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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】  作者: 清水 朝基
第四章 染まりゆく花弁
16/22

思惑

 ファールサ暦二二五年一月十四日。

 足早に、後宮へと続く廊下を歩く。

 まったく、仕事始めのこの忙しい日に、いったい何だというのであろう。

 訪いを告げ、扉が引き開くのを待つ。

 新春の明るい日差しが燦々と降り注ぐ中、ベフナームは、ナスリーンとともに座していた。

 絨毯の手前に腰を下ろし、深々と礼をする。

「王〈シャー〉よ、お待たせいたしました。お呼びと伺い、参りましてございます」

「忙しいところ悪いのう、ファルジャード。ちと、話があっての」

 たるんだ顎が、鷹揚に頷く。

 上体を起こして、聴く体勢を整えれば、満足げな口調が続けた。

「シャーグルを、青玉の間に移そうと思うてのう。ナスリーンは賛同してくれたゆえ、そちの考えも、聴いておきとうてな」

 とんでもない提案に驚愕する。同時に、(ほぞ)を噛んだ。

 さすがのベフナームも、青薔薇を授けることの何たるかを、わかっていないはずがない。それほどに執心しているのだ。真っ向から反対して、意固地になられても困る。

 心から慮る声音で、ゆっくりと諭しにかかる。

「南洋の薔薇をお気に召していただけたこと、大変喜ばしく存じます。――しかしながら、最上寵童は、正后の代理。ファールサの薔薇こそ、青く咲くにふさわしいと、愚考いたします」

「そうだがのう……」

 ふーむ、と唸る溜め息。丸く肥えた手が、髭を緩慢にしごく。

 ベフナームは、妙にこだわりがあるわりに、意思が弱い。下手(したて)に出て、納得する(いとま)を与えれば、勝手に自己完結して、首を縦に振るのである。

 しかし、今回は、思わぬ矢が飛び込んできた。

 明瞭な声が、居間に響く。

「――宰相。私は、シャーグルがよいのです。あの子ほど、私の名代を務めるに値する寵童はおりません」

 愛する娘の、聡明な面立ち。

 仰天して、我が身と同じ黄土色の瞳を見つめる。

「畏れながら、正后よ。それは……」

「緑玉の間をお与えになった通り、王〈シャー〉も、格別に目をかけておいでなのですよ。他の子を最上寵童に据えるなど――私は、絶対に嫌ですからね」

 困った。非常に困ったことになった。

 聞き分けがよく、わがままなど、滅多に言わない愛娘である。他のどんなことなら、叶えてやると即答できるものを、こればかりは承服しかねる案件だ。

 弱って対応を思案していると、息を吹き返したベフナームが、感嘆の声を漏らした。

「おお、ナスリーンよ。我が妻たる野薔薇よ。やはり、そちも、そう思うかの?」

「もちろんですよ、あなた。利発なあの子なら、きっと、よき名代となってくれることでしょう」

「やはり、やはりのう。シャーグルは、賢い上に、よく気がつくゆえ。まっこと、あれほど愛らしい薔薇はおるまい」

 茫然と、眼前のやり取りを眺める。

 もはや、流れは止められないと知る。それならば、時を稼ぐまでだ。

 ゆっくりと、呼吸する。感じ入ったように、穏やかに、しかしいささかの苦さを滲ませて、言葉を押し出す。

「そこまで、お心を傾けておいでならば――ただ、最上寵童を定めるとなると、一大事にございます。こと、緑玉様は南洋のお方。少なからず、反発もございましょう。皆が得心し、誠実にお仕えできるよう、しばしの時を頂戴いたしたく存じます」

