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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第六章 終いぞめの頃
27/31

導きの先

 新年の麗らかな陽光の中、ベフナームが筒綿に巨体を預け、息をつく。

 幸せな笑顔を浮かべて、素肌のたるんだ胸にすり寄る。肉厚な手が腰を抱き、満足げに笑んだ。

「やはり、いつの年も、〈薔薇始め〉はよいものだのう。明るい春の光の中で咲くそちは、まっこと美しいものよ」

「今年も選んでいただけて、本当に嬉しゅうございます。ただ――」

 ためらうように、目を伏せる。淡い声で囁く。

「このように、昼日中でございますと……包み隠さず、露わになってしまいますのが……」

 恥じらって、頬を赤らめる。肥えた手が滑り、ねっとりと尻を撫でる。甘く吐息を漏らせば、黒い髭面が愉快に笑った。

「そちの愛らしさは、いくつになっても変わらぬのう。それが上に賢い。――我がいとしい小鳥よ。そちの助言から半年、ずいぶんと実りある月日であった」

「それは、よろしゅうございました。今年こそはきっと、あなた様の年となりましょう」

 政に携わるよう、そそのかしたあの日、ベフナームには、まずは現状の把握に留めるべきだと伝えていた。

 人は、急激な変化に弱い。常と異なることは、往々にして、拒絶される。

 一方で、現状に影響しない程度なら、意外と受け入れられやすいものだ。

 案の定、資料の構成は、かなり恣意的ではあるものの、ファルジャードは開示に応じた。

 ベフナームの政への意欲を掻き立て、裏から操る。その第一段階が、行政記録の閲覧だった。

 印璽庁での調査が解禁されてから二年。

 主だった文書には、すでに目を通してある。だから、ベフナームが仕入れたところで、情報自体に、さしたる価値はない。

 しかし、自ら読んだという事実が、充実感となり、やる気を起こさせる。そして、それが成功した今、第二段階へと入っていた。

 黒い髭面が、愉快そうに笑う。

「皆と話が合うとは、まっこと、楽しいものだのう。政が、これほどおもしろいとは思わなんだ。もったいなきことをしてきたものよ」

「きっと、皆も同じ心でおりましょう。王〈シャー〉と語り合うなど、またとない機会でございますから」

「いやはや、そちの申すことは正しかった」

 焦茶色の瞳が、希望を灯して輝く。これほど生き生きしているベフナームを見るのは、初めてかもしれなかった。

 八日前のノウルーズの初日、第二段階の一歩を踏み出した。

 メフルダードに親しむ者達や、異教徒と改宗者との融和を奉じる文官達を、四日間かけて、ベフナームに引き合わせたのだ。

 酒に茶にと、思い思いの飲料で乾杯し、歓談する面々。

 その中心に、王〈シャー〉の堂々とした姿があった。

 皆、王〈シャー〉の言葉に熱心に耳を傾け、深く感銘を受けた。活発な意見が交わされ、宴は大いに盛り上がった。

 昨年は、特にアースマーンを起点に、人脈を広げてきた。

 打ち合わせは、もちろん済んでいる。だから、どのように立ち回ればいいか、心得ている者達ばかりだ。全ては、つくられた場だった。

 贅肉の溢れた上体にもたれながら、肥えた胸に手を這わす。

「そう仰っていただけて、嬉しゅうございます。僕も、ご活躍するお姿を拝見できて、とても幸せにございました」

「活躍など――申してくれるのう」

 まんざらでもないふうに、髭面が呵々と笑む。

 ――誰にも望まれなかった子。

 ナスリーンがそう語ったように、ベフナームは、自己に対する認識がとても低い。

 こだわりのないように見えて、その実、固執すると止まれないのも、そうした環境のためだろう。

 常なら同情の対象だが、利用する隙にしか思えない。

 上目遣いに見つめながら、甘えた声を出す。

「ああ、慕わしいベフナーム様。もっと、拝見してみとうございます。王〈シャー〉として、英明なお力を振るい、ファールサに輝かしい栄光をもたらすお姿を――あなた様のお傍で、ずっと――いつまでも」

