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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第五章 青き大輪
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「お初にお目にかかります、緑玉様。黄玉の寵童、ラーミン・エスファンド・ザルドと申します。未熟者にて、いたらぬ点は多いかとぞんじますが、なにとぞ、よろしくお願い申し上げます」

 初夏の日差しに透ける、焦茶色の髪。

 定型の挨拶を返すと、おもむろに上体が起きる。淡褐色の瞳が、緑に茶にと、とりどりに色を変える。

 その、敵意を隠しきれない幼さ。昨年の末に、十歳になったばかりだと聞いた。

 ちょうど、ファールサに連れてこられた時と、同じ年頃。

 当然、〈蕾開き〉と〈植えつけ〉を終えてきたのだ。あどけない面立ちに、その残酷さを思う。

 しかし、思い通りにさせる気は、毛頭なかった。

 昨日、薔薇局での手続きが無事に済み、外出できるようになった。印璽庁に限られるものの、大きな成果だった。

 これで、存分に、政の記録を調査できる。もしかしたら、皆の消息も、わかるかもしれない。ベフナームの関心を、みすみす明け渡すわけにはいかなかった。

 扉の向こうで、訪いを告げる声が響く。

 紅玉の寵童付きの侍童だ。一時(いっとき)も返事を待たず、アフシンの元気な声が抜けてくる。

「兄上ーっ! 早くしないと、遅刻しちゃいますよー!」

 応対のために立って行く、スヌンゴの背中。

 足取りに、いささか苛立ちが滲んでいて、内心苦笑する。

 同じように、礼を失していると感じたのだろう。ラーミンが、苦虫を噛み潰したような顔になる。心の引いた声が呟く。

「……紅玉様には、ごあいさつにうかがうと、お伝えしていたはずでございますが……」

 アフシンのことだ。一緒に登院するなら、向かいながら話した方が早いと考えたのだろう。

 澱みなくとめどないおしゃべりに圧倒される様子が想像されて、今からもう、おかしかった。

 湧き上がる笑いを噛み殺して、穏やかに促す。

「紅玉様は、とても明るい方。頓着なく行動しますから――さあ、ぼく達も行きましょう」

 はっとして、居住まいを正す姿。

 一礼に微笑んで頷き、ゆっくりと腰を上げた。


 *


 ソル暦二五四年八月下旬。

 報告を話し終え、内帝将が口を閉じる。ソールヴァルドを送り出すために、外帝将を割いた矢先に、まったく頭の痛いことだ。

 ファールサに木炭を横流ししている、違法な商人がいる。

 ただの噂なら、まだ救いがあるが、スコーグヘスト家の分家筋に属する、有力な商家からの情報なのだ。間違いようがない。

 溜め息をつきそうなところを抑えて、平静に問う。

「販路はわからないんだな?」

「奴らも、馬鹿ではございません。相応の手間と時間をかけているでしょう」

 つまり、こちらは、それに上回る戦力を割かなければならない。

 短い夏は過ぎつつあり、秋はもう目前だ。せめて春だったらと、つい、詮のないことを考えてしまう。

「ならば、まずは、経路の特定からだな。――専属の隊を編成し、事に当たらせろ。スピユットの団長やスコーグの当主と協力し、速やかに調査を進めてくれ」

「――は。承知いたしました、陛下」

 内帝将が、深々と頭を下げる。すかさず立ち上がって辞する背中を見送って、ようやく溜め息をついた。


 *


 秋の盛りの涼やかな夜気の中、バルバット(卵型の弦楽器)の澄んだ音色が、ぽつりぽつりと紡がれる。

 何かの曲を語るわけでもなく、手遊(てすさ)びに爪弾かれる、音の粒。星の瞬きのような響きは、それだけで心地よかった。

 ふと、頭頂に乗った重みが身じろぐ。

 夜の静けさを邪魔しないよう、ひそめた声が囁く。

「……兄上。抱きしめても、いいですか?」

「いいよ……?」

 今日一日、二人きりで過ごしてきたのだ。わざわざ尋ねなくてもいいのに、律儀なところがいじらしく、いとおしかった。

 寄り添っていた体勢を変え、温かな胸に収まる。背中に腕を回して抱き返せば、耳に額にと、柔らかな口づけが降ってくる。

 顔中に――許した限りの場所に、一心に唇を受けて、また抱き締められる。

 強く、きつく、互いの鼓動が、溶け合うほどに。

 淡く苦笑をこぼして、金色の頭を振り見る。

「アフシンってば、そんなに力を入れたら、痛いよ」

「……あさっては――兄上の、誕生日ですから……」

 確かにそうだが、何が変わるわけでもない。

 ファールサでは、十五歳はひとつの区切りだから、特別に祝うが、それだけだ。

「もう、本当に、どうしたの? また、いつでも遊べるのに」

 今日の様子は、いつもの明るさを欠いていた。

 まるで、今生の別れのように、時を惜しむ態度。

 印璽庁の調査を取りやめたのも、どうしても一緒に休日を過ごしたいと、懇願されたからだ。

 このメフリガーンで、最上寵童の授与と関税の廃止が発表された。

 披露目まで、もう間がないのに、とも思ったが、こうして過ごすと、休息を欲していたのだと実感する。

 離したくないと伝わるほどに、きつく抱き締めるぬくもり。

 少しの柔らかい痛みも、だんだん心地よくなってきて、うとうとと微睡む。そっと、真摯な切ない声が、鼓膜を震わせる。

「好きです、兄上……何があっても、どんなことが起きても――ずっと……ずっと――」

「……うん、アフシン――ぼくの、かわいい弟……」

 額をつけ、鼻をすり寄せる。

 温かな微睡みにくるまれながら、清らかな青い瞳を見つめた。


 *


 ファールサ暦二二六年九月二十日。

「やれやれ、やっと着いたぞ」

「ああ! 久しぶりの、我らが美しき都〈シャフリカシャン〉だ!」

 長らく沈黙に沈んでいた最中(さなか)の話し声に、顔を上げる。

 まだまだ遠くではあるが、進む先に、街らしき影があった。寒さに強ばった目を見開いて、なんとか視認する。

 くすんだ雪原を前景に浮かぶ、薄茶色の大きな塊。王都シャフリカシャンの円城だ。

 スメラティに家の管理を、スアングティに娘達を託し、最上寵童に贈る品とともに、カラトゥアンを出発したのが、サカ暦のカリマ(五番目)の月の半ば。

 約一ヵ月半の旅を経て、ようやくたどり着いたのだ。

(やっと――ああ、やっとだ!)

