星の便り
ファールサ暦二二九年二月中旬。
「わからぬ! もう、わからぬ! 誰が誰であるか、さっぱりぞ!」
晩春の日差しに照らされた王〈シャー〉の間の中、癇癪めいた声が轟く。
仕事始めから一ヵ月。
人事案の策定に意欲的だったベフナームを従順に称賛し、懐柔してきた。そうして、ついに、この時を迎えたのである。
極めて穏やかに、優しく、言葉をかける。
「ご苦労、お察し申し上げます。誠に僭越ではございますが――お手伝い差し上げたく存じますが、いかがでございましょうか?」
お気に入りの玩具を失くした幼子のように、ふるふると、黒髭の口元がわななく。焦茶色の瞳が、潤んで歪む。
「助けてくれるか、ファルジャードよ。わし一人では、どうにもならぬ」
「もちろんにございます。そのための、宰相なのでございますから」
和やかに微笑んで頷く。濃く太い眉毛が、大いに下がる。
「……すまぬの。やはり、そちは、その名の通りの賢者よ。頼んだぞ」
「御意のままに――王〈シャー〉よ」
恭しく低頭する。
緩みそうになる頬を引き締めながら、心中で快哉を叫んだ。
書類に記された氏名と経歴を参照し、適切な役職はいずれであるか、説明する。
長い溜め息。おもむろに、巨体が筒綿へと沈み込んでいく。
「……つまらぬのう……」
「ご休憩なさいますか?」
振り見て、慮った微笑みを浮かべる。はやる心を抑え、返答を待つ。
「しかしのう……シャーグルのことを思うとのう……」
弱々しい声音。思い悩む胸中のように、巨体が、ゆらゆらと左右に揺れる。嘆息とともに、いささか苛立った色が吐き出される。
「ジャハーンは、いったい、いつになったら――許可を出すのであろうな?」
今はもう、春も終わって初夏。あの忌々しい小童は、いまだ病床にある。
王〈シャー〉といえども、〈庭師〉が許諾しなければ、〈花見〉は叶わない。薔薇の世話に命を差し出す代わりに与えられた、特権であった。
「薔薇は、極めて繊細なもの。〈庭師〉も、慎重にならざるを得ないのでございましょう」
「左様に申してものう、ファルジャードよ。もう四月ぞ。風邪をこじらせたとはいえ、いささか長くかかりすぎではないかの」
肥えた頬を膨らませて、中空に溜め息を吐き出す。嘆く唸りが、吐息となって落ちる。
「つまらぬ。まっこと、つまらぬ。毎日、毎日、書類ばかり――楽しきことは、どこぞにあると言う?」
にじって、そっと傍らに進み出る。
気遣いに溢れた口調で、柔らかに一押しする。
「長らくのご政務で、お疲れでございましょう。ここはお休みになり、〈花見〉を楽しまれては、いかがでございましょう」
「しかし、ファルジャード。シャーグルは病であるぞ」
怪訝に寄る眉根。微笑んで囁く。
「健やかなる薔薇が、咲いているではございませぬか――黄玉の間で、見頃の薔薇が、お待ちでございますよ」
焦茶色の瞳が、瞠って瞬く。おもむろに、不快と得心の色が滲む。
「ううむ、黄玉であるか――」
「黄玉様は、昨年の暮れ、十三におなりになったばかり。まだまだ、お楽しみいただけるお年頃にございます。試しに一度、お会いになってみるのも、また一興かと」
ふうむ、と髭をしごきながら、ベフナームが唸る。笑みを湛えながら、その時を待つ。
中空を眺めていた瞳が、おもむろに下がり、ひとつ頷く。ぱん、と太腿を叩くと、勢いよく上体を起こした。
「――よし。そちもおるゆえ、わしは休むとするかの。ファルジャードよ、今夜、黄玉の〈花見〉を行うと、薔薇局に伝えよ」
「承知いたしました。直ちに、伝えてまいります」
頷くのを見届けて、一礼する。素早く立ち上がると、王〈シャー〉の間を辞した。
*
盛夏の青空を、小鳥が渡っていく。
花を終えた薔薇の、艶やかに光る緑。噴水が、獅子の口からこぼれ落ち、中庭に張り巡らされた水路に、豊かな流れをもたらしている。
大窓の枠にもたれかかり、平和な景色を、ぼんやりと眺める。
