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帰還の蝶【長編・本編全話登録済み】  作者: 清水 朝基
第七章 薔薇の散り時
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太陽の王〈シャー〉

 意識が浮上し、ゆっくりと瞼を開ける。

 傍らで聞こえる、静かな寝息。

 目を向ければ、一段低い絨毯に敷いた寝具の上で、上掛けにくるまるスヌンゴがいた。おもむろに、生きているのだという実感が湧く。

 あのあと、気持ちが落ち着いてから、メフルダードと協議して、今後のことを一通り決めた。そうして、ペーローズに送り届けられ、皆と再会した。

 スヌンゴは、別れて即座に、手紙を読んだらしい。

 泣き狂いながら、ヤワ語で嘆かれ、ファールサ語で罵られた。きっと、この先も、あれほど怒った姿を見ることはないだろう。

 もう大丈夫だと、何度も伝えたものの、傍にいると言って、頑として譲らなかった。

 その結果が、今のこの状況だ。

 昨夜、寝る段になって、スヌンゴは、自室から持ち出した寝具を広げると、男物の簡素な帯を取り出した。

 差し出すよう、乞われた左手。

 怪訝に思いながらも、言う通りにしたら、手首を縛られた。固く結ばれたもう一方は、スヌンゴの右手に繋がっている。

 そこまでするなんて、正直驚いたが、涙を浮かべて歯を食い縛った顔を見たら、ほどいてほしいなどとは、到底言えなかった。

 涙の跡が幾重にも残る、黄褐色の面立ち。

 いつも早起きなのに、主人より寝坊するなんて、本当に珍しかった。もしかしたら、何度も起きて確認し、泣いていたのかもしれない。

 視界が滲み、涙が一筋、耳へと伝っていく。繋がれた帯から、じんわりと、ぬくもりが広がっていく。

 そっと、吐息のように呟く。

「……ごめんね、スヌンゴ……酷いことを……したね……」

 生きてしまった。どこかで、そう、思っていた。

 しかし、死ぬのは、まだ先でもいいのだ。大切な人を――生きてほしいと望んでくれる人達を悲しませてまで、成し遂げることではない。

 優しく微笑む、紫の瞳を思い起こす。申し訳なさが、胸を刺す。

(姉上……どうか、許してください……僕は、もう少しだけ……みんなのために、生きてみたいのです)

