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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第五章 青き大輪
22/22

業火

 瞼を開けると、見知らぬ景色が広がっていた。起き抜けのぼんやりとした思考で、おぼろげに思う。

(……そうだ――昨日、青玉の間に、移ったんだった……)

 ノウルーズに入れば、引っ越しどころではなくなる。

 そういう事情で、十二月末日、緑玉の間からの移転を完了したのだった。

 おもむろに上体を起こせば、様々な色合いの青が、目に飛び込んでくる。壁や床を彩る絨毯は、どれも一流の職人が織り上げた、絹の一級品だ。

 居室の広さも、緑玉の間とは段違いで、マタラムから届いた調度品の数々も、余裕をもって収められた。

 ファールサの色彩とマタラムの品々。

 ふたつの文化が共存する不思議な光景だけは、これまでと変わらない。

 時機を見計らったように、侍童の通用口から、朝を告げる声が聞こえる。振り見れば、ゆっくりと扉が開き、スヌンゴが現れた。

 濃茶色の瞳が、朝日に輝いて、優しく微笑む。

「――お目覚めでいらっしゃいましたか」

 頷いて、毛織物の上掛けをはぐる。

 スヌンゴは寝台の傍らに座ると、恭しく礼をした。

「新年、誠におめでとうございます。つつがなくこの年を迎えられましたこと、心よりお慶び申し上げます」

「新年おめでとう。今年もよろしくね、スヌンゴ」

「お心安くお過ごしいただけますよう、誠心誠意お仕え申し上げます」

 黄褐色の顔が上がり、ひたと目が合う。

 固い意志の宿った色。しっかりと、目顔で頷く。

〈花見〉のない夜、そして年末の二日間で、スヌンゴには全てを話してきた。供として知るべきことと――その、裏の事情も。

 寵童では立ち入りづらい場所にも、侍童の身分なら、難なく出入りできる。宮殿内を走っても、周囲は火急の遣いだと解釈してくれる。頼らない手はなかった。

 差し出された櫛を受け取り、軽く髪を整える。

 正面口で呼びかける、侍童の声。朝食の給仕達だ。

 立って行くスヌンゴを見届け、羽織を引っかけると、食事の絨毯へと足を向けた。


「王〈シャー〉より、最上寵童の証にございます」

 一番年長の侍童が、恭しく小箱を掲げる。

 青玉のはめ込まれた蓋が開けば、新春の朝日を浴びて、耳飾りが燦然と光を放った。

 図案化された青薔薇を中心に、青玉が散りばめられた意匠。

 緑玉、紅玉、黄玉のいずれとも異なる、ひときわ洗練された品格に、その意味の重さを実感する。

 緑玉の耳飾りを外し、スヌンゴの構えた箱の中に収める。そして、丁重に一礼すると、青い証に手を伸ばした。

 耳朶の穴に金具を通し、顔を上げる。誰からともなく、感嘆の声が漏れる。

「ああ、なんて、お美しい……」

 威厳をもって、淡く微笑む。侍童達が、一斉に(こうべ)を垂れる。

「最上寵童におなりになりました由、誠にお慶び申し上げます、青薔薇様」

「ありがとう。これも、皆がよく仕えてくれたおかげです。今後も、よろしく頼みます」

 定型ながらも、丁重な返答。見渡して、しっかりと頷く。

 スヌンゴの出発を促す声。数々の重い装飾品に負けないよう、腹にこめて、確かに立ち上がった。


 帽子を飾る金細工が、さらさらと鳴る。薄絹がたなびき、絢爛な刺繍の長い裾が翻る。腕を伸ばして手首をしならせ、腰をあでやかに揺らめかす。

 バルバット(卵型の弦楽器)の哀愁漂う硬質な音色。よく鍛えられた、歌い手の伸びやかな声。

〈薔薇の宮〉出身の一流の楽人達による演奏を背景に、くるくると舞い踊る。

 重量のある衣装に振り回されないよう注意しつつも、賓客の面々に気を配る。

