太陽の王〈シャー〉
意識が浮上し、ゆっくりと瞼を開ける。
傍らで聞こえる、静かな寝息。
目を向ければ、一段低い絨毯に敷いた寝具の上で、上掛けにくるまるスヌンゴがいた。おもむろに、生きているのだという実感が湧く。
あのあと、気持ちが落ち着いてから、メフルダードと協議して、今後のことを一通り決めた。そうして、ペーローズに送り届けられ、皆と再会した。
スヌンゴは、別れて即座に、手紙を読んだらしい。
泣き狂いながら、ヤワ語で嘆かれ、ファールサ語で罵られた。きっと、この先も、あれほど怒った姿を見ることはないだろう。
もう大丈夫だと、何度も伝えたものの、傍にいると言って、頑として譲らなかった。
その結果が、今のこの状況だ。
昨夜、寝る段になって、スヌンゴは、自室から持ち出した寝具を広げると、男物の簡素な帯を取り出した。
差し出すよう、乞われた左手。
怪訝に思いながらも、言う通りにしたら、手首を縛られた。固く結ばれたもう一方は、スヌンゴの右手に繋がっている。
そこまでするなんて、正直驚いたが、涙を浮かべて歯を食い縛った顔を見たら、ほどいてほしいなどとは、到底言えなかった。
涙の跡が幾重にも残る、黄褐色の面立ち。
いつも早起きなのに、主人より寝坊するなんて、本当に珍しかった。もしかしたら、何度も起きて確認し、泣いていたのかもしれない。
視界が滲み、涙が一筋、耳へと伝っていく。繋がれた帯から、じんわりと、ぬくもりが広がっていく。
そっと、吐息のように呟く。
「……ごめんね、スヌンゴ……酷いことを……したね……」
生きてしまった。どこかで、そう、思っていた。
しかし、死ぬのは、まだ先でもいいのだ。大切な人を――生きてほしいと望んでくれる人達を悲しませてまで、成し遂げることではない。
優しく微笑む、紫の瞳を思い起こす。申し訳なさが、胸を刺す。
(姉上……どうか、許してください……僕は、もう少しだけ……みんなのために、生きてみたいのです)
姉なら、きっと、頷いてくれるはずだ。
勝手な空想でも、今は、しっくりと腑に落ちた。
おもむろに、黄褐色の瞼が開く。数回瞬いて、濃茶色の瞳に光が宿る。微笑んで、そっと挨拶する。
「おはよう。いい朝だね」
スヌンゴが、はっとして跳ね起きる。姿勢を正そうとして、帯に絡まり、派手につんのめった。
羞恥に、うっすらと上気した頬。改めて正座し、深く頭を下げる。
「おはようございます。……お側にいながら、寝坊してしまい、誠に申し訳ございません」
どこか、不機嫌な調子。無理もない。
淡く苦笑しながら、目顔で頷いて、帯を引っ張らないよう、慎重に起き上がる。
「厠に、行きたいのだけれど……」
「――では、参りましょう」
きっぱりと告げて、スヌンゴが、立ち上がろうと膝をつく。
さすがに外してくれると思っていたので、戸惑って、眉尻を下げる。
「……えっと……スヌンゴ?」
引き結んで、わななく口元。濃茶色の瞳が、おもむろに滲んでいく。
「ご不浄にお入りになるところを見届けるまでは、絶対に嫌です」
「……スヌンゴ……」
事の重みが、心に染みていく。
寝台から下り、少し背の高いぬくもりに腕を回す。
「ごめんね……もう、君を置いていったりしないから……本当に、ごめんね……」
途端、きつく抱き締められる。
振り絞るように泣く声。何度も名を呼んで掻き抱く、温かな腕。
遠く、夜明け前の礼拝を知らせる声が聞こえる。肩越しに、薄明の光が、瀟洒な絨毯を照らし始めていた。
その、一日の始まりの輝き。新しい、今日という日。
そっと、瞼を閉じる。かけがえのない友の声を聴きながら、伝い落ちる涙の温かさを感じた。
その日の昼、主だった文官と軍人が宮殿に集まり、一斉に正午の礼拝を終えると、メフルダードは、王〈シャー〉位を継いだことを宣言した。
その意思表明は、ファールサを代表する導師達により承認され、ここに、新たな王〈シャー〉が誕生した。
メフルダードは早速、スティンヴァーリと不戦条約を締結した。
そして、マタラムの支配権の放棄を宣告し、三大臣宛に和平条約を持参する使者を任命した。