 一息に語って続かず、胸に空気を満たす。輝きかけた愚鈍な喜色に、すかさず釘を刺す。

「畏れながら、混乱を避けるためにも、事が収まるまでは、どうかご内密になさいますよう、お願い申し上げます」

 ベフナームが、ナスリーンと顔を見合わせる。

 にっこりと励ます妻に頷いて、満足した声が告げる。

「――うむ。せっかく授けるならば、慶事でなければのう。頼んだぞ、ファルジャード」

「ご理解を賜り、誠に感謝申し上げます」

 腿の付け根に手を置き、深く(こうべ)を垂れる。

 愚昧な性根を内心で罵りながら、丁重に、正后の居室を辞した。


 *


 菓子と果物を並べた盆を、絨毯に滑らせる。青い瞳を見つめて、心から微笑む。

「改めて、お誕生日おめでとう」

 夏の盛りのこの五月十五日、アフシンは十二歳になった。当日は授業があったから、休日の今日、小さな祝宴をもよおす約束だったのだ。

 白雪の顔を燦然と輝かせて、快活な声が跳ねる。

「ありがとうございます、兄上!」

 全部好物だと、まじまじ眺める姿。微笑ましく可愛くて、自然と頬がほころぶ。

 詰め合わせの上に置かれた紙を取り上げ、紅赤の唇が、不思議そうに呟く。

「これは……?」

「詩をつくってみたんだ。その、お祝いに……」

 言い出してから、不意に恥ずかしさが湧く。

 稽古のあと、いつも称賛してくれるから、よかれと思ったものの、自意識過剰ではなかったか。

 アフシンが、興味深げな面持ちで、折り畳まれた紙を開いていく。

 文字を追って振れる、青い瞳。次第に、きらめきを灯して、(おもて)すら輝き始める。

 そうして顔を上げると、頬を紅潮させて言った。

「すごい! 素敵です、兄上! 宝物にしますっ!」

 胸に押し頂いて、咲き誇る笑み。

 喜びが、心の奥深くから湧いてくる。安堵とともに、相好を崩した。

「気に入ってもらえて、よかったよ。押しつけがましかったかもって、急に心配になったから……」

「何言ってるんですか――あ、そうだ!」

 思いついたように、明るい声が弾ける。

 アフシンは腰を上げると、居間の隅に据えてあったバルバット(卵形の弦楽器)を手に取った。

 元の敷き綿にあぐらをかき、脚のくぼみに木製の胴体を載せる。

 弦を調整する、白い指先。上から流れるように順に鳴らすと、ひとつ頷いて、大きく息を吸った。

 快活で華やかながらも、哀愁の漂う旋律。明朗な声が、のびのびと歌い上げる。

 それは、今しがた贈った詩だった。驚きと感動に、胸の前で両手を握り締め、ただただ打ち震える。

 何よりの返礼。締めの一音とともに、惜しみない拍手を送る。

「――ああ、アフシン! なんて素晴らしいんだろう!」

「ありがとうございます。いい詩を読んだら、弾きたくなっちゃって」

 白雪の顔が照れて笑う。それならばと、勢い込んで、立ち上がる。

「いい詩と演奏には、舞いが必要だよね」

 おもしろそうに、金色の眉が跳ね上がる。愉快な笑みを湛え、調子のよい声音が語る。

「兄上の詩と舞いに、おれのバルバットなんて――ぜいたくすぎて、ばちが当たりますよ!」

 思わず吹き出す。顔を見合わせ、二人で笑いを味わう。

 繊細な白い指先が奏でる一曲。くるくると舞いながら、心から、可愛い弟の生誕を祝した。


 贅肉の詰まった胸に身を預けたまま、開け放した大窓の景色を眺める。

 皓々と照る、夏の月。

 気がつけば、メフリガーンまで、あと一ヵ月余りだ。瞬く間に巡っていく季節を思う。

 春の深まる二月十一日、誕生祝いの挨拶のために、ナスリーンと顔を合わせた。そこで、上機嫌な報告を聴き、作戦が功を奏したことを知った。

