再生
形式的な〈蕾開き〉から明けた翌日、最上寵童としての活動が、本格的に再開した。
約四ヵ月後のメフリガーンには、王〈シャー〉の婚礼の式が執り行われる。そうしてナスリーンは立后し、後宮へと戻る手筈になっていた。
妻を四人持てるところを三人にとどめていた、その意味。
メフルダードは、単純に、ナスリーンに己の所業を知られたくなかったのかもしれない。
なんとも身勝手だとは思うが、憑きものが落ちたような二人の顔を見ていると、ただ恨むのは違う気がした。
(……今は、できることをやるだけ――)
絨毯に広がる、数多の布地と装飾品。
手に取って眺めながら、ナスリーンの好みそうな候補を選んでいく。
夫を亡くした妻は、四ヵ月と十日間、喪に服す。明けるのを待っていては、とても準備が間に合わない。花嫁に係る委細を采配することは、最上寵童として、重要な務めだった。
花婿と花嫁の衣装に、招待客の名簿の作成、料理の手配――為すべき仕事は山積している。
新しい王〈シャー〉の門出を内外に示し、ファールサが安定すれば、マタラムにも、いい影響があるだろう。今はただ、将来を信じて、日々を過ごしていくほかない。
そうして、目まぐるしく十日が過ぎ、二月の末日、その時を迎えた。
化粧を落とし、耳飾りを外して、男物の衣を纏った姿。
少しやつれて鋭利になった面立ちが、低く告げる。
「敵の命を助けて――さぞかし、ご気分がよろしいでしょうね」
襲撃のあのあと、これ以上の血は流したくないと、メフルダードに願い出た。
未遂であり、若年ということで、ラーミンは極刑を免れ、強制退宮が言い渡された。そうして黄玉の間に軟禁され、今日、〈薔薇の宮〉から去っていく。
父親である宰相補佐官のペズマーンが官職を追われたとはいえ、古くから続く名家ダスティヤール家の出だ。
円城内の居住権は引き続き保持しているから、〈緑の学院〉で学び続けられる。きっと、よく修めて、優秀な官吏となるだろう。
だから、これは、せめてもの願いだった。
ゆっくりと息を吸い、言葉を紡いでいく。
「……僕はただ、信仰に従っただけ――君達ファールサ人が、未開の異教と蔑む教えに」
敵意が緩み、あどけない眉が、怪訝に寄る。
淡褐色の瞳を見つめながら、静かに語る。
「僕の本当の名は、アナ・アグン・グデ・ライ・ステノゴ・ウォン・ラナン・プティ。七年前に事故で亡くなった妃のネハール――第三王女のスムナリは、僕の姉だった」
緩やかに、利発な顔が青ざめていく。その理解の速さを、哀れに思う。
「もし、これ以上、大切な人を失いたくないと思うのなら――僕の大切な島民達にも、手を出さないでほしい」
血色の失せた唇がわななき、震えた吐息が漏れる。おもむろに、頭が下がっていく。
「……父達の過ちを繰り返さないよう……一心に努めます……」
ぱたぱたと、小さな膝に雫が落ちていく。
さらに深く礼をすると、顔を上げず、そのまま辞していった。
その、まだ華奢な背中。この先歩む人生が、せめて自身のものであれるよう、哀しく祈った。
*
サカ暦七七三年マラ・サドハ(閏月十三番目)の月の十日。
乾季の盛りの晴天を、のんびりと雲が流れていく。
口いっぱいに広がる、クラムビル(ココナッツ)糖をまぶした揚げグダン(バナナ)の、ねっとりとした甘み。
乾燥サンテン(ココナッツミルク)を纏った方も捨てがたいが、やはり、このわかりやすい甘さは格別だ。
昼過ぎの休憩時。
風のよく通る涼しい縁側で、おやつを食べて昼寝をする時ほど、心穏やかで幸せなひとときはない。
と、傍らで、スカレミィの不満そうな声が上がる。
振り見れば、あどけない膨れっ面があった。
「姉上、ずるいわ。サンテンつきは、わたしが食べたかったのに」
「え、だって――さっき、具なしがいいって、言ったじゃない」
「見ていたら、食べたくなったの!」
途端、とめどない言葉の応酬が始まる。
男の子のように、取っ組み合いの喧嘩をしないだけましなのかもしれないが、これはこれで、入る余地がなくて困る。
(……割って入ったところで、思いきり睨まれるんだがな……)
今年、長女のスイムティは十二歳、次女のスカレミィは十一歳になった。
子供の成長は早いもので、すっかり難しい年頃になってしまった。ただ可愛いと和んでいた日々が、今は遠い。
