蹂躙
ファールサ暦二二八年三月八日。
「――それでは、終わられましたら、お声がけください」
薔薇局長が、一礼して退室する。
扉の閉まる音。静けさが、あたりを覆った。
不安げに、対面に座った手駒が身じろぐ。揺らめいて光る、黄玉の耳飾り。苛立ちが、胸に湧き起こる。
「〈植えつけ〉ののち、一度も〈花見〉がないようであるな、ラーミンよ」
警護の都合上、〈花見〉の日時は全て記録される。
たとえ、ベフナームが気まぐれを起こして、正規の手続きを踏んでいなかったとしても、〈薔薇の宮〉への出入り口は限られている。遺漏は、ほぼ皆無といえた。
(何よりも――)
少し背の伸びた、華奢な肢体を眺める。
幼く、垢抜けない容貌。
記録を見ずとも、長らく捨て置かれていると、よくわかる。
口惜しいが、青玉の寵童とは、天と地のほどの差がある。あの匂い立つ色香は、抱かれ続けて磨かれた者にこそ、宿るものだ。
「この二年、何をしておった。おかげで、計画は破綻しつつあるのだぞ」
「……も、申し訳ございません……お手紙は、差し上げているのですが……」
微かな声が、震えて落ちる。
血の気が引いていき、身の奥底へと溜まっていく。
「手紙……手紙だけであると……?」
あまりにも稚拙な手段。窺うように見上げる顔に、怒声を浴びせる。
「痴れ者が! たかだか紙くずごときで、王〈シャー〉の気を引けるとでも思うたか! 如何な手段を使ってでも、青薔薇を追い落とし、寵を深めることが、手前の為すべきことであろう! 悪戯に時を浪費しおって! この役立たずめッ!」
「申し訳ございませんっ! 全ては、わたくしの力不足にございます!」
未熟な肢体が跳ね上がり、深く低頭する。
正座した膝に、ぱたぱたと雫が落ちる。憐れになど到底思えず、冷ややかに見下ろす。
「泣くくらいならば、結果を出せ、ラーミン。何としても、青薔薇の弱みを握るのだ」
「……身命をかけ、必ずや成しとげてみせます」
ぎりり、と歯を食い縛る音。
腰を上げ、震える姿を一瞥する。
泣きじゃくる声を背に、鼻を鳴らして、立ち去った。
*
夏の終わりの、穏やかな昼下がり。
窓から差す陽光に、青い瞳が輝いている。その凛とした光を眺めながら、いとおしい声を聴く。
「兄上……好きです……本当に、きれいで、かわいい……」
応えるように、深く繋いだ手を握る。少しだけ離れて、見つめ合う。
幸せに満ちた笑み。顔を寄せ合い、頬に、額に、口づけを降らす。溶け合う音色が、耳に心地よい。満ち足りた心持ちで、うとうとと微睡む。
たゆたう意識の中、硬質な音が、鼓膜をかすめる。かげって、はっと身を起こす。
「ベフナーム様……!」
「――そちら、何をしておる?」
言葉もなく、青ざめる。
知らせもなしに、ふらりとやってくることはあるが、まさかこんな時とは。
しかも、なぜか、ジャハーンがいる。使者役の侍童すら、まだ来る時刻ではないのに、いったいどういうことだろう。
居住まいを正して、アフシンが答える。
「花遊び〈グリ・バーズィー〉をしておりました」
ふうむ、と淡く唸る声。焦茶色の目が、冷たく見下ろしてくる。
「そちはともかく――シャーグルよ。わしは、頭がおかしくなったかのう? そちの披露目は、まだだったか」
緩慢に、髭面が傾ぐ。
深く頭を垂れ、切実に告げる。
「申し訳ございません! 非は全て、僕にございます……!」
頷く呼気が、黒い髭から漏れる。鷹揚な声が、頷きながら、降ってくる。
「――まあ、よい。せっかくゆえ、二人で〈弓張り〉をしてくれんかのう」
あまりに予想外の言葉。思わず、アフシンと顔を見合わせる。
強ばって白んだ面立ち。しかし、選択肢などなかった。
膝をつき、ベフナームの下衣と下着の紐をほどく。下半身を露わにして座った巨体の前に、アフシンと並ぶ。そして、二人で末弭に舌をつけた。
ベフナームが手招きして、控えていたジャハーンを呼びつける。
「シャーグルに〈追肥〉せよ」
ためらうように、微かに漏れる吐息。
苛立った声が、再びの命令を飛ばす。
「何をしておる。早うせんか」
「は……承知いたしました」
背後に迫る気配。紐を解く音と衣擦れ。尻が寒くなり、薄手の布の感触が乗る。
