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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第六章 終いぞめの頃
28/29

蹂躙

 ファールサ暦二二八年三月八日。

「――それでは、終わられましたら、お声がけください」

 薔薇局長が、一礼して退室する。

 扉の閉まる音。静けさが、あたりを覆った。

 不安げに、対面に座った手駒が身じろぐ。揺らめいて光る、黄玉の耳飾り。苛立ちが、胸に湧き起こる。

「〈植えつけ〉ののち、一度も〈花見〉がないようであるな、ラーミンよ」

 警護の都合上、〈花見〉の日時は全て記録される。

 たとえ、ベフナームが気まぐれを起こして、正規の手続きを踏んでいなかったとしても、〈薔薇の宮〉への出入り口は限られている。遺漏は、ほぼ皆無といえた。

(何よりも――)

 少し背の伸びた、華奢な肢体を眺める。

 幼く、垢抜けない容貌。

 記録を見ずとも、長らく捨て置かれていると、よくわかる。

 口惜しいが、青玉の寵童とは、天と地のほどの差がある。あの匂い立つ色香は、抱かれ続けて磨かれた者にこそ、宿るものだ。

「この二年、何をしておった。おかげで、計画は破綻しつつあるのだぞ」

「……も、申し訳ございません……お手紙は、差し上げているのですが……」

 微かな声が、震えて落ちる。

 血の気が引いていき、身の奥底へと溜まっていく。

「手紙……手紙だけであると……?」

 あまりにも稚拙な手段。窺うように見上げる顔に、怒声を浴びせる。

「痴れ者が! たかだか紙くずごときで、王〈シャー〉の気を引けるとでも思うたか! 如何(いか)な手段を使ってでも、青薔薇を追い落とし、寵を深めることが、手前の為すべきことであろう! 悪戯に時を浪費しおって! この役立たずめッ!」

