業火
瞼を開けると、見知らぬ景色が広がっていた。起き抜けのぼんやりとした思考で、おぼろげに思う。
(……そうだ――昨日、青玉の間に、移ったんだった……)
ノウルーズに入れば、引っ越しどころではなくなる。
そういう事情で、十二月末日、緑玉の間からの移転を完了したのだった。
おもむろに上体を起こせば、様々な色合いの青が、目に飛び込んでくる。壁や床を彩る絨毯は、どれも一流の職人が織り上げた、絹の一級品だ。
居室の広さも、緑玉の間とは段違いで、マタラムから届いた調度品の数々も、余裕をもって収められた。
ファールサの色彩とマタラムの品々。
ふたつの文化が共存する不思議な光景だけは、これまでと変わらない。
時機を見計らったように、侍童の通用口から、朝を告げる声が聞こえる。振り見れば、ゆっくりと扉が開き、スヌンゴが現れた。
濃茶色の瞳が、朝日に輝いて、優しく微笑む。
「――お目覚めでいらっしゃいましたか」
頷いて、毛織物の上掛けをはぐる。
スヌンゴは寝台の傍らに座ると、恭しく礼をした。
「新年、誠におめでとうございます。つつがなくこの年を迎えられましたこと、心よりお慶び申し上げます」
「新年おめでとう。今年もよろしくね、スヌンゴ」
「お心安くお過ごしいただけますよう、誠心誠意お仕え申し上げます」
黄褐色の顔が上がり、ひたと目が合う。
固い意志の宿った色。しっかりと、目顔で頷く。
〈花見〉のない夜、そして年末の二日間で、スヌンゴには全てを話してきた。供として知るべきことと――その、裏の事情も。
寵童では立ち入りづらい場所にも、侍童の身分なら、難なく出入りできる。宮殿内を走っても、周囲は火急の遣いだと解釈してくれる。頼らない手はなかった。
差し出された櫛を受け取り、軽く髪を整える。
正面口で呼びかける、侍童の声。朝食の給仕達だ。
立って行くスヌンゴを見届け、羽織を引っかけると、食事の絨毯へと足を向けた。
「王〈シャー〉より、最上寵童の証にございます」
一番年長の侍童が、恭しく小箱を掲げる。
青玉のはめ込まれた蓋が開けば、新春の朝日を浴びて、耳飾りが燦然と光を放った。
図案化された青薔薇を中心に、青玉が散りばめられた意匠。
緑玉、紅玉、黄玉のいずれとも異なる、ひときわ洗練された品格に、その意味の重さを実感する。
緑玉の耳飾りを外し、スヌンゴの構えた箱の中に収める。そして、丁重に一礼すると、青い証に手を伸ばした。
耳朶の穴に金具を通し、顔を上げる。誰からともなく、感嘆の声が漏れる。
「ああ、なんて、お美しい……」
威厳をもって、淡く微笑む。侍童達が、一斉に頭を垂れる。
「最上寵童におなりになりました由、誠にお慶び申し上げます、青薔薇様」
「ありがとう。これも、皆がよく仕えてくれたおかげです。今後も、よろしく頼みます」
定型ながらも、丁重な返答。見渡して、しっかりと頷く。
スヌンゴの出発を促す声。数々の重い装飾品に負けないよう、腹にこめて、確かに立ち上がった。
帽子を飾る金細工が、さらさらと鳴る。薄絹がたなびき、絢爛な刺繍の長い裾が翻る。腕を伸ばして手首をしならせ、腰をあでやかに揺らめかす。
バルバット(卵型の弦楽器)の哀愁漂う硬質な音色。よく鍛えられた、歌い手の伸びやかな声。
〈薔薇の宮〉出身の一流の楽人達による演奏を背景に、くるくると舞い踊る。
重量のある衣装に振り回されないよう注意しつつも、賓客の面々に気を配る。
