包囲
正午の礼拝を済ませ、食堂で昼食を摂っていた頃、教師が慌てた様子で、帰宅するよう、学生達に告げて回った。
聞けば、外帝将率いるスピユット戦士団が、ブローノード門の前に陣取ったという。
太守〈アミール〉軍も、円城の外縁に迫っており、アスパダナ門に到着するのも、時間の問題だった。
教師達は、動揺する学生を速やかに誘導し、帰る方向が同じ者をまとめて、集団下院させた。徒歩や馬車、それぞれの状況に合わせて、皆一斉に家路についた。
〈薔薇の宮〉に着くと、スヌンゴが出迎え、平静な調子で尋ねた。
「お召し替えは、いかがいたしましょう?」
不安が滲みながらも、冷静な侍童達。スヌンゴが落ち着かせてくれたのだろう。
有難く、三つの衣装盆に収められた衣を眺める。
その中の、真ん中の揃えを指し示す。スヌンゴが承知の意を告げ、着替えを担当する侍童達が寄ってくる。
男物の色柄の少ない羽織が肩から滑り、一色の帯が解かれる。彩度を抑えた上衣と下衣を脱ぎ、肌着だけの姿になる。
そうして、寵童用にあつらえられた衣装を纏った。
形は男物だが、丈が長く、布地は贅を凝らして、華美そのものだ。
それでも、この揃えは、少し控えめな意匠だった。
誰の贈り物でもない、自ら布地を選んで、仕立てさせた衣。初めて着た日の、輝く笑顔が心に浮かぶ。
――わあっ! 兄上、お似合いですね!
ディーダム教でも、自死は、神の与えた命を捨てる大罪だ。遺体は葬られず、野に捨て置かれる。
それでも、もし、アフシンが亡骸を目にする機会があるのなら、綺麗な姿でいたかった。可愛いと言ってくれた姿を、覚えていてほしかった。
羽織を纏って座り、首に前掛けが結ばれる。
顔が蒸留水で清拭され、薔薇水と香油で整えられた。
しばらくして、スヌンゴから声がかかる。瞼を開ければ、上品であでやかな顔が、鏡に映った。美しい仕上がりに、ほっと息をつく。
不思議なもので、化粧をしていない方が、もはや落ち着かない。
物心ついてからのほとんどを、この容貌で過ごしてきた。不本意だったはずが、いつの間にか、馴染んでしまっていた。
手渡された櫛で砂埃を落とし、香油で髪を整える。断りがあって、前掛けが外される。
最後に、刺繍の施された円筒型の帽子が被されて、完成だ。
鏡で収まりを確認し、ひとつ頷く。道具類を片づけ、控えの位置につこうとしたスヌンゴに、声をかける。
「侍童と従童を問わず、みんなを青玉の間に集めて。入りきらない子達は、年長者の侍童を配置して、緑玉の間に。散らばっているより、警護しやすいし、不安も少しは減るだろうから」
「承知いたしました。直ちに、差配いたしましょう」
得心して、年長の侍童達に、素早く指示を出していく。
居残る者と知らせに回る者とに分かれ、使者役は、さらに二人組ずつとなって、足早に居室を辞していった。
途端に、あたりに静寂が漂う。
年少の侍童達の、不安げな面立ち。あえて、明るい口調で指図する。
「さあ、せっかく集まるのだから、お茶にしましょう。とりあえず、今あるだけで用意して、集合し終えたら、厨に行く係を、改めて決めましょうか」
「……ご相伴にあずかっても、よろしいので……?」
年長の侍童が、遠慮がちに尋ねる。柔らかに微笑んで、頷く。
「――もちろん。こういう時こそ、楽しく過ごさないとね」
やったあ、と飛び上がる、幼い歓声。すかさず振り返って睨まれ、しまったと、一斉に首を引っ込める。
年長の侍童はひとつ咳払いすると、向き直って威儀を正し、恭しく礼をした。
「お心遣い、誠に痛み入ります。御意の通りにいたしましょう」
給茶器に切子細工の茶器、菓子盆、果物籠。
食事用の小さめの絨毯に揃えば、一気に景色が華やいだ。
熱々の茶を吹いて、口をつける。春にふさわしい芳醇な香りが、鼻を抜けていった。
ほっと息をつきつつも、様子を窺いながら喫茶する、年少の侍童達。菓子がこんもりと載った盆を、手で差し示す。
「僕は、お腹いっぱいだから――どうぞ、遠慮しないで」
あどけない面々が、ぱあっと輝く。
甘い菓子を頬張り、満面の笑みを咲かせる、可愛らしい光景。
不安はすっかり掻き消えていた。安堵しつつ、茶を味わう。
開け放した窓の向こうで、小鳥のさえずりが、朗らかに渡っていった。
それから、ほどなくして、最初の一団が到着した。
温かく迎え入れ、茶を勧める。菓子や果物とともに一息つけば、怯えていた表情が、ほっと緩んだ。
