異郷の老将
たけなわの宴の中、華やかに着飾った侍童達が、整然と敷かれた絨毯の間を飛び交う。
呼ばれて酌人を務め、しなだれかかって歓談する嬌態。ファールサ人の男達にとって、少年は女に等しい立ち位置なのだと、改めて認識させられる。
とはいえ、寵童ともなれば、気軽に触れていいものではない。
特別で、守られた存在。
そう思っていたが、酔ってしまえば、もはや区別はなくなるらしい。
人事発表や披露目などを行う公式の行事である初日。主要な国の外交官と懇親を深めた二日目。中央庁と地方庁の、いわゆる文官達の集まる酒のない三日目。
いずれも、それなりに盛況だと感じていたが、側近軍団の軍人のために催された四日目の今日は、騒がしいの一言では済まないほどの無秩序ぶりだ。
だから、本当に酔っ払った人間の扱いが、まさかこれほど面倒だとは、思いもよらなかった。
硝子の杯に並々と注いだ葡萄酒を味わう、髭面を見上げる。
側近軍団団長、サルダール・ティール・マルズパーン。
辺境の守備隊長の家の出でありながら、円城内に居住する特権を与えられた男。
軍人となって以来、任地で、異教徒や改宗者の反乱があるごとに、容赦なく鎮圧してきた。印璽庁の淡々とした記録だけでも、その残虐さは、寒気がするほどだ。
表向きは、功績を讃えて中央に栄転した、とあるが、この生粋のファールサ人を、ファルジャードが気に入らないわけがない。実際、初日の祝宴でも、ずいぶん親しげにしていた。
だから、一目で懸想されたことは、よい傾向だった。
宮殿と円城の防衛にあたる側近軍団の長を、メフルダードを奉じる者にすげ替えられれば、ずいぶんやりやすくなる。
(……でも……これは……)
腰を抱いてさする手を、横目で見遣る。
ベフナームのこれまでの怠慢を思えば、当然かもしれないが、王〈シャー〉への敬意は微塵もないらしい。懇親に酌をと席についた途端、ずっとこの体勢だ。
撫でていた手が滑り、尻へと向かう。怖気が、背筋を駆ける。
確かに、劣情の浮かぶ目で見てくる者はいたが、ここまであからさまに手出ししてくることはなかった。宰相に守られている、という驕りがあるにしても、度が過ぎる。
何より、今日は、話すべき重要人物がいるのだ。なんとしても、抜け出さなければ。
「側近団長。お料理が、すっかりなくなっています。取りに行ってきますから……」
「麗しい青薔薇様。あなたの美しいお顔を拝見するだけで、私の腹は、満ちに満ちておりますよ」
はあと、熱っぽい息が吹きかかる。
この臭気。ベフナームの匂いは、酒から来ていたのだ。本当に、今日一日だけで、酒を憎悪できる自信がある。
「ああ、なんと、美しいことか……この高貴なる緑の瞳。日がな一日、眺めていたい……」
おもむろに迫る髭面。
後退しすぎて、首筋が引きつれる。粘りつく手が、尻を探り、割れ目の深みへと入ってくる。
あと少し。
悪寒に視界が滲み始めた、その時。
「――やだあーっ! こんなところに、すっごい偉丈夫がいるなんて!」
衝撃が走り、軽く跳ね飛ぶ。
サルダールが綺麗に剥がれ、瞬きながら、中空を仰ぐ。
見慣れた面立ち。紅玉の寵童付きの侍童、アーザードだった。
背後から抱きついたようで、サルダールの首に、しっかりと腕を回している。
「――なんだ、お前は……ッ」
「嫌ですわ、お前だなんて。私にも、きちんと名がありますのよ?」
言いながら、傍らに割って入る。瑠璃色の瞳が、密かに微笑む。
目顔で礼を告げ、すかさず離れる。口を開く隙も与えず、とめどない言葉の洪水が噴出する。
あのアフシンについていきつつ、機知に富んだ返しができるほどの、しゃべりの名手なのだ。並みの者なら、あっという間に話に呑まれてしまう。
強力な助け舟。あとで、改めて礼を言おうと思う。
下座へと歩むにつれ、歓談する人々の顔立ちが、多様になっていく。まさに、ファールサの社会の縮図のようだった。
おおむね所定の配置に収まっているようだが、これだけ混沌としているのだ。移動しているかもしれない。
不安に駆られつつも、ひとまず席次を思い浮かべて、絨毯の合間を進む。
はたして、それらしい集団があった。