そして、二人には、もし、身体について気になることがあれば、スアングティの元へ行くよう話してある。
父親としてできることといえば、母親からの知らせを待ちながら、嫁ぎ先を考えることくらいだ。それはそれで重要だが、なんとももどかしいものである。
不意に静かになって、横目で様子を窺う。
どうやら、半分ずつ食べることになったらしい。
最初からそうすればいいのにと、内心溜め息をつく。こういう時、女親がいれば、少しは収まりもいいのだろうか。
遠く、玄関門から、呼び声が聞こえる。
よく使者としてやってくる、一〈シジ〉の大臣の召使いだ。
出迎えに行こうと腰を上げかけたスイムティを手で制し、立ち上がる。
悪鬼除けの石製の衝立の向こう、扉を開けると、はたして、階下で見上げる姿があった。
召使いが、恭しく礼をして告げる。
「真昼の最中にご無礼いたします。火急のご用にて、宮にお越しいただきたく、参りました」
侵略から七年余り。
文官による支配が定着し、ここ数年は、目立った事件はなかった。いったい、何が起きたというのか。
不安が渦巻きつつも、明確に答える。
「わかった。支度をしてくるから、待っていてくれ」
衝立の前の日陰に入るよう促して、扉を閉める。足早に縁側に戻ると、残りの揚げグダンを口に突っ込んで、母屋へと向かった。
目の前に広がる光景に、心が震える。
マタラムが解放された。ついに、ステノゴは成し遂げたのだ。
一〈シジ〉の大臣に始まり、三大臣が、和平条約に署名していく。
最後に、ファールサの使者と、それぞれに文書を持ち合って、深く礼を交わした。
思うところは、もちろんある。当然のように、謝罪はなかった。しかし、今は、この事実を噛み締めたかった。
(……これで、あの子を島に戻すことができる……やっと……やっと――)
最上寵童は、正后の名代だ。死んだとあれば、何かしらの知らせがあるはずだ。
あの時は、確かに、帰るつもりはないと言っていた。
しかし、こうして、マタラムが解放された今なら、もっと落ち着いて、話ができるだろう。
故郷の海と空の下、兄弟で、静かに家族の魂を弔えるなら――ほんの少しでも、その深い傷を、癒すことができたなら。
聖なるクヌニ山を振り見る。
その向こうには、広大な海が遠く続き、遥かには、大陸が広がっている。
ファールサが撤退するのならば、船に同乗し、渡ることもできるだろう。希望が、じんわりと、胸を温めた。
「――バガワド様」
呼びかけられて、視線を戻す。
三大臣が、感無量の様子で揃っていた。一〈シジ〉の大臣が、条約書を差し出す。
「この七年余り――長い日々でございました……」
手に取って、まじまじと眺める。
ファールサ語とヤワ語で書かれた条文。
改めて読むと、全く対等な内容で、本当に驚く。新しい王〈シャー〉は、きっと、ひとかどの人物なのだろう。
感慨深く、溜め息をつく。丁寧に返すと、心から伝えた。
「皆、これまで苦労をかけた。今後は、スティンヴァーリとの交易も、再び活発になるだろう。何もかも元通り、とは難しいかもしれないが、皆で力を合わせて、マタラムを、平和で豊かな国にしていこう」
「はい――私ども一同、今まで以上に、尽力してまいります」
感涙にむせび泣く面々。喉が震えて、視界が滲む。
失ったものは数多あれど、確かに息づくものは残っている。少しずつ、一歩ずつでも、皆で歩んでいけたらと願う。
泣き濡れた顔を見合わせて、へろへろに笑い合う。右手で目元を拭い、鼻をすする。
そうして、仕事に戻ろうと促しかけた、その時。
どんと、突き上げる衝撃が、全身を襲う。一瞬、足が地面から離れ、後ろから倒れそうになる。
「――バガワド様……ッ!」
二〈ロロ〉と三〈テル〉の大臣の、二本の腕。素早く伸びて、しかと僧衣を握る。
かろうじて皆で掴み合って耐え、しゃがみ込んで、頭を中心に収める。
激しい揺れの中、クヌニ山よ、鎮まれ、とひたすらに読経する。
必死に唱和する、三つの声。そこかしこで、慌て怯えるファールサ人官吏をなだめる声と、経を唱える声が響く。
一〈シジ〉の大臣が取り落とした条約書を見つめる。
(シワよ、ブラフマよ、ウィスヌよ。尊き三神よ。この和平は過ちであると仰るのですか……!)