 焦茶色の瞳に、ふっと暗い影が落ちる。幼子のような稚拙な声音が問いかける。

「わしに、できるかのう――シャーグルよ? そのような、大それたこと」

「何を仰いますやら。先日は、難なく受け答えされていらっしゃったではございませんか」

 大丈夫と励ますように、優しく微笑む。

 半年の()(すさ)びで習得できるほど、政は甘くない。易しい話題を振ってもらいつつ、それでも返答に窮せば、さりげなく、語れる方向へと持っていった。

 まるで、幼子をあやすように、皆は終始、柔和な態度を取った。楽しくないはずがない。

「――もとより、マフターブ家は、多様な民族を結集して、王〈シャー〉となったお家柄。その末裔であるあなた様に、為せないわけなどございません」

 焦茶色の瞳を、一心に見つめる。

 心強く、しかしあくまで促すように、温かく援護する。

「先日、お引き合わせした者達は、宰相の強硬な政策によって、埋もれてしまった逸材にございます。どうか、寛大なるお血筋たるあなた様のお力で、歪みを正してくださいませ」

「……わしが……あの者達を――」

「はい。あの、楽しく過ごせた者達を――でございます」

 にこやかに微笑んで頷く。

 愉快に語り合った宴の四日間を思い起こすように、贅肉に埋もれた小さな瞳がきらめく。

 ベフナームも馬鹿ではない。ファルジャードが自らをどう見ているかなど、とうに気づいているはずだ。

 そして、快い時をともにした者に、人は惹かれる。

 孤独を生きてきた者は、特に。

「それに――僕も、ついておりますから」

 甘く笑んで、頬を撫でる。黒くて(こわ)い髭が、ちくちくと刺さっていく。男らしさの象徴をいとしむように、一房に口づけた。

 おもむろに、指の短い手が伸びて重なる。感慨深い声が、しみじみと呟く。

「確かに、そちとなら、成せるやもしれぬ」

 重い瞼の瞳に、強い光が灯る。確固とした声が問う。

「ともに成し遂げてくれるか、シャーグルよ」

 柔らかく、笑みを深くする。励ましもこめて、明瞭に答える。

「もちろんでございます、ベフナーム様。慕わしいあなた様のために、僕は在るのですから」

 ねだるように、淡く口を開ける。迫る唇が重なり、舌が絡む。

 おもむろに横たえられるまま、その肥えた巨体に押し潰された。


 *


 ファールサ暦二二八年一月十四日。

 引き開いた扉の先、様々な形の綿袋に埋もれた巨体の前に、進み出る。広い絨毯の端に座し、深く礼をする。

「王〈シャー〉よ。お呼びと伺い、参りましてございます」

 うむ、と頷く声。妙に力強い口調で、ベフナームが話し出す。

「来年の人事は、わしが選定しようと思う」

「……御自ら……でございますか……?」

 想定外の発言に、思わず口元が揺らめく。

 これまで、特に人事については、全く興味を示してこなかったというのに、いったいどうしたことか。

 しかし、ファールサ語による統治を目指す上で、人繰りは欠かせない要である。みすみす手出しさせるわけにはいかなかった。

 努めて平静に、穏やかに語る。

「畏れながら、王〈シャー〉よ。役職の任免は、膨大なる調整が必要にございます。そのため、雑事も多く――これまで通り、私にお任せいただけますれば、わざわざ御身を煩わせることもございません」

「それであるからこその、そちではないか。任官の案は考えておる。その差配を、そちに任せたいのだ」

 沸々と怒りが湧く。案などと、どの口が言うのか。

 クーロシュが王〈シャー〉の座に就いて以来、四十二年の長きにわたり、政の中枢で、その運営に携わってきた。そして、全ての采配は、クーロシュとの念願を果たすためなのである。

(――今さら、邪魔立てされてなるものか)

 細く、息を吐く。

 噛んで含めるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「ご叡慮につきましては、誠に素晴らしく存じます。しかしながら、お忙しい御身には、いささかご負担の多いことにて――」

