問いかける。
「……しかし、それでは、兄御が心配なさるでしょう」
「兄には、僕から手紙を書きました。もう、マタラムに帰るつもりはございません。いたずらに詳細を知るよりも、兄も、諦めがつくでしょうから」
これまでの、あらゆる全てを断ち切り、新しい関係を築く。そのための〈契り子〉だ。
居所がわかれば、追いたくなる。マタラムが解放された今、兄は自由に身動きが取れる。下手に、情報を増やすわけにはいかなかった。
困ったように、張り出した眉が下がる。
外帝将は、淡く溜め息をついたものの、はっきりと告げた。
「そこまでのご決意があるのでしたら――私からは、何も申しません」
「ありがとうございます。お気遣い、痛み入ります」
拳をつき、深く礼をする。
顔を上げれば、慈しむような、優しい微笑があった。
どこか、父に重なる面立ち。なんだか照れくさくて、こそばゆくて、自然と笑みがこぼれる。
外帝将は、ひとつ頷くと、必要な書類を持ってくるよう、部下に指示した。
それから、今後について、詳細の説明を受けた。
親子の契りを交わすには、皇帝も交えて、決められた儀式を執り行わなければならないという。
「ブローノードに帰るまでは、ひとまず、通常の養子としてお迎えいたします。――と申しましても、まあ、あくまで仮の措置ですから。〈契り子〉として過ごせるよう、手配するつもりです」
とはいえ、ファールサには、養子の習慣はない。
また、〈薔薇の宮〉は、ディーダム教徒の男子のみ在籍できるため、退宮を始期に、手続きすることとなった。
仔細が決まって、ほっとしたのも束の間、思いもかけない問題が浮上した。
スヌンゴも含め、この場の全員が理解できるように、ノール語からファールサ語に切り替えて、話し始める。
「――それで、供の者のために、一部屋ご用意いただきたいのです。できれば、僕の居室の隣か近傍ですと、有難いのですが」
退宮ののちは、外帝将館で暮らす。その先も含めて、当然、連れていくつもりだった。
もう置いていかないと、約束したのだ。事前に改めて確認したが、答えは聞くまでもなかった。
はたと気づいたように、灰色の瞳が見開いて瞬く。
「もしや――今、連れておられる侍童が、乳兄弟で侍従のスヌンゴ殿ですかな?」
「はい。左様にございます」
後方に控えていたスヌンゴが、にじって進み出て、頭を下げる。
マタラム人らしい顔立ちを眺めて、金灰色の髭面が、納得したように頷く。
「なるほど――これは、どうしたものか……」
ノール語の呟き。何か不都合でもあるのかと、不安に駆られる。
気づいて、外帝将は表情を緩めると、少し困った様子で説明した。
「――いや、もちろん、受け入れられれば、一番なのですが。ただ、残念ながら、我が家には、人を雇えるほどの余剰はございませんでしてな。なにせ、家庭の仕事は、女達の領分なもので。――そもそも、身の回りの世話は、皇帝であれ、自ら行いますから、侍従のような、成年者の世話係という概念がないのです」
「そう、でしたか……」
聴いていて、急に恥ずかしくなってくる。
生まれた時から、側には、近習のスヌンゴを始め、多くの召使いがいた。ファールサに来てからも、侍童達が一切の世話をしてくれた。
自ら手を入れる支度といえば、髪を梳るくらいだ。
しかし、それも、マタラムとファールサともに、身体の中で、頭は特に神聖な場所であり、他人がみだりに触れてはいけない、という慣習があるからだった。
正直、スードラの人々のように、自らの面倒を見られるかと問われれば、自信はない。
恥じ入って俯いていると、優しく呼びかけられる。
顔を上げれば、慮る微笑があった。
「なに、お気になさらないでください。我らノール人は、古くは航海をして、交易と略奪で稼いできました。そうして、最もよく利益を上げた者を、王に戴いてきたのでございます。――しかし、海は、万人に平等です。自ら尻を拭けない者は、船には乗せられません。必然、自分の世話は、自分でするようになります」
理屈はわかっても、これから、そのノールの地へ渡るのだ。到らなさを容認する理由にはならない。
「……僕は、やっていけるでしょうか……」
