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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第五章 青き大輪
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明暗

 ソル暦二五五年十一月下旬。

「でかしたな、内帝将!」

 拳を振り抜き、快哉を叫ぶ。

 待ちに待った吉報。三つ編みにした髭の口元が、上機嫌に笑う。

「いや、さしもの私も、ここまで簡単に釣れるとは思いませんでした」

 違法な販路で木炭を横流ししていた、商人達の元締め。

 噂を信じて、偽の商談をしに、のこのことヴィットアーセン港へとやってきたのだ。

 スティンヴァーリ領内に入ってしまえば、あとはもう、こちらのものだ。すかさず捕縛し、戦鎚を見せつつ脅しつけて、洗いざらい吐かせた。

 腕と脚は、それぞれ二本ずつある。

 練度ある戦士ならば、関節を()めて綺麗に折り、接合するくらい、造作ない。一本くらい使えなくなったところで、一時的だ。

「まさに痛快だな。頭を鎚で粉砕されなかっただけ、感謝してほしいものだ」

「まことに。――まあ、しぶとい性質(たち)こそ、ファールサ商人。かち割られたところで、ヨルムンガンドのように、しれっと生きているでしょうが」

 確かに、と呟いて、にやりと笑う。

 優秀な戦士達のおかげで、真相は明白になった。まったくもって、爽快な気分だ。

「宰相が、事を知るまで時はある。二度と余計な気を起こさないよう、存分に尋問しろ」

 眉骨の下の瞳が、剣吞に光る。

 短い返答ののち、意気揚々と辞していった。


 *


 雪のちらつく大窓。

 しんしんと降る白い粒を紡ぐように、バルバット(卵型の弦楽器)の金属的な音色が響く。清澄な声が、情緒豊かに詩を歌う。

 静かな無彩色の景色を、寄り添いながら、二人で眺めていた。

 穏やかな微睡み。ずっと、このひとときが続いてくれればいいと思う。もたれかかった左側が、ぬくもって心地よかった。

 音階が一息に弾かれて締まると、呼びかける声が、鼓膜に響いた。

「――兄上。お話があります」

 真剣な声音。上体を起こして、見下ろす顔を覗き込む。

 まだあどけなさはあるものの、彫りの深くなりつつある端正な顔立ちに、惚れ惚れする。こんなふうに男らしくなれたらと、おぼろげに思う。

 促すように、小首を傾げる。

 アフシンは深く息を吸ったあと、おもむろに吐き出した。

「……おれ、軍人に転向することになりました」

「――え……軍人……?」

 思考が追いつかず、瞬く。

 優美さが尊ばれる〈薔薇の宮〉において、荒事は遠い世界だ。酌人として、軍人の相手を務めることはあっても、〈緑の学院〉では、文官になるための学問を修める。

 その寵童が、軍人になるということは――。

 血の気が引いていく。声が、震えた。

「……退宮、するの……アフシン……?」

「来年、中等三年を修了したら――慣例通り、火祭りの前に」

 苦しげに歪む、青い瞳。

 しかし、声は、いやに明瞭だった。

 それでも、信じられなくて、わななく声をこぼす。

「……どうして――」

 凛とした面立ちが、ふっと緩む。

 困ったような苦笑。青い瞳が、複雑な光を宿す。

「兄上。おれ、ベフナーム様と背丈が変わらないんです。――いや、もう追い越したかも」

 思えば、この四年半で、アフシンは、ぐんぐん成長していった。二歳下だということを忘れかけるほど、筋骨が発達し、逞しくなった。

 いつの頃だったろう。同じ高さだった瞳を、見上げるようになったのは。

「それに、もう、化粧してないんですよ――似合わないから」

「……そんなこと……アフシンは、男らしくて、素敵だよ」

 青い瞳が、優しく微笑む。その、哀しい色。

 金色の前髪が、さらりと揺れる。

「ありがとうございます。――でも、それが、寵童にとって致命的なのは、兄上がよくおわかりでしょう?」

 成年の男に変化する前の、優美で繊細な形質。その一瞬の美こそが、少年の価値なのだ。

 そして、男同士の交わりは、ディーダム教でも、地獄に堕ちるほどの罪となる。

 男でも幼子でもない――微妙な境界線にいることで、成年の男と少年とのそれは、高尚な遊び〈バーズィー〉として赦される。

 だから、男を感じさせてはいけない。小さく、愛らしく、少年であり続けなければならない。

 どこかで、わかっていた。〈花見〉は、毎夜のように訪れた。

 それはつまり、ベフナームの関心はアフシンから離れてしまった、ということだ。

 心が震えて、身体の芯からわななく。喉がせり上がって、視界が滲んだ。

 恐ろしかった。

 この澄んだ青を見つめるひとときが、(さや)かでいられる瞬間だったのに。

「……嫌だ……アフシン……」

 鮮やかな真紅の羽織の袖を握る。凛とした、青い瞳にすがる。

「行かないで……僕を、置いて……行かないで……」

「兄上……」

 困ったように、金色の眉が下がる。真摯な面持ちに、現実を知る。

 いつもなら、軽妙に笑い飛ばしてくれるのに。冗談にしては性質(たち)が悪いと、軽口で叱れるのに。

「……嫌だ……いや……アフシン……一人に、しないで……」

 腕が滑り、快活な体温に包まれる。

 いまだ華奢ながらも、逞しい胸。確かに収まって、背中にしがみつく。優しい声が、切なく囁く。

「大丈夫です、兄上――どこにいても、おれは、あなたの傍にいます。あなたのことが、大好きですから……」

 たまらず首を振る。

 心はともに在っても、このぬくもりに包まれることはないのだ。この、無邪気で純真な光に、温められるひとときはなくなる。

 あとに残るのは、欲情にまみれた、汚穢の日々だ。

(もう嫌だ……汚れていくのは……もう……)