 ターング、ヒンドゥシュ、スティンヴァーリ。そして、マタラム支庁の高官と兄のスセハト。

 この日のために、新しく詩をつくった。そこに曲がつけられ、今、奏でられている。

 どんな思いで、兄は、この歌を聴いているのだろう。

 王〈シャー〉に出会えた喜びを、神ホダーに感謝し、咲くことを幸せだと祝う、この詩を。色香を纏って舞う、この姿を。

 見てほしくなどなかった。プマンクである兄にだけは、知ってほしくなかったのに。

 演奏が終盤に入る。腹に力をこめ、肋骨をより一層引き込む。右に、左に、回転しながら移動する。

 裾が円形に広がり、金糸に銀糸、様々な色彩の刺繍と金細工が、新春の陽光にきらめく。視界の端で、青薔薇が、鮮烈に輝いた。

 決めの姿勢を取り、おもむろに座す。

 深く礼をすると、盛大な拍手が青空を突き抜けた。

 ばくばくと鳴り響く鼓動。

 安堵に、ほっと溜息をつく。最初の掴みは上々だ。

 中継ぎの余興と締めの二差しが残っているが、どちらも定番の曲で短い。ひとつの山は越えたといっていいだろう。

 ベフナームの隣にしつらえられた席につく。

 感嘆し、黒い髭面が満足げに笑む。

「何度観ても、そちの舞いは、まっこと素晴らしいものよ、シャーグル。ようやく、この喜びを、皆にも堪能させることができたよのう」

「慕わしいベフナーム様。この日を、どれほど待ちわびたでしょう。こうして公に、あなた様の隣を温められるなんて、夢のようでございます」

 胸に両手を当て、目を潤ませる。差し出された丸い手に手を重ね、肥えた腕に添う。

 最上寵童は、すなわち正后。仲睦まじい姿を示すことは、大切な務めのひとつだった。それがたとえ、二人の――正后と最上寵童の本心でなかったとしても。

 ひとつ下座の青年を見遣る。

 宴の初め、ファルジャードは、太子パルヴィーズとラフバル家の三男の長女との婚約を発表した。

 堂々と所信を表明し、ファールサのために尽くすと誓ったものの、もはや誰も注目していない。どれほど繕ったところで、宰相の意図は、透けて見えるというものだ。

 そして、メフルダードも、手をこまねいていたわけではない。

 ファールサ人でないとして弾圧されてきた、改宗者と異教徒。メフルダードの力を削ぐために左遷させられた、軍の高官達。ファールサ人官吏に統一すると称して罷免された、現地の行政官達。

 ファルジャードに怨恨を持つ者は、大勢いる。

 そこに、メフルダードは、寛大な融和政策を打ち出し、多様なファールサの旗印となった。

 共感は、水面下で瞬く間に広がり、軍勢は、かなりの規模になっていると聞く。

 太守〈アミール〉か、宰相か。一見めでたく華やかな新年祭は、その実、腹の探り合いによる戦場だった。

 もちろん、油断はならない。ただ、負けるとは思えなかった。

(……宰相は、やり過ぎた――)

 大陸は広大だ。その中で、伝統的なファールサ人の数は、ほんの一握りしかいない。

 ディーダム教という信仰さえあれば、身内となる緩やかさ。それこそ、ファールサの強さだ。

 しかし、黎明期のディーダム教を国教としたホルシード家は、それに気づかず、反乱によって倒された。

 そして、あらゆる民族を味方につけ、王〈シャー〉となったマフターブ家が今、歴史を繰り返そうとしている。

 ラフバル家という、いにしえからの血筋に手を引かれて。

 王〈シャー〉の親族の席。腹違いの弟達とともに、茶と料理を楽しむ、勇壮な姿。

 もし、ファールサが小国なら、滅亡も望んだだろう。しかし、大陸の交易の要石が吹き飛べば、マタラムも無事ではいられない。

 ナスリーンの妄執にも近い思慕。カースィムの必死の忠告。スクワトの病死の記録。

(人柄を知ったところで、選べはしない。けれど――)

