花遊び〈グリ・バーズィー〉
緩やかに舞う雪を眺める。夕暮れに染まる中庭。もうすぐ、今夜の明暗が決まる。
訪いを告げる音。年少の侍童が立って行き、扉を引き開ける。現れた使者役の侍童が、深く礼をする。
「申し上げます。――今宵は、ともに星空を見上げて過ごそうぞ」
「お返事を。――満天の星を数えて、慕わしいあなた様の訪れを、お待ち申し上げております」
使者が、恭しく辞する。安堵の表情は一切見せず、侍童達に告げる。
「少し早いけれど、お風呂に行くから。夕食の用意をして」
入浴の揃えを携えたスヌンゴと侍童二人を伴って、居室を出る。冴える寒さに身震いする。
半ばを行ったところで、声がかかる。アフシンが、伸び上がって手を振っていた。
小さく振り返すと、周囲を見回してから、猛然と走ってくる。
「――兄上っ!」
「もう、アフシンったら」
抱きついてきた弟を受け止める。同じ高さの頬を寄せれば、嬉しさの溢れた笑顔が返ってくる。
「これから、お風呂ですよね? おれも、ごいっしょしていいですか?」
「もちろん。よければ、夕食も」
ぱあっと全面が輝く。それから、
「本当は、さみしいって、悲しまないといけないんでしょうけど」
と、悪戯っぽく舌を出した。
たまにはね、と返して、連れ立って、奥湯殿へと向かった。
バルバット(卵形の弦楽器)の金属的な音色に乗って、少年の清澄な声が歌う。
情熱に溢れた旋律。まさに紅玉は、彼にこそふさわしい。
「――おそまつ様でございました」
盛大に拍手を送る。
改まった表情が緩んで、照れた笑みをこぼす。
「本当に、上手になったね。二年足らずで、これほど弾けるなんて」
「でも、その代わり、学問はからっきしです」
「それはいけないねえ、弟よ」
尊大に言ってから、顔を見合わせて吹き出す。
ひとしきりおかしみを噛み締めると、おもむろに笑いを収めて告げた。
「――さて、きみは、そろそろ寝る時間だよ。寝坊したら、大変だからね」
しかし、アフシンは立ち上がらない。不思議に見つめる。
微かに震える、紅赤の唇。幾度か開閉したあと、凛とした面立ちが、決然と宣言した。
「兄上。おれ――おととい、初矢を射ました」
「本当に! それはよかったね。おめでとう」
健やかな成長の証。素直に喜べる時が巡ってくるなんて。
しかし、アフシンの顔は強ばったままだ。まさか、何かあったのだろうか。
「お願いがあります。おれと、花遊び〈グリ・バーズィー〉していただけませんか?」
背筋が、すっと冷える。
決意のこもった目。その強さに、心がおののく。
「……それは……ぼくと……〈弓引き〉や〈弓張り〉をしたいということ……?」
ぐっと引き締まった顔が、縦に振られる。
青い瞳が、星影に潤む。紅赤の唇が震えて、吐息をこぼす。
「兄上の弓に、ふれたいです……兄上と遊べたら……すごく、幸せだと思うから……」
そっと、手が重なる。迫りくる顔。
怖気が走って、思いきり振り払う。
「――いやっ!」
驚いた面立ち。その、傷ついた色。
なんて白々しいのだろう。兄と仰ぎながら、劣情を抱いていたなんて。
「アフシン! きみは、そんな汚い目で、ぼくを見ていたの⁉ そんな欲情した心で、ぼくと接していたの!」
「違います、兄上! そんなんじゃ……! おれは、あなたのことが好きだから! だから、ふれたいと――」
「やめて! 聞きたくない!」
必死にすがる声。耳をふさいで遮る。二歳下なのに、信じられなかった。
ノール人を祖に持っていても、ファールサで生まれ育ったのだ。ベフナームとの男色を喜んで受け入れているのに、自分に欲が向かないと、どうして思い込んでいたのだろう。
「お願いです、兄上! 本当に違うんです! おれの話を聞いてくださいっ……!」
影が、必死に迫ってくる。
がむしゃらに腕を振り、絨毯を蹴って、ひたすらに後ずさる。
「いや! 助けてっ! いやだ! やめてえっ!」