「であるから、わしが担おうと言うておるのだ、ファルジャードよ」

 意気揚々とした声音。

 妙に自信に満ち溢れた風体で、ベフナームが続けた。

「そちももう、明日(あす)には六十四。そろそろ、ゆっくりしてもよい歳ぞ。これまで苦労をかけた分、わしが励まなければならぬと思うての」

 確かに、同年の者は、病を得たり、息子に家督を譲ったりして、ほとんどが隠居している。すでに、天へと帰った者もいる。しかし、この身は、まったく健やかであった。

 これを神の意思と言わずして、何と言おうか。

 異教徒を駆逐し、神の言葉である聖典ハーンとファールサ語を、あまねく広める。

 唯一の尊い神ホダーは、己に、そう命じているのだ。

(そのために――神は、クーロシュ様との絆を、お与えになってくださった。あの痛みも、この罪も、全ては崇高なる使命のため)

 今でも、ありありと思い出せる。

 無二の伴侶と重ねてきた、幾年(いくとせ)の日々――。

 その輝かしい歳月の上に積み重ねてきた誓いの歩みは、何人(なんぴと)も邪魔する権利はないのである。

「お心遣い、誠に痛み入ります。ただ、私はいまだ、このように健やかにございますので――どうか、お心安く、お委ねくださいませ」

 考え込むように、肩に埋もれた首が傾ぐ。

 何かを思い出して、丸い顔が輝く。

「しかし、草案は多くある方が、よりよくなろうて。まだ、時は十分にある。ものは試しぞ。わしの案も、取り入れてはくれまいか」

 内心、口惜しく歯噛みする。

 そこまで言われてしまっては、もはや逆らうことはできない。

 人事の最終的な承認には、王〈シャー〉の印璽が必要となる。

 印璽は、印璽庁で厳重に保管され、金庫を開錠する際は、王〈シャー〉の認証状の提示が求められる。

 今まで、ベフナームは、署名の場所を示されるまま、葦筆を取っていたが、これからは、そうもいかなくなるかもしれない。体制を整えるためにも、ここで一度、引くべきだった。