ターング、ヒンドゥシュ、スティンヴァーリ。そして、マタラム支庁の高官と兄のスセハト。
この日のために、新しく詩をつくった。そこに曲がつけられ、今、奏でられている。
どんな思いで、兄は、この歌を聴いているのだろう。
王〈シャー〉に出会えた喜びを、神ホダーに感謝し、咲くことを幸せだと祝う、この詩を。色香を纏って舞う、この姿を。
見てほしくなどなかった。プマンクである兄にだけは、知ってほしくなかったのに。
演奏が終盤に入る。腹に力をこめ、肋骨をより一層引き込む。右に、左に、回転しながら移動する。
裾が円形に広がり、金糸に銀糸、様々な色彩の刺繍と金細工が、新春の陽光にきらめく。視界の端で、青薔薇が、鮮烈に輝いた。
決めの姿勢を取り、おもむろに座す。
深く礼をすると、盛大な拍手が青空を突き抜けた。
ばくばくと鳴り響く鼓動。
安堵に、ほっと溜息をつく。最初の掴みは上々だ。
中継ぎの余興と締めの二差しが残っているが、どちらも定番の曲で短い。ひとつの山は越えたといっていいだろう。
ベフナームの隣にしつらえられた席につく。
感嘆し、黒い髭面が満足げに笑む。
「何度観ても、そちの舞いは、まっこと素晴らしいものよ、シャーグル。ようやく、この喜びを、皆にも堪能させることができたよのう」
「慕わしいベフナーム様。この日を、どれほど待ちわびたでしょう。こうして公に、あなた様の隣を温められるなんて、夢のようでございます」
胸に両手を当て、目を潤ませる。差し出された丸い手に手を重ね、肥えた腕に添う。
最上寵童は、すなわち正后。仲睦まじい姿を示すことは、大切な務めのひとつだった。それがたとえ、二人の――正后と最上寵童の本心でなかったとしても。
ひとつ下座の青年を見遣る。
宴の初め、ファルジャードは、太子パルヴィーズとラフバル家の三男の長女との婚約を発表した。
堂々と所信を表明し、ファールサのために尽くすと誓ったものの、もはや誰も注目していない。どれほど繕ったところで、宰相の意図は、透けて見えるというものだ。
そして、メフルダードも、手をこまねいていたわけではない。
ファールサ人でないとして弾圧されてきた、改宗者と異教徒。メフルダードの力を削ぐために左遷させられた、軍の高官達。ファールサ人官吏に統一すると称して罷免された、現地の行政官達。
ファルジャードに怨恨を持つ者は、大勢いる。
そこに、メフルダードは、寛大な融和政策を打ち出し、多様なファールサの旗印となった。
共感は、水面下で瞬く間に広がり、軍勢は、かなりの規模になっていると聞く。
太守〈アミール〉か、宰相か。一見めでたく華やかな新年祭は、その実、腹の探り合いによる戦場だった。
もちろん、油断はならない。ただ、負けるとは思えなかった。
(……宰相は、やり過ぎた――)
大陸は広大だ。その中で、伝統的なファールサ人の数は、ほんの一握りしかいない。
ディーダム教という信仰さえあれば、身内となる緩やかさ。それこそ、ファールサの強さだ。
しかし、黎明期のディーダム教を国教としたホルシード家は、それに気づかず、反乱によって倒された。
そして、あらゆる民族を味方につけ、王〈シャー〉となったマフターブ家が今、歴史を繰り返そうとしている。
ラフバル家という、いにしえからの血筋に手を引かれて。
王〈シャー〉の親族の席。腹違いの弟達とともに、茶と料理を楽しむ、勇壮な姿。
もし、ファールサが小国なら、滅亡も望んだだろう。しかし、大陸の交易の要石が吹き飛べば、マタラムも無事ではいられない。