そうして、続々と集まった侍童と従童達で、〈薔薇の宮〉で最も広い青玉の間も、いっぱいになってしまった。
人数を把握し、緑玉の間に振り分けつつ、厨へ行く人員を指示した。年長の侍童達が、手際よく、年少の侍童や従童達を采配していく。
全ての手配が一段落し、ずいぶんと賑やかになった頃、そっと、スヌンゴが耳打ちした。
「黄玉の間の皆様はいらっしゃらない、とのことにございます」
「そう……ありがとう」
〈花見〉が再開されてから、八ヵ月半。
ベフナームは、毎夜のように訪ねてきた。それはつまり、ラーミンの元へは通っていない、ということだ。
ただの敵意ではない、明確な嫉妬と憎悪。
まだ十四歳になったばかりだというのに、その形相は、痛ましいほどに、少年らしさを失っていた。
メフルダードの目的は、ベフナームを殺し、王〈シャー〉位を手に入れることだ。万が一、戦いが激化しても、〈薔薇の宮〉まで累が及ぶ可能性は低い。
それでも、慕う相手の命を奪うのだ。せめて、その身の安全は守りたかった。
そっと、黄褐色の耳元に返す。
「ここは大丈夫だから、黄玉の間の警護を手厚くするよう、付隊長に伝えて」
「――承知いたしました」
一礼して、スヌンゴが、侍童を一人連れて退室していく。安全のために、必ず二人組で行動するようにと、申し伝えていた。
扉が閉まるのと同時に、遠く、轟音が噴き上がった。
斜め左手――北東のアスパダナ門の方から、土煙が、もうもうと昇っている。ブローノード門のある背後からも、けたたましい音が響いた。
悲鳴が上がり、皆が一斉に、身を寄せ合う。
べそをかく子をなだめる声。どこからともなく、お母さん、と呟く涙声が漂う。
「――みんな、聴いて」
決然と顔を上げ、背筋を伸ばす。
不安や怯えに揺れる、数多の瞳。穏やかに微笑んで告げる。
「君達は、僕が守ります。この命に代えても、必ず、誰一人欠けることなく乗りきると、約束しましょう」
「……で、でもっ……ノール人は、とても大きくて、おそろしいって……ディーダム教徒の子どもを、食べちゃうって……」
ざわっと、一気に動揺が広がる。丈の高い年長者達に、注目が集まる。
青ざめた、白雪の面々。立ち上がろうと身じろぎしたところで、鋭く声を飛ばす。
「――静かに」
完全に沈黙が下りる瞬間を待つ。
恐怖に染まった無数の視線を受け止めて、柔らかに語りかける。
「ここには、父祖の血筋も、生まれた国も、異なる者達が集っています。――しかし、それでも、皆ともに、この〈薔薇の宮〉で暮らしてきました。ノール人の血を持つ侍童や従童と、親しい間柄の者もいるはずです」
赤銅色、白色、黄色、赤褐色――様々な肌と顔立ちの少年達が、隣で寄り添う仲間を見つめる。それぞれの思い出が、多様な色の瞳に去来する。
「今、起こっているのは戦です。甘いことは言いません。ただ――友と親しみ、ともに日々を過ごしてきた者を貶めるような振る舞いだけは、慎みなさい」
「……青薔薇様……」
どこからともなく、感嘆の声が漏れる。
おもむろに、弛緩していく空気。
散り散りになりかけていた輪が、再び収束し、容姿を問わず、集っていく。謝り、許す声が、さざめいて広がる。
遠く響く雄叫び。数多の馬が駆ける轟き。
しかし、もう誰も、悲鳴を上げる者はいなかった。
バルバット(卵型の弦楽器)の得意な侍童が、思いついて演奏を始めたのを皮切りに、歌に舞い、詩と、得意分野を持ち寄り、賑やかな茶会が始まった。
見目麗しい侍童達の、華やかな舞い。歌声。そして――生涯最後の舞いと詩。
紺碧の海。さざめく潮騒。柔らかな雲が、ゆったりと流れる、快晴の青空。聖なるクヌニ山。素朴で朗らかな島民達。
――常夏の、美しい故郷。
(どうか、神々の平和が成されますように。皆が、心穏やかに、日々を暮らせますように――)
宮殿の方角から、勝鬨が上がる。春の空が、夕暮れに染まり始める頃だった。
訪いを告げる音に、近くにいた侍童が扉を引き開ける。
現れたのは、ペーローズだった。
鎧姿に驚く少年達を掻き分け、大股に歩んでくる。恭しく立礼すると、重々しい声で告げた。
「我ら、力及ばず敗北し――王〈シャー〉は、敵方に捕らえられましてございます」
「わかりました。行きましょう。案内なさい」
は、と短い返答。
供として、ついてこようとしたスヌンゴを、手で制す。向き直って相対し、そっと右手を取った。
「――スヌンゴ」
これまで、与えられるだけの教養を、余さず授けてきた。
気働きの利く、この上ない近習だ。きっと、ファールサでも、マタラムでも、十分にやっていける。