あれから、もう四ヵ月。
熱はとうに下がり、病も完治したというのに、気力は戻ってこなかった。何をするにも、億劫で虚しく、悲しみが胸を覆った。
(……アフシン……アフシン……)
涙が一筋、頬を伝う。
この露台で、ともに笑い合ったかの人は、もういない。この汚穢にまみれた身体を、温めて清めてくれるぬくもりは、去ってしまった。
あの時、もっと話し合って、思いを聴いて、受け入れればよかったのだ。どうして恐れてしまったのだろう。
夕暮れを見る度に思い出す。
床に伏し、わななく身体。全てを振り絞るように慟哭する声。泣ききって、茫然と色を失くした、青い瞳。
それなのに、溌剌とした心を壊した張本人は、〈庭師〉の許可が下りれば、きっとすかさずやってくる。そうして何事もなかったように、この身に入ってくるのだ。
怖気が走って、肩に引っかけた羽織を掻き寄せる。背を縮め、悪寒に耐える。
(……嫌だ……触って、ほしくない……)
触れていいのは、アフシンだけだ。望むのは、アフシンだけなのに。
声が聴きたかった。笑顔が見たかった。あの腕に収まって、きらめく青い瞳を見つめたかった。
男だから、なんだというのだろう。アフシンは、アフシンなのに。引き裂かれるままに、あの温かな心を傷つけてしまった。
(いつもそうだ……いつも、いつも――失ってから、気づくなんて……)
膝を抱えて嗚咽する。どうして自分は、こんなにも浅慮なのだろう。
あんなことがなければ、笑って送り出せたのに。手紙で、互いを鼓舞し合えたのに。時には会って、楽しい時を過ごせたのに。
――生涯の友で、いられたのに。
そっと近寄る気配がする。慮る声が、優しく告げる。
「シャーグル様。お薬湯のご用意ができましたので――そろそろ、お寝みになりませんか?」
泣きじゃくりながら頷く。差し出された手を借りて、立ち上がる。
寝間に行くと、寝台の傍らに座り、器に口をつけた。独特な香りと苦みが、喉を滑っていく。
ジャハーンの調合した薬草を煎じた湯。心を落ち着かせる作用があるという。
ゆっくりと飲み下して、陶碗をスヌンゴに渡す。支えられながら寝台に手をつくと、入室の断りがあった。
まだ幼い元気な姿が、弾むように歩いてくる。先月入宮したばかりの、一番年少の侍童だ。
「青薔薇様。薔薇局から、お手紙をおあずかりしました」
すかさず、スヌンゴが顔をしかめて叱りつける。
「これ! あとにしないか」
しゅんとした、あどけない面立ち。座り直し、微笑んで告げる。
「いいよ。どなたからのお手紙?」
「あっ――ええと、その……」
明るくなりかけた顔が、再び曇り始める。
手を差し出して促す。瞬く、大きな瞳。焦れたスヌンゴが、渡すよう指示する。
小さな手から、巻かれた羊皮紙を受け取る。しかし、座ったまま、じっと動かない。スヌンゴが、固い声を飛ばす。
「ほれ、用が済んだのなら、下がらないか」
はっとして、ぺこんと頭が落ちる。
控えの位置に向かう幼い背中を、濃茶色の瞳が苦々しく見送る。そうして居住まいを正すと、丁重に礼をした。
「申し訳ございません。あとで、きつく言っておきますので」
頷いて、封蝋を慎重に外す。紐をほどけば、角張ったファールサ文字が、視界に広がった。
差出人は、外帝将だった。
長患いを知り、見舞いをしたいと、わざわざ気遣ってくれたのだ。
有難くも、申し訳なさが、胸を締めつける。
計画に支障はない、と綴っているが、少なからず影響はあるだろう。自分の不甲斐なさが、情けなかった。
心配りの溢れる文を読み進めて、最後の段落に、目が釘づけになる。息を呑んで、何度も、その一文を繰り返す。
――あなたとともに咲き、散っていったノールの薔薇が今、大切な尊兄のためにと奮闘しております。どうか焦らず、くれぐれもご自愛の上――。
ノールの、薔薇。散っていった、ノールの。
(――アフシン……!)
