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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第六章 終いぞめの頃
29/30

因果

 廊下へと出た途端、寒風が吹き抜ける。身を震わせ、白い息を吐く。

 短い秋はあっという間に過ぎ、もう十月も半ばだ。

 庭はすっかり冬景色で、ノウルーズに向けて、人々が少しずつ、そわそわし始める頃だった。

 特に、この八月、太子パルヴィーズが長男を授かったことから、皆の気合いもひとしおだ。祝宴は、通常よりも規模を拡大しての開催が決定された。

 しかし、その分、準備の負担は重くなる。

 しかも、今回は、多少の用意はしていたとはいえ、予定よりも、大幅な変更が為された。

(……盛大に祝いたい気持ちはわかるけれど――手配する身にもなってほしいよ……)

 胸中で漏らしたはずの溜め息が、思わずこぼれる。

 ベフナームは、慶事なら、なんだって喜ぶから納得できる。ただ、最も意外だったのは、ナスリーンの反応だ。

 いわく、孫は孫で、関係ないらしい。

 形式ばかりの祝辞で、あれほどに相好を崩して語れるのだから、なかなかのものである。

 正后が意気盛んとあらば、最上寵童が動かないわけにはいかない。

 文官が休みの金曜日に補講を受けられるよう、薔薇局にかけ合って、勉学と務めとの折り合いをつけることとなった。

 とはいえ、成績を疎かにはできない。

 過密な日程の中で、百夜の罰は、かなり心身にこたえた。手首には今も、新たな痣ができては消えている。

 しかし、それも、あと少しで終わる。

 通常の〈花見〉なら、ベフナームをいなしつつ、こなしていける。期末試験に被らなくて、本当によかったと思う。

 ただ、アフシンがいなければ、きっと、ここまで耐えられなかっただろう。

 好きだと、綺麗だと、囁く優しい声。抱き締めてくれる、力強い腕。柔らかな口づけのぬくもり。

 確かに鍛えられつつある胸に収まって、活発な拍動を聞いていれば、どんなことも乗り越えられる気がした。思い出す度に、心が奮い立つ。

 退宮まで、あと二ヵ月半。残された時はわずかだが、笑って見送りたいと願う。

 宮殿の回廊を巡り、王〈シャー〉の執務室の前に立つ。訪れを告げて名乗れば、扉がゆっくりと引き開いた。

 恭しく立礼する姿に微笑む。

「カースィム王書官。ごきげんよう」

「青薔薇様におかれましては、ご機嫌麗しゅうございます」

 丁重な挨拶に頷き、中へと入る。

 様々な顔立ちの王書官が、文机を並べて、書類と睨み合っている。

 その仕事ぶりを、感嘆して眺める。人が真剣に何かに取り組む姿は、いつ見ても、気持ちのいいものだ。

 スティンヴァーリ担当の王書官に声をかけ、手直しした書類を渡す。

 恐縮しながら、受け取る姿。ヒンドゥシュ担当の区画から呼ばれて、応対する。必要な指示を出すと、気さくな笑顔で礼を伝えられた。

 席次や供する料理に、給仕の配置。決めなければならない事項は、数多ある。

 こうして務めを行っていると、学んできたことが活きていると感じる。〈緑の学院〉での日々は、無駄ではなかったのだ。

 一通り見回り終えて、ほっと息をつく。

 気づいたカースィムが、少し低めた声で問う。

「青薔薇様。もし――このあと、ご都合がよろしければ、少々お時間を頂戴できませんでしょうか。ご覧いただきたい資料がございまして」

 真剣な声音。何かあったのだと察して、平静に返す。

「午後から、授業があるのです。あまり時間は取れませんが――」

「恐れ入ります。すぐに済みますので」

 案内されて、奥の書庫へと進む。

 ファールサ製のぼろ布をすいた紙や羊皮紙、ターングの紙など、様々な種類の紙の匂いが、鼻をかすめる。

 カースィムは戸を閉めると、口を開いた。

「――宰相が、私兵を雇い、軍備を強化しています。お気をつけくださいませ」

 それは初耳だった。

 しかし、ファルジャードは、もうだいぶ追い詰められている。人事案の構成から推察して、戦うべき真の敵にたどり着いても、不思議ではない。

 ベフナームを通して提出した案は結局、寸分の相違なく、実現されることとなった。年始の発表に向けて、各所が動いているところだ。

 一方で、メフリガーンには、マタラム産の黒剛石に再び関税が課されると、発表された。それも、かなり増額した上での設定となる。

 とはいえ、スティンヴァーリからは、全く支障ない、という力強い回答を得ている。心配は無用だろう。

 残すは、要人の任免――特に、円城の門を守る守備万騎兵団の千騎隊長、王宮の警備を担う親衛隊の親衛軍人、そして、側近軍団団長だ。

 焦りは禁物だが、年が明けたら、早々に決着をつけるつもりだった。

 人を万全に固めても、横っ腹を突かれれば、意味がない。情報は有難いものだった。

「お心遣い、痛み入ります。出どころと詳細を伺っても?」

 不意に、カースィムの視線が、背後へと向く。肩越しに振り返ったが、ただの壁があるだけだ。

 不思議に首を傾げていると、静かな声が、語り出した。

「……ペズマーン宰相補佐官より、聞き出しました。宰相は、よしみを通じている南東の複数の名家から、兵を引っ張っているそうで――宰相補佐官は、その連絡役をしているのです」

