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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第四章 染まりゆく花弁
17/22

月夜の誓い

 秋の深まった庭を眺める。

 獅子の口から垂れ落ちる噴水。整然と張り巡らされた水路。精緻な化粧煉瓦で描かれた紋様。昼下がりの爽やかな風に乗って、季節の花々が柔らかく香ってくる。

 茶で潤した喉から、満ち足りた息をついて、ナスリーンが呟く。

「やはり、秋はよいですね――特に、この時期は、温かな心持ちになります」

 おもむろに視線を向ける。

 茶器を両手で包んで揺らしながら、在りし日を懐かしむ、遠い瞳が語る。

「まだ太守〈アミール〉が離宮にいらっしゃった頃は、母と相談して、お祝いを差し上げたものでした」

 優しい声音。しかし、黄土色の瞳には、苦しみ悶える色が燃えていた。

「今、あのお方は四十七歳。お互いに、人生の夕暮れが見えてくる歳になりました。せめて――せめて、生きているうちに、お顔を拝見したい……」

 陶椀が、甲高く軋む。激した炎が、柔和な口調に揺らめく。

「父は一人、寵童となる子を選びました。宰相補佐官ペズマーン・デイ・ダスティヤールの息子です」

 家名を聞いて、納得する。

 ファールサ出身の対抗馬。異教徒の排斥に熱を上げる宰相が、思いつきそうなことだ。

「父のことですから、薔薇局長には話を通してあるはずです。早ければ、来年の春には入宮することでしょう」

 枝葉院への入院は一月十四日。月一回、実施される入宮の試しの初回は、二月頭だ。

 どうあっても、再来年の披露目前に、ねじ込もうという計画なのだろう。

 これまで、取れる手段は全て尽くしてきた。確信がないわけではない。しかし、ベフナームの気まぐれは、いつ発動されるか、皆目わからないのだ。

 いささかの不安に、頭巾の目出しを見つめると、自信に溢れた声が告げた。

「王〈シャー〉のお心をそらそう、という腹づもりでしょうが――うまくはいかないでしょう。――緑玉はシャーグルのもの、黄玉にせよ、とお命じになったほどなのですから」

 ふふ、と頭巾から、おかしげな笑みがこぼれる。

 黄土色の瞳に憐憫を宿して、ナスリーンが語る。

「寄る辺ない者とは、可愛いものですね。――真心をこめて接すれば、きっと伝わると、ただ励ましただけで、想いをより深くするなんて。本当に、可愛い人ですこと」

 蔑みというよりは、慈愛のような、うすら寒さ。

 背筋が張り詰める気配を感じながら、半ば陶酔する瞳を、静かに見つめる。

「シャーグル。私は今、わずかではありますが――幸せを噛み締めているのです。憐れな夫が、私を、頼りにしているのですから」

 おもむろに、薄赤い手が伸びてくる。

 頬に触れ、華奢な親指が、ゆっくりとさする。

「女には欲がないと、誰が決めたのでしょう。一人寝の夜が、どれほど寂しいものか、知りもしないで」

 滑り落ちる指。柔らかい、その腹。検分するように、唇を撫でる。強い光が、黄土色の瞳を輝かせる。

 嫉妬と狂喜の入り交じる声が、囁いた。

「あなたは私。私なのですよ――シャーグル」

 そっと、手を重ねる。首を傾げて、なぶる指先をかわす。

 目出しの中で、爛々と光る瞳。ただ受け止めて、静かに告げる。

「……肌を重ねることが、愛だとは……ぼくは思いません」

 黒褐色の濃い睫毛が、ゆっくりと瞬く。

 正気を取り戻したように、柔和な瞳に哀しい光が灯る。おもむろに、手が離れていく。

「……とにかく、今後のことに、心配は及びません。よほどのことがない限り、王〈シャー〉のあなたへの寵は、深まりこそすれ、失うことはないでしょう」

「お心が安らぐよう、相勤めます」

 目を伏せ、微かに頷く頭巾。

 冷えた茶の褐色を、晴れない心持ちで見つめた。


「――お目をお開けください」

 スヌンゴの声とともに、瞼を上げる。

 手渡された鏡に映る、化粧の施された顔。

 いつもより念入りだから、少し違和感はあるが、悪くない。豪奢な衣装に負けない、華やかな面立ちに仕上がったと思う。

「ありがとう、ボルナー。さすがだね」