今や王〈シャー〉の軍となった太守〈アミール〉軍は、メフルダードの家族を後宮に迎え、遊牧民からアスパダナを守るために、大部分がシャフリカシャンを発っていった。
混乱が落ち着くまでの当面は、外帝将率いるスピユット戦士団が、王都防衛の補佐を担うことになる。
こうして、大陸の西半分を占める両国の和平は成され、作戦に参加した人々は、大いに戦勝を祝った。
また、メフルダードは、事情を知らずにいた者も、あくまで宰相を奉じていた者も、分け隔てなく祝宴に招いた。
互いに多少の気まずさはありながらも、入り交じって、茶器と酒杯を傾け合った。
酌人を務める侍童達をあらかた配置し終え、一段落ついた頃、外帝将から、呼び声がかかった。
「――失礼いたします」
座って一礼し、酒器を手に取る。察して、硝子の杯に並々と注ぐ。
案の定、外帝将は、喉頭の隆起した逞しい喉を鳴らして、一気にあおった。左手で口を拭うと、金灰色の髭面に、豪快な笑みが浮かぶ。
「いやあ、やはり、ファールサの葡萄酒は、美味ですなあ」
「恐れ入ります」
微笑みながら、妙に感心してしまう。
もう、酒器がだいぶ軽い。いったい、これまでに何杯飲んだのだろう。
通りがかった給仕に追加を頼みつつ、空になった杯に再び注ぐ。今度は一口だけ味わうと、外帝将は話し始めた。
「あなたに、ひとつ、尋ねたいことがありましてな」
少しくだけた、穏やかな口調。瞬いて、首を傾げる。
「僕に、お答えできることでございましたら」
「卒院後の進路を、どうされるおつもりかと――やはり、王書官になられるのでしょうか?」
「それは――」
答えに窮する。
昨日で、命を終えるつもりだったのだ。考えもしなかった。
希望すれば、文官として厚遇されるだろう。王書官に任じられれば、カースィムのように、学んできた語学を活かすこともできる。
(……でも……)
急所に異物を突き刺される恐怖。終わりの見えない、激烈な官能。狂い叫び、果てたいと、射たいと、はしたなく懇願した。
今のメフルダードは、驚くほどに、冷静で公正だ。残虐な様相など、微塵もない。
ナスリーンが語った通り、ベフナームよりもずっと、王〈シャー〉にふさわしいとさえ思えた。
長年の、降り積もってきた怨嗟。心情は理解できても、仕える気にはなれなかった。
手元の酒器を見下ろしながら、考え考え、言葉を紡いでいく。
「……わかりません。穢れたこの身では、マタラムには帰れませんし――かといって、宮殿に留まりたいとも、思えませんから」
「なるほど――それは、そうでしょうな」
静かに同意する横顔。
おもむろに、金灰色の髭面が向いて、柔らかく微笑む。
「あなたさえ、もしよければですが――私の〈契り子〉になりませんか?」
ファールサ語に訳せない、ノール語独自の単語。
確か、養親子ながらに、実の親子として取り扱う制度だったはずだ。
外帝将が、革帯に提げた金属の小さな壺に触れながら、穏やかに語る。
「ご存知かもしれませんが、私の妻、シーグリッド皇妹は、〈オージンの乙女〉なのです。ゆえに、子は為せない。ただ、〈契り子〉を得れば、先の皇帝から頂戴した称号を、家名として残すことができる。妻に所縁の――この、〈ムニンスブリーヴ〉を」
ノール神話の主神オージンに、世界の出来事を聞かせる、鴉の片割れ、ムニン。その手紙、という意味のノール語。
現皇帝アルヴァリンの妹であるシーグリッドは、病弱だったと聞く。ファールサがマタラムに侵攻する、まさに数ヵ月前に、熱病で亡くなっているはずだ。
鈍い銀色に輝く、小さな金属製の壺。
いつか本で読んだ通りならば、その中身は、皇妹の遺灰なのだろう。
そして、それは、精強さが尊ばれるノール人の中でも、特に敬意を集める、優れて勇猛な戦士の証だった。
そんな、ノール中の称賛を浴びる戦士の、養い子になる。
小柄でひ弱な自分がふさわしいとは、到底思えなかった。
戸惑って俯いていると、優しい声が降ってくる。
「あなたならば、家格も釣り合いますし、何より、語学に長けている。外帝将の〈契り子〉には、もってこいの逸材です。――こうして歳月を越えて、再び相見えたのも、何かの縁。父祖であるノールの地で、新しい暮らしを始めてみてはどうかと、思いましてな」