「なるほど――では、確度は高いのですね」

 ペズマーンはラーミンの父親で、その関係の通り、ファルジャードの一番の子飼いだ。そこからの情報なら、まず間違いないだろう。

 妙に静謐な、茶色い目。既視感のある違和を覚えて、慎重に問う。

「……カースィム殿。無理は……しないでくださいね?」

 おもむろに、涼しげな目元に笑みが浮かぶ。恭しい声が、柔らかに告げる。

「お気遣いいただき、恐れ入ります。――しかしながら、私は私で、利益あっての行動でございますから」

「そうですか――では、方法は、聞かないでおきますね」

 爽やかな面立ちが、にっこりと微笑む。

 指し示す手に促されて、歩き出す。先導したカースィムが戸を開けると、眩しさが目を刺した。

 立ち止まって、数回瞬く。そうして二人で、執務室へと出ていった。


 冬も終わる、十二月二十三日。ついに、この日がやってきた。

 威勢のよいかけ声を上げながら、中庭に土台をつくる人々。明後日には、巨大な薪が組み上げられて、火祭りが始まる。

 しかし、今年は、例年とは違う。

 ともに観覧してきた、このいとおしい人は、明日〈薔薇の宮〉を退宮し、実家へと帰っていく。そして、年明けとともに、新しい道へと踏み出すのだ。

「あんなに大きくしてしまって――毎年のことながら、みんな懲りないね」

「それが火祭りですから。やっぱり、どーんとやらないと、年は越せませんよ」

 そうだね、と応えて、顔を見合わせて、微笑み合う。暮れ始めた陽光にきらめく、青い瞳を見つめる。

 目顔で問われて、そっと頷く。手を繋ぎ、露台から居間へと歩む。

 大窓の閉まる音。絨毯に腰を下ろせば、優しく抱き寄せられる。ずいぶん逞しくなった腕に収まって、肩に頭を預ける。鼓動の音が心地よかった。

 指が絡み合い、掌が深く合わさる。柔らかく、額に口づけが落ちる。

「好きです、兄上……あなたは、きれいで、かわいくて――おれの、一番の兄上です」

「アフシン……僕の可愛い弟……」

 囁いて、その血色のよい白雪の頬に返す。

 凛とした面立ちが微笑んで、鼻に、顎に、頬にと、ぬくもりを降らしてくれる。

 その度に、触れた一点から、清らかな流れが染み渡ってくるようだった。

 アフシンが、繋がった手を持ち上げ、手首に口づける。百夜の罰から、加わった所作だった。

 口づけた箇所を眺めながら、安堵した声が呟く。

「――もう、すっかり、きれいになりましたね。跡が残らなくて、よかった……」

「本当に……心配をかけたね」

 先月の上旬、無事に百回を終えた。

 ジャハーンの手当てのかいあって、痣は跡形もなく消え去った。ベフナームも満足したらしく、今は通常の〈花見〉に戻っている。

 期末試験でも、よい成績を取り、高等二年を一位で修了した。我ながら、よく乗りきったと思う。

 ふと、澄んだ青い瞳が、窓の景色を見遣る。

 暮れゆく夕空を眺めて、切ない音色が呟く。

「……このまま、太陽が止まってくれればいいのに」

「アフシン……」

 そっと、繋いだ手に、手を重ねる。温かく優しいぬくもりが、心身に満ちる。

「ありがとう……花遊び〈グリ・バーズィー〉に誘ってくれて……君と遊ぶひとときは、僕にとって、かけがえのない幸せだった……」

「兄上……」

 紅赤の唇が、感慨深く呟く。青い瞳が、輝いて語る。

「おれも幸せでした。おれにとって、兄上は心そのものです。ずっと……大好きです……」

「可愛いアフシン……どこにいても、君は大切な弟だよ」

 引き合って顔を寄せ、頬に、額に、口づける。