「年明けまでは、シャフリカシャンに駐留する予定にございます。道中も長うございますから、ゆっくり慣れていけば、よろしいでしょう」
明るく請け負って、外帝将が微笑む。
それから、さて、と呟いて、話を本題に戻した。
「スヌンゴ殿は、マタラムに帰る気はないのですな?」
「――はい。叶いますなら、主人についていきとう存じます」
丁重に、しかしはっきりと答える声。外帝将が頷いて、三つ編みにした髭をしごく。
そうして、しばし思案すると、ゆったりと息をついて、話し始めた。
「もし、青薔薇様がお嫌でなければ、ではございますが――スヌンゴ殿を私の養子にする、という方法がございます。それならば、生活費は一人分増えますが、雇い賃がない分、銀貨そのものは節約できます。――もちろん、養い親として、相応の小遣いは出しますが」
願ってもない申し出だった。
乳兄弟ばかりか、同じ父親の下で、家族になれるのだ。こんなに素敵なことはない。
スヌンゴを振り見る。戸惑った面立ちで、憚ったヤワ語がこぼす。
「……よろしいのでしょうか……私のような者が、王子と、同列になるなど……」
「何を言っているの。もともと、乳兄だったじゃないか。乳兄弟で、近習で、故郷の友で、その上、同じ家の兄弟になるんだ。僕は嬉しいよ」
そっと、右手に右手を重ねる。濃茶色の瞳を見つめ、微笑んで頷く。
恐縮していた顔が、おもむろに緩んでいく。
「左様でございますね――ええ、ええ、なんと幸いなことにございましょう」
故郷から遠く離れた日々の中、苦楽をともにしてきた。家族以上に、かけがえのない家族だった。同じ心だと知って、温かく満たされる。
二人で居住まいを正し、深く礼をする。
「ご配慮、誠に痛み入ります。ともども、どうぞよろしくお願い申し上げます」
外帝将は、大いに頷くと、しみじみと感嘆した。
「〈契り子〉と養子と、二人も子を持てるとは。いやはや、なんとも喜ばしいものでございますな」
初冬の陽光に、金灰色の髭面が輝く。
スヌンゴと再び顔を見合わせると、三人で温かく微笑み合った。
帰りの馬車に揺られながら、先ほどまでのやり取りを反芻する。なんだか、夢のようだった。
下座に腰かける横顔を見遣る。呼びかければ、黄褐色の面立ちが、柔らかく応えた。
「ごめんね、スヌンゴ。いつも、僕の都合に付き合わせてしまって」
青玉の寵童付きとして警護を担う親衛軍人は皆、事情を知っている。ヤワ語で話しても、もう咎める者はいなかった。
しかし、これからは、そうはいかない。
叱る者はいなくとも、スティンヴァーリで暮らす以上、ノール語は必須だ。
読み書きは教えられても、発音や会話は、やはり異国人ではかなわない。出仕日は自分が前者を、休日は外帝将館の戦士達が交替で後者を、教えることとなった。
至れり尽くせりの心配り。
感動しつつも、スヌンゴには負担を強いることになる。浮かれた気分が落ち着いてしまえば、ずいぶん大事になってしまったと、顧みて反省する。
淡く首を傾げて瞬く、濃茶色の瞳。
ノール語のことだと補足すると、柔和な笑顔が広がった。
「スードラの身で、ふたつも、異国の言葉を話せるのでございます。その上、読み書きまで学べるなど、まさに望外の機会。私は、誠に果報者にございます」
冬の冴えた光の中で、優しい笑みが輝く。学ぶ喜びに満ちた面立ち。
心からの言葉だと知って、温かく安堵する。
「そう言ってもらえると、僕も嬉しいよ。――いつも、本当にありがとう」
黄褐色の面立ちが、柔らかく頷く。
明るい展望が、真っ直ぐに伸びていくのを感じた。
アフシンに、シャフリカシャンを発つことを知らせる手紙を送ってすぐ、対面を承諾する返事がやってきた。
どうか一目でいいから会ってほしいと懇願したのが、功を奏したのかはわからない。
それでも会えるのだ。頬が緩むのを止められないほど、嬉しかった。
しかし、ひとつ問題があった。
〈薔薇の宮〉の応接間には、必ず警護と侍童が控える。
室内から人払いできても、扉の前には立つのだ。声の音量によっては漏れ聞こえるし、時間の制約もある。そんな場所で、安心して、思いに応えられるはずがない。