「教科書箱に、手紙が入っているから。あとは頼んだよ」
「な、何を……仰って……」
震える声。見開いた、濃茶色の瞳。切なさとともに、温かさが、心を満たす。
たった一人。それでも、守れた。
生まれてからずっと、ともに生きてきた――このかけがえのない、故郷の友を。
「今までありがとう。――さようなら」
微笑みを残し、するりと離れる。
息を呑む声。弾け飛んで、悲泣の声が突き抜ける。
「お待ちください……! 王子! ステノゴ王子! 王子――ッ!」
外帝将を始めとする戦士達と、メフルダードを将に奉じる太守〈アミール〉軍の兵士達に囲まれて、その姿はあった。
近衛付隊の親衛軍人に、縛られた手首を押さえられ、膝をつく巨体。
歩み寄れば、はっと顔を上げて、肥え太った喉が、情けない声を吐く。
「おお、シャーグルよ! 参ったか!」
期待に輝く髭面。事ここに及んでも、真実に気づかないとは。
冷え冷えと見下ろして告げる。
「……僕の父祖は、スティンヴァーリの皇弟にございますよ、ベフナーム様?」
焦茶色の瞳が瞬く。
贅肉に埋もれた首をひねり、傍らにそびえ立つ外帝将を、なんとか振り見る。冷静な重低音が、種明かしする。
「青薔薇様には、ずいぶんと助けていただいた。これほど順調に事が運ぶとは――まさに、嬉しい誤算ですな」
おもむろに、黒い髭面が青ざめていく。
見上げて瞪る、肉厚な瞼に埋もれた目。わななく口元が嘆く。
「な、なにゆえだ……シャーグルよ。そちには、ことさら、目をかけておったというに」
はっとして、肥えた膝がにじり寄る。縄の軋む音。粘りつく声が、絡んでくる。
「おお、そうか! 新しい衣がほしいか? それとも首飾りか? そちは、何を身につけても、愛らしいゆえの。何でも、申してみよ」
「……どうせ、全て剥がしてしまうのに?」
いつも苦しかった。
少しでも心があったなら、痛くても、まだ納得はできたかもしれないのに。
「我が可愛い小鳥よ。今なら、まだ許そう。また、いとしんで、愛でてやろう。――のう、シャーグル?」
一歩下がる。メフルダードに、目顔で合図する。
鞘走り、湾曲した刃が、夕陽に冴える。
「愛しておったのだ……! シャーグルッ!」
斬撃が閃く。肥え太った頭が転がる。
見開いた目。垂れ下がった顎。滲んだ目尻を拭う。
「……さようなら、ベフナーム様」
ふわりと、風が頬を撫でる。懐の小瓶を取り出す。
(姉上……今、そちらへ参ります)
蓋を抜く。外帝将が叫んで、腕を伸ばす。喉に注ぐ。
甘く――優しい味。
「おい、水を! 早くッ!」
咳き込む中、金灰色の髭面が迫る。
怒ったような、泣いているような声が、必死に問いかける。
「愚かなことを! 王子よ、何の毒を飲んだ⁉」
首を振る。
抱えられて、水が喉を柔らかく滑っていく。指を突っ込まれかけて、ようやく押しとどめる。
「……毒……では、ありません……」
灰色の目が瞬く。小瓶を握り締めて、息で笑う。
「僕は、毒のつもりでしたが……用意させた者が、偽ったようです」
それは、クラムビル(ココナッツ)水だった。やはり、ジャハーンは、どこまでも〈庭師〉なのだ。
外帝将が、安堵の溜め息をつく。
「……そうか――ああ、驚いた。何のために戦いを仕掛けたか、わからなくなるところだった」
瞬いて、凝視する。
険しい顔立ちを緩め、三つ編みにした金灰色の髭が微笑む。
「苦境にあるあなたを助けたい――そう思ったからこそ、皇帝様にも、強く働きかけたのですよ」
「しかし……僕は、もう……」
姉をたった一人、置いていくわけにはいかなかった。
どれほど浄めても、悪鬼となるのだ。ともに、この地に災いをもたらせるなら、本望だった。
「シワの教えは、理解しているつもりです。しかし、あなたはまだ若い。試しに――もう少しだけ、生きてみませんか? その小瓶を渡した者も、きっと、そう願っているでしょう」
夕陽を透かす硝子を見つめる。
クラムビルの木は、シャフリカシャンには生えていない。
沿岸部なら、実が流れ着いて自生しているかもしれないが、需要がなければ、通常の流通には乗らない。どうやって手に入れているのだろうと、ずっと不思議だった。
小瓶を抱き締める。八年の記憶が、去来する。
「これまで、一人でよく頑張りましたな。これからあなたは、自由に行ける」
ぱたぱたと、握った手に雫が落ちる。
逞しく温かな胸に収まって、声を振り絞って泣いた。