 あの美しい常夏の国の平安を、素朴で優しい島民の安寧を信じて、逝きたかった。

 楽士の演奏が一区切りする。

 ベフナームに、挨拶回りをしてくると告げて、席を立った。


 *


 ファールサ暦二二七年一月一日。

「マタラム現地代表殿。本日は、遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」

 声変わりを終えた少年の声が、丁重に挨拶する。

 上体を起こしたその顔は、紛れもなく、弟のステノゴだった。

 化粧を塗りたくられた、あどけなさの残る面立ち。目の痛いほどに華美な、衣装と装飾品。なまめかしい身のこなし。

 遠目でも異様だったが、近くで見ると、うすら寒さが背筋を這い上った。苛まれてきた歳月を、まざまざと思い知る。

 装った顔に、貼りついた笑みが浮かぶ。

「マタラムでは、牛を食すことは禁忌であると、伺っております。お出ししたお料理は、全て各国と各地域に合わせて、つくらせております。お楽しみいただけましたら、幸いでございます」

 なめらかなファールサ語。そして、ファールサ式の敬礼。

 故郷など、忘れ去ったというのか。

「それでは、どうぞ、ごゆるりとお過ごしくださいませ」

 おもむろに上がる腰。

 気がつけば、手首を掴んで叫んでいた。

「――ステノゴッ!」

 緑の瞳が、はっと見開く。微かに揺れる色。

 ここまで来たのだ。放すものかと、きつく握り締めて、言葉を繋ぐ。

「帰ってこい! もう、こんなことはしなくていいんだ!」

 息を呑む、微かな音。

 忘れてなどいない。忘れるはずがないのだ。

「私と一緒に帰ろう! 君は幼かった! きっと、シワもお赦しくださる! だから」

「――バガワド様、そこまでです。お控えなされよ」

 肩に乗る、重厚な熱。

 振り返れば、外帝将の険しい顔があった。かっと、一息に血が上る。

「元はといえば、貴様が……!」

 するりと感触が抜けて、視線を戻す。

 距離を取って座り直し、困惑した表情が告げる。

「失礼ながら――ヤワ語……でしょうか?」

 やはり覚えているのだ。ワルナ(カースト)と間柄に則した語形も、全て。ならば、話せないはずがない。

 口を開きかけて、しかし、澱みないファールサ語に阻まれる。

「誠に申し訳ございません。大陸の主要な言葉以外は、履修しておりませんもので――」

 それでは、と再び一礼して、華美な姿が立ち上がる。捕まえようとして、大きな重みに引き戻される。

「放せ、外帝将ッ! ――ステノゴ! 戻ってこい! ステノゴッ!」

「おやめなさい! 弟御の命を危うくするおつもりか!」

 憤りに燃え立つ灰色の目。

 気圧されて、喉が詰まる。理不尽な思いが胸に湧き立つ。

 そもそも、ステノゴを政の道具に仕立てたのは、スティンヴァーリではなかったか。助けを求めたのに、裏切ったのは、外帝将ではなかったか。

 睨み据えると、金灰色の眉が、わずかに下がる。

 しかし、ファールサ語に切り替えてから、平静な口調で告げた。

「明日、外帝将館で、青薔薇様と懇親の会があります。時間になりましたら、ご滞在先に、遣いの者を寄越しますので」

 意図を悟って、浮いていた腰を下ろす。おもむろに、肩から手が離れていく。

 座り直し、宴に興じる会場を見渡す。対面で、賓客と談笑する姿があった。

 酔った男達に酌をし、媚びを売る、そのなまめかしい所作。

(必ず、連れ帰ってみせる――ステノゴ)

 もう何ものも奪わせないと、固く誓って、忌まわしい景色を見つめた。


 *


 胸が痛い。息が詰まって、苦しかった。

 寝なければと思うのに、意識は冴えるばかりだ。

 明日は、スティンヴァーリの外帝将との会食に始まり、ターングやヒンドゥシュの外交官と懇談する予定だった。明後日も、中央庁と地方庁の高官達と、宴席がある。こんな初日に、寝不足になっている場合ではなかった。