新春の日差しに照らされて、光輝く人々。金色や淡茶色といった色の薄い髪に、血色のよい白い肌。陽気な笑い声。いとおしい輝く星〈アフシン〉を思う。
歩み寄ると、色とりどりの瞳が、一斉に見上げた。微笑んで挨拶する。
「皆様、お楽しみいただいていますでしょうか」
「これは青薔薇様。このような、むさくるしい席に」
ひときわ身体の大きな老人が、大きく腕を広げて、歓声を上げた。
歴戦の勇士と一目でわかる頑健さ。身なりと徽章からしても、目当ての人物に間違いないと、ほっとする。
老将を囲んで飲んでいた男達が、気のいい顔で、その隣に席を空けてくれる。
礼を言って座ると、ノール神話の巨人の国に迷い込んでしまったような気分になる。
手近な酒器を取り上げ、恐縮しつつ差し出された杯に酌をする。濃密な赤の葡萄酒が、なめらかに硝子を滑っていく。
「あなたが、教練隊副隊長――北より出でし至高の天〈アースマーン〉ですね?」
「左様にございます、尊き青薔薇様。――いやはや、まさかこの歳で、このような栄誉を賜れるとは」
そう笑んで杯を掲げ、一息に飲み干す。
外帝将といい、ノール人の飲みっぷりは、なんとも豪快だ。
空いたところに注ぎながら、何気なく、口を開く。
「あなたのお話を、東を守る太陽〈メフル〉から伺いました。昔のように、美しい都〈シャフリカシャン〉で過ごせたらと、願っていらっしゃいます」
協力者名簿によれば、このアースマーンは、当時太子だったメフルダードの武術の指南役を務めていたという。
幼い頃に、スティンヴァーリの国境の農村からさらわれてきた奴隷軍人ながら、卓越した武術の才で、親衛軍人にまで昇り詰めた。
しかし、ファルジャードが、メフルダードの力を削ぐために、現職へと左遷したのだ。
二人の信頼関係は並々ならぬものだったようで、人となりの記述にも、かなり力がこもっていた。
灰緑色の瞳が、懐かしそうに、優しく細まる。
「畏れ多くも、かつては、師弟として親しんでいただきました。しかしながら、もはや老いた身。稽古のお相手を務めるには、少々厳しいかと存じます」
そっと微笑む。名簿の文面が、頭に巡る。
「かのお方は、きっとアースマーンならば、そう申すだろう、と――〈至高の天〉より生まれし勝利〈ペーローズ〉にも、期待を寄せておいででした」
「我が愚息が、お役に立ちますやら――」
謙遜しながらも、その顔には、輝く喜色が浮かんでいた。世辞も何もなく、ともに過ごした時を、ただ純粋にいとおしむ色。
メフルダードの名簿に連なる人々は、本当に多種多様だった。その真の意味を知る。
(――期待をかけても、いいのかもしれない)
初日の挨拶の時、ゆっくり舞いが観たいと、滞在先の離宮に誘われた。明日、会う約束をしている。アースマーンが計画を承知すれば、よい手土産になるだろう。
果物と菓子の皿を差し出しながら、静かに問う。
「例えば、もし――〈太陽の贈り物〉と〈名声〉を選べるとしたら、あなたは、どちらを迎えたいですか?」
灰緑色の瞳が見開く。感慨深げな声が、震えて落ちる。
「やはり、あの噂は、真であったのでございますな――」
同じ酒を酌み交わして歓談する、多様な顔立ちの兵士達。
灰緑色の瞳が見はるかして、穏やかに語る。
「私は、〈太陽の贈り物〉を、選びとう存じます。――懐深い者こそ、大陸の十字路たるファールサにはふさわしい。ここにいる異郷の者達は、ほとんどが、同じく願うでしょう」
節くれだった大きな手が、果物を掴む。深い髭に覆われた口に放り込むと、ゆっくりと咀嚼した。
葡萄酒をあおり、満足そうに唸る溜め息。酒器を取り上げて、注いでいく。
「しかし、青薔薇様。都〈シャフル〉が美しい〈カシャン〉と評されるのは、儚くたおやかであるからではございません。〈太陽〉が強く照らそうとも、そう簡単には、干上がりはしないでしょう」
穏やかながらも、厳しい色を宿した目。
しなだれかかりつつ、耳元に口を寄せる。
「〈岩の狼〉が、その鋭い牙を研いでいます。北と東を繋ぐため、南洋の薔薇は青く染まりました――そうして今、国境〈マルズ〉より来た守備隊長〈パーン〉が、青薔薇に心浮かれているようです」
