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帰還の蝶【長編・本編全話登録済み】  作者: 清水 朝基
第六章 終いぞめの頃
31/48

血の〈名声〉

 ジャハーンの厳しい診察を受けて十一日目、とうとう療養終了の診断が下った。

 その翌日の今日から、まずは、快復の祝いに訪れる人々の応対をすることとなった。

〈薔薇の宮〉の関係者に始まり、一日一庁ずつ。代表者、もしくは高官の数名に限り、という〈庭師〉の厳重な条件つきだ。

(――過保護というか、何というか)

 それでも、手厚い看護のおかげで、完全にとまではいかないまでも、青薔薇と呼ばれるにふさわしい見目に戻れた。むしろ、儚げな雰囲気が加わって、憐憫を引き出すには、ちょうどよいとさえいえる。

〈花見〉の許可が下りても、ベフナームは一向に訪れなかった。

 四ヵ月も無沙汰にしたのだ。無理もないと、今はむやみに追わずにいる。

 しかし、捨て置いた薔薇が、他の誰かに摘み取られそうになったら、どうだろうか。

 謁見の六日目には、軍務庁の高官が訪れる。その中には、もちろん、側近軍団団長のサルダールがいた。

 熱烈な見舞いの手紙の数々。

 返信がなくても、一向に構わないらしい。この四ヵ月間、途切れることなく、届いていた。

 床上げした日、無沙汰の詫びと気遣いへの感謝の手紙を書き送った。

 それからは、毎日、やり取りが続いている。ベフナームの〈花見〉がないこともほのめかしているから、浮かれた気分は、最高潮に達しているだろう。

 そこに、二人きりになれる機会があれば、どうなるか。

 気持ち悪くてたまらないが、薔薇局に併設の応接間の外には、衛兵もスヌンゴも控えている。警護には、最上寵童付きの親衛軍人から、可能な限り、盟約を結んだ者達を選んだ。安全に、確実に、仕留められるはずだった。

 追放した末に、ベフナームの関心を取り戻し、ペーローズを側近軍団団長に推薦する。

 それが、まず狙うべき到達地点だった。

 スヌンゴが飛び回って仕入れてくれた情報によれば、ベフナームはすっかり、政への意欲を失くしているようだった。ファルジャードが返り咲き、再び実権を握っているという。

 それでも、今年のノウルーズでは、ファルジャードの配下を左遷し、メフルダードに近しい文官と武官を、高い役職に任命できた。

 特に、側近軍団の親衛隊王宮付隊や守備万騎兵団の北西隊と北東隊で、大きな動きが出た。来年の人事案さえ、希望通りに差し替えられれば、ほとんどの準備が完了する。

 もう、五月も下旬に入った。期限は目前だ。

 それでも、王〈シャー〉の権限があれば、多少の強硬策も取れるだろう。全ては、ベフナームの心持ち次第だった。

 そして、その大勝負の前の、小さな戦。訪問を告げる声に、気を引き締める。

 おもむろに引き開く扉。現れた姿に、目を瞠った。

 絨毯の端に立ち、優雅に、しなやかに、ラーミンが頭(こうべ)を垂れる。

「長らく沙汰なく、ご無礼いたしましたこと、深くおわび申し上げます。青薔薇様におかれましては、ご快復の由、誠におめでとうございます」

「黄玉様も、健やかなようで――気遣い、感謝します」

 手で示し、対面の敷き綿を勧める。

 腰を下ろすのを待ち、侍童が茶を注ぐ。なめらかな赤銅色の手が、切子細工の硝子の茶器に伸び、悠然と味わった。

 その、あでやかな所作。勝者の余裕を称えた風格に、ふと、哀れみが湧く。

 ベフナームの寵を失ってしまったら、この子はどうなるのだろう。

 肌を重ねるとは残酷だ。特に、受動する側は、それが情愛であれ、憎悪であれ、何かを思わずにはいられない。

 相手を身の内まで深々と受け入れて、しがみつく瞬間、心すらも取り込んだと思う。

 しかし、それは幻想だ。いくら身体を重ねたところで、一瞬の現象でしかない。

 思慕する者同士なら別なのかもしれないが、〈薔薇の宮〉は、夢を見るための場所だ。貞操を遵守しなければならない女人の代わりに、性の悦楽を得る場所。

 そして、ベフナームにとっては、最も現実逃避させてくれる場所。歪みきった自尊心を満たせる者が、最も深い寵を得る。

 出自を伏せる決まりでありながら、居室の主(あるじ)に合わせた、調度品の数々。そして髪型。

 カースィムは、ターングの宮廷風に、半分を結った、腰に届く長い髪。アフシンは、肩口までの髪を、ノール人らしく、よく三つ編みにしていた。そして、自分は、こざっぱりとした短髪だ。