「申し訳ございませんっ! 全ては、わたくしの力不足にございます!」

 未熟な肢体が跳ね上がり、深く低頭する。

 正座した膝に、ぱたぱたと雫が落ちる。憐れになど到底思えず、冷ややかに見下ろす。

「泣くくらいならば、結果を出せ、ラーミン。何としても、青薔薇の弱みを握るのだ」

「……身命をかけ、必ずや成しとげてみせます」

 ぎりり、と歯を食い縛る音。

 腰を上げ、震える姿を一瞥する。

 泣きじゃくる声を背に、鼻を鳴らして、立ち去った。


 *


 夏の終わりの、穏やかな昼下がり。

 窓から差す陽光に、青い瞳が輝いている。その凛とした光を眺めながら、いとおしい声を聴く。

「兄上……好きです……本当に、きれいで、かわいい……」

 応えるように、深く繋いだ手を握る。少しだけ離れて、見つめ合う。

 幸せに満ちた笑み。顔を寄せ合い、頬に、額に、口づけを降らす。溶け合う音色が、耳に心地よい。満ち足りた心持ちで、うとうとと微睡む。

 たゆたう意識の中、硬質な音が、鼓膜をかすめる。かげって、はっと身を起こす。

「ベフナーム様……!」

「――そちら、何をしておる?」

 言葉もなく、青ざめる。

 知らせもなしに、ふらりとやってくることはあるが、まさかこんな時とは。

 しかも、なぜか、ジャハーンがいる。使者役の侍童すら、まだ来る時刻ではないのに、いったいどういうことだろう。

 居住まいを正して、アフシンが答える。

「花遊び〈グリ・バーズィー〉をしておりました」

 ふうむ、と淡く唸る声。焦茶色の目が、冷たく見下ろしてくる。

「そちはともかく――シャーグルよ。わしは、頭がおかしくなったかのう? そちの披露目は、まだだったか」

 緩慢に、髭面が傾ぐ。

 深く(こうべ)を垂れ、切実に告げる。

「申し訳ございません! 非は全て、僕にございます……!」

 頷く呼気が、黒い髭から漏れる。鷹揚な声が、頷きながら、降ってくる。

「――まあ、よい。せっかくゆえ、二人で〈弓張り〉をしてくれんかのう」

 あまりに予想外の言葉。思わず、アフシンと顔を見合わせる。

 強ばって白んだ面立ち。しかし、選択肢などなかった。

 膝をつき、ベフナームの下衣と下着の紐をほどく。下半身を露わにして座った巨体の前に、アフシンと並ぶ。そして、二人で末弭(うらはず)に舌をつけた。

 ベフナームが手招きして、控えていたジャハーンを呼びつける。

「シャーグルに〈追肥〉せよ」

 ためらうように、微かに漏れる吐息。

 苛立った声が、再びの命令を飛ばす。

「何をしておる。(はよ)うせんか」

「は……承知いたしました」

 背後に迫る気配。紐を解く音と衣擦れ。尻が寒くなり、薄手の布の感触が乗る。

 ジャハーンの配慮。それでも、音はどうしても聞こえる。そして、アフシンは、その意味を知っているのだ。

〈花壺〉の水流が響く。香油の湿った音。身体の芯が、震えた。

「――王〈シャー〉よ。青玉の薔薇は、咲き頃を迎えました」

「うむ、大儀であった」

 器具を片づけ、控えの位置に戻る気配。

 肩に触れられて、視線を上げる。

「今日は、そちの真珠の丘を眺めたいのう。のう、シャーグルよ」

 いったい、何をするつもりなのか。なんとなく予想がついて、心が強ばる。

 しかし、もうどうすることもできない。いつものように、弓に口づけてから、上目遣いに微笑む。

「――はい、ベフナーム様」

 衣を全て脱ぐ。背を向けて、横たわった髭面の上に跨がった。

 ふっと薔薇にかかる、熱い吐息。淡く声が漏れ、肩が跳ねる。刺さる視線に、顔を上げる。

 所在なさげに、巨体の傍らに座るアフシン。その、澄んだ青色。

 羞恥が全身に湧き上がる。今すぐ腕を伸ばして、覆い隠してしまいたかった。

 しかし、ベフナームが許すはずもない。

 その証左のように、何気ない口調が告げた。

「アフシンよ。シャーグルの〈弓引き〉をしてやるがよい。――シャーグル、そちもぞ」

 白雪の顔が、はっとする。血の気の引いた色。

 鷹揚な声が続ける。

「せっかく遊んでいたのに、邪魔をしてしまったものをのう。まだまだこれからという時に、悪いことをしたゆえ」

 見開いた青い瞳。何かを紡ぐように、紅赤の唇が震える。

 しかし、次には、感じ入った声で丁重に礼をした。

「……お気遣い、深く感謝申し上げます」

 アフシンは上体を起こすと、下衣と下着に手をかけた。

 初めて見る、その景色。金色の中の、雄々しい弓。

 おもむろに、視界がぼやけていく。

 知らずとも幸せだった。温かで、(さや)かな時だったのに。

「ベフナーム様。青薔薇様と対面して行っても、よろしいでしょうか」

「おお、よいぞ。花遊び〈グリ・バーズィー〉の続きゆえ、その方が楽しかろうて」

「――恐れ入ります」

 改めて礼をし、アフシンは肥えた太腿に跨がった。

 探るように、ゆっくりと、白い手が伸びる。繊細に、弓をさすっていく。

 優しく柔らかい所作。吐息が、淡く熱を帯びる。

 こうなったなら、もう逃げ場はないのだ。

 恐る恐る、薄赤い弓に、手を向ける。決して視線を下ろさず、ただひたすら、青い瞳を見つめる。

「うむうむ。まっこと、よいのう。――どれ、わしは愛でるかの」

 尻を撫でる感触。そして、ずぶりと一気に入ってくる。

「――え、あっ⁉」

 一本、二本、三本と、瞬く間に増え、引っ張るように広げられる。

 急な刺激。腰が砕けそうになる。たまらず手放し、アフシンの腕にすがりついて、なんとか姿勢を保つ。

「おお、どうした。我が可愛い小鳥よ。もっと欲しかろう?」

 容赦なく、ぐりぐりと、胡桃を押し込まれる。強烈な快感が背筋を駆ける。

 わななきながら、それでも上体を起こして、豆粒を摘まんだ。引っ張り、こね回し、爪を立てる。官能の押し寄せるままに、身悶える。

 澄んだ青い瞳に映る、物欲しげな表情。涙が滲む。

(……お願い……見ないで……こんな僕を、見ないで……)

