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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第五章 青き大輪
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灯火の旗手

 ソル暦二五五年五月上旬。

 羊皮紙に綴られた文字を眺める。何度読んでも、ファールサ語の人名はなかった。

 この一ヵ月弱の一斉摘発により捕縛した、違法商人の一覧。いずれも、ヘスト地方やコルプ地方のノール人商人だ。

 元締めは、とあるファールサの大商人だと握れているものの、おそらく、拠点をファールサ側に置いているのだろう。一向に、不正の証拠が掴めなかった。

 このままでは、木炭がファールサに流れ、着実に備蓄が溜まっていってしまう。

 そうなれば、あの狡猾な宰相のことだ。さらに増額した上で、関税を復活させるにちがいない。

 関税が撤廃されて、一ヵ月余り。

 目に見える効果はまだないが、少しずつ持ち直してくるだろう。

 特に、戦いを仕掛けるのなら、シャフリカシャンのノール人居住区の鍛冶屋に、黒剛石が行き渡っている必要がある。

 極力、直接対決にならないようにと考えてはいても、万が一、白兵戦になった時、現地で武具を調達できるに越したことはない。

 シャフリカシャンは遠い。陸路だけで行けば、六十四日はかかる。行軍の費用だけでも莫大だ。それだけに、勝利を確実なものにしなければならない。

 状況は、ようやく本格的に動かした。近いうちに、外帝将館の領事である南槍戦将から、早馬で報告が届くだろう。

 マタラムの王子――最上寵童となったステノゴ。

 今後、外帝将館は、宮殿内部との重要な中継点となる。犠牲に報いるためにも、摘発の手を緩めるわけにはいかない。

(……しかし、どうすべきか――)