「恐れ入ります」

 丁重に一礼し、衣装盆へと手を伸ばす。

 透き通るほどに薄い、上等な絹。筒型の帽子とともに、ふんわりと被せられる。視界の端で、金属の円が、ちらちらと揺れる。

 誕生祝いの贈り物は、例年より、遥かに豪奢だった。その途方もなさに、めまいのする思いだ。

 一方で、いささか安堵もした。

 贈り物の中身は、ただの祝いの品ではなく、婚礼の揃えだったからだ。

 今すぐ最上寵童にはなれなくとも、最も厚く遇する、という、ベフナームの気概。ファルジャードの目論見は外れ、ナスリーンが一勝したことになる。

 小さな勝利を積み重ねた先に、念願を果たす道が開けるのだ。ここで、自分が手抜かりするわけにはいかない。

 侍童から、贈り物の意味を聞いたその瞬間から、準備を始めた。

 即座に礼を伝える使者を送り、それとなく今夜の予定を尋ねた。回答はすぐに来て、当然だとの文言を添えて、是だった。

 それからはもう、大忙しだ。

 従童を呼び、改めて掃除をさせて寝具を交換し、侍童には、茶菓子や果物の手配などの事務を指示した。

 授業を終えて、〈薔薇の宮〉に帰ってきてからは、早めに風呂に行って、念入りに汗を流し、スヌンゴの手技を受けた。

 身体を揉んでもらう時は、普段から香油を使うが、これほど贅沢な量は初めてかもしれない。おかげで、動作する度に、よい香りが漂ってくる。

 そうして贈られた花嫁衣装を纏い、いつもより華美な化粧をした。あとは、ジャハーンが来れば、準備万端だ。

 そっと呼びかける声に、顔を上げる。柔らかい笑顔が、優しく告げる。

「おきれいですよ、シャーグル様」

「……ありがとう、ボルナー」

 豪奢な長い袖の中で、いつの間にか握り締めていた指をほどく。

 周囲を見渡して、明るく微笑む。

「みんな、今日一日で、よく準備してくれたね。きっと、忘れられないよい夜になると思う。――ありがとう」

「もったいないお言葉、誠に痛み入ります。どうぞ、つつがなくお過ごしなされますよう、お祈り申し上げます」

 年長の侍童が、代表して応える。頷くと、訪いを告げる音が、静かに響いた。

 現れた長身。交代するように、侍童達が退出していく。夕食の用意のために厨へと向かう、各々の背中を見送る。

 静まり返った居室。寝間へと向かう、音のない足取り。

 寝台の傍らに座って、道具箱を広げる横顔に話しかける。

「今日は、香油を多めに入れてほしいんだ」

「……適量がある。腹が緩くなるぞ」

 何度聞いたか、わからない説明。

 溢れている方が喜ぶと気づいてから、〈薔薇始め〉などの特別な日には、注入する量を増やしてきた。その度に、ジャハーンは注意を述べた。

 医師としての習性か。淡く笑みをこぼしながら、同意する。

「――うん。だから、いつもの薬もお願いね」

 長く太い溜め息。

 観念したように、指の長い手が〈花台〉を指し示す。膝立ちになり、下衣と下着の紐を、ほどいていった。


 ぱつぱつな丸い手が、両手を包んで撫でる。感嘆の声が、打ち震えて語る。

「まっこと――まっこと、美しいのう、シャーグルよ。わしの見立て以上だ」

 夕食に訪れた時にひとしきり、食事中も、称賛はやまなかった。少しからかうように、くすくすと笑みをこぼす。

「先ほどから、そのことばかり――でも、うれしゅうございます、ベフナーム様。このようなお品を頂戴できるなんて、ぼくは幸せにございます」

「かように申してくれるか、我が可愛い小鳥よ。怒ってはおらぬか?」

 上目遣いに見つめながら、優しく微笑む。

「ぼくには難しいことはわかりませんが――あなた様が、お心を尽くしてくださったことはわかります。青き証は、きっとまた、機会がございましょう。慕わしいあなた様のお心を知れただけで、十分にございます」

「おお、そうか……左様か。その時が来たら――必ず、叶えてみせるぞ、シャーグルよ」

 包み込む手に、力がこもる。幸せな笑みを湛えて、柔らかく頷く。感じ入った声が、朗々と宣言する。

「王の薔薇〈シャーグル〉よ。我がいとしい小鳥よ。これより何が起ころうとも、わしの最たる寵は、そちただ一人のもの。生涯、幾久しく、そちはわしの至高の宝と心に留め、無上の愛を注いでいくと誓おう」