 姉なら、きっと、頷いてくれるはずだ。

 勝手な空想でも、今は、しっくりと腑に落ちた。

 おもむろに、黄褐色の瞼が開く。数回瞬いて、濃茶色の瞳に光が宿る。微笑んで、そっと挨拶する。

「おはよう。いい朝だね」

 スヌンゴが、はっとして跳ね起きる。姿勢を正そうとして、帯に絡まり、派手につんのめった。

 羞恥に、うっすらと上気した頬。改めて正座し、深く頭を下げる。

「おはようございます。……お側にいながら、寝坊してしまい、誠に申し訳ございません」

 どこか、不機嫌な調子。無理もない。

 淡く苦笑しながら、目顔で頷いて、帯を引っ張らないよう、慎重に起き上がる。

「厠に、行きたいのだけれど……」

「――では、参りましょう」

 きっぱりと告げて、スヌンゴが、立ち上がろうと膝をつく。

 さすがに外してくれると思っていたので、戸惑って、眉尻を下げる。

「……えっと……スヌンゴ?」

 引き結んで、わななく口元。濃茶色の瞳が、おもむろに滲んでいく。

「ご不浄にお入りになるところを見届けるまでは、絶対に嫌です」

「……スヌンゴ……」

 事の重みが、心に染みていく。

 寝台から下り、少し背の高いぬくもりに腕を回す。

「ごめんね……もう、君を置いていったりしないから……本当に、ごめんね……」

 途端、きつく抱き締められる。

 振り絞るように泣く声。何度も名を呼んで掻き抱く、温かな腕。

 遠く、夜明け前の礼拝を知らせる声が聞こえる。肩越しに、薄明の光が、瀟洒な絨毯を照らし始めていた。

 その、一日の始まりの輝き。新しい、今日という日。

 そっと、瞼を閉じる。かけがえのない友の声を聴きながら、伝い落ちる涙の温かさを感じた。


 その日の昼、主だった文官と軍人が宮殿に集まり、一斉に正午の礼拝を終えると、メフルダードは、王〈シャー〉位を継いだことを宣言した。

 その意思表明は、ファールサを代表する導師達により承認され、ここに、新たな王〈シャー〉が誕生した。

 メフルダードは早速、スティンヴァーリと不戦条約を締結した。

 そして、マタラムの支配権の放棄を宣告し、三大臣宛に和平条約を持参する使者を任命した。

 今や王〈シャー〉の軍となった太守〈アミール〉軍は、メフルダードの家族を後宮に迎え、遊牧民からアスパダナを守るために、大部分がシャフリカシャンを発っていった。

 混乱が落ち着くまでの当面は、外帝将率いるスピユット戦士団が、王都防衛の補佐を担うことになる。

 こうして、大陸の西半分を占める両国の和平は成され、作戦に参加した人々は、大いに戦勝を祝った。

 また、メフルダードは、事情を知らずにいた者も、あくまで宰相を奉じていた者も、分け隔てなく祝宴に招いた。

 互いに多少の気まずさはありながらも、入り交じって、茶器と酒杯を傾け合った。

 酌人を務める侍童達をあらかた配置し終え、一段落ついた頃、外帝将から、呼び声がかかった。

「――失礼いたします」

 座って一礼し、酒器を手に取る。察して、硝子の杯に並々と注ぐ。

 案の定、外帝将は、喉頭の隆起した逞しい喉を鳴らして、一気にあおった。左手で口を拭うと、金灰色の髭面に、豪快な笑みが浮かぶ。

「いやあ、やはり、ファールサの葡萄酒は、美味ですなあ」

「恐れ入ります」

 微笑みながら、妙に感心してしまう。

 もう、酒器がだいぶ軽い。いったい、これまでに何杯飲んだのだろう。

 通りがかった給仕に追加を頼みつつ、空(から)になった杯に再び注ぐ。今度は一口だけ味わうと、外帝将は話し始めた。

「あなたに、ひとつ、尋ねたいことがありましてな」

 少しくだけた、穏やかな口調。瞬いて、首を傾げる。

「僕に、お答えできることでございましたら」

「卒院後の進路を、どうされるおつもりかと――やはり、王書官になられるのでしょうか?」

「それは――」

 答えに窮する。

 昨日で、命を終えるつもりだったのだ。考えもしなかった。

 希望すれば、文官として厚遇されるだろう。王書官に任じられれば、カースィムのように、学んできた語学を活かすこともできる。

(……でも……)

 急所に異物を突き刺される恐怖。終わりの見えない、激烈な官能。狂い叫び、果てたいと、射たいと、はしたなく懇願した。

 今のメフルダードは、驚くほどに、冷静で公正だ。残虐な様相など、微塵もない。

 ナスリーンが語った通り、ベフナームよりもずっと、王〈シャー〉にふさわしいとさえ思えた。

 長年の、降り積もってきた怨嗟。心情は理解できても、仕える気にはなれなかった。

 手元の酒器を見下ろしながら、考え考え、言葉を紡いでいく。

「……わかりません。穢れたこの身では、マタラムには帰れませんし――かといって、宮殿に留まりたいとも、思えませんから」

「なるほど――それは、そうでしょうな」

 静かに同意する横顔。

 おもむろに、金灰色の髭面が向いて、柔らかく微笑む。

「あなたさえ、もしよければですが――私の〈契り子〉になりませんか?」

 ファールサ語に訳せない、ノール語独自の単語。

 確か、養(よう)親子(しんし)ながらに、実の親子として取り扱う制度だったはずだ。

 外帝将が、革帯に提げた金属の小さな壺に触れながら、穏やかに語る。

「ご存知かもしれませんが、私の妻、シーグリッド皇妹は、〈オージンの乙女〉なのです。ゆえに、子は為せない。ただ、〈契り子〉を得れば、先の皇帝から頂戴した称号を、家名として残すことができる。妻に所縁(ゆかり)の――この、〈ムニンスブリーヴ〉を」

 ノール神話の主神オージンに、世界の出来事を聞かせる、鴉(からす)の片割れ、ムニン。その手紙、という意味のノール語。

 現皇帝アルヴァリンの妹であるシーグリッドは、病弱だったと聞く。ファールサがマタラムに侵攻する、まさに数ヵ月前に、熱病で亡くなっているはずだ。

 鈍い銀色に輝く、小さな金属製の壺。

 いつか本で読んだ通りならば、その中身は、皇妹の遺灰なのだろう。

 そして、それは、精強さが尊ばれるノール人の中でも、特に敬意を集める、優れて勇猛な戦士の証だった。

 そんな、ノール中の称賛を浴びる戦士の、養い子になる。

 小柄でひ弱な自分がふさわしいとは、到底思えなかった。

 戸惑って俯いていると、優しい声が降ってくる。

「あなたならば、家格も釣り合いますし、何より、語学に長けている。外帝将の〈契り子〉には、もってこいの逸材です。――こうして歳月を越えて、再び相見(あいまみ)えたのも、何かの縁。父祖であるノールの地で、新しい暮らしを始めてみてはどうかと、思いましてな」