「なるほど、我がものにしようとすれば、鋭い棘で、手痛い傷を負うでしょうな」
灰緑色の瞳が、愉快げに光る。
喉を鳴らして葡萄酒を飲み、高々と杯を掲げる。初春の陽光を反射して、切子細工の硝子が、燦然ときらめく。
「――ならば、私は、我が子に名づけた通り、〈勝利〉をもたらしましょう。輝かしい〈太陽の贈り物〉が、〈美しい都〉に届けられるように」
傍らにあった空の杯に茶を注ぐ。精巧な硝子の、深い青と緑の輝き。
乾杯のかけ声とともに、玲瓏な音色が、空高く響いた。
夕刻の礼拝を前に、昼から続いた酒宴は、お開きになった。
散らかりきった会場。すさまじい惨状だ。片づける従童と宮殿の下男達に、さすがに申し訳なく思う。
しかし、成果は上々だった。
アースマーンから、側近軍団配下の教練隊と守備万騎兵団の隊長、親衛軍人を紹介してもらえた。皆、志を同じくする者達だ。
出身は、スティンヴァーリを始め、ターング、ヒンドゥシュ、各地の原住民と、多岐にわたった。
ファールサ人も含まれているのは意外だったが、歴史に学ぶべきと、思うところがある者も、少なからずいるようだ。
多様な顔立ちの人々が、酒を酌み交わし、談笑する光景は、本当に壮観だった。
(ひとつの民が、独占していいものではないんだ――)
ファールサは大陸の十字路だと、アースマーンは表現した。
全ての民が納得できる環境をつくるなど、もちろん不可能に等しい。しかし、志すことはできる。そして、高い志は希望となるのだ。
暮れゆく空を仰ぐ。燃え立つ春の夕日。
どこにあっても、このひとときは美しい。この先の日々が、つつがなくあるよう、神々に祈る。
背後で、ゆっくりと、扉の開く音が鳴る。
振り返れば、厨がある奥の通用口から、スヌンゴが現れる。見目が平凡であると薔薇局長が判断して、裏方の仕事に回っていたのだ。
「お待たせいたしました、青薔薇様」
「ご苦労だったね。――さあ、帰ろうか」
斜め後ろに控える気配。北に続く回廊に足を向け、〈薔薇の宮〉へと歩んでいく。
少し進むと、同じように、務めを終えて帰っていく侍童の集団があった。その中に、さらさらと流れる白金色の髪を見つける。
「――アーザード!」
優美に振り返って、瑠璃色の瞳が柔らかく微笑む。足を止めてくれたところに追いつく。
「青薔薇様。その後、お困り事はございませんでしたか?」
「つつがなく済んだよ。ありがとう」
「それは、よろしゅうございました」
心からの安堵の表情。差し込む夕日に、瑠璃色の瞳が深く輝く。アフシンとはまた違う、その聡明な色。
穏やかな心地で再び歩み始めると、大仰に嘆く声が降ってくる。
「それにしても、あの御仁は困ったものですね。側近軍団は、王〈シャー〉の警護も担うというのに、あのようでは」
「な、何かあったのか?」
ずっと心配してくれていたのだろう。辛抱たまらずといったように、珍しく、スヌンゴが割って入る。
あでやかな面立ちが、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「あったも何も、青薔薇様の丘を、撫でくり回していたんだよ――こうやってね!」
「――わっ、ちょっと! アーザード!」
思いきり飛び跳ねて、黄褐色の頬が真っ赤に染まる。
羞恥と義憤に荒く呻きながら、スヌンゴが息巻く。
「よくも、シャーグル様に……戻ったら、事のあらましを共有してくれよ」
アーザードが、もちろんと微笑んで、片目をつむる。
このままだと、壮大な物語が生まれて広まりかねない。嫌な予感がして、そっと口を挟む。
「大丈夫だよ、ボルナー。本当に、少しだけだから……」
濃茶色の瞳が、ぎんと光る。
マタラム人らしい平たい鼻が膨らんで、憤然と告げる。
「なりません! 尊い御身に触れるなど、不敬も甚だしい! しっかりと、素性を把握しなければ!」
「まったくです。青薔薇様は、我が主の大切な尊兄君。下々の者が、軽々しく触れてよいものではございませんよ」
あまりの気勢に押されて、曖昧に微笑む。とはいえ、念のためと、付け加えておく。
「有難いけれど……ほどほどにね」
威勢のよい返事。
粘りついていた感触が、少しだけ剥がれた気がした。