 溜め息をつき、天井を仰ぐ。

 船底をひっくり返したような、湾曲した大木の建材。まるで、一筋縄ではいかないファールサ人商人のようだ。

 古くから太陽を尊んできたファールサなら、追いかける我が身は、さしずめ狼のスコッルか。

 しかし、まさか、言い伝えの通りに、終末の戦い〈ラグナロク〉まで追い続けるわけにはいかない。

 再び、報告書に目を落とす。遠くで、鍛練する戦士達のかけ声が聞こえる。

 威勢のよい気迫。武具を打ち鳴らす音。身体がさざめく。

 そういえば、ここ最近、あまり鍛練に時間を割けなかった。せっかく春になって、暖かくなったというのに、引きこもっていてはもったいない。

 羊皮紙を机に放る。

 悩んでも絞り出せない時は、身体を動かすに限る。断じて、現実逃避などではない。

 組んだ脚をほどいて立ち上がり、板張りの床を踏み締める。報告書を机上の木箱に収めると、おもむろに歩み出した。


 *


 サカ暦七七〇年サドハ(十二番目)の月の一三日。

 乾季の快晴の青空にそびえるクヌニ山。

 遥かに伸びる参道の麓に立ってようやく、帰ってきたのだと、実感が湧く。それでも、心のうろは消えていかなかった。

 人々が幾年もかけて踏み固めた道を、一歩一歩、進んでいく。歩き慣れた坂のはずなのに、足がひどく重く感じられた。

 いつもよりも時間をかけて登りきると、見慣れた懐かしい光景が広がった。

 雨季の筍のように、幾本も伸びた石塔。

 石畳の敷かれた表参道へと踏み出す前に、終点の階段の上に建つ本殿に、深々と礼をする。それだけで、涙が滲んだ。

 姉のスムナリは自害し、弟のステノゴは男色に身を堕とした。太守〈アミール〉の下で病死したというスクワトも、きっと、純潔ではいられなかっただろう。

 もはや、ウィスヌすら、シワの怒りを鎮めることはできない。悪行は浄められぬまま、輪廻できず、解脱が成されることはないのだ。

 上体を起こし、参道を真っ直ぐ進む。

 本殿を右手に、脇道へとそれると、氏族寺に混ざって、小さな女寺が見えてきた。

 玄関門をくぐり、魔除けの石の衝立を抜けて、敷地へと入る。途端、快活な声が突き抜けた。

「父上! おかえりなさい!」

 それぞれ、ほうきとちりとりを手にしたまま、娘達が駆けてくる。

 七ヵ月ぶりの再会。しばらく会わない間に、ずいぶん背が伸びた。少しだけかがんで、手を腿に置く。

「ただいま。二人とも、いい子にしていたかな?」

「おてつだい、たくさんしましたの!」

 スカレミィが、竹板のちりとりを差し出す。

 グダン(バナナ)の古い葉が、ぎっしり詰まっていた。微笑んで、優しく肩に右手を添える。

「――そう。偉かったね」

 得意げな笑み。暗澹とした心持ちが、すすがれていく。

 視界が潤んできて、身を起こして息をつく。数回瞬くと、努めて平静に告げた。

「母上を呼んでくれるかな。応接間で、待っているから」

 はい、と元気な返事とともに、娘達が走っていく。

 台所の敷石を踏み、悪霊や病魔を落とす。

 北の母屋や東の祭礼所、北西の寝所は、男子禁制の領域だ。西に進んで、客間などがある手前の別棟へと向かう。

 (とう)の敷物を用意して、しばらくすると、スアングティが姿を現した。

 下座に腰を下ろし、深々と(ぬか)づく。

「バガワド様。ご無事のお帰り、何よりでございます」

 他人行儀な挨拶。しかし、今さら、どうすることもできない。

 ゆっくりと息を吸い、言葉を吐き出す。

「娘達の世話をありがとう。変わりなかったか?」

「――はい。こまごまと、手伝いをしてくれました」

 優しい母親の微笑みが、しとやかな顔に浮かぶ。

 久しぶりに母と日々を過ごせて、娘達も嬉しかったろう。スアングティに預けてよかったと思う。

「ステノゴとスヌンゴは……元気にしていたよ」

 供として控えた、すっかり背の伸びた姿。無事だったと、スメラティには知らせられる。

 しかし、それだけだ。それだけだった。

 腰を揺らめかし、しなをつくる、たおやかな所作。

 習い性になるほど、ステノゴは、長い歳月を女のように過ごしてきたのだ。

 耳飾りも、仰々しい衣装も――化粧すら、さまになってしまうほどに。

 連れ去られたあの日から、全てが手遅れだった。失われたものは、もう取り戻せはしない。

 たまらず、喉がせり上がる。俯いて、押しとどめようと、淡く喘ぐ。

 おもむろににじり寄る、衣擦れの音。ヤワ更紗の膝。

 そっと、頭を抱えられる。包み込む、優しいぬくもり。崩れ落ちて、その細い腰にしがみつく。

 柔らかに背中をさする感触を受けながら、絞り出すように嗚咽した。


 *


 ソル暦二五五年七月中旬。

 夏の盛りの日差しが、薄革を貼った窓を透かして、光っている。涼しい麻を纏い、居住まいを正した姿を見下ろす。

 違法商人の一斉摘発から、早くも三ヵ月が経とうとしていた。

 しかし、不正な取引は、いまだ行われている。まるで、スコッルとマーナガルムが太陽と月を追いかけるように、いつまで経っても、根絶の兆しはなかった。

 内帝将の試算では、かなりの量の木炭が、ファールサに流れているという。