 あと半年余りで、アフシンは去ってしまうのに。優しい微睡みは、もう覚めてしまうのに。

 命じるように、強く胡桃を押される。粒を、きつく摘まんで引く。

 途端、突き抜けて果て、白矢を射た。

 激しい残響に、熱い喘ぎがこぼれ、身体が跳ねる。

 アフシンの、茫然とした面立ち。

 たまらず、顔をそむけて俯く。恥ずかしくて、やるせなくて、涙が頬を伝った。

「ほれ、シャーグルよ。そちの滴る薔薇ゆえに、我が弓は猛ったぞ」

 尻を軽くはたかれ、傍らにどく。

 巨体を助け起こした瞬間、怒声が轟いた。

「――アフシン! これから矢筒に射るというに! (はよ)う始末せんか!」

「申し訳ございません! 直ちに!」

 深々と頭を下げ、アフシンが、自身の白矢を舐め取っていく。

 抱き寄せられて、毛深い手が頬を撫でる。

「まっこと、可愛げのないものよのう。それに比べて、そちはいつまでも小さく、愛らしいことよ」

 太く短い指が、唇をなぞって入ってくる。

 離れて細く引く、透明な糸。唾液に濡れた指が、果てて膨れた豆粒を、こねくり回す。淡く、息が漏れた。

「ノールの薔薇は、丈ばかり伸びて、花はすぐ枯れよる。――見よ、あの体躯を。繊細さの欠片もない、無粋な様よ」

 そんなことはない。

 アフシンは、いつだって温かく包んでくれた。こんなふうに、ほしいままになど、決してしなかった。

 否定したくても、性の悦楽に支配された身体は、与えられる快感を、ただ貪るばかりだ。そして、この身に、歯向かう権利はなかった。

 粒を弄り回される刺激に悶えながら、丹念に舐める湿った音を聞く。

 淡く幾度か果てた頃、アフシンが、ベフナームの弓に頬ずりし、口づける様を見た。

 金色の頭が、恭しく礼をする。

「大変お待たせいたしました。済みましてございます」

「うむ。そちはもうよい。下がれ」

 さらに深く頭を下げて、アフシンが腰を上げる。

 衣を拾う姿。不意にぶれて、息を呑む。

「我が可愛い小鳥よ。今日は、存分に葡萄を愛でてやるからの」

 突如始まった律動に、甲高い呻きが溢れる。様々な液体の湿り気が、居室中に響き渡る。

 まだ、アフシンがいるのに。声が、音が、止まってくれない。

「ここが良いよの、シャーグルよ。まっこと、そちは葡萄が好きだのう。わかるぞ。良くてたまらぬよの。おお、おお、よう締まる」

 アフシンが、衣を整え終えて、辞する旨を告げる。

 その、涙の溜まった青い瞳。去っていく背中に、思わず手を伸ばす。

「――アフシン……!」

 途端、きつい衝撃が突き上げ、悲鳴を上げる。

 間髪入れず、深い打ちつけ。泣き叫んで狂乱する。

「どうか、お許しを! ベフナーム様あぁっ!」

「うむうむ、わかればよいのだ。そちは、まっこと、素直で可愛いのう」

 満足げに笑う、黒い髭面。

 許しを哀願しながら、肥えて細い目を見つめ続けた。


 *


 ファールサ暦二二八年六月中旬。

 晩夏の陽光が燦々と降り注ぐ中、少年の幼い声が、朗々と響く。

「――そして、先月半ば、紅玉の間から、青玉の寵童付きの侍童が出ていくところを見かけたのです。聞くところによれば、紅玉様の誕生日をお祝いなさっていたとか。二人はとても仲がよく――以前は、花遊び〈グリ・バーズィー〉するほどであったそうにございます。もちろん、十五歳以降は、無二の伴侶として、節度ある付き合いをしなければなりません。しかし、もし――まだ続けていたなら、弱みになると考えました。そこで、青玉の寵童付きの中で、間者になりそうな侍童を探したのでございます」