 肩にもたれて見上げれば、凛とした面立ちに、幸せな笑みが咲いていた。安心感にくるまれて、うとうとと微睡む。

 そっと呼びかけられて、返事をする。真剣で、切ない音色が降ってくる。

「――ひとつ、お願いがあります」

 瞬いて、青い瞳を見つめる。苦しげな声が囁く。

「おれに、あなたの薔薇をください。おれの弓で果てる、あなたの声を、顔を――おれにください」

 背筋が、すっと冷える。震え出す声で問う。

「……アフシン……それは、どういう……」

 花遊び〈グリ・バーズィー〉の友は、上も下もない対等な関係だ。だから、たとえ弓に触れたとしても、交わりはしない。

 そもそも、髭のない者同士の交わりは、成年の男同士と同様に、ディーダム教では罪となる。

 アフシンは、ファールサ生まれの信徒なのに――その心が、わからなかった。

 手がほどけ、ゆっくりと頬をなぞる。苦悶の声が、鼓膜を震わす。

「ずっと、あなたが大好きでした。でも、ベフナーム様はあなたばかり……もう二度と、寵を受けられないと悟った時は、気が狂いそうになりました」

 胸が、ぎゅっと締めつけられる。

 アフシンは、いつだって明るく振る舞っていた。思慕する相手を奪ったのに、傍にいて、抱き締めてくれた。その日々が、どれほどの支えになっただろう。

「それでも、あなたを嫌いになれなかった。いつだってあなたは、きれいで、かわいくて、優しくて……」

 じっと見つめる、青い瞳。

 その、知らない色。不安に問いかける。

「……アフシン……?」

 白雪の顔が、ぐしゃりと歪む。低い声が、告白する。

「ただ、傍にいられればいいと思っていました。それなのに、ベフナーム様は――ッあの男は……!」

 急激に視界が振れる。

 泣きじゃくるような唸りが、空気をびりびりと震わせる。

「――こんな気持ち、気づきたくなかった!」

 唇が押しつけられる。

 割って入り、絡め取ってくる舌。帯と紐を解く音。内腿を撫でる感触。そして、

「嫌っ……! アフシン、やめ――あうっ!」

 胡桃が押し上げられ、弓に唾液が滴る。末弭(うらはず)をきつく吸われて、あっという間に至っていく。

「お願い、やめてっ! こん、な……っやあぁっ!」

 強烈な官能。果てて射て、びくびくと跳ねる。

 抱き締められて、吹きかかる吐息。悲痛な声が、こぼれていく。

「……ごめんなさい……兄上……」

 涙を溜めて、炯々と光る青い瞳。ひたすらに見つめて、その理性を乞う。

「でも……もう、おれ……耐えきれない……」

 身体が、広がっていく。

 きつく抱き締める腕。耳元で、すすり泣く声が響く。

「兄上、ごめんなさい……大好き……愛してる……」

 末弭が、葡萄に触れる感覚。打ち震える吐息が、耳朶にかかる。

「……ああ、熱い……兄上……あにうえ……」

 そっと、口づけが落ちる。優しく、柔らかい所作。

 花遊び〈グリ・バーズィー〉の時と、同じ――。

 身体から、力が抜け出ていく。緩慢に、瞼を閉じた。


 腹が重い。

 重ねられた手を、茫洋と眺める。うわ言が、鼓膜をかすめる。

「……すき……あにうえ……気持ち、良い……すき……だい……すき……」

 快感に震えながら、泣きじゃくる声。どこで、間違えてしまったのだろう。

 肩を掴まれて振り向く。唇が重なり、食みながら吸われる。

 破裂音が、ひときわ高く鳴り響き、身の内が押し上げられる。そのまま仰向けにされて、再び口づけが落ちる。

 甘く食んで吸いつき、舌が添う。硬質な音が耳に引っかかって、薄く瞼を開ける。

 息を呑んで駆け寄る姿。おぼろげに思う。

(今日は見送りたいからと、断ったのに……)