 そっと、視線を上げる。

 高い眉骨の下で、春の陽光に冴える、灰色の瞳。色は異なるのに、どこか亡き父を思わせて、心が震えた。

 外帝将の養い子となり、父祖の地で、皇帝に仕える――。考えてもみなかった。

 しかし、スティンヴァーリでも、男色は忌避される行為だ。特に、受動する側は、戦士の風上にも置けない軟弱者として、強く嫌悪される。

 酒器を脇に置き、腿に手をつく。そうして深く、頭を下げた。

「……大変有難いお申し出ではございますが――僕に務まるとは思えません。どうか、ご容赦くださいませ」

 思案するように、淡く唸る溜め息。

 外帝将は、顔を上げるよう、柔らかに告げると、言葉を継いだ。

「昨日の今日だ。まだ、気持ちの整理もついていないでしょう。今年はファールサで冬を越すつもりですから、ゆっくり考えてみてください」

 きっと、答えは変わらない。それでも、心配りに溢れた思いは、温かく胸に沁みた。再び一礼し、感謝と検討の意を述べる。

 慈しみ深い、優しい微笑み。春の日差しに透けた、金灰色の髪と髭に縁取られて、満面が輝いて見えた。


 盛況のうちに祝宴を終え、安堵しつつ、役目を果たした侍童達とともに、宮殿から〈薔薇の宮〉へと続く廊下を歩く。

 薔薇局の事務室の脇を通り、入口に立った途端、むせ返るほどの芳香が、全身を包む。

 中庭に植えられた薔薇は今、見頃の真っ盛り。いつもなら心のさざめく匂いも、少しばかり、落ち着いて味わえた。

 それでも、明々後日(しあさって)には、〈蕾開き〉を迎えるのだ。

 王〈シャー〉が代替わりすると、当然、旧(ふる)い後宮と〈薔薇の宮〉は刷新される。

 メフルダードも、例外ではなく、三日間の服喪期間が明けるのと同時に、双方を解体することを決定した。

 ナスリーンとパルヴィーズ、二人の妃と娘達は、離宮に居を移し、後宮には、メフルダードの三人の妻と十五歳未満の子供達が、住むこととなった。

 一方、〈薔薇の宮〉は、制度上は解体としつつも、人員は入れ替えず、引き継ぐとした。そのため、身分は据え置かれ、最上寵童として、新しい王〈シャー〉を迎えるのだ。

 メフルダードは、侍童や従童は貧しい家庭に生まれた者が多く、勝手な事情で放り出すわけにはいかないと、理由を話した。

 しかし、だからといって、〈花見〉をしないとは言っていない。

 ナスリーンの喪が明ければ、メフルダードは念願を果たすだろう。そのために、最上寵童の地位が留保されているのだ。

 とはいえ、ファールサ人にとって、結婚と遊び〈バーズィー〉は別のところにある。積年の想い人と添えたとして、少年を抱かない理由にはならない。

 どんなに奇妙でも、それが、この地の――伝統的なファールサの、文化だった。

 ほんの束の間の安寧。

 こんなことなら、いっそのこと、何もかも剥奪して、放り出してくれればよかったとさえ思う。生き続けるとは、なんともどかしく、苦しいのだろう。

 廊下を抜け、外界と〈薔薇の宮〉とを区切る境に立つ。

 回廊に囲まれた中庭のよく見える位置で、警護に就く親衛軍人達が、恭しく頭を下げる。

 ここから先は、成年の男子ならば、王〈シャー〉のみが立ち入りを許される。労いの言葉をかけ、一歩を踏み出す。

 ふと、回廊の柱の陰で、何かが揺らめく。あっと思う間もなく、影が勢いよく飛び出してきた。

「お命、覚悟――ッ!」

 夕日に鋭く閃く光。驚く悲鳴。重く柔らかい物音。

 戸惑いながら見下ろすと、親衛軍人の一人に取り押さえられた、ラーミンの姿があった。

 床には、果物用の小刀。状況が、ゆっくりと下りてきて、血の気が引く。

「よくも! よくもベフナーム様をっ……! この異教徒めがッ!」

 馬乗りになった警護が、暴れる肢体をものともせず、縄で後ろ手に縛っていく。

 容赦なく引っ張り上げて立たせると、控えていた副付隊長が、恭しく礼をした。

「私とこの者で、捕縛者を送り届けてまいります。その間に、残りの者で、内部の安全を確保したく――立ち入りのご許可を、頂戴できませんでしょうか」

 縛られた手首を押さえられたまま、悶える少年を見下ろす。

 今にも噛みつかんばかりの形相。

 激しい憎悪に燃え、赤銅色の顔が、どす黒く染まっていた。

