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帰還の蝶【長編・本編全話登録済み】  作者: 清水 朝基
第七章 薔薇の散り時
35/48

再生

 形式的な〈蕾開き〉から明けた翌日、最上寵童としての活動が、本格的に再開した。

 約四ヵ月後のメフリガーンには、王〈シャー〉の婚礼の式が執り行われる。そうしてナスリーンは立后し、後宮へと戻る手筈になっていた。

 妻を四人持てるところを三人にとどめていた、その意味。

 メフルダードは、単純に、ナスリーンに己の所業を知られたくなかったのかもしれない。

 なんとも身勝手だとは思うが、憑きものが落ちたような二人の顔を見ていると、ただ恨むのは違う気がした。

(……今は、できることをやるだけ――)

 絨毯に広がる、数多の布地と装飾品。

 手に取って眺めながら、ナスリーンの好みそうな候補を選んでいく。

 夫を亡くした妻は、四ヵ月と十日間、喪に服す。明けるのを待っていては、とても準備が間に合わない。花嫁に係る委細を采配することは、最上寵童として、重要な務めだった。

 花婿と花嫁の衣装に、招待客の名簿の作成、料理の手配――為すべき仕事は山積している。

 新しい王〈シャー〉の門出を内外に示し、ファールサが安定すれば、マタラムにも、いい影響があるだろう。今はただ、将来を信じて、日々を過ごしていくほかない。

 そうして、目まぐるしく十日が過ぎ、二月の末日、その時を迎えた。


 化粧を落とし、耳飾りを外して、男物の衣を纏った姿。

 少しやつれて鋭利になった面立ちが、低く告げる。

「敵の命を助けて――さぞかし、ご気分がよろしいでしょうね」

 襲撃のあのあと、これ以上の血は流したくないと、メフルダードに願い出た。

 未遂であり、若年ということで、ラーミンは極刑を免れ、強制退宮が言い渡された。そうして黄玉の間に軟禁され、今日、〈薔薇の宮〉から去っていく。

 父親である宰相補佐官のペズマーンが官職を追われたとはいえ、古くから続く名家ダスティヤール家の出だ。

 円城内の居住権は引き続き保持しているから、〈緑の学院〉で学び続けられる。きっと、よく修めて、優秀な官吏となるだろう。

 だから、これは、せめてもの願いだった。

 ゆっくりと息を吸い、言葉を紡いでいく。

「……僕はただ、信仰に従っただけ――君達ファールサ人が、未開の異教と蔑む教えに」

 敵意が緩み、あどけない眉が、怪訝に寄る。

 淡褐色の瞳を見つめながら、静かに語る。

「僕の本当の名は、アナ・アグン・グデ・ライ・ステノゴ・ウォン・ラナン・プティ。七年前に事故で亡くなった妃のネハール――第三王女のスムナリは、僕の姉だった」

 緩やかに、利発な顔が青ざめていく。その理解の速さを、哀れに思う。

「もし、これ以上、大切な人を失いたくないと思うのなら――僕の大切な島民達にも、手を出さないでほしい」

 血色の失せた唇がわななき、震えた吐息が漏れる。おもむろに、頭が下がっていく。

「……父達の過ちを繰り返さないよう……一心に努めます……」

 ぱたぱたと、小さな膝に雫が落ちていく。

 さらに深く礼をすると、顔を上げず、そのまま辞していった。

 その、まだ華奢な背中。この先歩む人生が、せめて自身のものであれるよう、哀しく祈った。


 *


 サカ暦七七三年マラ・サドハ(閏月十三番目)の月の十日。

 乾季の盛りの晴天を、のんびりと雲が流れていく。

 口いっぱいに広がる、クラムビル(ココナッツ)糖をまぶした揚げグダン(バナナ)の、ねっとりとした甘み。

 乾燥サンテン(ココナッツミルク)を纏った方も捨てがたいが、やはり、このわかりやすい甘さは格別だ。

 昼過ぎの休憩時。

 風のよく通る涼しい縁側で、おやつを食べて昼寝をする時ほど、心穏やかで幸せなひとときはない。

 と、傍らで、スカレミィの不満そうな声が上がる。

 振り見れば、あどけない膨れっ面があった。

「姉上、ずるいわ。サンテンつきは、わたしが食べたかったのに」

「え、だって――さっき、具なしがいいって、言ったじゃない」

「見ていたら、食べたくなったの!」

 途端、とめどない言葉の応酬が始まる。

 男の子のように、取っ組み合いの喧嘩をしないだけましなのかもしれないが、これはこれで、入る余地がなくて困る。

(……割って入ったところで、思いきり睨まれるんだがな……)