ナスリーンの妄執にも近い思慕。カースィムの必死の忠告。スクワトの病死の記録。
(人柄を知ったところで、選べはしない。けれど――)
あの美しい常夏の国の平安を、素朴で優しい島民の安寧を信じて、逝きたかった。
楽士の演奏が一区切りする。
ベフナームに、挨拶回りをしてくると告げて、席を立った。
*
ファールサ暦二二七年一月一日。
「マタラム現地代表殿。本日は、遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」
声変わりを終えた少年の声が、丁重に挨拶する。
上体を起こしたその顔は、紛れもなく、弟のステノゴだった。
化粧を塗りたくられた、あどけなさの残る面立ち。目の痛いほどに華美な、衣装と装飾品。なまめかしい身のこなし。
遠目でも異様だったが、近くで見ると、うすら寒さが背筋を這い上った。苛まれてきた歳月を、まざまざと思い知る。
装った顔に、貼りついた笑みが浮かぶ。
「マタラムでは、牛を食すことは禁忌であると、伺っております。お出ししたお料理は、全て各国と各地域に合わせて、つくらせております。お楽しみいただけましたら、幸いでございます」
なめらかなファールサ語。そして、ファールサ式の敬礼。
故郷など、忘れ去ったというのか。
「それでは、どうぞ、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
おもむろに上がる腰。
気がつけば、手首を掴んで叫んでいた。
「――ステノゴッ!」
緑の瞳が、はっと見開く。微かに揺れる色。
ここまで来たのだ。放すものかと、きつく握り締めて、言葉を繋ぐ。
「帰ってこい! もう、こんなことはしなくていいんだ!」
息を呑む、微かな音。
忘れてなどいない。忘れるはずがないのだ。
「私と一緒に帰ろう! 君は幼かった! きっと、シワもお赦しくださる! だから」
「――バガワド様、そこまでです。お控えなされよ」
肩に乗る、重厚な熱。
振り返れば、外帝将の険しい顔があった。かっと、一息に血が上る。
「元はといえば、貴様が……!」
するりと感触が抜けて、視線を戻す。
距離を取って座り直し、困惑した表情が告げる。
「失礼ながら――ヤワ語……でしょうか?」
やはり覚えているのだ。ワルナ(カースト)と間柄に則した語形も、全て。ならば、話せないはずがない。
口を開きかけて、しかし、澱みないファールサ語に阻まれる。
「誠に申し訳ございません。大陸の主要な言葉以外は、履修しておりませんもので――」
それでは、と再び一礼して、華美な姿が立ち上がる。捕まえようとして、大きな重みに引き戻される。
「放せ、外帝将ッ! ――ステノゴ! 戻ってこい! ステノゴッ!」
「おやめなさい! 弟御の命を危うくするおつもりか!」
憤りに燃え立つ灰色の目。
気圧されて、喉が詰まる。理不尽な思いが胸に湧き立つ。
そもそも、ステノゴを政の道具に仕立てたのは、スティンヴァーリではなかったか。助けを求めたのに、裏切ったのは、外帝将ではなかったか。
睨み据えると、金灰色の眉が、わずかに下がる。
しかし、ファールサ語に切り替えてから、平静な口調で告げた。
「明日、外帝将館で、青薔薇様と懇親の会があります。時間になりましたら、ご滞在先に、遣いの者を寄越しますので」
意図を悟って、浮いていた腰を下ろす。おもむろに、肩から手が離れていく。