 それでも、その面立ちには、まだあどけなさが残っていた。この子には、まだまだ、長い人生が残っているのだ。

「……立ち入りを許可します。ただし、捕縛者は解放なさい。傷つけることはなりません。――よいですね」

 副付隊長の目に、逡巡する色が浮かぶ。しかし、次には、冷静な口調で告げた。

「承知いたしました。しかしながら、御身のご安全のためにも、黄玉の間に見張りをつけることを、お許しくださいませ」

「よいでしょう。側近団長に事の次第を説明し、必要な人員の手配を。王〈シャー〉と薔薇局長には、僕が話します」

 は、と短い返答。素早く、各自に命令が飛んでいく。

 縛めが解かれた途端、ラーミンが駆け出す。

 しかし、すかさず阻まれ、あっという間に抱えられる。うつ伏せで肩に乗せられたまま、細い手足が、じたばたともがく。

「放せ! この痴れ者がっ! 放せ! 放せ――ッ!」

 怒り狂う悲泣の絶叫が、夕空にこだまする。

 振り返って、不安そうに成り行きを見ていた一団に、言葉をかける。

「皆、怖い思いをさせましたね。見回りが終わって、安全が確保されたら、各自の持ち場に戻ってください。もし、不安なことがあれば、すぐに報告するように」

 侍童達が、居住まいを正し、一斉に立礼する。

 見渡して頷くと、供としてスヌンゴを呼び、助命を嘆願すべく、薔薇局へと足を向けた。


 全ての工程を経て、寝台の傍らに座す。

 静かに扉の開く気配。少しして現れた長躯に、深く頭(こうべ)を垂れる。

「お待ち申し上げておりました――メフルダード様」

 精悍な髭面が頷き、衣の裾をさばいて、対面に正座する。

 顔を上げると、どこか思案げな面立ちが告げた。

「過日、吾(われ)が其の方に為したこと――ナスリーンに、話しておらぬのだな」

 メフルダードとナスリーンは、従兄妹同士だ。親族として会い、会話を交わしていても、不思議ではない。

 きっと、この五日間だけでも、様々なやり取りがあったのだろう。パルヴィーズが処刑されずに済んでいるのも、そのためかもしれない。

 薄茶色の瞳を見つめて、意図を窺う。

 悔悟とも、疑問とも、つかない色。ただ事実だけを、吐き出した。

「……僕の事情とナスリーン様とは、何も関係ありませんから」

「そうか」

 静かな低い声。振り返って、宵闇に沈む片隅に呼びかける。影が揺らいで、人の形を為す。

 進み出て、居住まいを正す姿。深みのある声が、威厳をもって告げる。

「――〈庭師〉よ。薔薇は、すでに開ききっておる。どこへ行こうと等しく咲けるよう、世話をせよ」

 ジャハーンが短く返答し、恭しく頭(こうべ)を垂れる。メフルダードは頷くと、おもむろに去っていった。

 茫然として、その背中を見送る。

 生ぬるい静けさ。組み締めた両手を眺める。

「……ねえ、ジャハーン」

 目顔で応える気配。

 詮のないことだとわかっていても、言葉を止められない。

「僕は、どこにでも行けるのかな……?」

 慈しみに満ちた笑顔。幼い頃に遊んでくれた、陽気なおじさん。父祖の生まれ育った、遥かなる北方の大地。

「外帝将は、自由に行けると、言ってくださったけれど――」

 両手を、きつく握り締める。

〈追肥〉を受けた部分が、早く刺激が欲しいと叫んでいる。身の内の奥深くが、悶えてやまない。

 気を抜けば今にも、手が勝手に、はしたなくなりそうだった。

「欲してもいないのに疼くこの身体で、どうしたらいいと言うの?」

「――ならば死ぬか、ステノゴ」

 静謐な声音。

 顔を上げれば、真摯な面立ちがあった。喉が震えて、視界が滲む。

「だめだよ、ジャハーン。僕を殺したあと、君も死ぬつもりでしょ」

 無意識に、剃刀の鞘を握る手。丁寧に、濃(こま)やかに、仕事をする手。

「君は生きないと。――家族が、いるんだから」

 黒い瞳に、ゆっくりと、光が灯る。手が、膝に置かれる。

「……薔薇が正しく散れるよう、〈庭師〉として、責任をもって世話しよう」

 そっと頷いて、礼を言う。

 そうして羽織を滑らせると、おもむろに帯を解いた。

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