 今年、長女のスイムティは十二歳、次女のスカレミィは十一歳になった。

 子供の成長は早いもので、すっかり難しい年頃になってしまった。ただ可愛いと和んでいた日々が、今は遠い。

 そして、二人には、もし、身体について気になることがあれば、スアングティの元へ行くよう話してある。

 父親としてできることといえば、母親からの知らせを待ちながら、嫁ぎ先を考えることくらいだ。それはそれで重要だが、なんとももどかしいものである。

 不意に静かになって、横目で様子を窺う。

 どうやら、半分ずつ食べることになったらしい。

 最初からそうすればいいのにと、内心溜め息をつく。こういう時、女親がいれば、少しは収まりもいいのだろうか。

 遠く、玄関門から、呼び声が聞こえる。

 よく使者としてやってくる、一〈シジ〉の大臣の召使いだ。

 出迎えに行こうと腰を上げかけたスイムティを手で制し、立ち上がる。

 悪鬼除けの石製の衝立の向こう、扉を開けると、はたして、階下で見上げる姿があった。

 召使いが、恭しく礼をして告げる。

「真昼の最中(さなか)にご無礼いたします。火急のご用にて、宮にお越しいただきたく、参りました」

 侵略から七年余り。

 文官による支配が定着し、ここ数年は、目立った事件はなかった。いったい、何が起きたというのか。

 不安が渦巻きつつも、明確に答える。

「わかった。支度をしてくるから、待っていてくれ」

 衝立の前の日陰に入るよう促して、扉を閉める。足早に縁側に戻ると、残りの揚げグダンを口に突っ込んで、母屋へと向かった。


 目の前に広がる光景に、心が震える。

 マタラムが解放された。ついに、ステノゴは成し遂げたのだ。

 一〈シジ〉の大臣に始まり、三大臣が、和平条約に署名していく。

 最後に、ファールサの使者と、それぞれに文書を持ち合って、深く礼を交わした。

 思うところは、もちろんある。当然のように、謝罪はなかった。しかし、今は、この事実を噛み締めたかった。

(……これで、あの子を島に戻すことができる……やっと……やっと――)

 最上寵童は、正后の名代だ。死んだとあれば、何かしらの知らせがあるはずだ。

 あの時は、確かに、帰るつもりはないと言っていた。

 しかし、こうして、マタラムが解放された今なら、もっと落ち着いて、話ができるだろう。

 故郷の海と空の下、兄弟で、静かに家族の魂を弔えるなら――ほんの少しでも、その深い傷を、癒すことができたなら。

 聖なるクヌニ山を振り見る。

 その向こうには、広大な海が遠く続き、遥かには、大陸が広がっている。

 ファールサが撤退するのならば、船に同乗し、渡ることもできるだろう。希望が、じんわりと、胸を温めた。

「――バガワド様」

 呼びかけられて、視線を戻す。

 三大臣が、感無量の様子で揃っていた。一〈シジ〉の大臣が、条約書を差し出す。

「この七年余り――長い日々でございました……」

 手に取って、まじまじと眺める。

 ファールサ語とヤワ語で書かれた条文。

 改めて読むと、全く対等な内容で、本当に驚く。新しい王〈シャー〉は、きっと、ひとかどの人物なのだろう。

 感慨深く、溜め息をつく。丁寧に返すと、心から伝えた。

「皆、これまで苦労をかけた。今後は、スティンヴァーリとの交易も、再び活発になるだろう。何もかも元通り、とは難しいかもしれないが、皆で力を合わせて、マタラムを、平和で豊かな国にしていこう」