見えない手が、身体中に絡みつく。悪寒が、背筋を突き抜ける。
〈弓張り〉をしながら〈弓引き〉をして、そのあとは――決まっている。
下衣の紐の結び目を、きつく握り締める。滲む視界の中、影が遠ざかっていく。
「……おれ……そんなに、きらわれていたんですね……同じように、好きでいてくれているなんて……思い上がりでした……でも、それなら――」
影が立ち上がる。びくっと構えて、次の行動を注視する。
「それなら、優しくなんて、してくれなかったらよかったのにっ……!」
白雪の頬に幾筋も伝う雫。澄んだ青い瞳の悲痛な色。あっという間もなく、駆け去っていく。
乱暴に響く扉を、言葉もなく見つめた。
それから、アフシンの態度は一変した。
心からの笑顔は現れず、凛とした顔には、ただ愛想笑いが浮かぶだけになった。口調も、態度も、全てがよそよそしかった。
「ごきげんうるわしゅうございます、緑玉様。今日は、暖こうございますね」
「……そうですね、紅玉様。よい日和で。このまま、春になればいいのですが」
「左様でございますね。――それでは」
完璧な微笑と所作。教えた通りの立ち振舞いだった。
あんなに注意しても、すぐに戻ってしまっていたのに。甘えてくれていたのだと、まざまざと突きつけられる。
「……シャーグル様」
スヌンゴの、心配そうな呼び声。大丈夫と微笑んで、廊下を歩んだ。
*
サカ暦七六九年カピトゥ(七番目)の月の中旬。
篠突く雨が、庭土を叩く。染みるには追いつかない雨水が、かさを増して、澱んでいる。
切れ落ちて広がる青空と黒雲の塊。運命の明暗を分けるような景色を眺めながら、思案に沈んでいた。
ステノゴが、最上寵童に昇格する。それほどに気に入られた――辱められてきたのだ。
ファールサの侵略から、もうすぐ四年。選ばなかった歳月の重みを痛感する。
どんな思いで、幾度の夜を越えてきたのだろうか。どんな思いで、スティンヴァーリに丸め込まれ、都合よく利用されてきたのだろうか。
(しかし、それも、もう終わる――)
今年、長女のスイムティは八歳、次女のスカレミィは七歳になった。
八歳といえば、男子なら、入門式を終え、正式なシワの信徒の一員として迎え入れられる年齢だ。もう、ただ幼いだけの子供ではなかった。
そして、スキリコは十三歳になり、年明け早々の誕生日に、リシ・ヤドニャを受式する。
娶る相手がいないことが心残りだが、これで晴れて、プマンクとなる。あとを乗りきれば、本当の意味で、守り通すことができるのだ。
(絶対に、取り戻してみせる――必ず)
今、消息を掴めているのは、ステノゴとスヌンゴだ。せめて、二人だけでも、島に連れて帰らなければ。
縁側で、娘達の面倒を見るスメラティを見遣る。
もう十七歳だが、変わらず独り身だ。
待ちたいのだという心を叶えるためにも、動くべき機会を逃してはならない。そして、考えられる日取りは、ひとつだった。
これまで、メフリガーンの度に、献上品を送り出してきた。太子の初公務と最上寵童の披露目となれば、相当な規模の祝宴となるだろう。
寵童が公に披露されるということは、非公式だが、婚姻と同義である。
姉のスムナリの時には、マタラムの調度品を揃えた。出身地に合わせるならば、ステノゴのために、贈り物を届けることになるはずだ。
直に祝いたいと従順に願えば、おそらく拒否はされない。
いつか来る時のために、未開の異教徒として、侮られるままにしてきた。まさか腹に一物抱えているなどとは、疑いもしないだろう。
黒雲が去り、雨音が遠ざかっていく。
笑顔で呼びかけるスイムティに応えて、おもむろに立ち上がった。
*
背後で、轟々といびきが鳴り響く。淡々と進む作業。静かな声が、話し出す。
「今夜は、気がそれていたな」
合図があって、〈花台〉から降りる。身体を拭き、寝間着を纏う。