 ベフナームは忘れたのだろう。引き剥がされる影を、茫然と眺める。

「よくも、王〈シャー〉の薔薇を……!」

 絨毯に手をついて、ようやく上体を起こす。静かに命じる。

「……ジャハーン、放しなさい」

 信じられないといった表情。

 上衣を肩にかけて、ゆっくりと座する。

「寵童への暴行が死罪なのは、寵童が王〈シャー〉のものだから。……でも、僕は誰のものでもない」

 アフシンの悄然とした顔を見つめる。

 大切な弟の命を、ベフナームの手に委ねたくなどなかった。

「僕の身体のことは、僕が決める。――放しなさい」

 薄く、溜め息が落ちる。縛めが解かれ、アフシンが崩れ伏す。

 ジャハーンは、おもむろに立ち上がって、淡々と尋ねた。

「……人払いは、いつまでだ」

「夕食の時まで。ボルナーとアーザードに入浴の揃えを頼んで、奥湯殿で待ち合わせているから、他は厨に行って、しばらくは帰ってこない」

「わかった。とりあえず、風邪をひいたと、薔薇局に伝えてこよう」

 頷いて、礼を言う。ジャハーンはアフシンを一瞥しつつも、何も言わず、退室していった。

 扉が閉まると、静けさがあたりを覆う。

 すすり泣く声。そっと、呼びかける。

「……アフシン」

 涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃになった顔。喉が震えて、涙が溢れた。

「君と、花遊び〈グリ・バーズィー〉を続けたことを――間違いだとは思わない」

 くっきりと、心が輪郭を持つ。後悔が、伝い落ちていく。

「でも……もっと、本音を話してほしかった――君の心が、壊れてしまう前に」

 青い瞳が、ぐしゃりと歪む。口元がわななき、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

 途端、悲痛な絶叫が(くう)を切り裂く。地に伏し泣き叫ぶ、その姿。

 震えて涙しながら、ただ静かに、慟哭を見つめた。


「……ジャハーン……怒っている?」

 丁寧で的確な作業。それでも、背後で、苛立っている気配が、ひしひしと感じられた。

 軟膏を練る音が、ほんのわずかに高くなる。固い声が投げられる。

「わかっているなら、わざわざ聞くな」

「……そうだね……すまない……」

 手当てを受けながら、スヌンゴが、灯火に照らされて、雑巾で絨毯を叩く光景を眺める。

 ジャハーンは、アフシンに、毒素を下す薬を渡したという。病にかからないようにと願う。

 抱えられて、寝台に横たわる。上掛けが、ふわりと被さる。

 背中に差し入れられる腕。薬湯の苦い渋み。

 凪いだ表情を見つめて、静かに告げる。

「今回のことは、アフシンのせいじゃない」

「……どんな事情があれ――決して、許されないことだ」

 あくまで平静な声音。膝の上で、固く握り締めた拳。

「それは……君自身のことを言っているの?」

 おもむろに、目が伏せられる。厳しい口調が応える。

「一度咲いた薔薇が、蕾に戻ることはない」

 そっと頷く。呼びかければ、真っ直ぐな視線と出会う。

 その揺るがぬ色。見つめて語る。

「もし……好きという気持ちが、大切に触れたいということなら――その人達がいたからこそ、薔薇は枯れずに、咲き続けられたんだよ」

 ゆっくりと、黒い瞳が、灯火にきらめいていく。

 聞き逃しそうなほど微かに震える呼吸。平淡な声が告げた。

「……朝に一度、〈手入れ〉に来る。一週間は、絶対に安静だ」

「わかった。ありがとう、ジャハーン」

 礼をして、長身が立ち上がる。スヌンゴに必要事項を伝えると、ジャハーンは部屋を辞していった。


 よく晴れた、新年の青空。開け放した大窓から、爽やかな風が渡ってくる。

 こんな日は、外で宴に興じたら、本当に気持ちいいだろう。しかし、病を得た身では、起き上がることも叶わない。

 アフシンの退宮を見送ってすぐ、発熱に見舞われた。