 まだ入宮したての頃、伽羅色で美しいと言われ、よかれと思って、伸ばしていた。

 ところが、ある時、ジャハーンがはさみを持ってやってきた。聞けば、散髪を命じられたという。

 豪奢な衣装に似合うよう、今は少し長めではあるものの、それ以来、ずっと短いままだ。

 理由を聞いたことはない。しかし、これまでの日々を鑑みると、ラーミンを敬遠したわけが、よくわかる。

 焦茶色の髪に、淡褐色の瞳。

 ファールサ人にしては、色素は薄めだが、くっきりとした濃い顔立ちと赤銅色の肌は、まさに父親の血筋そのものだ。

 しかし、同じファールサ人では、ベフナームは満たされない。

 自分が確実に上に立っている、と実感できる相手でなければ、安心できないのだ。

 そして、支配下に置いている未開の島の異教徒――マタラム人こそ、無抵抗でほしいままにできる、最上の対象だった。

 しかも、王子ともなれば、野蛮と蔑視しながらも、無視できない国力を持つ、ノール人の血も、辱しめられる。ベフナームこそ、最もファールサ人らしいファールサ人だった。

 勝ち誇った笑みを湛えて、近況を語る少年。ほとんど惚気(のろけ)に近い調子。艶然とした、色香の漂う仕草。これから起こる変転。

 その残酷な行く末を哀しく思いながら、静かに見据えた。


 スヌンゴが、茶を用意して一礼する。

 退出する扉の音。一瞬の静けさののち、感嘆の声が漏れる。

「ああ、やっと――お顔を拝見できました……なんと、長かったことか……」

「数々の心遣い、有難く思います、側近団長」

 目を細めて、淡く微笑む。打ち震える声が、滔々と語る。

「私など、お手紙を差し上げるばかりで――いささか、お痩せになったのではございませんか? ――いえ、むしろ、儚く、お美しさが増したような気も……」

 病み上がりを滲ませながらも、貧相には見えない、絶妙な化粧。スヌンゴの力作だ。

「そう言ってもらえると、少しばかり安堵します。ただ――」

 思い詰めたように、息を呑んで、言葉を切る。

 悲しみを滲ませ、潤んで囁く。

「……きっと……一人、月を眺める夜を過ごすまま……薔薇は枯れていくのでしょう……」

「では――やはり、王〈シャー〉は……」

 上目遣いに、じっと見つめる。髭面が、みるみる憐憫に染まっていく。

 憤りにわななく声が、悶えて語る。

「なんということでしょうか。長い付き合いならば、致し方ない時もございましょうに」

 眉尻を下げて、ほのかに微笑む。柔らかく、しみじみと、言葉を紡ぐ。

「健やかにあり続けることの大切さを、身に沁みて感じています。だからこそ――あなたの手紙が、本当に励みになったのですよ」

「……青薔薇様……」

 打ち震えながら、サルダールがにじり寄る。傍らに座り直すと、力強く告げた。

「私などでよろしければ、いくらでも、参上いたします。お寂しいお心を、お慰めできますのなら、どのようなことも為しましょう」

「……サルダール殿……」

 思わず、といったように、名をこぼす。髭面が、はっとして問い返す。

「今、なんと……?」

 恥じ入るように俯き、袖に口元を当てる。切なく憐憫を湛えていた顔に、おもむろに得心した色が広がっていく。

 途端、腕が伸び、抱き寄せられた。驚いた素振りで、戸惑う声を上げる。

「――側近団長⁉ 何をっ……!」

「ずっと、こうしたかった……ああ、なんとよい香りか……」

 昂った吐息が耳朶にかかる。

 乱れた羽織を掻き分け、無骨な手が帯を掴む。すかさず、阻むように腕を握る。

「どういうつもりです! は、放しなさい……っ」

「また、そのようなことを仰って――」

 愉快げに、サルダールが笑う。感じ入って囁く声が、鼓膜を撫でていく。

「わかっております、青薔薇様。貞淑であらねばならぬお立場で、本心を明かすわけにはいかぬと――ええ、よくわかっておりますとも」

 帯のほどける音。這い回る手の感触。

 怖気と闘いながら、その時を待つ。

「何がなんだか……何か、勘違いしているのではありませんか?」

「どこまでも、初心(うぶ)に振る舞われるのでございますね。誠に可愛らしい方だ。しかし――あなたのここは、いかがでございましょうな?」

 帯のすれる音。無骨な手が、下衣の紐に伸びる。

 解けて緩んだ瞬間を合図に、激しく身をよじる。

「嫌っ……! 側近団長、冗談が過ぎます! 放しなさいっ!」

 背を縮め、思いきり手を突き出して、縛めから逃れる。

 そして、いかにも勢い余ったというように、倒れ込んだ。悲鳴を上げつつも、なんとか体勢を保って、頭を守る。

 すかさず組み敷いてくる影。

 暴れる肢体をものともせず、あっという間に背後を取られる。

 のしかかる重みに、身体が勝手に震え出す。大丈夫と言い聞かせながら、なんとか平常心を保つ。

 耳元で、熱を帯びた声が囁く。

「ご安心ください、青薔薇様。よくわかっておりますから。逞しい男がお好きであることも、こうして私に恋焦がれてくださっていることも――あなたの想いを、今ここで遂げましょうや」