「はい――私ども一同、今まで以上に、尽力してまいります」

 感涙にむせび泣く面々。喉が震えて、視界が滲む。

 失ったものは数多あれど、確かに息づくものは残っている。少しずつ、一歩ずつでも、皆で歩んでいけたらと願う。

 泣き濡れた顔を見合わせて、へろへろに笑い合う。右手で目元を拭い、鼻をすする。

 そうして、仕事に戻ろうと促しかけた、その時。

 どんと、突き上げる衝撃が、全身を襲う。一瞬、足が地面から離れ、後ろから倒れそうになる。

「――バガワド様……ッ!」

 二〈ロロ〉と三〈テル〉の大臣の、二本の腕。素早く伸びて、しかと僧衣を握る。

 かろうじて皆で掴み合って耐え、しゃがみ込んで、頭を中心に収める。

 激しい揺れの中、クヌニ山よ、鎮まれ、とひたすらに読経する。

 必死に唱和する、三つの声。そこかしこで、慌て怯えるファールサ人官吏をなだめる声と、経を唱える声が響く。

 一〈シジ〉の大臣が取り落とした条約書を見つめる。

(シワよ、ブラフマよ、ウィスヌよ。尊き三神よ。この和平は過ちであると仰るのですか……!)

 ここ数年、これほどの地揺れはなかった。

 聖なるクヌニ山の怒りだというのなら、マタラムはファールサに屈し続けよ、と告げていることになる。

 そんなはずはなかった。この国は、この島々は、古くから、マタラム人のものだ。大陸から来た自分達に咎があっても、島民達に非があるはずがない。

 と、衝撃が、身体から消える。

 おもむろに、頭を上げて見渡す。誰ともなく、呟く声が聞こえる。

「……止まった……?」

 あたりを見回しつつ、慎重に立ち上がる。

 もはや、揺れは感じなかった。ほっと、胸を撫で下ろす。

「ずいぶんと……大きかったですなあ……」

 二〈ロロ〉の大臣が、青ざめてこぼす。頷きながら、条約書を拾い上げ、一〈シジ〉の大臣に渡す。

 恐縮して、受け取る手。その、微かな震え。

 地揺れに慣れたマタラム人でも、これほど規模が大きいと、やはり恐ろしいものだ。特に、このめでたい日に、クヌニ山が怒りを示したとなれば、なおさらだろう。

 努めて穏やかに、三人に言葉をかける。

「まずは、人や建物の被害がないか、確認してくれ。状況を把握し次第、今後の対応を決めよう」

 動揺していた顔が、徐々に色を取り戻していく。

 一同、威儀を正し、一〈シジ〉の大臣が応えた。

「――承知いたしました。直ちに取りかかりましょう」

 散開して、廷臣達に指示を出す、三つの背中。

 右手で胸を押さえると、ゆっくりと息を吐き出した。


 文机にクラムビル紙を置き、竹筆を手に取る。どう書いたものかと思案する。

 あの地揺れから、一ヵ月。

 幸い、被害は最小限で、棚のものが落ちるなどして、各家で掃除が必要な程度で済んだ。島民達の人的被害もなく、スアングティも娘達も無事だった。

 しかし、安堵したのも束の間、年が変わり、カサ(一番目)の月に入っても、事態は収まらなかった。

 小さく短い揺れが頻繁に起き、カラトゥアン中に、不穏な空気が漂い始めていた。

 そんな状況で、マタラムから離れようとしたことは、無謀だったのかもしれない。

 帰路につくファールサ軍に便乗して、ステノゴに会いに、シャフリカシャンへ行きたいと、三大臣に告げた途端、猛反発を受けた。

 怯えてすがりつく面々。

 白い方がいらっしゃらなければ、クヌニ山のお怒りは、さらに激しくなりましょう、と平伏して、必死に懇願する姿。折れないわけにはいかなかった。

 せめて、互いの近況を交わし、待っていることを伝えたい。

 そう思って、手紙を送ることにしたのだ。

 ただ、こうして、改めて紙面に向き合ってみると、何を書けばいいか、わからなかった。

 七年余りもの間、慰み者にされ、辱められてきたのだ。その心を思うと、何を書いても陳腐な気がした。

 縁側の向こう、乾季の濃い影の下、大きな買い物籠を抱えて、スメラティが歩いてくる。

 娘達は、荷物持ちに出かけなかったらしい。困ったものだと嘆息しつつ、文机に手をついて、腰を上げた。

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