 ジャハーンが話すには、無理な行為で身体に傷がつき、そこから毒素が入ったためだという。

 毒素は数日間、長い場合は一週間以上、体内に留まるそうで、〈薔薇始め〉は辞退することとなった。

 ノウルーズの六日目、ようやく熱が下がったものの、倦怠感は、以前として残った。そして、スィーズダ・ベダルを迎えた今日も、起き上がれずにいる。

 ジャハーンは休暇を返上し、よく働いてくれている。本来なら、病床を片づけてもいい頃だった。

 このままでいるわけにはいかない。

 わかっていても、身体の重さを感じる度、その理由を思い出すのだ。心は晴れず、涙ばかりが溢れた。

 しかし、他の皆にとっては、めでたい新年なのだ。侍童達には楽しむよう言いつけて、暇を与えた。今朝は、野遊びに出かけるべく、身支度をしているだろう。

 視線を春の空から室内に戻す。傍らに控えるスヌンゴに、声をかける。

「ごめんね。せっかくの新年なのに」

「準備で、十分楽しみましたから」

 気遣う微笑み。水を問われて、支えられながら、喉を潤す。

 息をつき、礼を言う。ゆっくりと横たえられ、上掛けに包まれる。再び、快晴の空を眺める。

 その、澄み渡った青。きらきらと輝く、ふたつの瞳を思う。

 気持ちの優しいアフシンのことだ。家族の前では、苦しい心を隠して、笑顔でいるにちがいない。それでも、少しでも新年を楽しんでいてほしいと願う。

 溌剌とした声。明るく輝く笑顔。

 退宮から、まだ半月しか経っていないのに、思い出ばかりが浮かぶ。

 きちんと食べているだろうか。眠れているだろうか。一人、泣いていないだろうか――。

 はらはらと、涙がこめかみを伝って、耳へとこぼれていく。

「……アフシンに……会いたい……」

「シャーグル様……」

 悲しみにかすれた呟き。手ぬぐいを絞る水音。

 優しく拭いながら、柔和な声が慮る。

「おつらいとは存じますが……そろそろ、黄玉様が、ご挨拶に来られる頃でございます。どうか、お心を強くお持ちくださいませ」

 しゃくり上げながら頷く。深く呼吸して、涙を喉の奥に押しやる。

 目顔で促すと、再び水に浸した手ぬぐいで、顔が清拭された。

 薔薇水と香油で整えられた肌。薄い化粧。

 鏡を渡されて確認し、礼を言う。それから助け起こされて、羽織を纏った。

 少し背の高い身体を支えに、居間まで歩き、敷き綿に座る。

 それだけでも気だるくて、ラーミンが来るまでと、姿勢を崩す。何から何まで億劫で悲しく、虚しかった。

 ほどなくして、訪問を知らせる声があった。

 スヌンゴが立って行き、返事をする。そして、定型の名乗りを聞き、扉を引き開けた。

 黄玉の寵童付きの侍童達を伴って、少年が歩んでくる。居間の絨毯の前で立ち止まると、優雅に礼をした。

「新年、誠におめでとうございます。尊き青薔薇様におかれましては、一日も早いご快復をお祈り申し上げます」

「新年おめでとう。お心遣い、感謝します」

 対面の敷き綿を、手で指し示す。

 一礼して、ラーミンが座する。淡く苦笑を漏らす。

「このような格好で、申し訳ありませんね。〈庭師〉に止められていますので、僕は口にできませんが――どうぞ遠慮なく、お食べください」

 スィーズダ・ベダル仕様の、干し果物の盛られた器。

 淡褐色の瞳が一瞥して、礼を述べる。しかし、手は伸ばさなかった。

 くっきりとした目鼻立ちの顔が、今思い出したかのように、緩く傾ぐ。

「そういえば――先日、あるうわさを耳にいたしました。青玉の間で、連日の〈花見〉が行われているために、薔薇は根腐れを起こしてしまったのだ――と」

 敵意のこもった目。困ったように恥じらってから、悲しみの微笑を浮かべる。

「ベフナーム様より寵を授かることは、僕にとって、何よりの喜び。〈薔薇始め〉をお断りすることと相成り、本当に残念でなりません。お詫びのためにも、早く健やかになりたいものです」