ジャハーンの配慮。それでも、音はどうしても聞こえる。そして、アフシンは、その意味を知っているのだ。
〈花壺〉の水流が響く。香油の湿った音。身体の芯が、震えた。
「――王〈シャー〉よ。青玉の薔薇は、咲き頃を迎えました」
「うむ、大儀であった」
器具を片づけ、控えの位置に戻る気配。
肩に触れられて、視線を上げる。
「今日は、そちの真珠の丘を眺めたいのう。のう、シャーグルよ」
いったい、何をするつもりなのか。なんとなく予想がついて、心が強ばる。
しかし、もうどうすることもできない。いつものように、弓に口づけてから、上目遣いに微笑む。
「――はい、ベフナーム様」
衣を全て脱ぐ。背を向けて、横たわった髭面の上に跨がった。
ふっと薔薇にかかる、熱い吐息。淡く声が漏れ、肩が跳ねる。刺さる視線に、顔を上げる。
所在なさげに、巨体の傍らに座るアフシン。その、澄んだ青色。
羞恥が全身に湧き上がる。今すぐ腕を伸ばして、覆い隠してしまいたかった。
しかし、ベフナームが許すはずもない。
その証左のように、何気ない口調が告げた。
「アフシンよ。シャーグルの〈弓引き〉をしてやるがよい。――シャーグル、そちもぞ」
白雪の顔が、はっとする。血の気の引いた色。
鷹揚な声が続ける。
「せっかく遊んでいたのに、邪魔をしてしまったものをのう。まだまだこれからという時に、悪いことをしたゆえ」
見開いた青い瞳。何かを紡ぐように、紅赤の唇が震える。
しかし、次には、感じ入った声で丁重に礼をした。
「……お気遣い、深く感謝申し上げます」
アフシンは上体を起こすと、下衣と下着に手をかけた。
初めて見る、その景色。金色の中の、雄々しい弓。
おもむろに、視界がぼやけていく。
知らずとも幸せだった。温かで、清かな時だったのに。
「ベフナーム様。青薔薇様と対面して行っても、よろしいでしょうか」
「おお、よいぞ。花遊び〈グリ・バーズィー〉の続きゆえ、その方が楽しかろうて」
「――恐れ入ります」
改めて礼をし、アフシンは肥えた太腿に跨がった。
探るように、ゆっくりと、白い手が伸びる。繊細に、弓をさすっていく。
優しく柔らかい所作。吐息が、淡く熱を帯びる。
こうなったなら、もう逃げ場はないのだ。
恐る恐る、薄赤い弓に、手を向ける。決して視線を下ろさず、ただひたすら、青い瞳を見つめる。
「うむうむ。まっこと、よいのう。――どれ、わしは愛でるかの」
尻を撫でる感触。そして、ずぶりと一気に入ってくる。
「――え、あっ⁉」
一本、二本、三本と、瞬く間に増え、引っ張るように広げられる。
急な刺激。腰が砕けそうになる。たまらず手放し、アフシンの腕にすがりついて、なんとか姿勢を保つ。
「おお、どうした。我が可愛い小鳥よ。もっと欲しかろう?」
容赦なく、ぐりぐりと、胡桃を押し込まれる。強烈な快感が背筋を駆ける。
わななきながら、それでも上体を起こして、豆粒を摘まんだ。引っ張り、こね回し、爪を立てる。官能の押し寄せるままに、身悶える。
澄んだ青い瞳に映る、物欲しげな表情。涙が滲む。
(……お願い……見ないで……こんな僕を、見ないで……)
あと半年余りで、アフシンは去ってしまうのに。優しい微睡みは、もう覚めてしまうのに。
命じるように、強く胡桃を押される。粒を、きつく摘まんで引く。
途端、突き抜けて果て、白矢を射た。
激しい残響に、熱い喘ぎがこぼれ、身体が跳ねる。
アフシンの、茫然とした面立ち。
たまらず、顔をそむけて俯く。恥ずかしくて、やるせなくて、涙が頬を伝った。
「ほれ、シャーグルよ。そちの滴る薔薇ゆえに、我が弓は猛ったぞ」
尻を軽くはたかれ、傍らにどく。
巨体を助け起こした瞬間、怒声が轟いた。
「――アフシン! これから矢筒に射るというに! 早う始末せんか!」
「申し訳ございません! 直ちに!」
深々と頭を下げ、アフシンが、自身の白矢を舐め取っていく。
抱き寄せられて、毛深い手が頬を撫でる。
「まっこと、可愛げのないものよのう。それに比べて、そちはいつまでも小さく、愛らしいことよ」
太く短い指が、唇をなぞって入ってくる。