 それなのに、瞼を閉じれば、兄の顔が浮かんだ。

 鬼のような形相。

 温厚で調和を重んじ、声を荒げることなど、決してなかった。それが、あれほどに激するなんて。経てきた年月を思う。

 きっと、義姉(あね)のスアングティは、無事ではなかったのだろう。出産した男児の父親は、ファールサ人だったにちがいない。

 兄の声が、心の内で反響する。

 同等のワルナで、親しい者や年下の家族に語る時の、ンゴコ体。

 マタラム人は、言葉を話し始める幼子の頃から、徹底的に使い分けをしつけられる。忘れるわけがない。

(……そういえば――ジャハーンも、ンゴコで話すっけ……)

 察するに平民の出だから、ずいぶんと不敬である。

 ただ、耳にするのは、いつも苦しい時だったから、あまり気にしていなかった。

 親が幼い我が子に話しかける時も、ンゴコ体だ。

 故郷の近しい者を思えるように、という願いがこめられている――とは、考えすぎだろうか。

 低く囁く、静かな歌声。心に満たせば、安心感が広がっていく。異国の、しかもファールサ人のはずなのに、不思議なものだ。

 一方で、明日は、故郷の最たる人を苦しめに行く。

 スティンヴァーリの領事が長を務める、外帝将館。その使者が、予定の変更を申し出てきた。同席者が一人、途中で増えるというのだ。

 兄の気が収まるように、外帝将が配慮してくれたのだろう。

 心丈夫になるはずだと、外帝将館を通じて、事前に世話を頼んだかいがあった。宴でも、もし隣にいてくれなかったら、もっと大事(おおごと)になっていたはずだ。

 心配するベフナームには、怒鳴られて怖かったと、目を潤ませれば済んだ。しかし、これ以上、他の来賓の前で、事を荒立てるわけにはいかない。

 完膚なきまでに心を砕き、諦めてもらうには――。

 兄は、姉のスムナリにも、優しかった。

 十歳も離れていて、一緒に暮らしたことはないから、事情は詳しく知らないが、他の家族と違い、思うところがあるようだった。

(……僕は、また……家族を失うのか……)