 喉がせり上がる。言葉に詰まり、涙を溜める。

 感極まったように一瞬、顔を伏せてから、涙声で言った。

「ああ、ああ、うれしゅうございます、ベフナーム様……この至上の喜びを、慕わしいあなた様に、どのようにお伝えしたらよいか――ぼくの言葉では足りません」

「おお、言わずともわかるぞ、我が愛らしい小鳥よ。そちほど、いとしいものはなきゆえ」

「……ベフナーム様……」

 甘えた声で囁く。

 黒い髭面が迫り、唇が降ってくる。息継ぐ間もなく、分厚い舌に絡め取られる。羽織が、するりと滑り落ちる。倒れ伏し、重い頭と枕に挟まれて喘ぐ。

 細い女帯の留め具が外される硬質な音。長大な裾をたくし上げていく衣擦れ。

 腰を揺らめかせて、たるんだ腹にすりつけながら、横目で大窓を見遣る。

 満ちるには、少し足りない月。剥がれていく、華美な刺繍で彩られた衣。首飾りと耳飾りの、冴えた冷たさ。

(……姉上――もうすぐ……そちらへ参りますから……)

 強烈な刺激に、意識が掻き混ぜられる。

 身体の命じるまま、高く声を上げた。


 *


 ソル暦二五三年十二月上旬。

 グンヒルドがもたらした知らせは、間違いなく、朗報と呼べるものだった。

 最上寵童の内定。実際の授与は再来年の春だが、準備期間と思えば、やれることは多くある。妻には、太守〈アミール〉の名簿を渡し、正后に返信するよう頼んだ。

 そして今、防衛一辺倒だった時が、変わろうとしている。

 よい知らせに浮かべた喜色を改め、引き締まった表情に問う。

「外帝将。むこうの来年末はいつだ?」

 暦表を繰るまでもなく、深く低い声が即答する。

「再来年の三月三十日でございます」

 今は年末。一年強ならば、双方が不便することはないだろう。

 確かに頷いて、指示を出す。

「――よし。では、それまでに、ファールサが関税を従前の額に戻さないのなら、木材と木炭の輸出制限をかけよう。――外帝将は、官房庁に輸出制限の予告を、太守〈アミール〉には委細の報告を、それぞれ送ってくれ。内帝将は、引き続き備えろ。奴らが関税の撤廃を承諾したところで、マタラムを支配下に置いている以上、証文を反故にする可能性は、十分あるからな」