「何をわけのわからないことを言っているのです! は、放して!」

 何がおかしいのか、声を立てて、サルダールが笑う。猛った吐息が自惚れて語る。

「嫌も嫌よとは、よく言ったもので――数多の遊び〈バーズィー〉で鍛えた手練手管、必ずや、切なく疼く御身を、ご満足させて差し上げましょう」

 下着の紐が、緩んでいく。

 左手が腹を這って胸へと向かい、右手が防壁の中へと侵入してくる。

 そして、指先が、弓に触れようとした、その瞬間。

「――いやあああぁっ!」

 思いきり息を吸い、力の限り絶叫した。けたたましい音を立てて、扉が開く。

 突入してきた衛兵が息を呑む。しかし、一瞬のことで、すぐに状況を把握すると、サルダールを取り押さえた。

「何をする! お前達、邪魔をするな!」

「側近軍団団長ともあろうお方が、なんということを! いかなる立場であっても、許されませんぞ!」

 羽織を掻き寄せ、震えつつ、捕縛される姿を見つめる。その脇をすり抜けて、スヌンゴが駆け寄ってくる。

「――シャーグル様……!」

「……ボルナー……」

 悄然と、その名を呟く。

 スヌンゴは、素早く羽織を脱ぐと、被せるようにかけてくれた。身を縮め、震えながら、泣きじゃくる。

 背中をさする、温かな手。その、心からの気遣いに溢れた所作。

 計画は事前に話していたものの、やはり心配をかけたのだ。もし、うまく叫べなかったらと思うと、今さらながらに、ぞっとする。

 と、出入口の向こうから、久しぶりの声が聞こえてくる。

 癇癪めいた音色と重量感のある足音。予定通り、警護の親衛軍人が呼んでくれたのだろう。

 ほどなくして、ベフナームが現れた。

「――おお、シャーグルよ! なんたることよ!」

 全身の贅肉を揺らして駆け寄る姿。

 こんなにも早く走れたのだと、妙にのんきなことを考えてしまう。

「……ベフナーム様……」

 泣き濡れた顔のまま、悄然と見上げる。

 大きく瞠った焦茶色の瞳に、いかにも憐れな光景が映る。濃く太い眉毛が、ぎゅっと寄って下がる。

「襲われたと聞いたゆえ、まっこと、たまげたぞ。大事は――」

 視線が、ふと、下を向く。乱れて露わになった下腹。

 途端、柔和だった面立ちが、凄まじい形相に燃え立つ。ベフナームは素早く腰を上げると、鋭い声で厳命した。

「よくも我が薔薇を! 許さぬぞ! 首を切り落としてくれるわ! 連れていけ!」

 は、と衛兵達の短い返答。サルダールが、引き上げられて立たされる。

 はっとして進み出かける。しかし、

「今さら我がものと仰るか! 青薔薇様は、もはや私にお心を寄せておいでだというのに!」

 嫉妬と憤怒にまみれた声が、軋んで叫ぶ。憤激の怒号が、応接間に轟く。

「たわけたことを申せッ! この薔薇は、その名の通り、王の薔薇〈シャーグル〉ぞ! 手前のような下賤の田舎者なぞに、心奪われるわけがなかろう! 略取を図ったこと、とくと後悔させてくれるわ!」

 連れていけ、とベフナームが再び命じる。衛兵が、暴れるサルダールを押さえ込む。

(……あ……だめ……)

 命まで奪うつもりはなかった。恐ろしいことはやめてほしいと、嘆願するつもりだった。

 しかし、これほどに激昂したベフナームを見たことがない。今、声を上げれば、疑心を掻き立てる。

 必死にすがる目。拒絶するように俯いて、怯える姿を演じるしかなかった。

「青薔薇様! なにゆえにございます⁉ 青薔薇様――ッ!」

 サルダールが、引きずられるように連行されていく。こだまする絶叫。

 途端、艶やかな濃い緑の葉の上で、てらてらと光る、鮮やかな青が甦る。

 悲しみに染まった顔。ばらばらに砕けた、蝶の残骸。

 ――ステノゴ。悪い行いだと、わかりますね?

(ああ、母上! 僕は――僕は……!)

 ベフナームが拳を握り締め、憤然と溜め息をつく。

 振り返った顔には、いつもの温厚な微笑が広がっていた。

「おお、おお、可哀想にのう――あの者は即刻、処されるゆえ、安心するがよい」

 あぐらで座り、伸びてきた短い腕。

 収まって泣きじゃくりながら、肉厚な背中にしがみつく。深い後悔が、胸をえぐった。

 今さら、誰かを巻き込みたくないなど、甘かったのだろうか。これ以上の血を、流したくない、などと。

 ここはファールサで、ファールサでは、命はとても軽いものだというのに。

(……僕はまた、間違えた……ああ、シワよ、ブラフマよ、ウィスヌよ――)