そっと、視線を上げる。
高い眉骨の下で、春の陽光に冴える、灰色の瞳。色は異なるのに、どこか亡き父を思わせて、心が震えた。
外帝将の養い子となり、父祖の地で、皇帝に仕える――。考えてもみなかった。
しかし、スティンヴァーリでも、男色は忌避される行為だ。特に、受動する側は、戦士の風上にも置けない軟弱者として、強く嫌悪される。
酒器を脇に置き、腿に手をつく。そうして深く、頭を下げた。
「……大変有難いお申し出ではございますが――僕に務まるとは思えません。どうか、ご容赦くださいませ」
思案するように、淡く唸る溜め息。
外帝将は、顔を上げるよう、柔らかに告げると、言葉を継いだ。
「昨日の今日だ。まだ、気持ちの整理もついていないでしょう。今年はファールサで冬を越すつもりですから、ゆっくり考えてみてください」
きっと、答えは変わらない。それでも、心配りに溢れた思いは、温かく胸に沁みた。再び一礼し、感謝と検討の意を述べる。
慈しみ深い、優しい微笑み。春の日差しに透けた、金灰色の髪と髭に縁取られて、満面が輝いて見えた。
盛況のうちに祝宴を終え、安堵しつつ、役目を果たした侍童達とともに、宮殿から〈薔薇の宮〉へと続く廊下を歩く。
薔薇局の事務室の脇を通り、入口に立った途端、むせ返るほどの芳香が、全身を包む。
中庭に植えられた薔薇は今、見頃の真っ盛り。いつもなら心のさざめく匂いも、少しばかり、落ち着いて味わえた。
それでも、明々後日には、〈蕾開き〉を迎えるのだ。
王〈シャー〉が代替わりすると、当然、旧い後宮と〈薔薇の宮〉は刷新される。
メフルダードも、例外ではなく、三日間の服喪期間が明けるのと同時に、双方を解体することを決定した。
ナスリーンとパルヴィーズ、二人の妃と娘達は、離宮に居を移し、後宮には、メフルダードの三人の妻と十五歳未満の子供達が、住むこととなった。
一方、〈薔薇の宮〉は、制度上は解体としつつも、人員は入れ替えず、引き継ぐとした。そのため、身分は据え置かれ、最上寵童として、新しい王〈シャー〉を迎えるのだ。
メフルダードは、侍童や従童は貧しい家庭に生まれた者が多く、勝手な事情で放り出すわけにはいかないと、理由を話した。
しかし、だからといって、〈花見〉をしないとは言っていない。
ナスリーンの喪が明ければ、メフルダードは念願を果たすだろう。そのために、最上寵童の地位が留保されているのだ。
とはいえ、ファールサ人にとって、結婚と遊び〈バーズィー〉は別のところにある。積年の想い人と添えたとして、少年を抱かない理由にはならない。
どんなに奇妙でも、それが、この地の――伝統的なファールサの、文化だった。
ほんの束の間の安寧。
こんなことなら、いっそのこと、何もかも剥奪して、放り出してくれればよかったとさえ思う。生き続けるとは、なんともどかしく、苦しいのだろう。
廊下を抜け、外界と〈薔薇の宮〉とを区切る境に立つ。
回廊に囲まれた中庭のよく見える位置で、警護に就く親衛軍人達が、恭しく頭を下げる。
ここから先は、成年の男子ならば、王〈シャー〉のみが立ち入りを許される。労いの言葉をかけ、一歩を踏み出す。
ふと、回廊の柱の陰で、何かが揺らめく。あっと思う間もなく、影が勢いよく飛び出してきた。
「お命、覚悟――ッ!」
夕日に鋭く閃く光。驚く悲鳴。重く柔らかい物音。
戸惑いながら見下ろすと、親衛軍人の一人に取り押さえられた、ラーミンの姿があった。
床には、果物用の小刀。状況が、ゆっくりと下りてきて、血の気が引く。
「よくも! よくもベフナーム様をっ……! この異教徒めがッ!」
馬乗りになった警護が、暴れる肢体をものともせず、縄で後ろ手に縛っていく。
容赦なく引っ張り上げて立たせると、控えていた副付隊長が、恭しく礼をした。
「私とこの者で、捕縛者を送り届けてまいります。その間に、残りの者で、内部の安全を確保したく――立ち入りのご許可を、頂戴できませんでしょうか」