座り直し、宴に興じる会場を見渡す。対面で、賓客と談笑する姿があった。
酔った男達に酌をし、媚びを売る、そのなまめかしい所作。
(必ず、連れ帰ってみせる――ステノゴ)
もう何ものも奪わせないと、固く誓って、忌まわしい景色を見つめた。
*
胸が痛い。息が詰まって、苦しかった。
寝なければと思うのに、意識は冴えるばかりだ。
明日は、スティンヴァーリの外帝将との会食に始まり、ターングやヒンドゥシュの外交官と懇談する予定だった。明後日も、中央庁と地方庁の高官達と、宴席がある。こんな初日に、寝不足になっている場合ではなかった。
それなのに、瞼を閉じれば、兄の顔が浮かんだ。
鬼のような形相。
温厚で調和を重んじ、声を荒げることなど、決してなかった。それが、あれほどに激するなんて。経てきた年月を思う。
きっと、義姉のスアングティは、無事ではなかったのだろう。出産した男児の父親は、ファールサ人だったにちがいない。
兄の声が、心の内で反響する。
同等のワルナで、親しい者や年下の家族に語る時の、ンゴコ体。
マタラム人は、言葉を話し始める幼子の頃から、徹底的に使い分けをしつけられる。忘れるわけがない。
(……そういえば――ジャハーンも、ンゴコで話すっけ……)
察するに平民の出だから、ずいぶんと不敬である。
ただ、耳にするのは、いつも苦しい時だったから、あまり気にしていなかった。
親が幼い我が子に話しかける時も、ンゴコ体だ。
故郷の近しい者を思えるように、という願いがこめられている――とは、考えすぎだろうか。
低く囁く、静かな歌声。心に満たせば、安心感が広がっていく。異国の、しかもファールサ人のはずなのに、不思議なものだ。
一方で、明日は、故郷の最たる人を苦しめに行く。
スティンヴァーリの領事が長を務める、外帝将館。その使者が、予定の変更を申し出てきた。同席者が一人、途中で増えるというのだ。
兄の気が収まるように、外帝将が配慮してくれたのだろう。
心丈夫になるはずだと、外帝将館を通じて、事前に世話を頼んだかいがあった。宴でも、もし隣にいてくれなかったら、もっと大事になっていたはずだ。
心配するベフナームには、怒鳴られて怖かったと、目を潤ませれば済んだ。しかし、これ以上、他の来賓の前で、事を荒立てるわけにはいかない。
完膚なきまでに心を砕き、諦めてもらうには――。
兄は、姉のスムナリにも、優しかった。
十歳も離れていて、一緒に暮らしたことはないから、事情は詳しく知らないが、他の家族と違い、思うところがあるようだった。
(……僕は、また……家族を失うのか……)
生き残った、おそらく唯一の肉親を、絶望に突き落とすのだ。
潰してしまった蝶の、小さな棺。魂の平和を願い、一心に読経する、兄の真摯な声。
さざ波に溶け込むような音色を、心に聴きながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
「ようこそ、我が館へ。歓迎いたしますよ」
よく晴れた新春の青空に、明るく重厚な声が響く。
大仰に腕を広げた姿。その頑健な景色に圧倒される。最後に会った頃より、背丈はずいぶん伸びたのに、今見ても、ひたすらに大きい。
ノール式に右手を差し出し、にこやかに返答する。
「お招きいただき、誠にありがとうございます、外帝将閣下」
灰色の瞳が瞬き、掘りの深い顔に、豪快な笑みが広がる。
「さすがは青薔薇様。ノール語もご堪能とは。――しかし、ここはファールサ。お気持ちだけ、受け取っておきましょう」
