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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第五章 青き大輪
19/22

時流の航路

 ファールサ暦二二五年十二月二十一日。

 時が経つのは早いもので、もう仕事納めの日である。

 まったく、今年は、とんだ一年だった。あのマタラムの王子のせいで、余計な仕事が大いに増えてしまった。

 しかし、年明けには、ラーミンが枝葉院に入る。薔薇局長に命じて、入宮の試しには手を回してある。合格は間違いないだろう。

 ただ、最下格の黄玉で妥協しなければならなかった点は、まったく口惜しい。

 さりながら、先の黄玉の寵童に、ベフナームは執心していた。今、優先すべきは、格よりも実利である。あの執着心の方向を、変えられさえすればよいのだ。

 扉を叩き、侍女の声に名乗る。木扉が微かに軋みながら、ゆっくりと開く。

 晩冬の冴えた光が差し込み、一瞬、目がくらむ。居間に案内されると、絨毯の手前に立ち、深く礼をした。

「正后よ。年の暮れを無事に迎えられましたこと、深くお慶び申し上げます」

「本年の働きに感謝します、宰相。来年の働きにも、期待していますよ」

「もったいなきお言葉、誠に痛み入ります」

 定型の挨拶。一呼吸置いて、上体を起こす。今日は、長居するわけにはいかなかった。

 次は、妃達を訪問しなければならない。それが済めば、挨拶回りにやってくる各庁の長官達である。挨拶だけで、一日が終わるのだった。

 ゆっくり父娘(おやこ)の時間を過ごせないのは名残惜しいが、下の者達を早く帰すのも、宰相の務めである。あとがつかえないためにも、早々に切り上げる必要があった。

 退出の挨拶をしかけ、ナスリーンの口が動いて、姿勢を戻す。

「最上寵童の件――進捗は、どうなっていますか」

「……は……万事滞りなく、進んでおります」

 己と同じ黄土色の瞳が、にっこりと微笑む。

「それは安心しました。緑玉が私の名代となれば、王〈シャー〉も心丈夫というもの。楽しみにしていますよ」

「お心に沿えますよう、相勤めます。――それでは、よい新年をお迎えくださいませ」

 丁重に一礼し、正后の間を退出する。

 廊下を歩みながら、心中で嘆息する。

(まったく、どうしたものであろうか……道理のわからぬ娘では、なかったというに……)

 しかし、これまで、わがままなど言わなかった、実によい娘である。

 予定通り、パルヴィーズと孫娘の結婚が実現すれば、ラフバル家は安泰だ。ぜひ叶えてやりたいが、こればかりは承服できない。

(まあ、まあ、他にもやりようはある。新しい絨毯でも織らせよう。ああ、先日、ターングの商人が来ておったな。ならば、絹地も――)