 まるで、詩を詠うように、大仰に抑揚をつけた口調。

 三ヵ月間、尾行した成果なのである。()く心を抑えながら、続きを聴く。

「一人、適した者がおりました。来年退宮する侍童で――もちろん、ファールサ人にございます――その者を呼び出し、相応の地位を約束する代わりに、協力するよう命じました」

 後先考えていないところが透けて見えて、いささか苛立ちが湧く。

 しかし、侍童程度であれば、反故にしたところで、さしたる問題にはならない。頭の片隅で、いい理由づけがないか、思考を巡らせる。

「初めは発覚を恐れて、難色を示しましたが、父に、ちょっとした贈り物を頼んでおりましたので、どうということはございませんでした」

「――なるほど。それで、成果が上がったのであるな?」

 努めて平静に尋ねながら、拙さに焦れる。

 最初から、その用意をしておけば、今、これほどに面倒なことにはならなかったのである。

 父親は、気の利く、よくできた駒だが、息子には受け継がれなかったようだ。

「ええ、先日、報告がございまして」

 幼い顔が、得意満面に輝く。せいせいしたという口調で、滔々と語る。

「青薔薇様と紅玉様が、花遊び〈グリ・バーズィー〉している――と。そこで、すぐに薔薇局長を通じ、ベフナーム様に火急の用だと、お知らせしたのです」

 先が想像できて、胸が躍る。華奢な顎が、傲然と上向く。

「柱の陰で、ご様子をうかがっておりましたが――相当なお怒りようで。〈庭師〉を連れて、青玉の間にお入りになっていきました」

「――それで、その後は」

〈庭師〉がいる点は気にかかるが、あのいけ好かない小童(こわっぱ)の位が、地に堕ちればよいのだ。この際、些末なことである。

「ええ――とても、ゆかいなことになりました」

 ラーミンが笑みを深くする。片腕を広げ、胸に手を宛がう。

「しばらくして、紅玉様が出てまいりました。うつむいていて、よくは見えませんでしたが――泣いていたように存じます。駆け出されたあと、とびらに耳をつけたところ、青薔薇様の泣き叫ぶ声が聞こえました」