 いやらしく絡みつく視線。熱を帯びた眼差し。

 何を言わずとも、考えていることはわかる。

 あの男達の頭の中で、裸にされ、淫らになぶられているのだ。

 うまく立ち回ったところで、密かに襲われないと、どうして言いきれるのだろう。そして、体格で劣る自分は、抵抗しきれない。

 このファールサで、寵童として公の場に出る。

 その意味を、まざまざと知ったばかりだというのに、アフシンが、行ってしまうなんて。

「――兄上」

 力強く静かな声が、呼びかける。首を振って、さらにきつくしがみつく。

「あなたを守る、なんて、できない約束はしません。でも、ひとつだけ、言えることがあります」

 優しい微笑みに、滲む音色が混ざる。確固とした声が語る。

「おれは、あなたが好きです。心から、尊敬しています。あなたの〈弟〉であることを、誇りに思います」

 鼻をすする音。祈るような響きが、真摯に乞う。

「――ですから、どうか、ご自身を責めないでください。あなたの身に起こることは、あなたのせいではないし、あなたの魂も心も、縛らないんですから」

 温かな輝きが、心に染みていく。

 本当に、アフシンは、どうしてこんなにも言葉をくれるのだろう。

 あれほど慕っていた相手を、奪い去ったのに。一番つらいのは、アフシンなのに。

 身勝手なことをわめける立場ではなかった。それでも、わがままな涙は止まってくれない。

 かろうじて、わずかに顎を引く。

 意図は伝わったようで、安堵の微笑が聞こえる。そして、少しだけ軽い口調で、アフシンは言った。

「もうちょっと、だだをこねてくれてもよかったんですけど――あ、せっかくですから、してほしいこと、あります?」

 顔を起こして瞬く。途端、青い瞳が、何かにぶち当たったように見開いた。

 みるみる上気していく、白い頬。何かを忍耐しているのか、紅赤の唇が、ぎゅっと引き結ばれている。

 不思議に首を傾げると、うずうずした声が尋ねた。

「……兄上、すみません。やっぱり、おれのしたいこと、してもいいですか?」

「え……? あ、うん……?」

 言うが早いか、勢いよく抱き締められる。

 そして次の瞬間、歓喜の大音量が、鼓膜を叩いた。

「おれのために泣いてる兄上、かわいいぃ――っ!」

「――ア、アフシン⁉ ちょっ……い、痛い!」

「あ、すみませんっ」

 悪戯っぽく、ぺろりと出る舌。

 解放されて、ほっと息をつく。背骨が折れるかと思った。

 白い手が伸び、長い指が、柔らかく涙をすくっていく。そっと問いかける声が、鼓膜を撫でる。

「遊んでも――いいですか、兄上?」

 潤んだ視界の中で、澄んだ青を見つめる。

 瞬けば、温かな雫が、頬を伝った。

「……うん……たくさん、遊びたい……」

 幸せな笑顔が、白雪の顔に広がる。柔らかな声が、真っ直ぐに告げる。

「兄上、大好きです……」

「……アフシン……」

 いとおしい名を呼んで、額に降る口づけを受けた。


 *


 ソル暦二五六年二月上旬。

 スピユット戦士団の筆記士二人が、それぞれの羊皮紙の上に、軸を切った羽根を置く。