 代わりになるものは、いくらでもある。

 あれこれ思案しつつ、透かし彫りの木漏れ日の降り注ぐ後宮を進んでいった。


 *


 月明かりと灯火の照らす中、豪華な装丁の表紙をめくる。新たな物語に出会う高揚感に、胸が躍る。

 今日、年が明けて、ノウルーズを迎えた。

 初日は、人事といった重大な発表のある大事な日だ。だから、薔薇局より使者が来た時は、来るべきものが来たか、という心持ちだった。

 そして、予想通り、薔薇局長から、最上寵童に決定した旨の内示を受けた。

 とはいえ、青薔薇の正式な授与は、来年の春だ。決して油断はできない。

 内心で気を引き締めていると、華麗な装飾の、大きな木箱を渡された。聞けば、ナスリーンからの内々の祝いだという。

 期待。妄執。嫉妬。

 どことなく嫌な予感がしたが、受け取らないわけにはいかない。丁重に受領し、〈薔薇の宮〉に持ち帰ったのだった。

 居室で改めると、中には、この本を始め、宝飾品や絹地が入っていた。

 何の変哲もない品々。危害を加える理由はないのだから、当然だ。

 安堵しながらも、不安は黒雲のように、胸の中につきまとっていた。

 それでも、本は素直に嬉しいものだ。さっと目を通した感じでは、珍しく羊皮紙である以外は、普通の本だった。

〈薔薇始め〉までは、時間はたっぷりある。休暇のよい供になってくれるだろう。

 贅を凝らした中表紙。繰れば、角張った癖のあるファールサ文字が綴ってあった。

 どうやらノールを経由して、写されたものらしい。物珍しさに興味をそそられながら、夢中で読み進めていく。

 と、少しばかりいって、違和感に止まる。

 ところどころ、登場人物の名に、印がついているのだ。一見、ただの装飾のように思えるが、何かが引っかかった。

 改めて、羊皮紙の端を、丁寧に繰っていく。

 指の腹に、微かに感じる厚み。

 よく見れば、案の定、折り目があった。灯心を切るための小さなはさみに、手を伸ばす。

 慎重に境を切ると、ファールサ文字が、びっしりと記されていた。

 印と番号の一覧。その左には、出身や役職名、経歴といった詳細が、綴られている。他の紙面の端に記載された数字と印を合わせれば、余すところなく、対応していた。

 それは、名簿だった。

 表題は――アスパダナに輝く〈太陽の贈り物〉を欲する者達。意味する人物は、一人しかいない。

 全ての折り目を切り終えて、その膨大な人数に圧倒される。

 太守〈アミール〉のメフルダードを王〈シャー〉にと望む人々が、まさかこれほどとは。

 これから為すことの重みが、ずっしりと、腹にのしかかってくる。

 思わず、周囲を見渡す。

 誰の目にも、触れさせるわけにはいかない。どこか、いい隠し場所は――。

(そうだ……!)

 寝間の隅で暗がりに沈む、大きな影。教科書の入った箱だ。

 何か健康の心配があれば、〈薔薇の宮〉に暮らす者は皆、〈庭師〉を頼る。

 だから、うっかり開けてみようと試みる粗忽者はいなかった。その証拠に、一年余り経った今でも、秘密は守られている。

 固く締められた金具を外し、蓋をのける。敷き詰められた教科書を全て取り出し、名簿の本を据えた。

 これで、教科書を戻せば、かなり安全だろう。

 月明かりに浮かぶ、瀟洒な表紙を見つめる。

 ナスリーンは、スティンヴァーリが噛んでいると言っていた。

 羊皮紙の本に、ノール人特有の角張ったファールサ文字の組み合わせは、つまり、そういうことだ。

 この名簿を、何がなんでも活かさなければならない。そのためには、披露目の前に、確たる情報が必要だ。

 身体の芯が震える。たまらず自らを抱き締めて、固く目をつむる。

 忘れていたかった。せめて、この八日間だけは。

(……考えなければ――誘導する、手立てを……)

 べっとりと粘りつく感触が、全身を這う。悪寒にわななきながら、ただ瞼の裏の闇を見つめた。


 *


 ファールサ暦二二六年一月十四日。

 放たれた(めい)に、唖然とする。顎のたるんだ顔を、瞬きも忘れて、凝視する。

 ベフナームは今、何と言ったか。

 わななく喉も抑えきれず、問い返す。

「……王〈シャー〉よ……私は、何か――悪い夢でも、見ているのでございましょうか? あの薔薇は、南洋からの戦利品でございますぞ」

「そう申すがのう、ファルジャード。青薔薇を授けることは、そちも承知したではないか。すでに、内示も済んでおる。せっかくの殊勝な心がけを無下にするなど、わしにはできぬ」

 言ってやったと、満足げな顔。

 おとなしく遊び〈バーズィー〉に興じていればいいものを、まったく、とんだ知恵をつけてくれた。

(わざわざ訪ねたいなどと――いったい、どういう風の吹き回しか)

 印璽庁には、文書庁で作成された文書を保管している。

 正当な権限があれば、議事録や外交記録などの政務における文書全般を、閲覧できるのである。異国の者を立ち入らせるなど、言語道断だった。

 最上寵童の内示とて、あくまで懐柔のためである。まさか、こんな愚昧な妄言を放つとは、予想もしていなかった。

 頭の中で論理を手繰り寄せ、なんとか押し出す。

「しかしながら、正式な授与は来年にございます。授与前の公務は、あまりに異例。どうか今一度、ご一考賜りますよう、何卒お願い申し上げます」

 ふうむ、と鼻を鳴らす唸り。黒く太い眉が、ぎゅっと寄る。

「ファルジャードよ。わしとそちの見ている景色は――ずいぶん、違ってしまったようだのう」

 関わる気など、はなからなかったくせに、それで全てうまく進んでいたというのに、今さら何を言うのか。

「シャーグルほど、賢く、健気な薔薇は、そうおらぬ。あの愛らしいさえずりを聴けば、どれほどに真剣な心か、痛切にわかるというもの。それを叶えぬなど、わしには我慢ならぬ」