手が震える。涙が溢れ、たまらず両手で顔を覆って、嗚咽をこぼす。
心配した声が、そっと問いかける。
「拝読しても、よろしいでしょうか?」
涙しながら、なんとか頷く。
ほどなくして、はっとしたように、小さく漏れる吐息。そっと、温かな手が肩に触れる。
「あの方も、動いていらっしゃるのですね――」
アフシンの武術の師範は、アースマーンだった。
見込んだ者は仲間に引き入れるよう、一任してある。おそらく、そこから、シャフリカシャン攻略の計画を知ったのだろう。
そうして、決断した。自惚れてもいいのなら、文面通りの理由で。
どんな思いで、話を聴いたのだろう。どんな心で、危ない道を進むと決意したのだろう。あんなにも、傷つけてしまったのに。
いとおしくて、切なくて、身を振り絞って、嗚咽する。兄上、と励まされた気がした。
――どんなことが起きても、好きだって。もう、信じてくださいよ。
そうだった。アフシンは、そういう人だった。
何があっても、前を向いて、全力で突き進んでいく――そんな、真っ直ぐな人だった。
だから、歩いていけたのだ。
深く息を吸いながら、身を起こす。
沸々と、気力が湧いてくる。手の甲で目元を拭い、ゆっくりと溜め息を吐き出す。霞がかっていた思考が、くっきりと輪郭を為す。
こうしてなど、いられなかった。もう五月も中旬だ。草案をねじ込むにしても、猶予は全くない。
まずは、ジャハーンに〈花見〉の許可を出すよう指示し、ベフナームとの繋がりを元に戻さなければ。それから、宮殿と印璽庁に行って、現状の把握だ。
心中で、ひとつ頷き、濃茶色の瞳を見遣る。確固とした声で告げた。
「――ボルナー。ジャハーンを呼んで。〈花見〉のための診察を受けたい。あと、お返事を書くから、葦筆と紙の用意を」
心配と安堵の入り混じる面立ち。
それでも、はい、と明るい声が応えて、控えていた侍童達に指示を出していく。
状況が動き出す音を聞きながら、改めて、手紙に目を通す。
そこで、ふと疑問が湧いた。
アースマーンと外帝将には、直接的な繋がりはない。そのための最上寵童なのだ。アフシンが自ら知らせなければ、事情が伝わるはずがなかった。
思えば、アフシンの交友関係を、詳しく聞いたことはなかった。
初登院の時に話してくれた入宮までの経緯と、折々に話題に上る家族の話くらいで、入宮前に、どんな人々と相対してきたのか、語ることはなかった。友人の話といえば、もっぱら〈緑の学院〉での同級生が、対象だった。
アフシンの、生きてきた軌跡。退宮済みだから、記録は印璽庁に送られているだろう。
知っておいて、損はない。計画に必要なことで、決して、自分が知りたいからではない――。
無意識に言い訳しながら、気がつけば、勢いよく立ち上がっていた。
途端、視界が、ぐらりと傾ぐ。
「――危ない!」
受け止められて、腰を下ろす。心配に溢れた声音が諫める。
「急に動かれては、お体に障ります。必要なことは、ご指示いただけましたら、私どもが行いますから」
「すまない、ボルナー。ありがとう」
まさか、これほど脚が萎えているとは。きっと、ジャハーンは、いい顔をしないだろう。
深呼吸して、はやる心を落ち着ける。
急いて仕損じては、元も子もない。ここは、ひとつずつ、着実にこなしていくべきだ。
どちらにせよ、印璽庁には足を運ぶのだ。ジャハーンも、じきに到着する。それまでに、手紙の下書きくらい、済ませておかなければ。
膝を立て、腿に下敷きを置く。紙を載せると、葦筆を右上に置いた。
「――なるほど。事情はわかった」
話を聴き終えて、平静な態度が応える。色よい返答を期待した瞬間、きつい声が投げつけられた。
「だめだ。許可できない」
「……ジャハーン」
非難をこめて見据えると、珍しく目元をしかめて、固い口調が語る。
「だめなものはだめだ。お前は、そんなやつれた顔を、王〈シャー〉にお見せするつもりか。まずは、よく食べて、よく身体を動かせ。話はそれからだ」
確かに、もっともではある。ただ、妙に納得がいかなかった。
「……まだ、怒っているでしょ」
「十七の子供と一緒にするな。仕事に、私情は挟まない」
それはもう、肯定しているようなものだ。
にじり寄り、潤んだ上目遣いで見つめてみる。
「……そんな目で見てもだめだ」
「けち」
「どうとでも言え」
呆れた溜め息。淡泊ながらも強い口調が告げる。
「とりあえず、床払いはしたと、薔薇局には伝えよう。ただし、療養を終了していいと判断できるまで、〈花見〉は許可しない。――いいな」
「……わかった」
了承しつつも、頬を膨らませて、むくれる。本当に、なんて頑固なのだろう。
「ジャハーン師。ひとつ、よろしいでしょうか?」