「……そのようにお考えでございますならば――お言葉に、甘えさせていただきましょう」

「うむ。ともに、よりよき案をつくり上げてゆこうぞ」

 満足げに頷く顔。

 苦い怒りを抑えながら、丁重に(こうべ)を垂れた。


 *


 ソル暦二五六年四月中旬。

「――いかがいたしましょうか、陛下」

 問いかける声に、紙面から視線を上げる。

 スピユット戦士団長が、居住まいを正して座したまま、窺うように見上げている。

 ファールサ語の書状とノール語に訳した羊皮紙。二つの書類を整えて、ゆっくりと息をつく。

「このような脅しに屈する我らではない。身柄の引き渡しは、拒否しろ」

 想定通り、宰相は、関税の再設定を通告してきた。それも、増額した上での措置だ。

 しかし、これ以上、好き勝手させるわけにはいかない。厳しい尋問と拘束の噂は、瞬く間に広まり、暗い野心を持つ商人達を震え上がらせている。

 このまま取引が正常化すれば、外貨を稼ぎつつも、販路を引き締める状況へと持っていける。やっと手に入れた好機を、みすみす逃す理由はない。

 意図を察して、戦士団長の顔に、おもむろに笑みが広がる。

 楽しむような口調が問う。

「――では、近いうちに、(いくさ)が始まるのですな」

「完全な見通しは、まだ立っていないが――そう、待たせるつもりはない」

 ファールサの外帝将館を介して届く、折々の書簡。綴られた報告は、芳しいものだった。マタラムの王子は、よく働いてくれているようだ。

 最上寵童としての期間は、残り三年。

 どの職に任官されても、退宮してしまえば、与えられる権限は、ずっと狭まる。有利なうちに事を進める、という認識の下で、関わる者は皆、動いていた。

「私は留守を預かることになるでしょうが、それでも、心躍りますな」

 戦士団長の笑みが、より深くなる。

 戦いと聞いて、血の湧かないノールの男はいない。高揚感に背筋がぞくぞくするのを感じながら、確固として指示を出す。

「さしもの宰相といえども、慣例を曲げることはしないだろう。――となれば、関税の開始まで、一年はある。引き続き、準備は怠るな」

「戦斧の(やいば)を、存分に磨いておきましょうや」

 眉骨の下で、きらりと瞳を光らせて、戦士団長がにやつく。

 湧き立つ心を隠さず、大いに笑んで頷いた。


 *


 渡された書面を見た途端、妙な納得感を覚えた。

 一通りさらって、隣を振り見る。

「誠に残念でございますが――あなた様のご意向と、全く別物にございます。宰相は、折衷する気など、さらさらなかったのでございましょう」

「なんと、そのような――」

 差し出された手に、書類を渡す。

 氏名と役職の羅列を、贅肉に埋もれた目が素早く走る。

「……いや、確かに……一人も入っておらぬ……」

 丸い手に力がこもり、ぶるぶるとわななく。黒い髭から、轟くような重低音がこぼれる。

「許せぬ……許せぬぞ、ファルジャード……わしは、譲歩してやったというに……」

 人事案を記した一覧。ぐしゃりと、紙がひしゃげる。

 絨毯に叩きつけて、駄々をこねるような怒声が響く。

「思えば、青薔薇を授ける件でも、彼奴(あやつ)は妨害してきおった。わしは、このわしが! 王〈シャー〉であるこのわしを差し置いて――なんたる侮辱よ!」

「どうか落ち着かれませ、ベフナーム様。あの宰相のことです。きっと、(ゆえ)あっての対応でございましょう」

 太い腕に寄り添い、肉厚な肩を優しくさする。

 長い黒髭を震わせながら、ベフナームがこぼす。

「……しかし、しかしの、シャーグルよ。わしは、十分に励んだのであるぞ……」

 うっすらと滲む、焦茶色の瞳。

 しっかりと見つめて、柔らかく頷く。

「慕わしいあなた様。もちろん、よくわかっております。――ただ、寛大なお心をお示しになることも、時には必要にございます。どうか、宰相のこれまでの労苦を慮られ、広いご高配で、お免じになられませ」