 手に手を重ね、震えて落ちる、感嘆の溜め息。

 中空を仰いで、輝く声が語る。

「あの、許しを乞う声――誠に、胸のすく思いでございました。己の身の程を、よくよく思い知ったことでしょう」

 未開の異教徒と野蛮な改宗者による不義。

 これで、さしものベフナームも目が覚めたことであろう。満悦して、深く頷く。

「よくやった、ラーミン。今後の働きにも、期待しておるぞ」

「果たすべき使命と心得、我が全てをかけて、尽くしてまいります」

 焦茶色の頭が、恭しく礼をする。

 おおらかに応えて、茶を注ぎ、菓子の盆に置く。そうして微笑みかけると、和やかに勧めた。


「これは、どうしたものであるかのう、ファルジャードよ」

 任免の一覧を眺めながら、ベフナームが唸る。

 低頭しつつ、明確に答える。

「畏れながら、やはり調整が難しく――愚見を採用させていただきましてございます」

「難しいとな? そちに限って、まっこと、左様なことがあろうかの」

 疑念に満ちた眼差し。恐縮して、さらに頭を下げる。

「力不足にて、誠に申し訳ございません」

 ふむ、と丸い手が髭をしごきながら、溜め息を漏らす。ひとしきり書面を眺めて、いささか尖った声が呟く。

「――まあよい。今夜、シャーグルに相談するゆえ、追って沙汰する」

 思わず、はっと顔を上げる。

 不義の現場を押さえたのではなかったのか。素早く絨毯をにじって、進み出る。

「王〈シャー〉よ! どうか、お目を覚まされませ! あの者は、不埒な異教徒! 惑わされてはなりませぬ!」

「――やはり、知らせは、そちの差し金か」

 見下ろす焦茶色の瞳を、仰いで凝視する。背筋に、冷たい汗が伝う。

「裏切りを暴けたことには、礼を言おう。しかし、そちは、勘違いをしておるようだのう」

 肥えた指の短い手が、黒い髭を何度もしごく。轟く声が、降ってくる。

「確かに、シャーグルは過ちを犯した。とはいえ、かの者は、いまだ十六よ。花遊び〈グリ・バーズィー〉程度は、許してやらねばならぬ」

 髭に埋もれた口元が、おもむろに猥雑な笑みを浮かべる。支配欲に打ち震えて、満たされた音色が語る。

「それに今、シャーグルは罰を受けておる。すっかり従順になりおって、まっこと、いじらしいものよ」

 完全なる敗北。

 事態は、もはや取り返しのつかないところまで来ていた。こうなったならば、別の方面で、挽回する機会を窺うほかない。

 あの小童(こわっぱ)の考案した人事は、メフルダードに近しい者が含まれていた。

 おおかた、執念深い卑賤の息子が、王〈シャー〉の座を簒奪しようとでもしているのであろう。いかにも、奴隷上がりの侍女腹が考えそうなことだ。

 しかし、どのような子であろうと、クーロシュにとっては、愛する妻の遺した大切な息子なのである。

 だからこそ、あとあと面倒になるとわかっていても、誓書の締結を諦められなかった。

 その心に添いたくて、これまで戦を避けてきたが、もはやどうにもならない。向こうから仕掛けてくる可能性がある以上、備えは万全にしておくべきであろう。

 南東部には、古くから(よしみ)を通じた名家が多くある。連絡を取れば、必ずや協力を申し出てくれるはずだ。

 密かに兵を雇い、軍備を整えるには、どれほどの費用がかかるか――。

 目まぐるしく巡る思考の中、呼びかけられて、応える。

 巨体から、重く厳しい声が発せられる。

「よいか。難しいなどとは申させぬ。なんとしても、わしの案を成し遂げよ」

 メフリガーンまで、二週間を切っていた。

 これ以上、引き延ばせば、期限に間に合わなくなる。行政の混乱だけは、避けなければならない。

 今後の方針は決まったのである。こちらは、好きにさせておけばよい。

「あらん限りをもって、尽力いたします」

 恭しく礼をする。ベフナームは満足して頷くと、退出を告げた。


 *


 用件を告げ、辞する使者を見送る。いつもは喜ばしい〈花見〉のない夜も、今は重く感じられた。

 ――姦通した女と男は、百回の鞭打ちに処すべし。聖典ハーンの一節だ。

 花遊び〈グリ・バーズィー〉を、十五歳を超えて行った場合の規定は、実は存在しない。

 おそらく、成年の男同士の交わりが禁止されている代わりに、少年との男色が許容されているように、無明の時代からの古い風習だからだろう。

 神の尊い言葉とは、ファールサ人にとって、かくも都合のよいものなのだ。