 達成感にも似た高揚は、しかし、あっという間に砕け散った。

 近づき、間近に迫った街並み。そびえる偉容に茫然とする。

 城壁は、想像よりも、遥か高くにそそり立っていた。上部から突き出した木製の装置が、明らかに重量のある荷物を、苦もなく吊り上げていく。

 その、圧倒的な技術の高さ。うすら寒さに息を呑む。

 肩を叩かれ、思わず飛び跳ねる。赤い渋面が、侮った口調で告げる。

「降りろ。お前はここまでだ」

 想定外の言葉に戸惑う。

 門の前には、複数の兵士が立ち、通行人を改めている。

 どう見ても、この先が円城の中だった。そして、〈薔薇の宮〉は宮殿の裏手――この城門を通った先にある。

「私は、王〈シャー〉に会うために来た。どうして、入れないのか?」

 ふん、と髭面が鼻で笑う。手首を引っ掴まれ、力任せに引きずられる。

 迫りくる、灰色の雪面。とっさについた左手に、鋭い痛みが走る。睨み上げると、嘲る呆れが降ってくる。

「未開の異教徒ごときが、円城内で休めるとでも? 馬鹿を言うな」

 乱雑に、右手を投げつけられる。まともに食らって、胸が詰まる。背を丸めて喘ぎながら、身勝手に進む会話を聞く。

「おい。居住区まで案内してやれ。――に迷い込まれたら、さすがにまずい」

「いやあ、大丈夫ですよ。だって、確か――」

 顎を掴まれ、上向かせられる。

 粘りつく眼差し。得心した色が、年若い髭面に広がっていく。

「ああ――ええ、そうですね、隊長。さすがのお目です。どうせなら、一射(ひとう)ち、やっておけばよかった」

「道中、手を出すなよ。一応、王〈シャー〉のご賓客、だからな」

 にやついた声が、承知の意を告げる。肘を掴まれ、ひねり上げられる。

「さあ、立て。それとも――このまま、〈――〉するか?」

 げらげらと、卑猥な笑いが耳を刺す。

 大きく息を吸って唾を呑み、なんとか立ち上がる。

 雪で濡れた下衣から、冷たさが、しんしんと這い上ってくる。

 ファールサ式の衣と分厚い毛織の外套を着こんでいるとはいえ、寒くてたまらなかった。シヤーザミーン港で貸し与えられなければ、凍え死んでいただろう。

 旅の荷物を押しつけられ、転げそうになる。

 見かねた兵士隊長が、他の何人かに指示を出す。

 ぶつくさと、それでも(とう)の鞄や籠を抱える様を、悄然と眺める。その中で、金褐色の髭の兵士が寄ってきて、そっと耳打ちする。

「これから、マタラム人居住区の寺院にお連れします。いつもより、小さい歩幅で進んでください。そうすれば、転びにくくなりますから」

 丈の高い顔を仰げば、金色の瞳と目が合った。その、慮る色。

 震える心地で頷き、促される通り、案内する方へと、ついていった。


 *


 分厚い唇が、降ってくる。割って入った舌の、絡みつく動作に合わせて、淫らな息をこぼす。

 背筋を伝っていく官能。弓が硬く熱を帯び、薔薇がねだってひくついた。

 怖気に心が震える。印璽庁で目にした記述が、頭を巡っていく。

 マタラム遠征の戦果と為政の報告書。名の羅列とともに、その後の消息が記されていた。

 そして、母達と義姉(あね)達の名の左に連なっていたのは、〈死亡〉の文字だった。

 どういう経緯で、亡くなったかはわからない。ただ、唯一生き残った義姉のスアングティは、戦いの直後に、男児を出産している。

 はたして、兄のスセハトの子なのか――女達が奪われたのは、命だけなのか。

 そして、愛の遊び〈エーシュキ・バーズィー〉の結果、メフルダードに連れていかれたスクワトは、本当に病死なのか。

 肉厚な舌が、ねっとりと、豆粒を舐め上げる。

 執拗にこね回す、太い指。意思に反して揺らめく腰のまま、たるんだ腹に、弓をすりつける。

 皆、死んでしまった。