 不正な取引で捕縛される危うさを鑑みれば、一財産を築いている大商人に旨みはない。

 確たる証拠はないが、裏で糸を引く人物がいるのは、明白だった。そして、その者は、準備が整えば、必ずや脅威となる施策を打ち出すだろう。

 こうなれば、多少、強引な手段を使ってでも、根元を断ちきるしかない。

「……うまくいくと思うか、内帝将?」

 買い手の負担は大きいものの、ヴィットアーセン港で、かなり大型の商談がある。

 協力者の商人を通じ、木材商人の組合に、そう噂を流す。それで、元締めのファールサ商人を国内におびき寄せる、という算段だった。

 策は練ってみたものの、とはいえ、不安は残る。

 これまで、販路の支流は把握してきたが、源流は、ようとして知れなかった。悪知恵こそ本分のファールサ商人に、通用するだろうか。

 内帝将が、不敵に微笑を浮かべる。

「うまくいくように事を進めるのが、我が務め。もっともらしい話をでっち上げ、雷神ソールのごとく、見事釣り上げてみせましょう」

 信頼の置ける戦士の、自信に満ち溢れた言葉。

 確信が湧き立って、笑みをこぼす。

「船に揚げた暁には、大鎚ミョッルニルで頭を砕いてやらねばな」

「まったくで。鉄の手套〈ヤールングレイプ〉を磨いておきましょう」

 豊かな髭の中で、にやりと歯が光る。

 内帝将は断りを入れると、両拳を床について礼をし、力強く辞していった。


 *


 羊肉の香草焼きに、鶏肉の柘榴煮、焼き茄子と瓜の和え物、豆の煮込み、ナーン(無発酵のパン)。それから、季節の果物と菓子。

 絨毯の上に広げられた、食事用の細長い敷物。

 惜しみなく配膳された料理を、思う存分、味わう。もう、腹が減って仕方ない。

 メフリガーンの昨日、太子パルヴィーズが、ファルジャードの孫娘と結婚した。秋の祭りと相まって、婚礼の式と披露宴が盛大に催された。

 祝辞代わりの詩を詠み、定番の喜びの舞いを贈るという、最上寵童としての大役。

 余興の合間には、賓客の絨毯のあちこちから声がかかり、一日中、酌をして話し通した。夜はくたくたで、結局、食事もままならなかったほどだ。

 そして、今日は普段通り、〈緑の学院〉で授業を受けたあと、師範から稽古をつけてもらってきた。

 朝食はそれほど量が多くないし、食堂も献立が決まっている。落ち着いた心持ちで食事するのは、久しぶりだった。

 あらかた食べ終えると、酒杯を片手に肴を摘まんでいたベフナームが感嘆する。

「まっこと、よう食べるのう」

 はたと手を止める。一気に、顔が熱くなる。目を伏せて、俯いた。

「……はしたなく、お恥ずかしゅうございます」

「よいよい。育ち盛りは、食べ盛りゆえ」

 鷹揚に笑う声。すり潰した柘榴と胡桃の滴る赤茶色に濡れた、艶やかな鶏肉。

 腹が、奥底から食欲を訴える。たまらず断って、素直に食事を再開する。

 ほろほろに溶けていく鶏の旨みに、甘酸っぱさが絡んで、思わず顔がほころぶ。羊の臭みはだいぶ慣れてきたが、やはり、食べ慣れた鶏肉が、一番好きだった。

 好物を堪能し、果物と菓子を楽しんで、茶で息をつく。

 ベフナームが、にこにこと問いかける。

「満足したかの、シャーグルよ」

「おかげさまで、存分に満たされました」

 水に指を浸して洗い、布巾で拭う。ようやく、人心地ついた気がする。

 ベフナームが(から)になった皿を見渡して、声を立てて笑う。

「いやはや、清々しい食べっぷりであった。ここまで食べ尽くすとは、珍しいものよ」

「……ほっとしましたら――急に、お腹が空きまして……」

 とはいえ、いくらなんでも欲を出しすぎた。

 恥じ入って、袖を口元に当て、目を伏せる。髭面が大仰に頷き、杯を傾ける。

「昨日は慌ただしかったゆえのう。そちの詩と舞いで祝われて、パルヴィーズは果報者よ」

 胴体との境目のない喉を鳴らし、葡萄酒を飲み込んでいく。切子細工の硝子の杯が、灯火にきらめく。

「――ところで、シャーグルよ。宴席で、気になったのだがの」

 焦茶色の瞳に閃く、鋭い光。緩慢な口調が問う。

「側近団長のサルダールと、ずいぶん親しいようだのう。舞いの際も、始終、気にかけておったものを」

 嫉妬の渦巻く視線。

 確かにうまくいっているのに、絡みつく執着に、怖気が走る。

 メフルダードの時のように大事(おおごと)にならないよう、胸中で祈る。険しい目を一心に見つめて、さめざめと訴える。

「ああ、慕わしいベフナーム様――そのようにお疑いになるなんて、僕は悲しゅうございます」

 サルダールには、あのノウルーズの酒宴以来、機会のあるごとに、色目を使ってきた。

 気を持たせるように、しかしさりげなく。愛想よくしただけだと、言い訳できるように。そして、昨日も、舞いながら何度も目を合わせ、酌をして媚びを売った。

「側近団長は、王〈シャー〉の警護を担う、防衛上の要。大切なあなた様をよく守ってほしいと願えばこそ、重んじているのみにございます。それなのに――」

 自らを抱き、身を縮めて震える。瞳を潤ませ、滲んだ声をこぼす。

「あの者は、恐ろしい目で見てくるのです……」

 劣情にまみれた、期待に輝く目。

 このまま誘惑し続ければ、いずれ、たがが外れる。その時が、あの男の地位が失墜する瞬間だ。