 焦茶色の目に浮かぶ、欲情した色。

 身体の奥底から、言いようのないほどの憤怒が湧き上がる。

(クーロシュ様と私の邪魔をするな……)

 愚者は愚者でいるからこそ、価値があるのだ。蒙昧な貴種であるから、長男を太子にと望むクーロシュを説得して、わざわざ王〈シャー〉に据えたのである。

 しかし、これ以上、関係を悪化させるわけにはいかなかった。

 己を通り越して、各所に命じるような事態に陥れば、それこそ収拾がつかなくなる。引き時であった。

 深く礼をし、恭しく応える。

「……それほどまでにお考えでございますれば――近々、手配いたしましょう」

「うむ、わかったならばよい。頼んだぞ、ファルジャード」

 筒綿に埋もれて、ふんぞり返る巨体。

 沸騰しそうな頭を押さえつけ、承知の意を吐いた。


 *


 差すような西日に目を細める。

 礼拝を終えてからとはいえ、ずいぶん長居してしまった。早く帰らなければ、使者の到着に間に合わない。しかし、その分、成果は上々だった。

 披露目の準備のために、訪問したい。

 そう理由をつけた以上、マタラムに係る記録を所望するわけにはいかない。

 怪しまれないよう、まずは、重要な隣国であるスティンヴァーリとの外交記録を調べることにした。

 マタラムでの敗北によって、苦境に立たされ――しかし、巧みにかわしていった。その鮮やかな手腕。きっと、外帝将が、皇帝をよく支えているのだろう。

 顔はもうおぼろげだが、幼い頃に、何度か遊んでもらった思い出がある。

 クラムビル(ココナッツ)の木のように大きな体躯で、最初は怖かったが、そんな怯えは、あっという間に吹き飛ぶほど、朗らかで楽しい人だった。

 このまま関税が撤廃され、最上寵童として活動できるようになれば、ずいぶん動きやすくなるだろう。

 父祖に報いるためにも、この機会を、しっかりものにしなければ。

 ――おお、シャーグルよ。我がいとしい小鳥よ。なおも、かように欲するとは。おお、おお、射たはずの弓が、また張り詰めよる。

 不意の悪寒に震え、思考を打ち切る。あの四日間は、思い出したくもない。

 扉の鍵を閉める、重々しい金属音が響く。

 念入りに確認する、なだらかな背中。振り向いた苦々しげな面立ちには構わず、丁重に頭を下げる。

「本日は、お休みのところ、ありがとうございました」

 目顔で頷く、やわい細面。口調だけは相応に、固い声が応える。

「ご満足いただけましたかな、緑玉様」

「ええ――とてもよい学びになりました。引き続き訪ねて、知識を深めたく思います」

 薄い髭に覆われた口元が、ぐっと盛り上がる。口を開く前に、言葉を継いだ。

「あなたの付き添いは無用です、宰相。道は覚えました。それに、ここは宮殿内。危険もないでしょうから」

「お言葉ながら……なにぶん、異例のことでございますから……」

 苛立ちの募る声音。

 しかし、ここで引き下がれるはずもない。黄土色の瞳をしっかりと見つめて、真摯に語る。

「ベフナーム様こそ、ぼくの喜び――この特別なお計らいは、慕わしいあのお方も、同じ心でいてくださっているがため。そして、ナスリーン様にも、大変よくしていただいております。お二方のお心に沿えないなどということは、決してあってはなりません。そのためにも、政の実情を学ぶ必要があることは――宰相、あなたも、よくおわかりのはずです」

 もし断ろうものなら、あの二人が許さない。

 暗にこめた脅しは、的確に伝わったらしい。食い縛った口元から、苦い呻きが漏れた。

 引き際を悟ったように、ファルジャードが恭しく(こうべ)を垂れる。

「……お志、誠に敬服いたします。ただ、畏れながら、その大切な御身に万が一のことがあっては、それこそ一大事にございます。警護の準備をいたしますので、しばしの時を頂戴できますでしょうか」