離れて細く引く、透明な糸。唾液に濡れた指が、果てて膨れた豆粒を、こねくり回す。淡く、息が漏れた。
「ノールの薔薇は、丈ばかり伸びて、花はすぐ枯れよる。――見よ、あの体躯を。繊細さの欠片もない、無粋な様よ」
そんなことはない。
アフシンは、いつだって温かく包んでくれた。こんなふうに、ほしいままになど、決してしなかった。
否定したくても、性の悦楽に支配された身体は、与えられる快感を、ただ貪るばかりだ。そして、この身に、歯向かう権利はなかった。
粒を弄り回される刺激に悶えながら、丹念に舐める湿った音を聞く。
淡く幾度か果てた頃、アフシンが、ベフナームの弓に頬ずりし、口づける様を見た。
金色の頭が、恭しく礼をする。
「大変お待たせいたしました。済みましてございます」
「うむ。そちはもうよい。下がれ」
さらに深く頭を下げて、アフシンが腰を上げる。
衣を拾う姿。不意にぶれて、息を呑む。
「我が可愛い小鳥よ。今日は、存分に葡萄を愛でてやるからの」
突如始まった律動に、甲高い呻きが溢れる。様々な液体の湿り気が、居室中に響き渡る。
まだ、アフシンがいるのに。声が、音が、止まってくれない。
「ここが良いよの、シャーグルよ。まっこと、そちは葡萄が好きだのう。わかるぞ。良くてたまらぬよの。おお、おお、よう締まる」
アフシンが、衣を整え終えて、辞する旨を告げる。
その、涙の溜まった青い瞳。去っていく背中に、思わず手を伸ばす。
「――アフシン……!」
途端、きつい衝撃が突き上げ、悲鳴を上げる。
間髪入れず、深い打ちつけ。泣き叫んで狂乱する。
「どうか、お許しを! ベフナーム様あぁっ!」
「うむうむ、わかればよいのだ。そちは、まっこと、素直で可愛いのう」
満足げに笑う、黒い髭面。
許しを哀願しながら、肥えて細い目を見つめ続けた。
*
ファールサ暦二二八年六月中旬。
晩夏の陽光が燦々と降り注ぐ中、少年の幼い声が、朗々と響く。
「――そして、先月半ば、紅玉の間から、青玉の寵童付きの侍童が出ていくところを見かけたのです。聞くところによれば、紅玉様の誕生日をお祝いなさっていたとか。二人はとても仲がよく――以前は、花遊び〈グリ・バーズィー〉するほどであったそうにございます。もちろん、十五歳以降は、無二の伴侶として、節度ある付き合いをしなければなりません。しかし、もし――まだ続けていたなら、弱みになると考えました。そこで、青玉の寵童付きの中で、間者になりそうな侍童を探したのでございます」
まるで、詩を詠うように、大仰に抑揚をつけた口調。
三ヵ月間、尾行した成果なのである。急く心を抑えながら、続きを聴く。
「一人、適した者がおりました。来年退宮する侍童で――もちろん、ファールサ人にございます――その者を呼び出し、相応の地位を約束する代わりに、協力するよう命じました」
後先考えていないところが透けて見えて、いささか苛立ちが湧く。
しかし、侍童程度であれば、反故にしたところで、さしたる問題にはならない。頭の片隅で、いい理由づけがないか、思考を巡らせる。
「初めは発覚を恐れて、難色を示しましたが、父に、ちょっとした贈り物を頼んでおりましたので、どうということはございませんでした」
「――なるほど。それで、成果が上がったのであるな?」
努めて平静に尋ねながら、拙さに焦れる。
最初から、その用意をしておけば、今、これほどに面倒なことにはならなかったのである。
父親は、気の利く、よくできた駒だが、息子には受け継がれなかったようだ。
「ええ、先日、報告がございまして」
幼い顔が、得意満面に輝く。せいせいしたという口調で、滔々と語る。
「青薔薇様と紅玉様が、花遊び〈グリ・バーズィー〉している――と。そこで、すぐに薔薇局長を通じ、ベフナーム様に火急の用だと、お知らせしたのです」
先が想像できて、胸が躍る。華奢な顎が、傲然と上向く。
「柱の陰で、ご様子をうかがっておりましたが――相当なお怒りようで。〈庭師〉を連れて、青玉の間にお入りになっていきました」
「――それで、その後は」
〈庭師〉がいる点は気にかかるが、あのいけ好かない小童の位が、地に堕ちればよいのだ。この際、些末なことである。