 涙をこらえるように眉根を寄せ、目を伏せて俯く。ゆっくりと瞬けば、たまらずといったふうに、雫が一粒、頬を伝っていった。

 巨体の身じろぐ気配。打ち震える声が、大仰に嘆く。

「おお、なんと! 左様に不埒な輩であったとは……!」

 贅肉を揺らしながら、ベフナームがにじってくる。太く短い腕が伸び、たるんだ胸に抱き寄せられる。

(うたご)うてすまなかった。そちがいとしいゆえ、わしは心配でならぬのだ」

「あなた様のために、蕾は開き、薔薇は大輪となって咲きますのに――他の誰かなど、考えたこともございません」

 眉尻を下げた髭面を、上目遣いに見つめ、潤む声で訴える。

 そして、すがりつくように、王〈シャー〉のみに許された、絢爛な金色の羽織を握り締めた。

「ああ、慕わしいベフナーム様……僕は、怖くてたまりません――卑猥な視線を向けてくる者が、あれほどいるなど、思いもよりませんでした」

「そちは、まっこと愛らしいゆえのう――不敬な者どもめ、困ったものよ」

 憤慨の混じる声音。一押しを間違えないよう、慎重に言葉を選ぶ。

「不敬――そう、不敬なのでございます、あなた様。僕は悲しくてなりません。王〈シャー〉である御身に敬意を払わない者の――なんと、多いことでしょう」

 悔しげに口元をわななかせ、はらはらと涙をこぼす。苦い声で哀願する。

「それもこれも、宰相が、政をほしいままにしているからにございます。あなた様が、王〈シャー〉たるをお示しになれば、皆、誰に忠誠を尽くすべきか、思い出すでしょう――そうすれば、僕もきっと、安心して過ごせます」

「しかしのう、シャーグルよ。……わしは、今さら、為し得るとは思えぬ」

 焦茶色の瞳が、ためらうように揺れる。

 どこか、怯えるような色。声を弾けさせて、涙ながらに訴える。

「ああ、慕わしいベフナーム様! これほどに素晴らしいあなた様が、どうして為せぬことなどありましょう! この春は、あの宰相の思惑を打ち破り、僕に青薔薇をお授けくださったではございませんか! 王〈シャー〉たるにふさわしいお力を備えていらっしゃいますのに――僕は、悔しゅうございます!」

 もし、信仰心の薄いベフナームが、ファルジャードをただの宰相のままにしておけば、マタラムは、今も平和であっただろう。

 家族は無事で、自分も今頃、ンゴボン島で、首長家の婿として、妻となった娘とともに、穏やかに暮らしていたはずだ。

 わなないて泣きじゃくる。太く黒い眉毛が、さらに下がり、弱りきった声を出す。

「おお、おお、そのように泣くでない、我がいとしい小鳥よ」

「……でも……っでも、ベフナーム様……! ああ、悔しくてなりません! お慕いするあなた様が、愚昧などと謗られるなんて――僕は……僕は……っ!」

 必死にこらえようとするように、喉を震わす。抑えきれない涙が、はらはらと頬を伝っていく。

「……わしは、為し得るであろうか……?」

 妙に静かな声が、問いかける。

 幼く、不安に満ちた声音。

 深呼吸して、涙声ながらも確固として答える。

「慕わしいベフナーム様。僕が、あなた様のお傍におります。あなた様を、陰日向にお支えしたくて――僕は、青く咲いたのでございますから」

 おもむろに、焦茶色の瞳に生気が宿る。感慨深い声が、しみじみと呟いた。

「そうだのう……シャーグルよ。わしも、いとしいそちを守りたいものよ。――ひとつ、努めてみるかの」

 黒い髭面に、穏やかな笑みが広がる。

 温かな涙をこぼして、幸せな微笑みを浮かべた。


 *


 ファールサ暦二二七年七月三日。

 葦筆を紙の右上に据え、左に置いた下書きを清書していく。

 各施策に係る記録の一覧。印璽庁に送って、資料を取り寄せる手筈になっていた。

 どういう風の吹き回しか、ベフナームが政を学び直したいと言い出した。

 面倒なことこの上ないが、下手に逆らって機嫌を損ねる方が、悪手である。マタラムの王子からラーミンへと関心を移すためにも、おもねられるところは、譲るべきであった。

 しかし、読まれても差し障りのない記録の選定となると、部下に任せるわけにはいかない。基準の理由を考えるより、自ら手を動かした方が早い。

 そういうわけで、学んだ気になれるような構成で、出庫指示書を作成したのである。

(……まったく、余計な仕事を増やしおって)

 パルヴィーズの婚礼の式は、実に華やかで、満足のいくものであった。

 しかし、面倒は山積している。特に、スティンヴァーリで行われている商人の一斉摘発は、厄介なものだった。

 元締めに任じた大商人は、支障ないと報告してきている。

 しかし、はたして、そう単純なものであろうか。

 ノール人は、野蛮な異教徒ではあるとはいえ、あの広大な地を治めている。油断してはならない相手だ。

 木炭は、いくらあっても、多すぎるということはない。備蓄が滞りなく進んでいるとしても、慢心してはならなかった。胸を撫で下ろすべきは、関税を復活させてからである。

 全てを清書し終え、右下に署名する。

 紙を巻き取って紐で留めると、部下を呼びつけた。

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