 生き残った、おそらく唯一の肉親を、絶望に突き落とすのだ。

 潰してしまった蝶の、小さな棺。魂の平和を願い、一心に読経する、兄の真摯な声。

 さざ波に溶け込むような音色を、心に聴きながら、ゆっくりと瞼を閉じた。


「ようこそ、我が館へ。歓迎いたしますよ」

 よく晴れた新春の青空に、明るく重厚な声が響く。

 大仰に腕を広げた姿。その頑健な景色に圧倒される。最後に会った頃より、背丈はずいぶん伸びたのに、今見ても、ひたすらに大きい。

 ノール式に右手を差し出し、にこやかに返答する。

「お招きいただき、誠にありがとうございます、外帝将閣下」

 灰色の瞳が瞬き、掘りの深い顔に、豪快な笑みが広がる。

「さすがは青薔薇様。ノール語もご堪能とは。――しかし、ここはファールサ。お気持ちだけ、受け取っておきましょう」

 がっしりとした手に、固く握られる。案内を受け、中へと入っていく。

 ファールサ式の中庭のある館。しかし、柱や建具のそこここに、あまり見かけない意匠が彫られていた。

 狼と(からす)に馬、大蛇、大樹――ノール神話に登場する、様々な動植物。

 ディーダム教は偶像崇拝を禁じているから、抽象的な図案が基本だ。

 建築様式は気候に合わせても、ノール人ならではのこだわりが感じられた。

 枠に紋様をひときわ施した扉の前に着くと、奥へと通された。広がる景色に、思わず感嘆の声を漏らす。

 鮮やかな色彩の壁掛け。

 ぐるりと見渡せば、ひとつの物語になっているようだった。

 躍動する、数多の戦士達。大柄な馬に乗り、果敢に攻め入る将。

 これほど長大な毛織物を、この精度で織り上げるには、相当な時と技が必要だろう。

「これは、見事ですね――」

「恐れ入ります。こちらに赴任する戦士の妻達が、代々織り継いできたものにございます」

 さあ、と促されて、奥へと進む。

 ノールの品なのだろう。見慣れない柄の毛織の敷物が、床一面に広がっていた。

 その上にしつらえられた、食事の揃え。手で示されて、席につく。

 外帝将が敷き綿の上にあぐらで座ると、後ろで控えていた女人が、恭しく礼をして下がっていった。

 ほどなくして、料理の載った盆を手に、女達が入ってくる。

 一人分の食事用の敷物の上に、次々と、湯気の立った品が供される。

 大ぶりの野菜と肉が浮かぶ汁物。肉と香草を練った団子と、野菜の炒め物。季節の果物の盛り合わせ。そして、おそらくノール式の、ナーン(パン)とパニール(チーズ)。

 何より目を引くのが、中央を飾るように、大皿にどんと置かれた、塊の肉だ。

 これを二人で、どうやって食べるというのか。一通りの食文化と作法は学んできたが、この展開は予想外だった。

 戸惑っていると、給仕の一人が、皿の傍らに座った。

 二振りの小刀で、器用に切り分けられていく塊。

 一口大になった肉が、数切れ揃えられて、刃の腹に載る。そして、皿というべきか、模様の彫られた板に盛りつけられた。

「おかわりが必要でございましたら、また、お切りいたします」

「はい、ありがとうございます」

 白い顔が、上品な笑みを浮かべる。同じように、外帝将にも肉を給仕すると、しとやかに下がっていった。

 外帝将が、角杯を取り上げて、豪快に宣言する。

「まあ、まずは、乾杯といきましょう」

 硝子の杯を掲げ、かけ声を放つ。

 口をつければ、よく知った茶の香りが、鼻を抜けていった。

 威勢のいい溜め息。給仕が、もう二杯目を注いでいる。それをまた、大きく一飲み。

 唖然として、大きく隆起した喉頭が上下する様を眺める。

 酒は、祈りを妨げ、人を悪魔たらしめる。聖典ハーンの言葉だ。だから、一般的なディーダム教徒は、酒を飲まない。

 しかし、いわゆる無明の時代から、酒はあったわけで、その誘惑は断ち切りがたいものらしい。酩酊しなければいいと解釈し、楽しむ者は一定数いた。

 それでも、あの酒好きなベフナームでさえ、宴席でなければ、昼間から飲んだりしない。量も、数杯嗜む程度だ。こんなふうに茶のようにあおって、大丈夫なのだろうか。

「――さあ、どうぞ、ご遠慮なく、お召し上がりください」

 顔色ひとつ変えず、外帝将が料理を指し示す。

 まがりなりにも、大陸を代表する国の外交官なのだ。心配することではなかったと、気を取り直して、汁物の椀に右手を伸ばす。

(……薄い……?)