「ええ――とても、ゆかいなことになりました」
ラーミンが笑みを深くする。片腕を広げ、胸に手を宛がう。
「しばらくして、紅玉様が出てまいりました。うつむいていて、よくは見えませんでしたが――泣いていたように存じます。駆け出されたあと、とびらに耳をつけたところ、青薔薇様の泣き叫ぶ声が聞こえました」
手に手を重ね、震えて落ちる、感嘆の溜め息。
中空を仰いで、輝く声が語る。
「あの、許しを乞う声――誠に、胸のすく思いでございました。己の身の程を、よくよく思い知ったことでしょう」
未開の異教徒と野蛮な改宗者による不義。
これで、さしものベフナームも目が覚めたことであろう。満悦して、深く頷く。
「よくやった、ラーミン。今後の働きにも、期待しておるぞ」
「果たすべき使命と心得、我が全てをかけて、尽くしてまいります」
焦茶色の頭が、恭しく礼をする。
おおらかに応えて、茶を注ぎ、菓子の盆に置く。そうして微笑みかけると、和やかに勧めた。
「これは、どうしたものであるかのう、ファルジャードよ」
任免の一覧を眺めながら、ベフナームが唸る。
低頭しつつ、明確に答える。
「畏れながら、やはり調整が難しく――愚見を採用させていただきましてございます」
「難しいとな? そちに限って、まっこと、左様なことがあろうかの」
疑念に満ちた眼差し。恐縮して、さらに頭を下げる。
「力不足にて、誠に申し訳ございません」
ふむ、と丸い手が髭をしごきながら、溜め息を漏らす。ひとしきり書面を眺めて、いささか尖った声が呟く。
「――まあよい。今夜、シャーグルに相談するゆえ、追って沙汰する」
思わず、はっと顔を上げる。
不義の現場を押さえたのではなかったのか。素早く絨毯をにじって、進み出る。
「王〈シャー〉よ! どうか、お目を覚まされませ! あの者は、不埒な異教徒! 惑わされてはなりませぬ!」
「――やはり、知らせは、そちの差し金か」
見下ろす焦茶色の瞳を、仰いで凝視する。背筋に、冷たい汗が伝う。
「裏切りを暴けたことには、礼を言おう。しかし、そちは、勘違いをしておるようだのう」
肥えた指の短い手が、黒い髭を何度もしごく。轟く声が、降ってくる。
「確かに、シャーグルは過ちを犯した。とはいえ、かの者は、いまだ十六よ。花遊び〈グリ・バーズィー〉程度は、許してやらねばならぬ」
髭に埋もれた口元が、おもむろに猥雑な笑みを浮かべる。支配欲に打ち震えて、満たされた音色が語る。
「それに今、シャーグルは罰を受けておる。すっかり従順になりおって、まっこと、いじらしいものよ」
完全なる敗北。
事態は、もはや取り返しのつかないところまで来ていた。こうなったならば、別の方面で、挽回する機会を窺うほかない。
あの小童の考案した人事は、メフルダードに近しい者が含まれていた。
おおかた、執念深い卑賤の息子が、王〈シャー〉の座を簒奪しようとでもしているのであろう。いかにも、奴隷上がりの侍女腹が考えそうなことだ。
しかし、どのような子であろうと、クーロシュにとっては、愛する妻の遺した大切な息子なのである。
だからこそ、あとあと面倒になるとわかっていても、誓書の締結を諦められなかった。
その心に添いたくて、これまで戦を避けてきたが、もはやどうにもならない。向こうから仕掛けてくる可能性がある以上、備えは万全にしておくべきであろう。
南東部には、古くから誼を通じた名家が多くある。連絡を取れば、必ずや協力を申し出てくれるはずだ。
密かに兵を雇い、軍備を整えるには、どれほどの費用がかかるか――。
目まぐるしく巡る思考の中、呼びかけられて、応える。
巨体から、重く厳しい声が発せられる。
「よいか。難しいなどとは申させぬ。なんとしても、わしの案を成し遂げよ」
メフリガーンまで、二週間を切っていた。
これ以上、引き延ばせば、期限に間に合わなくなる。行政の混乱だけは、避けなければならない。
今後の方針は決まったのである。こちらは、好きにさせておけばよい。
「あらん限りをもって、尽力いたします」
恭しく礼をする。ベフナームは満足して頷くと、退出を告げた。
*