 短い返答が揃って応じる。

 深く(こうべ)を垂れ、仕事に戻る姿。その逞しいふたつの背中を、心強い思いで見届けた。


 *


 身体の中が広がって、探られる。抱き枕を抱き締めて、固く目をつむる。

 毎月の定期診査。この時間さえなければ、背丈の成長を素直に喜べたのに。湧き上がる嫌悪を、無心になって、やり過ごす。

 背後で、淡白な声が投げられる。

「最近、眠れていないと聞いたが?」

 きっとスヌンゴだろう。心配は有難かったが、寝つけない理由を思えば、いささか恨めしい。

 ただ、今は、この〈庭師〉の知識に頼るしかない。逡巡しつつも、口を開く。

「……欲しくて……たまらなくなるんだ……だから、その……」

 己の中に、そんな欲求が湧くなんて、信じたくなかった。ましてや、それで頭が冴えてしまうほどなのだ。

「成長して、欲が高まったのだろう。男ならば、普通のことだ。自ら触れて、射ればいい」

 思いきり首を振る。

 どう考えても悪行だ。進んでなんて、絶対にしたくなかった。

「睡眠が不足すれば、どうなるか、よく知っているだろう。しおれた薔薇を、王〈シャー〉はお望みにならない」

 手を洗う水音。異常はなかったと告げて、ジャハーンが言葉を継ぐ。

「もし、助けが必要なら、私を呼べ。〈水やり〉をする」

 そうして後始末を終えると、居室から去っていった。


 闇に沈んだ天井を見つめる。上掛けを握り締めた手が痛い。

 ゆっくりと、手を開く。下衣の紐を解いて脱ぐ。涙が、滲んだ。

 男であれば、当然のこと。

 父は、兄達は、どうしていたのだろうか。善とされる方法を、今こそ尋ねたいのに、答えてくれる道しるべは、踏みにじられてしまった。

 すり上げる刺激に、息が上がる。淡く、むず痒いような感覚。

 しかし、一向に、脈動は感じられなかった。早く射たいのに、弓弦を引き絞る官能はない。

 延々と焦らされているような、もどかしさ。頭が、おかしくなりそうだった。

 たまらず、上掛けを頭に被り、扉へと駆ける。廊下を通りがかった見回り役の従童を、手招きする。

「〈庭師〉のジャハーンを呼んで……っ」

 承知の意を認めて、すぐさま寝台へと戻る。ぼやけた闇を見つめながら、ひたすらに悶える。

 ほどなくして、訪いを告げる音が響く。返事を待たず、人影が静かに滑ってくる。

 灯火に照らされた顔。常と変わらない冷静な面持ちに、訴える。

「……っジャハーン……! 全然、射られないんだ! どうしたら……どうしたらいいっ⁉」

 〈庭師〉が意を得て、道具箱から器具を取り出す。

 薔薇水に〈香水器〉、〈花壺〉、香油――そして〈角〉。

 〈植えつけ〉と、同じ揃え。

「いや! 〈角〉はいやッ……! 他に方法が――あうっ!」

 後ろから抱きすくめられ、胸の粒を摘ままれる。大きく武骨な手が、弓を引き絞る。

 大人の強い力。びりびりと、官能が全身を突き上げる。いつの間にか注入されていた薔薇水を、果てるままに噴く。

 拭かれ、塗られて、内側から胡桃を押し込まれる。同時に外からも揉まれれば、どくどくと脈打った。

「いやだッ! こんな……っ違う! ぼくは――やあぁっ!」

 男の手を汚す白矢。

 泣きじゃくっても、宛がわれれば、腰が緩んだ。揺らめいて、奥に当たる悦楽を求める。胴体が、別の生き物のように思えた。

「やっ……いや、いやあぁっ……ああ、どうしてえ……!」

 果てながら、弓の引き絞られる感覚が、再び背筋を伝う。突き上げられる時機に合わせて、腰が振れる。逞しい腕を、ぎりりと握り締める。

 と、耳元で、囁く声がした。

「〈水やり〉をせねば、薔薇は枯れる。――恵みの水を浴びて咲く薔薇。何を恥じることがあるか」

「今さら、なぐさめなんて……!」

「お前が青く咲けば、弟達は嫁をもらい、妹達は持参金を得る。研究が進めば、父の病も治るかもしれない――それだけだ」

 肩越しに振り仰ぐ。

 髭のない顔。一人前の男と認められず、〈薔薇の宮〉で終える生涯。寵童に事あれば、あっけなく死罪が下る。

 父の声が響く。あれは、入門式を終えたあとだった。

「――咎多き父祖を迎え入れ、有難くも、サトリアとしてくれたマタラムの民へ、恩義を忘れるべからず。常にサトリアたれ。ブラフマナを敬い、ウェシアを聴き、スードラを守れ」

 もし、この悪行が、善いものを生み出すのなら。誰かを、少しでも幸せにするのなら。

 同じく悪鬼に堕ちるのであれば、せめて。

「……まったく、見下されたものだ」

 淡く息で笑う面立ち。低い声が、柔らかく鼓膜を震わせる。

「さあ咲け、高貴なる南洋の薔薇。大輪となって、青く染まれ」

 強い突き上げ。広い胸に(いだ)かれて、高く声を上げた。


 *


 ファールサ暦二二五年十月上旬。

 凶事は立て続けに起こるとは、よく言ったものである。

 しかし、今は、全く笑える状況ではなかった。外帝将館領事の使者から届いた通知を、歯ぎしりする思いで凝視する。

 木炭が枯渇すれば、工業を始め、商業に日常生活と、広範囲に影響が出る。

 ベフナームの周辺が騒がしい中、民の暮らしを脅かして敵をつくることは、決して得策ではない。呑まないわけにはいかなった。

 しかし、小賢しい脅しをかけてきたところで、マタラムは、こちらの手中にある。

 何より、輸出を制限すれば、木材商人や船主が黙っていないだろう。

 ひとまずは承諾し、木炭の買いつけと備蓄を急ぎ進めつつ、彼らにうまい汁を吸わせられるよう、段取りを組めばいいだけのことである。

 部下を呼びつけ、関税の効力を来年までと記載した、証文の作成を命じる。

 丁重に応じ、辞する姿。ちょうど北東を向いた窓を振り返る。

(――忌々しい蛮族め。今に見ておれ)

 初雪の降りそうな冬の走りの空を、苦々しく睨みつけた。

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