 守れていると、願っていたはずの家族は皆、今生を終えていた。

 下衣と下着の紐が解かれ、素裸になる。もどかしいと言わんばかりに、腰を揺らめかす。肥えた影が、満足げに感嘆する。

 全ては無駄だった。

 ただただ穢れ、姉を悲しみに突き落とし、悪鬼への道を歩ませてしまった。

 あの日、あの時、あの瞬間、取り返しのつかない過ちを犯したのだ。

 弓をしごかれるままに悶え、白矢を射る。腰が浮き、不浄の場所に、熱を帯びた汚物が宛がわれる。

(……嫌だ……入って、こないで……)

 肉厚で熱い感触が、頬に乗る。

 ゆっくりと瞼を開けると、毛深い眉を下げた髭面があった。

「シャーグルよ。今宵は、何ぞあったのかの?」

 視界が輪郭を為し、現実を思い出す。

 散り散りになった思考を寄せ集め、取るべき選択をひねり出す。憐れじみた声で囁く。

「……昨日、印璽庁で、マタラムの記録を拝読したのです――そこで、母が亡くなっていたと、知りまして……」

 焦茶色の瞳が瞬く。悲哀に顔をたるませて、乞うような口調が問う。

「……わしが、憎いか?」

 静かに首を振る。手を重ね、ひたと見つめて、感じ入った声を出す。

「贈り物とされなければ、あなた様に出会うことは、決してございませんでした――咲く喜びを知らずに生きるなど、なんと不幸なことでしょう。まことに、運命とは、数奇なものにございます」

 スクワトの泣いた通り、あの時、ともに死んでいればよかった。

 そうすれば、火に浄められて輪廻し、いつかまた、皆に――母に、巡り逢えたかもしれないのに。

「母を亡くしたことは、もちろん悲しゅう存じます。――しかし、ベフナーム様。ぼくは今、これ以上ないほどに、幸せなのです。慕わしいあなた様に、存分に、愛でていただけるのでございますから」

「おお……シャーグルよ――我がいとしい小鳥よ……なんとのう……」

 感動に打ち震える声に微笑んで、掌に口づける。

 そうして、うつ伏せになると、尻を掴んで、高く突き出した。

「ああ、慕わしいベフナーム様。どうぞ賜りませ。あなた様の猛き弓を――矢筒の奥深く、熱き白矢を、数多に射てくださりませ」

「おお、おお、たんと射てやろうぞ。我が寵を、存分に受けるがよい」

 おもむろに、身体が広がっていく。悦楽に悶えているというように、枕を握り締め、目元に押しつけた。

 滲みそうになる声を、ひたすらに演じる。

(……母上……ごめんなさい、母上……ぼくは――)

 母はきっと、島民達の手で、正しく弔われただろう。しかし、この身が浄められることは、決してない。

 もう二度と、会う機会は巡ってこない。

 あれが、あの瞬間が、永遠の別れだったのだ。

 ひときわ強く、打ちつけられる。突き抜ける官能のまま、高く声を上げた。


 満悦しきって、轟々と響くいびき。悄然と、たるんだ髭面を眺める。

 宵闇に沈んでいた影が揺らめき、人の形を為す。緩慢に視線を向ければ、腕を広げた姿があった。

 静かな声が、問いかける。

「来るか、ステノゴ」

 途端、さざめく潮騒と紺碧の海が、鮮やかに心に弾ける。

 たまらず駆け寄り、その広い胸に飛び込む。確かなぬくもりが、しかと受け止めてくれる。

 抱えられ、膝の上に収まる。しっかりとした首に腕を回し、きつくしがみついた。耳元で、優しい声が緩やかに歌う。

 月を取ってきてと、幼子が母にせがむ歌。――母との思い出が、詰まった歌。

「……っ母上……! 母上えぇっ……!」

 柔らかに背中を叩く、指の長い手。静かに、穏やかに紡がれる、故郷の音色。もはや取り戻せない、常夏の日々。

 もう二度と呼びかけられない〈母〉と、幾度も呼んで、ただひたすらに、涙した。

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