用件を告げ、辞する使者を見送る。いつもは喜ばしい〈花見〉のない夜も、今は重く感じられた。
――姦通した女と男は、百回の鞭打ちに処すべし。聖典ハーンの一節だ。
花遊び〈グリ・バーズィー〉を、十五歳を超えて行った場合の規定は、実は存在しない。
おそらく、成年の男同士の交わりが禁止されている代わりに、少年との男色が許容されているように、無明の時代からの古い風習だからだろう。
神の尊い言葉とは、ファールサ人にとって、かくも都合のよいものなのだ。
ただ、それが我が身に降りかかるとなれば、揶揄してばかりもいられない。
秘め事を暴いた翌日の夜、〈花見〉に来たベフナームは、罰を提案した。
百回の鞭打ちを模して、尻を打つ、というのだ。それも、〈誘引〉した上で。
百夜の責め苦。いったい、あと幾夜を耐えればいいのだろう。
立会人として、ジャハーンが記録してくれているが、先はまだ遠い。いっそのこと、早く過ぎてくれればと、切に願う。
うつ伏せになって、人の丈ほどある大きな筒綿に、身を預ける。舞いの稽古の復習をしなければと思うのに、何をする気にもなれなかった。
心が重くてだるい。なんてことのない些末なひとときで、涙が滲んでくる。
〈誘引〉される度に、初めての〈花見〉を思い出して、泣かずにはいられなかった。
当時はまだ十歳で、閨の事など、何も知らなかった。そんな幼い心身で、辱しめられたのだ。
そうして今、再び苛まれている。
幾度も突き抜ける破裂音に、スヌンゴの泣き濡れた顔を思い出しながら。あの時は、十一歳だった。
(……もう、死にたい……早く、姉上のところへ行きたい……)
母は、サトリアに生んでくれたのに。慈しんで、大切に育ててくれていたのに。
姉だって、不具ながら、サトリアだった。
きっと、今生で善行を積み、来世に向けて備えろ、という、ウィスヌの尊い計らいだったはずだ。
それなのに、浅はかな判断で、皆を巻き込み、台無しにしてしまった。
筒綿に顔を押しつける。せり上がる喉を絞り、湿ったつかえを、きつく飲み込む。
今泣けば、目が腫れる。夕食の給仕に戻ってきた侍童が気づけば、無用な気遣いをさせてしまう。
着替えで仕打ちの跡に気づいた途端、ファールサ人の侍童が、密告を白状した。
南西の砂漠地帯の出身で、貧困に喘ぐ家族と村のために入宮したのだと、長い付き合いで知っていた。
ファールサ人の間にも、大きな格差があることも。その苦労が、人を時に悪行に誘い、時に優しい心をもたらすことも。
もう許したのだ。自分の言動が追及と受け取られるようなことが、あってはならない。
ふと、扉の向こうで、訪問を告げる声がする。
紅玉付きの侍童だ。約束はしていないはずなのに、いったいどうしたのだろう。
顔を上げたところで、スヌンゴが寄ってくる。気遣うように問いかけられる。
「いかがいたしましょう? ご気分が優れないと、お伝えいたしましょうか?」
ためらって、言葉を詰まらせる。
アフシンとは、あの日以来、顔を合わせていなかった。
もともと、官吏を育成するための高等課程と、身分にかかわらず、全ての人々が学ぶ中等課程とは、終業時間も学舎も異なる。高等一年に進級してからは、ばらばらに登下院する日が多くなっていた。
それでも、芸事の稽古は一緒だったから、約束しなくとも、会う機会は、それなりにあったのだ。
しかし、アフシンの武官への転向が決まり、今年の春から、芸事を辞め、武術の鍛練を始めると、状況が一変した。
忙しい合間を縫い、時間をなんとかやり繰りして、訪ね合う日々。
退宮までの時を惜しむように、多くを二人きりで過ごした。優しくて温かな微睡みに、甘えきっていた。完全な油断だった。
謝らなければ。
しかし、あんな姿を見られて、どんな顔で会えばいいというのだろう。
「……やはり、お断りいたしましょう」
スヌンゴが、淡く微笑んで、扉の前で控えて待つ侍童を振り見る。そして、身振りで、面会不可の意を伝えた。
侍童が目顔で頷き、口を動かしかけた、その時。
「――兄上。いらっしゃるんでしょう? お話ししたいんです。どうか、開けてくださいませんか?」
聞き慣れた、真っ直ぐな声。アフシンの、声。