 野菜と肉の味はある。香草の風味もする。しかし、何かが物足りなかった。

 慣れていない味だからかと、もう一品を口にしてみても、やはり食べている心地になれなかった。

 よく言えば素朴な――忌憚なく評してしまえば、全体的に大味だった。

 香辛料の産地は、マタラムやファールサ、ヒンドゥシュといった、比較的暑い地域に集中している。夏でも涼しいというノールでは、味の幅が制限されるのだろう。

「いかがですかな、北方の味は」

「野趣溢れるお味で――さすがは、戦士の国と名高い帝国の料理でございますね」

 大きな膝を叩き、呵々と笑う声。

 三つ編みにした顎髭をしごきながら、灰色の瞳が笑みを深める。

「なるほど、言い得て妙ですな。青薔薇様は、褒め上手と見える」

 角杯を一息に煽り、武骨な手が肉を掴む。あっという間に噛み砕いて飲み込むと、穏やかな口調が語り出した。

「南方で生まれ育った方からすれば、質素でございましょう。私も、故郷(くに)に帰る度に、刺激に慣れた舌を戻すのに、苦労いたします」

 一年のほぼ半分が雪に閉ざされる、厳しい土地。父祖が生まれ、追われた国。

「しかし、それが、ノールの地で生きるということ。そして、貧しくも美しい郷里(さと)を守ることこそ、我が務め」

 灰色の瞳が、強い光を宿す。鋭い刃のような真摯な色に、背筋が伸びる。

「信仰に反して、ご決断し、ここまで昇られたこと、深く感謝いたします、ステノゴ王子」

 訛りの少ないヤワ語。

 はっと、給仕の婦人達に視線をやる。ノールの音色が、穏やかに語る。

「こちらにいる者は皆、我が腹心の妻達にございます。――古くは、長い航海に出る夫の代わりに家を守るのが、妻の務め。スティンヴァーリという大きな家に、身命を尽くすと誓った、心強い主婦達です」

 色とりどりの瞳が優しく微笑み、恭しく礼をする。不意に、供物をつくる女達が、心に浮かぶ。

 鮮烈な色の花々。艶やかな葉の緑。おしゃべりする、賑やかな笑い声。

 その傍らで、幼い弟や妹、甥や姪達を、姉とスクワト、近習達と、あやして遊んでいた。

「やはり、女達がいるというのは、よいものですね――」

 金灰色の髭面が、にっこりと笑む。

 角杯を掲げ、深みのある低い声が告げる。

「――さて、南洋の思い出を語りたくはございますが、話すべきことは山ほどある。全てが終わってからの楽しみとしましょう」

 杯を持ち、軽く合わせる。硬く澄んだ音が、高く鳴り響いた。


 *


 ファールサ暦二二七年一月二日。

 茫然と、対面の敷き綿を見つめる。今しがた語られた言葉が、反響しながら、頭を巡る。

 ステノゴは、確かに覚えていた。

 五年間、離れていたとは思えないほどに、自然な話しぶり。

 しかし、告げられた内容は、冷たく残酷なものだった。

 姉が、自害した。ステノゴの、目の前で。王〈シャー〉の子を孕んだまま、露台から、飛び降りて。

 病死などではなかった。

 たとえ遺体を取り返し、火葬しても、魂は浄化されない。輪廻は絶たれて悪鬼となり、このファールサの地に留まり続けるのだ。

(……だからといって……だからといって……)

 そっと、肩に手が置かれる。慮る声が、背後から降ってくる。

「バガワド様。どうか、お気を確かに」

 身体の奥底から、ぶるぶると、震えが湧き上がる。絞り出すように、腹の中から呻きがこぼれる。

「……返せ」

 姉が悲観し、弟が悪行に堕とされ、妻が辱められ、家族が殺された。

 元はといえば、それは、誰のせいだったか。

「返せよ! 全部、全部ッ! 貴様のせいだ、外帝将! 戦士隊が敗れていなければ、こんなことにはならなかった! 皆、無事に、生きていたはずなのに!」

 冷えきった、緑の瞳。淡々と語る声。

 ――スセハト兄上。僕は、島に帰るつもりはありません。いいえ、帰れないのです。僕のために身を投じた姉上を、一人にはできませんから。

「返せ! 返せよ……! みんなっ! みんな!」

 何もかもが遅かった。あの日、すでに、全ては手遅れだったのだ。

 ――どうか、お元気で。

 敷物に両手をつき、深く(ぬか)づく、あの頃と変わらない振る舞い。そして、立ち上がりながら、腰を揺らめかす、なまめかしい所作。

 もはや、取り返しはつかないのだ。

 分厚い胸板を、ひたすらに拳で叩く。びくともしない体躯。

 肩に武骨な手が乗って、静かな声が告げる。

「……深い縁がありながら、皆様をお守りできず――申し開きのしようもございません」

 こらえてきつく寄る眉間。滲んで揺れる、灰色の瞳。マタラムに渡ってくる度に、山に登り、訪ねてきてくれた。

 全てが抜けて、崩れ落ちる。かすんだ闇。

 覚悟を決めた、その行く道を思う。

 ――死へと続く、その道を。

「ステノゴ……! ステノゴ! あああぁ――ッ!」

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