 悲痛に嗚咽しながら、胸中で、ひたすらに経を唱えた。


 念入りな化粧と豪奢な衣。久しぶりの〈花見〉の装いだった。

 あのあと、ベフナームは、激怒が嘘のように、始終、穏やかに振る舞った。

 警護の者にも累が及ぶかと危ぶんだが、犯行者が側近軍団団長ということで、致し方なしと判断し、職責の全うを厳命するに留めた。

 そして、青玉の間に帰り着いてすぐ、サルダールの処刑が執行された、という知らせを聞いた。

 握り合わせた両手を見つめる。とうとう、人を殺(あや)めてしまった。

 しかし、こうして、ベフナームの関心を取り戻せたのだ。犠牲を無駄にしないためにも、この夜を成功させなければならない。

 扉が開く音とともに、頭(こうべ)を垂れる。のっそのっそと、巨体が寝間へと歩いてくる。

 絨毯に腰を下ろしたところで、丁重に口上を述べる。

「――慕わしいベフナーム様。〈花見〉にお越しいただけましたこと、大変嬉しく存じます。お楽しみいただけるよう、相勤めます」

「なんぞ、シャーグルよ。他人行儀だのう。ほれ、顔を上げよ」

 そっと、上体を起こす。しかし、すぐに憚って、袖で口元を隠した。

 俯いたまま、涙の滲む声で囁く。

「……僕はもう、無用ではなかったのではございませんか……? このように久しぶりの〈花見〉で――心は、不安に打ち震えております」

 こらえきれず、といったように、涙が一粒、頬を伝う。黒い髭面が、一気に贅肉を下げて、嘆く声を漏らす。

「無用などと――おお、我がいとしい小鳥よ。わしの心は唯一、そちのものであるというに」

「それならば……どうして、すぐにお越しくださらなかったのです……? 長患いからようやく脱して、楽しみにお待ち申し上げておりましたのに……」

 言葉に詰まる息遣い。察したように目を瞠り、潤んで見つめる。

「――ああ、やはり……噂は、真(まこと)であったのですね――黄玉様に、ご執心なされていると……」

 はらはらと、涙をこぼす。打ちひしがれて、悲嘆に暮れる。

「僕には、あなた様だけですのに――お慕いし、愛でていただきたいと、切に願うのは、ただ一人、あなた様だけにございますのに、二心をお持ちになるなんて」

 両手で顔を覆い、震えながら、むせび泣く。弱りきった声が、おろおろと慌てる。

「おお、おお、すまぬ。許せ、シャーグルよ。そちに会えぬ日々が寂しゅうて、どうしてものう」

 おもむろに引き寄せられ、たるんだ胸に収まる。太く短い腕が、きつく抱き締めてくる。

「もう惑うことはせぬゆえ、泣かんでくれ。そちの涙は、心にこたえる」

「……今後は、僕だけを、愛でていただけますか……?」

 不安を滲ませて、問いかける。真面目くさった声が告げる。

「もちろんぞ。あの夜、誓った通り、そちはわしの至高の宝ゆえの」

 涙を飲み込み、顔を上げる。焦茶色の瞳を見つめて感嘆する。

「ああ、慕わしいあなた様……その名の通り、名声〈ベフナーム〉高きお方。どうぞ、幾久しく、お傍にお置きくださいませ――」

「我がいとしい小鳥よ。幾度でも誓おう。そちは、我が唯一の至宝ぞ」

 そっと、名を囁く。降りくる唇を受け、その境目のない首に、しがみついた。


 金曜日を挟んだ翌々日、大量の紙の束を持って、ベフナームが現れた。

 意気揚々と髭面が語る。

「やはり、王〈シャー〉であるわしが、政に関わらなくてはならぬと思うてのう。あのような、辺境の出の者に軽んじられるようでは、この先も、そちを危険にさらしてしまうやもしれぬ。ここは、しかるべき人事を行い、威厳を示すべきであると考えたのだ」