人差し指と中指から、羊の腸でつくられた指袋を引き抜きつつ、ジャハーンが続ける。
「紅玉と、仲違いしたと聞いたが」
手洗い鉢ですすぐ水音。布巾で拭った手が、陶椀を差し出す。受け取って口をつければ、クラムビル(ココナッツ)水が、甘く喉を潤していく。
追加で二杯飲み干すと、ゆっくりと息をついて、口を開いた。
「……紅玉様――アフシンに、花遊び〈グリ・バーズィー〉に誘われたんだ。欲情されていたと思うと、吐き気がするくらい気持ち悪いのに――どうしてだろう……」
兄上、と笑う、無邪気な顔。その名の通り、星のようにきらきらと輝く、青い瞳。素直で、少し甘えん坊な心。
「すごく……寂しいんだ……」
空になった陶椀を見つめる。
さえざえとした景色。冷たさに、視界が滲む。
「……花遊び〈グリ・バーズィー〉に、劣情はない。あるのは、相手を慕う心だけだ」
淡々と、しかし真摯な声に、顔を上げる。
ジャハーンが、おもむろに語っていく。
「生涯の友としたい者を、かけがえのない無二の伴侶となる者を、見極めるように――父親が、外遊びを始めた息子に、何度も言い含める言葉だ」
黒い瞳に、わずかに温かな光が灯る。
懐かしむような、遠い視線。いささか意外な心持ちで、平淡な声を聞く。
「そして、九歳の誕生日の前夜に、花遊び〈グリ・バーズィー〉の決まりを教える。――相手を尊重し、決して嫌がることはしない。上下はなく、常に対等である。対立があったなら、よく話し合って解決し、暴力に訴えない。互いを一番に慕い合い、常に心に留めて、思いやる」
言葉を切って瞬き、おもむろに視線が戻る。静かな目が、真っ直ぐに見つめてくる。
「――本来はまだ続くが……趣旨は、わかるだろう」
頷きかねて、口を引き結ぶ。黙っていると、どこか困ったように、眉根が寄った。
「お前にとっては、理解したくない習慣だと思う。ただ、紅玉との関係を修復したいのであれば――拒絶した理由を、きちんと話すべきだ」
「……きみが、それをぼくに言うの?」
固く返して、きつく見据える。
指の長い手が、首に提げた剃刀の鞘に触れる。
「思いを告げずに……後悔した。だが、顔を合わせて、たった一言――それだけで、互いに救われた」
生涯、髭を生やさない〈庭師〉の証。
一人しか知らないと語ったのは、その別れてしまった相手だろうか。
ジャハーンの手が、ゆっくりと腿に下りる。凪いだ表情が、淡々と告げる。
「お前がどうしようと、大勢に変わりはない。ただ、王〈シャー〉も愚かではない。この先も上の空でいれば、いずれ望まない結果を生むだろう」
そうして片づけを済ませると、道具箱を携えて、静かに立ち去っていった。
扉が開き、目の前に華やかな景色が広がる。
居室の主のように、豊かな赤の色彩。丁重に出迎えた侍童に促されて、居間の絨毯へと赴く。
しつらえられた上座には腰を下ろさず、頭を下げる姿と向かい合う。
「……アフシン」
しかし、顔は伏せたまま、動かない。
せり上がる喉を飲み込んで、言葉を継ぐ。
「今日は、どうして花遊び〈グリ・バーズィー〉を拒んだか、話しに来た」
腿の付け根で揃えた指先が、ぴくりと跳ねる。身を乗り出して乞う。
「ねえ、お願いだから……せめて、顔を上げて」
ためらうように、吐息が揺れる。待っていると、おもむろに上体を起こした。
冷えた表情に見え隠れする、恐れの色。
好きだからとすがる声が、心にこだまする。深く傷つけてしまったのだと、改めて思い至る。
(……弓に触れたいという気持ちは、わからない。でも……)
そっと、息を吸い込む。
真っ直ぐに、凍った青を受け止めて、口を開く。
「外見から、気づいていると思うけれど――ぼくは、ファールサから遠く離れた国の出なんだ。ファールサ以外の国では、男同士の行為は男色と呼ばれていて、忌避すべきことで、だから――」
違和感を覚えて、言葉を切る。