実際のところ、アフシンが今、どう思っているかはわからない。
ただ、あのままは嫌だった。いとおしい人のために咲く、綺麗な姿を、覚えていてほしかった。
二人きりで会える場所の確保。
悩んだところで思い浮かぶほど、シャフリカシャンの地理に詳しいわけでもない。
そういうわけで、相談できる相手は、ただ一人だった。
〈薔薇の宮〉の出入り口の傍らにある居室。その扉の前に立ち、訪いを告げる。
しかし、少し待っても返事はなく、戻ってくる気配もなかった。
思えば、ジャハーンが昼間、何をして過ごしているのか、ほとんど知らない。
医学の研究と診療が、〈庭師〉の主な仕事だ。だから、おおかた在室していると踏んでいたが、何か外出の用事でもあるのだろうか。
改めて訪ねようと決めて、踵を返して歩み出す。
と、背後から呼びとめられて、振り見る。
そこには、はたして、ジャハーンが立っていた。
いったい、どこから現れたのか。面食らったまま、長躯を見上げる。淡々とした声が尋ねてくる。
「珍しいな。何かあったか?」
「さっきまで……いなかったのに……」
思わず、驚きのまま、口にしてしまう。
すると、いささか不思議に思う声音が返ってきた。
「さっきからいたぞ。――そこに」
長い指の示す先。
よくよく見れば、居室の隣に、もうひとつ扉があった。まさか、そんなところに部屋があるとは知らなかったから、再び驚く。
「〈庭師〉の倉庫だ。貴重な薬草や高価な道具が収められているから、ああやって、目立たないようにしてある」
「――ああ、そういう……」
納得して、気を取り直す。道理で知らないわけだ。
表情を改めると、本題を切り出した。
「相談したいことがあるんだ。少し、いいかな?」
平淡な面立ちが頷いて、居室の扉を開ける。スヌンゴに控えているよう指示すると、おもむろに足を踏み入れた。
隅に畳まれた寝具に、本が積まれた机。書棚。いくつかの敷き綿や筒綿。金属製の茶器。
初めて見るジャハーンの私室は、想像よりも、ずいぶん質素だった。
青玉の寵童付きの〈庭師〉ともなれば、目のくらむほどの莫大な報酬が支払われる。
しかし、それも、いつか話していたように、家族と病の研究のために使っているのだろう。一切の贅沢品を排したしつらえは、その暮らしぶりを想起させた。
居間用の絨毯に、無造作に置かれた敷き綿に座る。目顔で促され、口を開く。
「二人きりで会える場所を探しているんだ。その……アフシンと、ゆっくり過ごせたらと思って……」
つい、様子を窺いつつ、尻すぼみになってしまう。
緩やかな溜め息。平静な声が、淡々と答える。
「……心当たりならある。ただ、空きがあるかは、確認しなければわからない」
まさか、そんな場所があるとは。さすがはジャハーンだ。
勢いづいて、問いを重ねる。
「確認してもらえると、助かるんだけれど――ちなみに、どこなの?」
「花宿だ」
「ああ、花宿ね――って、え?」
想像の斜め上からの単語に固まる。
花宿といえば、成年の男相手に、少年達が身体を売る店だ。
しかし、〈庭師〉は髭を生やせないため、一人前の男と見なされない。
結婚もできないばかりか、遊び〈バーズィー〉に興じることも禁じられる。それなのに、花宿とは、いったいどういうことか。
戸惑って瞬いていると、淡白な口調が説明する。
「〈庭師〉の育成のために、枝葉院直営の花宿がある。限られた者のみが出入りできる、最高等級の宿だ。そこなら、怪しまれずに、部屋を確保できるだろう」
何かを思い出すような面立ち。黒い瞳に、いとしむような、懐かしむような色が浮かぶ。
大切な人との思い出でも、あるのだろうか。
しかし、詮索するのは違う気がして、平静に言葉を返す。
「そういう施設があるんだね。悪いけれど、頼まれてくれる?」
見定めるような、真っ直ぐな黒い瞳。
一瞬の間のあと、平淡な声が、承諾を告げた。
*
サカ暦七七四年カピトゥ(七番目)の月の二十日。
――敬愛なるスセハト兄上。
お手紙を頂戴したにもかかわらず、ご返信が遅くなり、誠に申し訳ございません。
お変わりなくお過ごしのようで、安堵いたしました。こちらは、ご存知の通り、宮殿内で大きな変化がございました。新たな王〈シャー〉の下、様々な改革が盛んに行われ、目まぐるしい日々を送っております。