 引き締まった、ふたつの面立ち。板張りの床を歩きながら、頭に浮かべた草案を、音声にしていく。

「――宰相ファルジャード・ファルヴァルディーン・ラフバル殿。貴殿の要求に対し、我、皇帝アルヴァリン・アヴ・スティンヴァーリは、遺憾の意を表す。本件の捕縛は、証拠あっての措置であり、まったくもって正当なものである。また、当該商人は罪を認めており、嫌疑は不当とは言えない。よって、身柄の引き渡しは、これを拒否する」

 以上、と区切って、筆記していた二人に歩み寄る。

 まずは、ノール語で書かれた紙面を確認し、次にファールサ語の方に目を通す。

 正直、ファールサ語は得意ではない。ただ、読んだ限りでは、齟齬はないようだった。

 何より、南槍戦士隊で、長くファールサに赴任していた戦士なのだ。こういう時、各方面に精通した部下がいると、本当に心強い。

 それぞれに、羊皮紙を返しながら告げる。

「ありがとう。清書したら、持ってきてくれ」

 は、と短い返答。

 椅子から腰を上げ、丁重に辞する背中を見送る。宰相ファルジャードの文面を思い出して、自然と笑みがこぼれる。

(野蛮など、上等だ――いくらでも、罵ればいい)

 古くは、春と夏に畑を耕して漁をし、農閑期は、船に乗り込んで、略奪で稼いできた。

 ノール人同士での無益な争いを避けるために、三つの王国を統合して帝国となった今も、海の民であることを忘れたことはない。血湧き肉躍る暴力こそ、ノールの男の本分だ。

 縄張りを荒らした者には、相応の報いを。

 それが、この厳寒の地の掟であり、異国人だろうと――むしろ、異国人だからこそ、完膚なきまでに、適用しなければならない。

 各々が好き勝手にやれば、自然は容赦なく死を運んでくる。

 身を寄せ合って、寒さをしのぐ大切さをわからぬ者に、ノールの地で生きる資格はない。

 風雪が、大居館の板壁を滑って、飢えた獣のように細く長く唸る。赤々と燃える、囲炉裏の炎。

 その燃え立つ色を、強い光で見つめた。


 *


 ファールサ暦二二七年十二月中旬。

 羊皮紙に記された返答を、苦い心持ちで受け止める。

 協力者を失った今、もはや猶予はなくなった。

 欲を言えば、もう少し備蓄のある方が安心であったが、こうなってしまった以上、後手に回るわけにはいかない。

 ただ、むしろ、関税の再設定をするに都合のよい理由ができた、ともいえる。

 身柄が引き渡されたなら、体制を整え直し、再び販路を開拓すればよい。拘束されたままでも、関税を元に戻すことができる。

 どちらに転んでも、好転こそすれ、悪化することはないのである。

(――しかし、元通りにするだけでは足りぬ)

 街道を渡り、聞こえてきた噂。耳を覆いたくなるような蛮行。

 ファールサの大商人の中でも、指折りの名家の出なのだ。そのような者を手酷く痛めつけるなど、神ホダーが赦すはずがない。

(今に見ておれ、蛮族め。尊い同胞の血に、報いてくれるわ)

 優美さの欠片もない、野卑なファールサ文字。

 年末らしい春めいた青空を、忌々しく睨み上げた。

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