「……左様でございますね。ベフナーム様も、心から、ご快復を願っておいででしょう」

 穏やかに笑みつつも、強ばる口元。淡褐色の瞳が、口惜しげに光っている。

 心中で、溜め息をつく。どうにかやり込めたい気概は見上げたものだが、もう少し、時と場合を考えてほしい。

 見下すように、細い顎が、くっと上がる。何事かを言おうと動き出す唇。

 と、斜め向こうで、扉が、おもむろに開いていく。

 名乗りもなしに許されるのは、一人しかいない。

 まさかと背筋が冷え、現れた巨体に、さらに息を呑む。すかさず身体を向けて、深く礼をした。

「ベフナーム様。お越しとは知らず――」

 気づいて、ラーミンが慌てて居住まいを正す。鷹揚な口調が、のんびりと話す。

「よいよい、新年のめでたい日ゆえ」

 上座を空け、ベフナームが腰を下ろすのを待つ。

 かけ声とともに、あぐらをかくと、上機嫌な声が笑った。

「我が可愛い小鳥よ。ほれ、(ちこ)う」

 そうして肥えた太腿を、ぱんぱんと叩き、短い腕を広げる。

 上体は起こしつつも、袖を口元に当てて俯く。

「……病を、移してしまいますので……」

「なに、ただの風邪であろう。気にするでない」

 身勝手な言い分。

 せっかく、ジャハーンが気まぐれな理屈を許さず、〈庭師〉の権限を行使してくれていたのに。

 遠慮がちに頷いて、立ち上がり、あぐらの内に収まる。太く短い指が、頬を撫でる。

「これから、ご出発では――」

「顔を見とうてたまらなくてのう。なに、準備は終えておるゆえ、心配はいらぬ」

 返事をする間もなく、肉厚な唇が落ちてくる。

 当然のように差し入れられる舌。寝間着越しに、豆粒を摘まみ、さする指。

(……っ嫌……!)

 気持ち悪くて、悪寒に震える。上衣の裾から、肥えた丸い手が入ってくる。

「――あ、あのっ、ベフナーム様!」

 甲高い少年の声が響く。

 髭が離れ、ほっと息をつく。

「おや、黄玉。そちもおったか」

 淡褐色の瞳に、傷ついた色が浮かぶ。しかし、高潔な面立ちが、必死に笑顔で訴えた。

「わたくしでございますれば、いつでも、〈花見〉をなさっていただけます! ですから」

「控えよ。己の立場がわからぬか」

 ラーミンが、声高く詫びて、低頭する。

 ベフナームは苛立たしく唸ると、苦々しげに吐き捨てた。

「まっこと、咲いていると、自ら主張する薔薇があるか。――のう、シャーグルよ」

 再び向いた髭面。すかさず憚って俯き、口元を袖で隠す。

「……申し訳ございません……少し、気分が……」

「おお、それはいかんの。――これ、ボルナー」

 スヌンゴが、短く答えて側に寄る。手を借りて座し、丁重に礼をする。

「せっかくお越しいただきましたのに、お詫びのしようもございません……一日でも早く、〈花見〉をお楽しみいただけますよう、努めますので……何卒ご容赦賜りませ」

「うむうむ。大事にせよ。楽しみにしておるぞ」

「お心遣い、誠に痛み入ります」

 さらに深く頭を下げてから、身体の向きを変える。ラーミンに呼びかけて、眉尻を下げる。

「挨拶、大儀でした。粗雑なもてなしで、心苦しいですが――」

「……ご病床の折のお出まし、ありがたく存じます。どうぞ、お大事になさってくださいませ」

 優雅な所作。しかし、華奢な腿に置かれた手は、震えていた。

 視線をそらし、ベフナームに向き直る。

「――さて。では、戻るかの」

 かけ声を上げて、巨体が腰を上げる。のっそのっそと歩く姿。

 ラーミンは、少し様子を窺っていたものの、付き従うように、辞していった。

 再び静かになった居室。大きく溜め息をついて、姿勢を崩す。途端、がたがたと、震えが全身を走った。

 熱いのに寒い。胸の真ん中が渦巻いて、気持ち悪い。

 喘いでいると、背中に、優しくさする感触が来る。嘆く声が、頭で反響する。

「ああ、ステノゴ王子。また、お熱が……」

「大丈夫……少し、驚いただけだから……」

 かろうじて振り向き、淡く笑みを浮かべる。

 心配の溢れる、黄褐色の面立ち。差し出された手を取り、ふらつく足で、寝間に戻る。

 ようやく寝台にたどり着くと、ゆっくりと横たわった。スヌンゴが、上掛けを被せて、穏やかに告げる。

「どうぞ、お(やす)みください。その間に、お顔はお拭きいたしますので」

「……うん、ありがとう……」

 吐息の中で、返事をする。

 揃えを用意する音。化粧を落とす、優しい所作。

 安堵の溜め息をつくと、瞬く間に、意識が滑り落ちていった。

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