さて、兄上には、もうひとつ、お詫びをしなければなりません。お待ちくださると、お書きになってくださいましたが、僕は、もはや、マタラムに帰るつもりはございません。〈緑の学院〉を卒院したのちは、さるお方の養い子となり、新しい環境で、一からやり直そうと考えております。
幼い無知から始まったとはいえ、僕は進んで、淫行を学びました。この身も、魂も、悪行のために不浄にまみれ、穢れきっております。このような心身で、神々の平和が成された清浄なる地を、踏むわけにはまいりません。どうかご理解いただきますよう、切にお願い申し上げます。
この手紙が届く今頃は、プラハラ(スコール)が激しく降っているでしょうか。腰布をからげ、道まで溢れた泥水の中を、スクワトとともに駆けていた日々が、懐かしく存じます。
兄上におかれましては、どうかくれぐれもご自愛いただき、健やかなうちに過ごされますよう、お祈り申し上げます。
それでは、今生のお別れにございます。これまでのご恩は、決して忘れません。
あなたの弟、ステノゴ。――
ぼろを叩いてすいたファールサ製の紙の、ごわついた感触。
わなないて握り締めながら、見慣れた手蹟を凝視する。
どうしてこうなったのか。ステノゴには一切、非はないというのに。
再度、一から読み直す。
しかし、養い子になるということ以外に、進路に関する手がかりは見当たらなかった。本当に、ステノゴは、消息を絶つつもりなのだ。
ただ、ひとつ違和感があった。
ファールサには、生まれついた血筋を尊ぶために、養子の習慣がない。特に、父親が誰であるかが重要視され、母親はさして考慮されない。
だからこそ、母親が奴隷出身であれ、王〈シャー〉に見初められれば結婚し、妃になれる。その息子も、継承権を獲得できるのだ。
そして、妻を四人まで持てるから、男子が生まれない、という事態も避けられる。
さすがに、平民の場合は、妻は一人であるのが通常だが、血を分けた子であることは、最重要事項に変わりない。
血による結束。
かつて、遊牧民であったファールサ人にとって、最も信用できる相手は、自らの身から出でた者、ということなのだろう。
一方で、ノール人の間では、養子のやり取りは非常に一般的だ。
死が身近な厳寒の地で、ノール人であれば皆兄弟、という考えが根強い。家を継ぐ子がいなければ、他家から養子をもらってくる。
そうでなくとも、親を失った子がいれば引き取り、実子とともに育てることもあるほどだ。子は宝、という理念を、制度としても行う風土があった。
(まさか、外帝将が――?)
家柄から鑑みて、釣り合いの取れる者は、そう多くない。
皇帝には、すでに男子が二人いる。先々どうなるとしても、十九歳のステノゴを養子に取れば、長幼の関係で、皇位継承権が移ってしまう。利益は皆無に等しい。
しかし、外帝将ならば、亡き皇妹を娶っている。通常の制度ばかりか、特別な養子を迎えられるのだ。
血の気が引き、沸騰する。ぐしゃりと、手紙がひしぐ。
(奪われた……! また、奪われたッ!)
こうしてはいられない。
今なら、雨季の季節風で、ソードラエンデン港への航路が開いている。
スティンヴァーリの商人の中から、帰路につく者を探して、同乗させてもらえるよう、交渉しなければ。
幸い、先ほどまで降りしきっていた雨は上がっていた。出かける支度をすべく、立ち上がろうと、文机に手をつく。
板張りの縁側の軋む音。少しして現れたのは、スイムティだった。
正座し、床に手をついて、丁寧に礼をする。結婚が決まってから、ずいぶんと大人びた振る舞いをするようになった。
「父上。今、少しよろしいでしょうか。婚儀について、ご相談したいことがありまして」
途端、煮えたぎった激情が、しぼんでいく。
来年のカパ(四番目)の月には、スキリコとスイムティの婚儀の祭礼が執り行われる。
今はカピトゥの月。スティンヴァーリに渡り、ステノゴを探して連れ帰るまでに、どれほどの月日が必要か。
そっと、浮き上がりかけた尻を足首に下ろす。全身から力を抜き、微笑んで頷いた。