がっしりとした手に、固く握られる。案内を受け、中へと入っていく。
ファールサ式の中庭のある館。しかし、柱や建具のそこここに、あまり見かけない意匠が彫られていた。
狼と鴉に馬、大蛇、大樹――ノール神話に登場する、様々な動植物。
ディーダム教は偶像崇拝を禁じているから、抽象的な図案が基本だ。
建築様式は気候に合わせても、ノール人ならではのこだわりが感じられた。
枠に紋様をひときわ施した扉の前に着くと、奥へと通された。広がる景色に、思わず感嘆の声を漏らす。
鮮やかな色彩の壁掛け。
ぐるりと見渡せば、ひとつの物語になっているようだった。
躍動する、数多の戦士達。大柄な馬に乗り、果敢に攻め入る将。
これほど長大な毛織物を、この精度で織り上げるには、相当な時と技が必要だろう。
「これは、見事ですね――」
「恐れ入ります。こちらに赴任する戦士の妻達が、代々織り継いできたものにございます」
さあ、と促されて、奥へと進む。
ノールの品なのだろう。見慣れない柄の毛織の敷物が、床一面に広がっていた。
その上にしつらえられた、食事の揃え。手で示されて、席につく。
外帝将が敷き綿の上にあぐらで座ると、後ろで控えていた女人が、恭しく礼をして下がっていった。
ほどなくして、料理の載った盆を手に、女達が入ってくる。
一人分の食事用の敷物の上に、次々と、湯気の立った品が供される。
大ぶりの野菜と肉が浮かぶ汁物。肉と香草を練った団子と、野菜の炒め物。季節の果物の盛り合わせ。そして、おそらくノール式の、ナーン(パン)とパニール(チーズ)。
何より目を引くのが、中央を飾るように、大皿にどんと置かれた、塊の肉だ。
これを二人で、どうやって食べるというのか。一通りの食文化と作法は学んできたが、この展開は予想外だった。
戸惑っていると、給仕の一人が、皿の傍らに座った。
二振りの小刀で、器用に切り分けられていく塊。
一口大になった肉が、数切れ揃えられて、刃の腹に載る。そして、皿というべきか、模様の彫られた板に盛りつけられた。
「おかわりが必要でございましたら、また、お切りいたします」
「はい、ありがとうございます」
白い顔が、上品な笑みを浮かべる。同じように、外帝将にも肉を給仕すると、しとやかに下がっていった。
外帝将が、角杯を取り上げて、豪快に宣言する。
「まあ、まずは、乾杯といきましょう」
硝子の杯を掲げ、かけ声を放つ。
口をつければ、よく知った茶の香りが、鼻を抜けていった。
威勢のいい溜め息。給仕が、もう二杯目を注いでいる。それをまた、大きく一飲み。
唖然として、大きく隆起した喉頭が上下する様を眺める。
酒は、祈りを妨げ、人を悪魔たらしめる。聖典ハーンの言葉だ。だから、一般的なディーダム教徒は、酒を飲まない。
しかし、いわゆる無明の時代から、酒はあったわけで、その誘惑は断ち切りがたいものらしい。酩酊しなければいいと解釈し、楽しむ者は一定数いた。
それでも、あの酒好きなベフナームでさえ、宴席でなければ、昼間から飲んだりしない。量も、数杯嗜む程度だ。こんなふうに茶のようにあおって、大丈夫なのだろうか。
「――さあ、どうぞ、ご遠慮なく、お召し上がりください」
顔色ひとつ変えず、外帝将が料理を指し示す。
まがりなりにも、大陸を代表する国の外交官なのだ。心配することではなかったと、気を取り直して、汁物の椀に右手を伸ばす。
(……薄い……?)