 しかし、事態は、一向に進む気配がなかった。

 大切な贈り物をする秋といえば、メフリガーンか誕生日である。()くにはまだ早いが、ベフナームのことだ。進捗があれば、何か話してくるにちがいなかった。

 そっと、何気なく名を呼ぶ。おもむろに、焦茶色の瞳が応える。

「最近、思うのです――早く、夏が過ぎてくれないかしら、と……」

 身体の向きを変え、視線を合わせる。たるんだ胸に手を沿わせ、甘えて囁く。

「夏が終われば、次は秋。お約束くださった、秋が来るのですもの」

 途端、黒い眉毛が、申し訳なさそうに下がる。歯切れの悪い口調が告げる。

「我がいとしい小鳥よ。もしかしたら、果たせぬやもしれぬ」

 純粋な疑問を浮かべて、不安げに瞬く。

 上体を起こす動作に合わせ、座り直す。

「すまぬのう――そちの()し方を、わしは何とも思うておらぬ。しかし、臣下の中には、()しく考える輩もいると、ファルジャードが申しての。今、説得にあたらせておるのだが、なかなか難しいようでのう」

 異国の――ましてや、征服した国の王子に、外交権限は与えられない。

 王〈シャー〉に代わり、実権を握ってきたファルジャードなら、当然、そう結論づけるだろう。

 今頃、何か手を打っているかもしれないが、こちらには、ナスリーンがいる。話が立ち消えたのでなければ、いくらでも押しようがあるのだ。焦る必要はなかった。

 慮るように眉根を寄せ、淡く微笑む。柔らかく、膝を撫でる。

「どうぞ、お気になさらないでくださいませ。確かに、楽しみではございますけれど――無理を申し上げるのは、本意ではございませんから」

「すまぬのう、シャーグルよ。(きた)るべき時が訪れたら、きっと果たすゆえ」

 優しく頷く。

 膝から手を滑らせつつ、身をしならせてすり寄る。吐息まじりに、甘く囁いた。

「気を長く、お待ちしております、ベフナーム様――ぼくは、いつまでも、慕わしいあなた様とともにおりますから……そう、いつまでも――」

 ねだるように、淡く唇を開く。

 再びの欲情に光る、焦茶色の目。腰から尻を撫でて這う、肥えた毛深い手。

 肉厚の唇が振りくるのを合図に、たるんだ太い首に腕を回した。


 *


 ファールサ暦二二五年六月十日。

 生きていて、今日のように喜ばしい日が毎年訪れるなど、やはり果報者なのであろう。

 侍従とともに祝いの品を取り上げる孫を、いとおしく眺める。

 少年らしさのすっかり消えた、青年の面立ちに移りつつある姿。髭の生え揃う日を、楽しみに想像する。

 パルヴィーズは十八歳。来年には、節目の年を迎える。ここまで無事に育ってくれたことを、神に深く感謝する。

 呼びかけられて、顔を巡らす。

 茶器を手にしたまま、ナスリーンが問いかける。

「最上寵童の件、なかなか進んでいないようだと、夫は嘆いています。――もう、六月も十日になりました。これでは、メフリガーンの発表には間に合いません。いったい、いつになったら、皆を説得できるのでしょう」

 思わぬ方向からの矢。たじろぎつつも、平静に答える。

「人の心とは、そう簡単には動かぬもの。政は、お前の思っているほど、単純なものではないのだよ、ナスリーン」

 女とは、弱く守らねばならないものである。

 ましてや、このよくできた可愛い娘ならば、なおさらだ。煩わしいことからは、遠ざけてやらなければならない。

 しかし、娘は、瞳に強い光を宿し、なおも言い募った。

「ですから、妻として、申し上げているのです。夫は、父上の長年の功績に、大変な恩義を感じています。文句などつけたくはない――しかし、シャーグルは今年、十四歳。待たせてしまっては憐れだと、弱っておいでです」