ここ数年、これほどの地揺れはなかった。
聖なるクヌニ山の怒りだというのなら、マタラムはファールサに屈し続けよ、と告げていることになる。
そんなはずはなかった。この国は、この島々は、古くから、マタラム人のものだ。大陸から来た自分達に咎があっても、島民達に非があるはずがない。
と、衝撃が、身体から消える。
おもむろに、頭を上げて見渡す。誰ともなく、呟く声が聞こえる。
「……止まった……?」
あたりを見回しつつ、慎重に立ち上がる。
もはや、揺れは感じなかった。ほっと、胸を撫で下ろす。
「ずいぶんと……大きかったですなあ……」
二〈ロロ〉の大臣が、青ざめてこぼす。頷きながら、条約書を拾い上げ、一〈シジ〉の大臣に渡す。
恐縮して、受け取る手。その、微かな震え。
地揺れに慣れたマタラム人でも、これほど規模が大きいと、やはり恐ろしいものだ。特に、このめでたい日に、クヌニ山が怒りを示したとなれば、なおさらだろう。
努めて穏やかに、三人に言葉をかける。
「まずは、人や建物の被害がないか、確認してくれ。状況を把握し次第、今後の対応を決めよう」
動揺していた顔が、徐々に色を取り戻していく。
一同、威儀を正し、一〈シジ〉の大臣が応えた。
「――承知いたしました。直ちに取りかかりましょう」
散開して、廷臣達に指示を出す、三つの背中。
右手で胸を押さえると、ゆっくりと息を吐き出した。
文机にクラムビル紙を置き、竹筆を手に取る。どう書いたものかと思案する。
あの地揺れから、一ヵ月。
幸い、被害は最小限で、棚のものが落ちるなどして、各家で掃除が必要な程度で済んだ。島民達の人的被害もなく、スアングティも娘達も無事だった。
しかし、安堵したのも束の間、年が変わり、カサ(一番目)の月に入っても、事態は収まらなかった。
小さく短い揺れが頻繁に起き、カラトゥアン中に、不穏な空気が漂い始めていた。
そんな状況で、マタラムから離れようとしたことは、無謀だったのかもしれない。
帰路につくファールサ軍に便乗して、ステノゴに会いに、シャフリカシャンへ行きたいと、三大臣に告げた途端、猛反発を受けた。
怯えてすがりつく面々。
白い方がいらっしゃらなければ、クヌニ山のお怒りは、さらに激しくなりましょう、と平伏して、必死に懇願する姿。折れないわけにはいかなかった。
せめて、互いの近況を交わし、待っていることを伝えたい。
そう思って、手紙を送ることにしたのだ。
ただ、こうして、改めて紙面に向き合ってみると、何を書けばいいか、わからなかった。
七年余りもの間、慰み者にされ、辱められてきたのだ。その心を思うと、何を書いても陳腐な気がした。
縁側の向こう、乾季の濃い影の下、大きな買い物籠を抱えて、スメラティが歩いてくる。
娘達は、荷物持ちに出かけなかったらしい。困ったものだと嘆息しつつ、文机に手をついて、腰を上げた。