 一刻も惜しいが、ここが収め時だろう。淡く笑んで頷く。

「わかりました。よろしく頼みます」

「ご理解、誠に恐れ入ります」

 一呼吸置いて、上体が直る。

 冷たく蔑む面立ち。真っ直ぐに受け止める。

 促され、宮殿へと続く道を歩く。

(侮るなら、侮っていればいい――)

 その驕りが、足元をすくう隙になる。他者を軽んじることの業の深さを、思い知ればいいのだ。

 年老いた背中を見つめる。

 敬うべき長い歳月を、生まれて初めて、呪いのように憎んだ。


 *


 サカ暦七六九年デスタ(十一番目)の月の二十二日。

 縁側の階段を下り、履物をつっかける。振り返って、三つの顔を見渡す。

「――じゃあ、行ってくる。夕食前には戻ると思う」

 乾季の晴れ渡る青空の下、娘達の元気な声が響く。そして、スメラティの慮った挨拶。頷き、控えていた使者に目顔で示す。

 山道を下りながら、速足になりそうな歩みを抑える。鼓動が暴れて仕方なかった。

 最上寵童に贈る品の選定。

 待ちに待った、渡航の好機だ。絶対に、うまくやらなければならない。

 あの日、止められなかった結果は、もう三歳になった。そして、姉のスムナリは、経も上げられないまま、いまだ土の中だ。

(今度こそ、成し遂げてみせる。今度こそ――)

 宮の石壁に突き立った、マフターブ家の黒い旗を睨み据える。拳を固く握り締めると、決然と、門をくぐった。


 *


 ソル暦二五四年六月一日。

「兄上ー、今日は何ですかー?」

 崩したあぐらで、にやにや笑う顔。

 どこでどう間違ったのかと、心中で嘆息する。たった一人の愛すべき弟が、今は意地の悪いラタトスクに見える。

 一方、隣で跪く乳母は、身じろぎひとつしない。完璧な所作だった。

 このバリリヨットは、スノーヴァーリ家の出で、現当主のオッドビョルンと外帝将のヘリイェイルの妹なのだ。行儀作法の教育に期待するな、という方が無理である。

 視線を弟に戻す。胸中で、父と母に詫びる。そして、冷徹に宣告した。

「ソールヴァルド。お前を、スティンの長館から追放し、ヘリイェイルの従者とする。主人によく仕え、修練するように。――いいな」

 にやにや顔が、にやついたまま固まる。みるみる白んでいく面立ち。

 油を差し忘れた錠前のような声が、耳をつんざく。

「陛下! それはあんまりでございます! 殿下はまだ、九歳であられるのですよ!」

「――もう八月には十歳だッ!」

 たまらず怒声を注ぐ。煮えたぎる憤りのまま、鋭く投げつける。

「普通なら、すでに剣も馬も覚えている頃だッ! それが、槍も、斧さえも振るえない――体術すら、ままならないとは、どういうことか! 夏至祭りが過ぎれば、奉仕に出る同年者もいるというのに!」

「そ、それは、殿下は皇族であられますから……っ」

 にじり寄る所作を視線で射抜く。はっとして畏れ、下がる姿。

 隣で、生意気な声音が口を尖らせる。

「そうだよ、兄上。おれは、皇帝の弟なんだから。だれかに仕えたりするのは、下々の連中の役目だろ」

 援護を得て、勢いづいた面立ち。冷えた悲しみが、胸の内に渦巻く。

 父と母が生きていれば、もっと、いとしめただろうか。その赤髪の通り、雷神ソールのように、立派な戦士となっただろうか。

 ――兄弟で手を携えて、生きていけただろうか。

 肘掛けの傍らに立てた剣に、手を伸ばす。

 そうして、おもむろに立ち上がった。

「ならば、その首、斬り落としてくれようか――我が弟よ」

 留め具を外し、(つか)を握る。

 引き抜けば、鞘走る硬質な音が響いた。

 理解できないといった顔。血色の戻っていた頬が、再び蒼白になっていく。

「皇弟は、ゆくゆくは従士団長となり、このブローノードを守っていく防衛の要。そのために、民から糧を徴収し、生きるよりも過分な暮らしを送っているのだ。――知らぬとは、言わせんぞ」