 最高の成果。喜びを溢れさせ、満面の笑みで称賛する。

「それは、素晴らしいお考えにございますね。しかも、僕のことまで――本当に、嬉しゅうございます」

「そちを守ることは、我が誓いを果たすことゆえ。もう二度と、あのような目には遭わせぬ」

 感じ入り、何度も頷く。

 肥えた腕にすり寄って手を重ね、上目遣いに見つめる。

「慕わしいベフナーム様。僕の胸は今、無上の幸福で、はちきれそうにございます。長く病に臥した日々も、きっと、こうして心を深め合うためにあったのでございますね」

「わしもぞ、シャーグルよ。離れてみて、そちがいかにいとしいかを改めて思うた。そちとの〈花見〉ほど、素晴らしいものはない」

「まあ、あなた様ったら――」

 袖を口元に寄せ、目を伏せて、頬を染める。

 久しぶりだからと、療養を終了した日から、ジャハーンに〈水やり〉を頼み、入念に準備をしてきた。

 そして、一昨日は、これまでの経験を総活用し、〈弓張り〉をたっぷり行って、乱れに乱れた。たかだか数ヵ月程度を通っただけの少年に、負けるわけがない。

 おもむろに半身になり、弓を腿にすりつける。肉厚な耳に唇を寄せ、熱く吐息を漏らす。

「今夜の〈花見〉も――楽しみにしておりますね」

「おお、存分に、愛でてやろうぞ」

 欲情した目。

 艶然と微笑んで、そっと離れる。書類を取り上げて告げる。

「――それでは、心置きなく夜を迎えるためにも、為すべきことを為しましょう」

 黒い髭面が、しっかりと頷く。柔和な声が問いかける。

「うむ、そうだの。して、いずれから考えるべきかのう?」

「まずは、内容を拝見したく――少しお時間を頂戴しても、よろしいでしょうか?」

「もちろんぞ。ゆっくり読むがよい」

 言うが早いか、ベフナームは侍童を呼びつけて、菓子と茶を用意させた。筒綿に巨体を沈め、右手に菓子を、左手に書類を持ち、器用に茶を味わっている。

 さすがに奮起しただけあって、丸投げする気はないらしい。

 あの狡猾な宰相を鑑みれば、非常によい傾向だった。これなら、もう、気弱になることもないだろう。

 それから、あらかた目を通し終えると、問題の箇所を指摘した。

 ファルジャードの意のままだと知って、ベフナームは憤慨し、改めて、政への意欲を示した。

 そういう流れで、後任の側近軍団団長は、あっさりとペーローズに決定した。

 入浴のために宮殿へと帰っていく背中を見送り、すぐさま、ヘリイェイルとメフルダードに、報告の手紙をしたためた。


 六月に入り、〈緑の学院〉への登院と芸事の稽古を再開してから、初めての休日。礼拝を終えて、印璽庁を訪れた。

 主目的は、各庁の現状を把握し、策定している人事案に不備がないか、確認すること。そして、個人的には、最も気になっていた――アフシンの身上調書を読むためだった。

 為したいことがあると、作業は捗るもので、空白の四ヵ月分は、あっという間に通読し終えた。