「このような非道な仕打ちも、許さねばならぬと申すか……」

 屈辱にわななく、稚拙な声。

 (こわ)い髭に覆われた頬に触れる。慈しんで撫でながら、そっと囁く。

「お優しいあなた様なら、きっと為し得ると、信じております――改宗者である僕を、これほどにも、いとしんでくださっているのですから」

 大丈夫と励ますように微笑む。

 打ち震える声が、しみじみと語る。

「そうだのう……そうだのう、我がいとしい小鳥よ。王〈シャー〉であるならば、心を広く持たねばならぬな」

 確固として、しかし柔らかく頷く。身体を近々と添わせ、さりげなく太腿に手を置く。

「あなた様には、きちんと、そのお力が備わっております。焦らず、一歩ずつ、進んでまいりましょう」

「おお、おお、我が愛らしい小鳥よ。そちのみぞ。わしを、これほどに見つめてくれる者は――」

 幸せに潤んで、(てい)にそぐわぬ名を呟く。

 太く短い腕に抱き寄せられて、迫る唇を受けた。


 *


 ファールサ暦二二八年三月一日。

「此度のことは、誠に遺憾であるぞ、ファルジャードよ」

 挨拶を終えて開口一番、ベフナームは大仰に告げた。

 乱雑に投げつけられて散らばる書類。来年の人事の草案だった。

 まさか、内容を確認するとは。胸中で歯噛みしつつも、恐縮して低頭する。

「畏れながら、王〈シャー〉よ。ご提案いただきました者らは、経験が浅く、任じる役には不適にございます。どうか、ご理解を賜りたく――」

「控えよ! これは、わしに対する侮辱であるぞ!」

 憤然と、怒声が投げつけられる。

 さらに深く(こうべ)を垂れて、微かな言葉をこぼす。

「……そのような、滅相もございません……」

 何が侮辱か。

 要職のほとんどが異国出身者で占められる案など、承服できるわけがない。この地を治めるべきは、伝統的なファールサ人のみである。

 しかし、一方で、草案の完成度は非常に高かった。

 末端の役職で名を知らぬ者もいたが、確かな力のある官吏が散見された。

 特に、武官は、かつて東部で武功を上げた者や、その末裔が含まれていた。

 忌々しい侍女腹の息子から力を削ぐために、中央に呼び寄せた者達。遊牧民の猛攻に耐え抜いてきた、歴戦の猛者(もさ)である。

 ベフナームは、いったいどこで、これほどの数の人員を把握したのか。なぜ、人事案を作成するなどと、急に言い出したのか。

 疑念は、雪雲のように、黒々と広がっていた。

 ふん、と鼻を鳴らす音。大げさな調子で、ベフナームが朗々と告げる。

「ファルジャードよ。そちの長年の働きには、わしも感謝しておる。此度は、その功労に免じて、許してやろう。しかし、二度目はないゆえ、肝に銘じるがよい」

「……寛大なるご高配、誠に恐れ入りましてございます」

 贅肉で膨れた顔に、満足げな笑みが広がる。

 まったく腹立たしいが、今は三月。任免の準備を始めるメフリガーンまでは、まだ四ヵ月あるのだ。機会はつくれる。()く必要はない。

 辞そうとして、散乱した書類に手を伸ばす。鷹揚な声音が、のんびりと語る。

「まっこと、シャーグルに感謝するのだぞ。誤りを見つけたにもかかわらず、そちを許すよう進言したのは、かの者ゆえのう」

 途端、全てが一直線に繋がる。

 印璽庁の記録の閲覧。最上寵童の外交権限。二人きりで密談できる環境。

(――あの、小童(こわっぱ)が……ッ!)

 やはり、青薔薇など与えるべきではなかったのだ。南洋の――未開の異教徒に出し抜かれるとは。

 かっと、目の前が赤く染まる。弾けて声を飛ばした。

「王〈シャー〉よ! かの者は異教徒でございますぞ! 惑わされてはなりませぬ!」

「なんぞ、急に。驚くではないか」

 丸い髭面が、鼻白んで呟く。

 他人事(ひとごと)のような態度。よけいに腹立たしく、言葉を募らせる。

「薔薇は、ただ愛でるためにあるもの。王〈シャー〉に進言すべきは、宰相以下、官吏の役目にございます――であればこそ、異国からの入宮も、許されるのでございます。色香でたぶらかし、自らの考えをお耳に入れるなど、よからぬことを考えているに相違ございません。どうか、お考え直し――」

「……わしが、愚かであると申すか、ファルジャード」

 はっと、肥えた丸い髭面を見つめる。

 赤銅色の肌が、さらに赤く染まり、口元が、ぶるぶると震えていた。癇癪めいた声が轟く。

「わしは、かように落ちぶれてはおらぬッ! シャーグルほど、わしを慕い、思うてくれる者はおらぬというに! よくも謗ってくれおったな!」

「しかし、王〈シャー〉よ! かの者は、南洋の」

「黙れ! 無礼者が!」

 ふーふー、と苦しげな唸り。真っ赤に茹で上がった顔が、贅肉を震わせる。

 元凶が判明した以上、このまま引き下がるわけにはいかない。言い募ろうとして、しかし怒号に阻まれる。

「何をしておる! とっとと去らぬか!」

「――大変なご無礼を。誠に申し訳ございません」

 屈服したように、深々と低頭する。素早く書類を拾い集め、腰を上げる。

 辞して廊下を歩む間にも、憤怒の炎は消えていかなかった。

(許さぬ……! 許さぬぞ、異教徒め! 必ずや、我が手に取り戻してみせる――)

 今日は土曜日。休日の金曜日までは()がある。すぐに申請すれば、直近の日程で会見できるだろう。

 火種は、早々に消しておかねばならない。

 燃え立つ決意を胸に、薔薇局へと向かった。


 *


 木扉が開き、広がる光景に目を瞠る。

 ファールサ紙や羊皮紙の巻き物に本。

 背の高い棚にうず高く収納された書物に、圧倒される。まるで、〈緑の学院〉の図書室の一画を、そのまま移してきたようだった。

 扉の脇に控えていた家令の案内に従って、手前の応接間へと足を向ける。少し行くと、はたして、今日の会見の相手が佇んでいた。

 ファルジャードが立ったまま、丁重に礼をする。

「――青薔薇様。お忙しいところ、ご足労いただきまして、誠に恐れ入ります」

 頷いて、用意されていた上座に腰を下ろす。

 ファルジャードは対面に座ると、一呼吸置いてから、話し始めた。

「本日、お越しいただきましたのは――政を、あるべき姿に正すためにございます」

 予想通りの用件。六日前の、憤然とした語りが、頭をよぎる。

 何事も、のらりくらりとそらしがちなベフナームが、怒り心頭でファルジャードを責めるとは、さすがに想定を超えたが、いい傾向だ。このまま嫌悪が溜まれば、もっと動きやすくなる。