笑いを噛み殺したような顔で、スヌンゴが進み出る。
ジャハーンが頷くと、穏やかな口調が尋ねた。
「お食事は、いかがいたしましょう? 急に通常の献立に戻しますと、お体に障るのではないかと存じますが」
「今日明日は、従前通り、消化のよいものを。あとは、診た結果で、前日に判断する」
「承知いたしました。厨係に伝えます」
一礼して、侍童を一人、遣いに指名する。
しとやかに、しかし素早く辞していく背中。
金具の弾ける音がして、目を向ける。小さな包みの束を差し出して、淡々と、低い声が言った。
「強壮作用のある丸薬だ。一日一回、朝食のあとに飲むように」
薬は、症状ごとに調合する必要がある。そして、錠剤にするには、薬草を鉢ですって粉末にし、蜂蜜などで練らなければならない。
その用意のよさ。にっこりと、甘えた笑みをこぼす。
「さすがジャハーン。僕のこと、よくわかっているね」
「……まったく、手間のかかる――」
やれやれといった表情。肩を上げて、大きな溜め息が落ちていった。
嬉しい知らせは続くもので、三日後、思いがけない人からの手紙が届いた。
昼間に受け取って、仕舞っておいた文箱から、恐る恐る取り出す。
ジャハーンから、一人の時に読め、と直接渡されたのだ。悪い内容ではないはずだとわかっていても、留め紐をほどく指に力が入った。
ぼろ布を叩いてすいた紙の、少しごわごわとした感触。
引き伸ばしながら開くと、灯火に照らされて、見慣れた手蹟が視界に広がった。
――尊き青薔薇様。
ジャハーン師より吉報を頂戴し、この手紙を書いております。ご快復された由、誠におめでとうございます。
ご病床に臥され、長くご療養なさっていると、お伺いいたしました時には、大変心苦しく存じておりました。今は、少しずつ日常を取り戻されているとのこと、心よりお慶び申し上げます。
さて、小生の近況をお知らせいたしますことが何よりの良薬だと、ご助言いただきましたので、ここに記します。
教練隊での暮らしは、〈薔薇の宮〉とは、全く正反対でございます。何事も厳しく律せられ、優美さよりも、剛健さが求められます。初めは戸惑うことも多くございましたが、気さくな仲間に支えられて、勉学と鍛練に励む日々を送っております。
ご存知の通り、机に向かうことが苦手な小生にとって、座学は、なかなか難儀なものでございます。
しかしながら、用兵や部隊運営を始め、賓客を警護する上での接遇など、新しい分野を学ぶことは大変楽しく、幸いにも、ご心配賜るような事態にはなっておりません。
――と申しましても、同輩と肩を叩き合って、互いを起こしているからこそではございますが。
同輩は皆、明るく気持ちのよい者ばかりで、笑い転げない日はございません。おかげで、頬の鍛練も、すこぶる捗っております。教官や先輩方も、厳しくはございますが、理不尽な言動はなく、道理をもって、説諭してくださいます。
尊き青薔薇様。どうか、小生のために、お泣きにならないでください。
確かに、退宮を決断した時は、つらく苦しいものでございました。しかし、今は、この道に進んでよかったと、心から思っております。そして、貴方様が心安くお過ごしになっていると思いを馳せることが、小生にとって、一番の励みにございます。
早いもので、夏も盛りとなりました。〈薔薇の宮〉は涼しく過ごせるとはいえ、どうぞご無理はなさらず、くれぐれもご自愛くださいませ。
側近軍団教練隊イェコム隊高等一年、アフシン・モルダード・ヤルネソン。――
紙面から顔を上げる。
燦然と輝く、満天の夏の星。
その煌めきのような笑顔を思う。星影が、おもむろに滲んで、ぼやけていく。
同窓の仲間と笑う姿が、ありありと浮かぶ。
バルバット(卵型の弦楽器)は持っていくと言っていた。きっと、宿舎で披露し、盛大な拍手を受けているだろう。
その、人の輪をつくり上げる力。その力こそが、アフシンの輝きだった。
改宗者だからと言いながら、あの閉鎖的な〈緑の学院〉においてでさえ、友人をたくさんつくっていた。その中には、当然のように、ファールサ人も混ざっていた。
どこにいても、アフシンは、アフシンのままで生きていくのだろう。
手紙を、きつく掻き抱く。葦筆を取った、その心を思う。
ジャハーンのことだ。きっと、早々に連絡を取ってくれていたにちがいない。珍しいほどに執拗な苛立ちは、もどかしさの現れだったのだ。
きっと、とても思い悩んで、それでも書き送ってくれた。これほどにも、思いやりの溢れる言葉を、贈ってくれた。
胸の奥底から、輝く光が湧いてくる。あのぬくもりにくるまれているように、温かさが、心を満たす。
いとおしい人の手蹟を抱き締めて、ただひたすらに涙した。