 ただ、それが我が身に降りかかるとなれば、揶揄してばかりもいられない。

 秘め事を暴いた翌日の夜、〈花見〉に来たベフナームは、罰を提案した。

 百回の鞭打ちを模して、尻を打つ、というのだ。それも、〈誘引〉した上で。

 百夜の責め苦。いったい、あと幾夜を耐えればいいのだろう。

 立会人として、ジャハーンが記録してくれているが、先はまだ遠い。いっそのこと、早く過ぎてくれればと、切に願う。

 うつ伏せになって、人の丈ほどある大きな筒綿に、身を預ける。舞いの稽古の復習をしなければと思うのに、何をする気にもなれなかった。

 心が重くてだるい。なんてことのない些末なひとときで、涙が滲んでくる。

〈誘引〉される度に、初めての〈花見〉を思い出して、泣かずにはいられなかった。

 当時はまだ十歳で、閨の事など、何も知らなかった。そんな幼い心身で、辱しめられたのだ。

 そうして今、再び苛まれている。

 幾度も突き抜ける破裂音に、スヌンゴの泣き濡れた顔を思い出しながら。あの時は、十一歳だった。

(……もう、死にたい……早く、姉上のところへ行きたい……)

 母は、サトリアに生んでくれたのに。慈しんで、大切に育ててくれていたのに。

 姉だって、不具ながら、サトリアだった。

 きっと、今生で善行を積み、来世に向けて備えろ、という、ウィスヌの尊い計らいだったはずだ。

 それなのに、浅はかな判断で、皆を巻き込み、台無しにしてしまった。

 筒綿に顔を押しつける。せり上がる喉を絞り、湿ったつかえを、きつく飲み込む。

 今泣けば、目が腫れる。夕食の給仕に戻ってきた侍童が気づけば、無用な気遣いをさせてしまう。

 着替えで仕打ちの跡に気づいた途端、ファールサ人の侍童が、密告を白状した。

 南西の砂漠地帯の出身で、貧困に喘ぐ家族と村のために入宮したのだと、長い付き合いで知っていた。

 ファールサ人の間にも、大きな格差があることも。その苦労が、人を時に悪行に誘い、時に優しい心をもたらすことも。

 もう許したのだ。自分の言動が追及と受け取られるようなことが、あってはならない。

 ふと、扉の向こうで、訪問を告げる声がする。

 紅玉付きの侍童だ。約束はしていないはずなのに、いったいどうしたのだろう。

 顔を上げたところで、スヌンゴが寄ってくる。気遣うように問いかけられる。

「いかがいたしましょう? ご気分が優れないと、お伝えいたしましょうか?」

 ためらって、言葉を詰まらせる。

 アフシンとは、あの日以来、顔を合わせていなかった。

 もともと、官吏を育成するための高等課程と、身分にかかわらず、全ての人々が学ぶ中等課程とは、終業時間も学舎も異なる。高等一年に進級してからは、ばらばらに登下院する日が多くなっていた。

 それでも、芸事の稽古は一緒だったから、約束しなくとも、会う機会は、それなりにあったのだ。

 しかし、アフシンの武官への転向が決まり、今年の春から、芸事を辞め、武術の鍛練を始めると、状況が一変した。

 忙しい合間を縫い、時間をなんとかやり繰りして、訪ね合う日々。

 退宮までの時を惜しむように、多くを二人きりで過ごした。優しくて温かな微睡みに、甘えきっていた。完全な油断だった。

 謝らなければ。

 しかし、あんな姿を見られて、どんな顔で会えばいいというのだろう。

「……やはり、お断りいたしましょう」

 スヌンゴが、淡く微笑んで、扉の前で控えて待つ侍童を振り見る。そして、身振りで、面会不可の意を伝えた。

 侍童が目顔で頷き、口を動かしかけた、その時。

「――兄上。いらっしゃるんでしょう? お話ししたいんです。どうか、開けてくださいませんか?」

 聞き慣れた、真っ直ぐな声。アフシンの、声。

 気がつけば、言葉が滑り出ていた。

「通してあげて」

 承知の返答。許可と謝意のやり取り。

 扉が、おもむろに引き開いていく。現れた姿に、息を呑む。

 傾きかけた初秋の陽光に照らされて、アフシンは輝いていた。

 少し長い髪が、金糸のように、きらきらときらめいている。澄んだ青い瞳。まだ一ヵ月しか経っていないのに、ずいぶん背が高く見えた。

 アフシンは、歩み寄って座すと、眉尻を下げて微笑んだ。

「あのあと、お体に障りはありませんでしたか? おれ、ずっと心配で。でも、メフリガーンまでに一通りの稽古は済ませるよう、アースマーン師に言われていて、ようやく落ち着いたところなんです。それで、急で申し訳なかったんですけれど、お会いしようと思いまして」