こんなただの説明では、何の意味もない。氷を融かすには、血の通った真実が必要だ。
ゆっくりと、深呼吸する。唾を呑んで、言葉を継いだ。
「……ぼくは、捕らえられて、ここに来た。……家族を……目の前で、殺されて……」
冷たい面立ちが、目に見えて揺らぐ。
滲んでいく声を抑えて、ひたすらに青い瞳を見つめる。
「寵童になったのも、いっしょに捕まった家族の命を、守るためだった……行為の意味を知らないまま、〈蕾開き〉を迎えた。〈花見〉の時に抵抗して……〈誘引〉も、経験した」
全てを理解した今こそ、苦しく苛んでくる記憶。
あの夜、人として大切なものを失った。あの夜、男ながらに乱暴され、辱しめを受けた。
「だから、怖かったんだ、アフシン……もし、押し倒されたら――無理矢理、されるかもしれないと……怖くて……」
こらえきれず、涙が溢れる。白雪の肌が青ざめて、さらに白む。
そして突然、一息に上体を深く折った。
「――ごめんなさいっ!」
思いがけない言動に、たじろぐ。
ファールサ式の最敬礼のまま、切迫した大声が駆ける。
「おれは、生粋のファールサ人じゃないけど――でも、ごめんなさい! それと、勝手に責めて、ごめんなさい!」
一ヵ月半ぶりの、心の宿った声。
沸々と安堵が湧いて、思わず顔がほころぶ。そっと肩に手を置き、柔らかに告げる。
「いいんだよ、アフシン。きみは、知らなかったんだから。ぼくの方こそ、ひどいことを言って、ごめんね」
おずおずと上向く頭。促すと、素直に身を起こした。
ぽつりと、不安げな呟きが落ちる。
「……兄上……」
微笑んで応える。途端、ぽろぽろと涙がこぼれていく。
「よかったあ……あ、いや、全然よくないけど――でも、きらわれていたんだって、おれ、すごく悲しくて……兄上のこと、大好きだから……だから、おれ……っ」
「うん……ごめんね、アフシン……ごめんね……」
頬を撫でながら、澄んだ雫をすくっていく。
泣きじゃくりながら、好きだと、幾度も告げる姿。温かな光が、心に生まれていく。
少しだけ、腰を上げる。
同じ高さの白雪の額。そっと、淡く口づけを落とす。
青い瞳が瞬く。微笑んで、心から語った。
「ぼくも、すごく寂しかった。ぼくには、きみが必要みたいだ……これからも、弟でいてくれる……?」
凛とした面立ちが、燦然と輝く。
次の瞬間、柔らかな重みが突如、上体にかかる。
「兄上ー! 大好きですーっ!」
「――えっ、ちょっ⁉」
耐えきれず、絨毯に倒れ伏す。
すぐさまはっとして、アフシンが起き上がる。
「わわっ、ごめんなさい! おれ、そんなつもりじゃ……!」
青くなって、おろおろと慌てる姿。なんだかおかしくて吹き出す。
両腕を伸ばし、穏やかに微笑みかける。
「わかってるよ、アフシン。大丈夫だから」
促すと、喜びに満ち溢れた表情で、抱きついてくる。
温かくて優しい重み。腕を背中に回せば、頬に淡く口づけが降る。甘えた声が、鼓膜を震わせる。
「お返しです、兄上。大好き……」
二人で横たわり、見つめ合う。
問いかけるように、触れる指。そっと返すと、繋がって、掌が深く合わさった。健やかな面立ちが、照れつつも、幸せに笑う。
不意に、こみ上げてきて、涙が溢れる。
窺う青い瞳。満たされた心地で語る。
「人の体温って――こんなに、温かかったんだね……ずっと、忘れていた……」
柔らかな母の膝。抱き締めて寄せる、姉の頬。同じ大きさの、力強い甥の手。
いとしんでくれた家族のぬくもりが、心に灯る。
「ねえ、アフシン。弓は難しいけれど――こうして、手をつないだり、抱き締めたりするだけでも、いいかな……?」
青い瞳が瞬きながら、白雪の肌が紅潮していく。掌で、熱くなりゆく体温を感じる。
くすぐったそうに微笑んで、秘めた声が囁く。
「おれ達の、花遊び〈グリ・バーズィー〉ですね」
柔らかく頷く。
額を寄せ合って、きらめく青い瞳を見つめた。