縛られた手首を押さえられたまま、悶える少年を見下ろす。
今にも噛みつかんばかりの形相。
激しい憎悪に燃え、赤銅色の顔が、どす黒く染まっていた。
それでも、その面立ちには、まだあどけなさが残っていた。この子には、まだまだ、長い人生が残っているのだ。
「……立ち入りを許可します。ただし、捕縛者は解放なさい。傷つけることはなりません。――よいですね」
副付隊長の目に、逡巡する色が浮かぶ。しかし、次には、冷静な口調で告げた。
「承知いたしました。しかしながら、御身のご安全のためにも、黄玉の間に見張りをつけることを、お許しくださいませ」
「よいでしょう。側近団長に事の次第を説明し、必要な人員の手配を。王〈シャー〉と薔薇局長には、僕が話します」
は、と短い返答。素早く、各自に命令が飛んでいく。
縛めが解かれた途端、ラーミンが駆け出す。
しかし、すかさず阻まれ、あっという間に抱えられる。うつ伏せで肩に乗せられたまま、細い手足が、じたばたともがく。
「放せ! この痴れ者がっ! 放せ! 放せ――ッ!」
怒り狂う悲泣の絶叫が、夕空にこだまする。
振り返って、不安そうに成り行きを見ていた一団に、言葉をかける。
「皆、怖い思いをさせましたね。見回りが終わって、安全が確保されたら、各自の持ち場に戻ってください。もし、不安なことがあれば、すぐに報告するように」
侍童達が、居住まいを正し、一斉に立礼する。
見渡して頷くと、供としてスヌンゴを呼び、助命を嘆願すべく、薔薇局へと足を向けた。
全ての工程を経て、寝台の傍らに座す。
静かに扉の開く気配。少しして現れた長躯に、深く頭を垂れる。
「お待ち申し上げておりました――メフルダード様」
精悍な髭面が頷き、衣の裾をさばいて、対面に正座する。
顔を上げると、どこか思案げな面立ちが告げた。
「過日、吾が其の方に為したこと――ナスリーンに、話しておらぬのだな」
メフルダードとナスリーンは、従兄妹同士だ。親族として会い、会話を交わしていても、不思議ではない。
きっと、この五日間だけでも、様々なやり取りがあったのだろう。パルヴィーズが処刑されずに済んでいるのも、そのためかもしれない。
薄茶色の瞳を見つめて、意図を窺う。
悔悟とも、疑問とも、つかない色。ただ事実だけを、吐き出した。
「……僕の事情とナスリーン様とは、何も関係ありませんから」
「そうか」
静かな低い声。振り返って、宵闇に沈む片隅に呼びかける。影が揺らいで、人の形を為す。
進み出て、居住まいを正す姿。深みのある声が、威厳をもって告げる。
「――〈庭師〉よ。薔薇は、すでに開ききっておる。どこへ行こうと等しく咲けるよう、世話をせよ」
ジャハーンが短く返答し、恭しく頭を垂れる。メフルダードは頷くと、おもむろに去っていった。
茫然として、その背中を見送る。
生ぬるい静けさ。組み締めた両手を眺める。
「……ねえ、ジャハーン」
目顔で応える気配。
詮のないことだとわかっていても、言葉を止められない。
「僕は、どこにでも行けるのかな……?」
慈しみに満ちた笑顔。幼い頃に遊んでくれた、陽気なおじさん。父祖の生まれ育った、遥かなる北方の大地。
「外帝将は、自由に行けると、言ってくださったけれど――」
両手を、きつく握り締める。
〈追肥〉を受けた部分が、早く刺激が欲しいと叫んでいる。身の内の奥深くが、悶えてやまない。
気を抜けば今にも、手が勝手に、はしたなくなりそうだった。
「欲してもいないのに疼くこの身体で、どうしたらいいと言うの?」
「――ならば死ぬか、ステノゴ」
静謐な声音。
顔を上げれば、真摯な面立ちがあった。喉が震えて、視界が滲む。
「だめだよ、ジャハーン。僕を殺したあと、君も死ぬつもりでしょ」
無意識に、剃刀の鞘を握る手。丁寧に、濃やかに、仕事をする手。
「君は生きないと。――家族が、いるんだから」
黒い瞳に、ゆっくりと、光が灯る。手が、膝に置かれる。
「……薔薇が正しく散れるよう、〈庭師〉として、責任をもって世話しよう」
そっと頷いて、礼を言う。
そうして羽織を滑らせると、おもむろに帯を解いた。