 いつも通りの、屈託のない調子。

 途端、後悔が湧く。会うべきではなかった。

「……ごめん、アフシン……帰って……」

「え、兄上……?」

 青い瞳が瞬く。清澄で純真な色に覗き込まれて、たまらず声が滲む。

「僕は……君と、顔を合わせる資格はないから……」

 戸惑いながらも、慮る溜め息。

 優しい声が、柔らかく問いかけてくる。

「そんな、どうして――おれだって、遊び続けたくて、続けてたんですから。兄上は悪くないですよ」

 ふるふると首を振る。心配などさせたくないのに、涙が溢れてくる。

「……あんな、汚いところ……見られて……っだから、だから……っ」

 欲情にまみれた醜態。ふしだらな嬌声。組み敷かれ、辱められる、無様な惨状。

 なんて、穢らわしくて、不浄なのだろう。

「汚いだなんて……そんな、兄上……」

 そっと、白い手が伸びる。

 手を取られた途端、鋭い痛みが走った。淡く悲鳴を上げて、きつく引っ込める。

「え、あ、すみません! そんなに強く、引っ張ったつもりじゃなかったんですけど……」

 心配するように、寄り添い、肩に手が置かれる。温かで、優しい感触。

 こんなことを知ったら、アフシンは悲しむ。

 しかし、誤解させたままにしておくわけにもいかない。袖を少しまくり上げて、手首を見せた。

「……え、これ……」

 何重にもついた、細い痣。〈誘引〉の――緊縛の、跡だった。

「……罰を、受けていて……それで――」

「罰……? え、だって、たかだか花遊び〈グリ・バーズィー〉じゃないですか!」

 納得感が胸に落ちる。やはり、一般的な認識は、その程度なのだ。

〈土替え〉のあと、手当てをしながら、確かにジャハーンは憤っていた。何も言わなくても、宵闇の瞳が、激しく燃え立っていた。

 加担を強いられるその心中は、どれほどのものだろう。

「それでも、不義だから――僕が……全部、悪いから……」

 浅慮で見通しが甘い。叩かれても、当然だ。

「――兄上、聴いてください」

 白雪の手が、手首を包み込む。柔らかく、さすっていく。

「あなたは、絶対に、悪くありません。十五歳でやめるのは、みんな、本格的に縁談を探し始めるからです。正式な結婚もしていないのに、咎められる筋合いはないんです。――ましてや、こんな」

 ぎり、と噛み締めた歯が軋む。

 わなないた呼吸を鎮めるように、紅赤の唇が開閉する。

「こんな酷いことをしていいわけがないんです。そんなの、理由になんて、なりません」

「……でも……でも、アフシン……っ」

 たとえそうだとしても、この身が穢れていることには変わりない。性の悦楽を喜んで求めることに、変わりはないのだ。

 滑るように、なめらかに抱き締められる。少しおどけたような口調が、優しく告げる。

「大丈夫ですよ、兄上。おれ、言ったじゃないですか――どんなことが起きても、好きだって。もう、信じてくださいよ」

 細くも広い背中にしがみつく。

 頷けば、嬉しそうに微笑む声が、胸を通して響いてくる。

 どこか弾むような、明るい調子の鼓動。洗いたての絨毯のような、ほこほこした匂い。活発な体温。

 穏やかな安堵が、心に満ちていく。

「兄上、大好きです……会えてよかった――」

 感慨深く、柔らかな声が呟く。温かな手が、ゆっくりと背中をさする。しがみついたまま、思う存分、泣きじゃくる。

 馴染んだぬくもりにくるまれて、久しぶりに、安らかな時を過ごした。

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