 急(せ)く気持ちを抑えて、全てを収納し、薔薇局の棚へと向かう。

 名の頭文字順に並べられた、歴代の寵童達の記録。見出しに従って、検索していく。

 語頭の母音を表す一番目のアレフ、二十三番目のフェー、そして十六番目のシーン。それから、イェーにヌーン。――それで、アフシン。

 綴りを思い起こすだけで、鼓動がばくばくと脈打ち、書類を繰る指先が震えた。どこかなまめかしい、官能的な気分が、背筋をさざめかせる。

 ほどなく見つけて、書類入れを取り出す。

 文机に戻るのももどかしく、そのまま封を開ける。まだ、それほど古くない紙の匂いがした。

 アフシン・ヤルネソンという出生名に始まり、出生地と居住地、祖父母と父母の名といった家族構成、髪と瞳の色などの身体的な特徴が記されていた。

 その中で、祖父と父に付された特記事項に、目が止まった。

 ――ノール人居住区区長。

 それぞれに、前職と現職という注釈がされている。

 アフシンは、代々、区長を務める家の息子だったのだ。

 途端、すとんと腑に落ちる。この家柄なら、外帝将と繋がりがあって、当然だろう。

 シャフリカシャンには、円城を取り囲むように、移民の居住区がある。それぞれ納税の義務があるが、異国人居住区に、ファールサ人官吏は常駐しない。

 そのため、中央庁にすべき事務は、各国の領事館を介して行われる。各種行政事務と警備も、その重要な職務だ。

 そして、行事などの生活一般は、住民から選出された区長が取り仕切っていた。

 その仕事は多岐にわたり、住民と領事館との仲立ちも含まれている。

 新しい移民をどこに受け入れるか、住民同士の揉め事をどう解決するか、貧困で納税が難しい住民をどう助けるか――官民の緩衝材となり、居住区の安定を図るのだ。

 その上、ノール人居住区で腕のよい鍛冶屋ともなれば、外帝将館に武具を納めていても、不思議ではない。

 むしろ、腕を買われて指名を受け、そこから区長に選出された、という経緯も、十分に考えられる。

 特に、スティンヴァーリにとって、鍛冶は最も重要な産業のひとつであり、職人は尊ばれているから、なおさらだ。

 シャフリカシャンでも最も規模の大きい、ノール人居住区。その区長の息子としての人脈。教練隊の学友から広がる、軍人の輪。

 アフシンが王都攻略に名乗りを上げた理由が、ゆっくりと沁みてくる。

 たまらず、記録を抱き締める。温かくて、切なくて、心が震えた。

(……アフシン、ありがとう……本当に――)

 会いたくてたまらなかった。あの輝く青い瞳を、見つめたかった。

 それでも、もう泣かないと決めたのだ。せり上がる喉を飲み込んで、細く長く、溜め息をつく。

 最後に、惜しむように紙の感触を味わって、丁寧に棚へと戻した。

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