野菜と肉の味はある。香草の風味もする。しかし、何かが物足りなかった。
慣れていない味だからかと、もう一品を口にしてみても、やはり食べている心地になれなかった。
よく言えば素朴な――忌憚なく評してしまえば、全体的に大味だった。
香辛料の産地は、マタラムやファールサ、ヒンドゥシュといった、比較的暑い地域に集中している。夏でも涼しいというノールでは、味の幅が制限されるのだろう。
「いかがですかな、北方の味は」
「野趣溢れるお味で――さすがは、戦士の国と名高い帝国の料理でございますね」
大きな膝を叩き、呵々と笑う声。
三つ編みにした顎髭をしごきながら、灰色の瞳が笑みを深める。
「なるほど、言い得て妙ですな。青薔薇様は、褒め上手と見える」
角杯を一息に煽り、武骨な手が肉を掴む。あっという間に噛み砕いて飲み込むと、穏やかな口調が語り出した。
「南方で生まれ育った方からすれば、質素でございましょう。私も、故郷に帰る度に、刺激に慣れた舌を戻すのに、苦労いたします」
一年のほぼ半分が雪に閉ざされる、厳しい土地。父祖が生まれ、追われた国。
「しかし、それが、ノールの地で生きるということ。そして、貧しくも美しい郷里を守ることこそ、我が務め」
灰色の瞳が、強い光を宿す。鋭い刃のような真摯な色に、背筋が伸びる。
「信仰に反して、ご決断し、ここまで昇られたこと、深く感謝いたします、ステノゴ王子」
訛りの少ないヤワ語。
はっと、給仕の婦人達に視線をやる。ノールの音色が、穏やかに語る。
「こちらにいる者は皆、我が腹心の妻達にございます。――古くは、長い航海に出る夫の代わりに家を守るのが、妻の務め。スティンヴァーリという大きな家に、身命を尽くすと誓った、心強い主婦達です」
色とりどりの瞳が優しく微笑み、恭しく礼をする。不意に、供物をつくる女達が、心に浮かぶ。
鮮烈な色の花々。艶やかな葉の緑。おしゃべりする、賑やかな笑い声。
その傍らで、幼い弟や妹、甥や姪達を、姉とスクワト、近習達と、あやして遊んでいた。
「やはり、女達がいるというのは、よいものですね――」
金灰色の髭面が、にっこりと笑む。
角杯を掲げ、深みのある低い声が告げる。
「――さて、南洋の思い出を語りたくはございますが、話すべきことは山ほどある。全てが終わってからの楽しみとしましょう」
杯を持ち、軽く合わせる。硬く澄んだ音が、高く鳴り響いた。
*
ファールサ暦二二七年一月二日。
茫然と、対面の敷き綿を見つめる。今しがた語られた言葉が、反響しながら、頭を巡る。
ステノゴは、確かに覚えていた。
五年間、離れていたとは思えないほどに、自然な話しぶり。
しかし、告げられた内容は、冷たく残酷なものだった。
姉が、自害した。ステノゴの、目の前で。王〈シャー〉の子を孕んだまま、露台から、飛び降りて。
病死などではなかった。
たとえ遺体を取り返し、火葬しても、魂は浄化されない。輪廻は絶たれて悪鬼となり、このファールサの地に留まり続けるのだ。
(……だからといって……だからといって……)
そっと、肩に手が置かれる。慮る声が、背後から降ってくる。
「バガワド様。どうか、お気を確かに」
身体の奥底から、ぶるぶると、震えが湧き上がる。絞り出すように、腹の中から呻きがこぼれる。
「……返せ」
姉が悲観し、弟が悪行に堕とされ、妻が辱められ、家族が殺された。
元はといえば、それは、誰のせいだったか。
「返せよ! 全部、全部ッ! 貴様のせいだ、外帝将! 戦士隊が敗れていなければ、こんなことにはならなかった! 皆、無事に、生きていたはずなのに!」
冷えきった、緑の瞳。淡々と語る声。
――スセハト兄上。僕は、島に帰るつもりはありません。いいえ、帰れないのです。僕のために身を投じた姉上を、一人にはできませんから。
「返せ! 返せよ……! みんなっ! みんな!」
何もかもが遅かった。あの日、すでに、全ては手遅れだったのだ。
――どうか、お元気で。
敷物に両手をつき、深く額づく、あの頃と変わらない振る舞い。そして、立ち上がりながら、腰を揺らめかす、なまめかしい所作。
もはや、取り返しはつかないのだ。
分厚い胸板を、ひたすらに拳で叩く。びくともしない体躯。
肩に武骨な手が乗って、静かな声が告げる。
「……深い縁がありながら、皆様をお守りできず――申し開きのしようもございません」
こらえてきつく寄る眉間。滲んで揺れる、灰色の瞳。マタラムに渡ってくる度に、山に登り、訪ねてきてくれた。
全てが抜けて、崩れ落ちる。かすんだ闇。
覚悟を決めた、その行く道を思う。
――死へと続く、その道を。
「ステノゴ……! ステノゴ! あああぁ――ッ!」