気がつけば、言葉が滑り出ていた。
「通してあげて」
承知の返答。許可と謝意のやり取り。
扉が、おもむろに引き開いていく。現れた姿に、息を呑む。
傾きかけた初秋の陽光に照らされて、アフシンは輝いていた。
少し長い髪が、金糸のように、きらきらときらめいている。澄んだ青い瞳。まだ一ヵ月しか経っていないのに、ずいぶん背が高く見えた。
アフシンは、歩み寄って座すと、眉尻を下げて微笑んだ。
「あのあと、お体に障りはありませんでしたか? おれ、ずっと心配で。でも、メフリガーンまでに一通りの稽古は済ませるよう、アースマーン師に言われていて、ようやく落ち着いたところなんです。それで、急で申し訳なかったんですけれど、お会いしようと思いまして」
いつも通りの、屈託のない調子。
途端、後悔が湧く。会うべきではなかった。
「……ごめん、アフシン……帰って……」
「え、兄上……?」
青い瞳が瞬く。清澄で純真な色に覗き込まれて、たまらず声が滲む。
「僕は……君と、顔を合わせる資格はないから……」
戸惑いながらも、慮る溜め息。
優しい声が、柔らかく問いかけてくる。
「そんな、どうして――おれだって、遊び続けたくて、続けてたんですから。兄上は悪くないですよ」
ふるふると首を振る。心配などさせたくないのに、涙が溢れてくる。
「……あんな、汚いところ……見られて……っだから、だから……っ」
欲情にまみれた醜態。ふしだらな嬌声。組み敷かれ、辱められる、無様な惨状。
なんて、穢らわしくて、不浄なのだろう。
「汚いだなんて……そんな、兄上……」
そっと、白い手が伸びる。
手を取られた途端、鋭い痛みが走った。淡く悲鳴を上げて、きつく引っ込める。
「え、あ、すみません! そんなに強く、引っ張ったつもりじゃなかったんですけど……」
心配するように、寄り添い、肩に手が置かれる。温かで、優しい感触。
こんなことを知ったら、アフシンは悲しむ。
しかし、誤解させたままにしておくわけにもいかない。袖を少しまくり上げて、手首を見せた。
「……え、これ……」
何重にもついた、細い痣。〈誘引〉の――緊縛の、跡だった。
「……罰を、受けていて……それで――」
「罰……? え、だって、たかだか花遊び〈グリ・バーズィー〉じゃないですか!」
納得感が胸に落ちる。やはり、一般的な認識は、その程度なのだ。
〈土替え〉のあと、手当てをしながら、確かにジャハーンは憤っていた。何も言わなくても、宵闇の瞳が、激しく燃え立っていた。
加担を強いられるその心中は、どれほどのものだろう。
「それでも、不義だから――僕が……全部、悪いから……」
浅慮で見通しが甘い。叩かれても、当然だ。
「――兄上、聴いてください」
白雪の手が、手首を包み込む。柔らかく、さすっていく。
「あなたは、絶対に、悪くありません。十五歳でやめるのは、みんな、本格的に縁談を探し始めるからです。正式な結婚もしていないのに、咎められる筋合いはないんです。――ましてや、こんな」
ぎり、と噛み締めた歯が軋む。
わなないた呼吸を鎮めるように、紅赤の唇が開閉する。
「こんな酷いことをしていいわけがないんです。そんなの、理由になんて、なりません」
「……でも……でも、アフシン……っ」
たとえそうだとしても、この身が穢れていることには変わりない。性の悦楽を喜んで求めることに、変わりはないのだ。
滑るように、なめらかに抱き締められる。少しおどけたような口調が、優しく告げる。
「大丈夫ですよ、兄上。おれ、言ったじゃないですか――どんなことが起きても、好きだって。もう、信じてくださいよ」
細くも広い背中にしがみつく。
頷けば、嬉しそうに微笑む声が、胸を通して響いてくる。
どこか弾むような、明るい調子の鼓動。洗いたての絨毯のような、ほこほこした匂い。活発な体温。
穏やかな安堵が、心に満ちていく。
「兄上、大好きです……会えてよかった――」
感慨深く、柔らかな声が呟く。温かな手が、ゆっくりと背中をさする。しがみついたまま、思う存分、泣きじゃくる。
馴染んだぬくもりにくるまれて、久しぶりに、安らかな時を過ごした。