「……あるべき姿、とは……?」

「伝統的なファールサ人による統治にございます」

 黄土色の瞳が照り輝く。詩を詠うような声が、滔々と語る。

「もとより、〈ファールサ〉という語は、一地方の名。そこから()でし民が、この地一帯を統一したのが、始まりでございます。そして、無明の時代を経て、尊き唯一の神ホダーのご威光をあまねく広めたのも、ファールサ人。――ならば、この地を統治すべきは、ファールサ人に他なりません」

 強烈な選民思想。

 父や兄のスルシコが聞いたら、とんでもない驕りだと断じただろう。

 しかし、今は、持論を差し挟む気はなかった。静かに、反撃の機会を窺う。

 ファルジャードは、恐縮した口調ながら、はっきりと告げた。

「そこへいきますれば――畏れながら、青薔薇様のご出自を鑑みますと、政に関わるお立場にない、ということになります。そもそも、最上寵童とは、あくまで王〈シャー〉と周囲の者らを円滑に繋ぐための身位。官吏の任免に、口を挟む権限はございません」

 話の区切りを察して、茶器に口をつける。

 ゆっくりと味わうと、わずかに苦笑した。

「……そのように非難されるとは……悲しいことです。僕はただ、ベフナーム様をお助けしたいと、願っているだけですのに」

「よくも、しゃあしゃあと仰いますな。囲われた薔薇が、いったい何を企んでおられるのか」

 敵意の燃える瞳。

 怯えたように身を縮こまらせて、憐れな声をこぼす。

「そんな……企むだなんて……」

 細く高い鼻が、ふんと嘲う。鋭い口調が糾弾する。

「王〈シャー〉は騙せても、私は騙されませぬぞ。尊い血をたぶらかしおって――未開の異教徒風情が、身の程を知るがよい!」

 今だ、と理性が告げる。息を強く吸い、腹に力をこめて吐き出す。

「――無礼者ッ! 僕を誰と心得て、そのような口を利いている!」

 ファルジャードの細面が、屈辱と憤怒に染まる。

 炯々と光る、黄土色の瞳。しっかりと受け止めて、背筋を伸ばす。視界の端で、青薔薇の耳飾りが、揺らめいてきらめく。

「臣下たる宰相の分際で、正后の名代を侮辱するとは――これ以上、誹謗するのであれば、しかるべき対応を考えなければなりません」

 背後には、ベフナームとナスリーンがいる。

 暗に含ませて、きつく見つめ返す。

 ぐっと盛り上がる、老いて痩せた頬。白の混じった黒褐色の細い髭が、わなわなと震える。

 しかし、ついに、深々と頭を下げた。

「……出過ぎたことを申しまして、誠に申し訳ございません。前言を撤回し、非礼を心よりお詫び申し上げます。此度のことは、どうか、ご寛恕いただきたく――」

 ファールサ式の最敬礼。

 わななく帽子と白髪頭を見下ろしつつ、茶器に手を伸ばす。じっくりと味わって、緩やかに溜め息をつく。

「わかればよいのです。――ただし、次はありませんよ」

 腿の付け根に置かれた指が、ぴくりと跳ねる。

 ベフナームに告げられたことを思い出したのだろう。一言一句、誰が助け舟を出したのかも。

 絞り出すような声が、絨毯に落ちる。

「……寛大なご厚情、誠に痛み入りましてございます……」

「用件は、これで終いですね?」

 苦みの滲む、微かな返答。

 顔を上げられなどできないと察して、そのまま立ち上がる。居室の扉へと向かえば、控えていたスヌンゴと目が合った。

 崇敬と悲哀の入り混じった眼差し。気持ちはよくわかった。

 老いた者の知恵は尊く、敬うべし。

 幼い頃から、よくよく言い含められてきた。実際、困った時は、その土地の長老に尋ねれば、大抵は解決するものだ。

「……帰ろうか」

 はい、と答えて、スヌンゴが扉を引き開ける。晩春の、まばゆい日差し。

 目を細めて、中庭を巡る回廊に出る。

 断りに頷き、家中の者を呼びに行く背中を見送る。

 ほどなくして、家令を連れて、スヌンゴが戻ってきた。

 それから、主人の代わりにと、丁重な案内と挨拶を受け、宰相の屋敷をあとにした。

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