 栄養不足など微塵も見られない、健やかな顔立ち。幾度も染料につけて洗い、染め抜かれた、深い青の毛織物の上衣に、繊細な織りの縁取り。広々としながらも、十分に暖の取れる屋敷。

 全ては、命を賭して民を守るから、得られるのだ。力のない者に、民は(こうべ)を垂れない。

 刃を、鼻先に突きつける。血を分けた、緑の瞳を見下ろす。

「これまでの浪費は、死者の国〈ヘルヘイム〉への土産と思おう。今後、余分な(かかり)が減るだけでも、ましというものだ」

 腕を振り上げる。

 途端、目標がぶれる。金切り声が、鼓膜を裂いた。

「陛下! どうか、お許しを! 全ては、お育て申し上げた私の責にございます! 罰ならば、どうか私にお与えくださいませ!」

 ふくよかな胸にうずもれる横顔。

 緑の瞳が思いついて、滲んでいく。華奢な腕が、乳母の背中にしがみつき、わざとらしく泣きじゃくる。

「ふええ……こわいよお、ベッラぁ……」

 母代わりの者の、命乞いもしない。

 馬鹿らしくて、胸が冷え冷えとする。剣を下ろすと、淡々と宣告した。

「バリリヨット。これまでの働き、感謝する。しかし、我が弟を、ここまで愚かに育てた責は重い。よって、乳母の任を解く。以後、ソールヴァルドには関わらぬように」

 灰色の瞳が潤み、豊満な口元が、わなないていく。

 冷たく見つめると、ためらうように、ゆっくりと離れていった。

 そうして、驚き、なおもすがりつこうとする養い子から、正しく距離を取り、跪いた。

 か細い声が、震えて落ちる。

「……承知いたしました……陛下……」

 頷き、首を巡らせて、弟を見下ろす。

 茫然と――それから、はっとして、脚にすり寄ってくる。甘ったるい声が、涙に濡れて訴える。

「兄上、おれ、いやだようっ! ヘリイェイルは、ハーヴコルプの養い子なのに、そんな」

「泣くなッ! それでもスティンヴァーリの(すえ)か!」

 まとわりつく妨げを、力任せに振り払う。

 幼くも、しかしよく背の伸びた身体が、吹き飛んでいく。柱に、したたかに打ちつけられる重い音が、突き抜ける。

 驚愕に見開く、緑の瞳。はらはらと、涙が青ざめた頬を伝っていく。

 たった一人の弟だと、これまで説諭はしても、折檻は避けてきた。しかし、もう我慢の限界だ。

「――一ヵ月、猶予をやる。それまでに出立の準備をしろ。最後に夏至祭りを過ごせることを、せめて有難く思え」

 バリリヨットに視線を向け、目顔で促す。意図を悟った顔で深く一礼して、すかさずソールヴァルドに走り寄っていく。

 助け起こされ、乳母とともに去っていく背中。

 扉の閉まるまでを見届けて、剣を収める。

 歩んで椅子の傍らに立った途端、全身から力が抜けた。背もたれの軋むまま、船底と同じ天井を仰ぐ。

 そっと、慮る声がかかる。

「先日――懇意にしている酒類商人が、訪ねてきましてな。なんでも、アルバイラーの葡萄酒が、手に入ったとか」

 憎きファールサ。されど、その葡萄酒は甘美だ。日持ちしない分、飲める機会は限られていた。

 顔を下げて、金灰色の髭面に尋ねる。

「もちろん、手に入れているんだろうな、ヘリイェイル?」

「気苦労の多い、我が親愛なる甥のために」

 灰色の瞳に浮かぶ、優しい微笑。

 強ばった心が、するすると、ほどけていく。微笑んで、顎を撫でた。

「さすがは叔父殿。――それなら、ここに根を張っているわけにはいきませんね」

 やるべき仕事は山積みだ。なんとしても、日暮れまでに片づけなければ。

 すっくと立ち上がり、剣を携える。

 目顔で頷くと、ともに謁見の間をあとにした。

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