「私とて、王〈シャー〉のお心に沿いたいと、願っておる。しかし、今言ったように――事はそう、うまく運ばないものなのだ」

 答えつつも、心中で苦る。厄介なことになった。

 時が経てば、いつも通り、忘却の彼方に沈むと思っていた。

 二ヵ月前に進捗を問われたものの、それきり何も沙汰はなかった。だから、やはり失念したのだと、安堵していた。

 しかし、今回ばかりは、本格的に対策を練らなければならないらしい。

 手をつけかけた人材探しを、てこ入れするか――頭の裏で思案していたところで、固い声に覚める。

「そこを推し進めるのが、宰相たる者の役目でしょう。父上であれば、難儀するような問題ではないはずです。……それとも――」

 見定めるように、黄土色の瞳が、すっと細まる。

 緩慢に首を巡らせて、静かな声が語る。

「……最近、思うのです」

 その視線の先。

 豪奢な羽織を広げて喜ぶ、純粋な姿。

義母上(ははうえ)は、どのようなお気持ちだったのかと――血を分けた我が子の首に、手をかけた時の苦しみが……私にも、わかる気がするのです」

 華奢な手に包まれた陶の茶器が、甲高い音に軋む。

 静かな、強い意志を秘めた横顔。まさかと青ざめて、わななく声をこぼす。

「……ナスリーン……? 何を、考えておるのだ……?」

「何も……? ――ええ、何も考えておりませんわ、父上。だって、私は、無知な女ですもの」

 ゆっくりと首が巡り、見慣れた、しかし馴染みのない顔が、この上なく優しく微笑む。

 言いようのない寒気を覚えて、たまらず身震いする。

 気がつけば、言葉が滑り出ていた。

「……早急に、根回しを進めよう――ただ、その切り札として、ファールサの薔薇を迎えたいと思うのだ」

 黄土色の瞳が、不満の色を灯す。

 吸い込まれるように、喉から声がこぼれ落ちる。

「最上寵童ともなれば、披露目の祝宴は、盛大でなければならぬ。しっかりと、準備をしなければなるまい。発表は来年のメフリガーンとし、年末に授与を行えば、披露目にも間に合う。王〈シャー〉のお心にも、きっとかなうはずであろう」

 輝く暗い光が、瞬いて消える。満足した声が耳朶を打つ。

「――そうですね。私も、そう思います。王〈シャー〉にも、そのようにお伝えくださいませ、父上」

 思考が一気に開けて、愕然とする。

 今、己は、何を口走ったのか。

(……いや、しかし、時は稼げた。再来年ならば、パルヴィーズの初公務がある。規模を調整すれば、印象も変わろう)

 その前に、この一年で、ベフナームの気が変わればいいのだ。好みに合うファールサ人の少年を探し出し、マタラムの王子から、離れさせてしまえば。

 胸中で納得して頷き、改めて、娘の顔を見遣る。

 何の変哲もない微笑。

 内心、首を傾げつつ、承知の意を告げた。


 絨毯の上に並べられた、豪勢な食事。

 その中で、羊肉の煮込みに右手を伸ばし、たれごとすくい上げる。口に放り込めば、香草と香辛料の効いた旨味が、芳しく広がっていく。

 茶を注いだ少年が、隣で、にこやかに問いかける。

「お口に合いますでしょうか?」

 布巾で指を拭い、茶器を受け取る。

「悪くない。――さすがであるな、ペズマーンよ」

「お褒めの言葉、痛み入ります、宰相」

 対面に座す部下が、微笑んで答える。

 茶を喫しながら、改めて、その息子を見遣る。

 鷹羽色の髪と榛色の瞳。すっきりとした、気品ある面立ち。西方出身の母親の血を、濃く受け継いだためだという。

 しかしながら、父親は、官房庁の高官である宰相補佐官を、代々務める家系なのだ。まさに、非の打ち所のない逸材だった。

 馳走を堪能し、満足に息をつく。

 茶を味わいつつ、著名な詩を詠い上げる、紅顔の声を聴く。

 伸びやかで、通り澄ました音色。節回しも巧みである。嗜みというには、なかなかのものだった。

「――おそまつ様でございました」

 品よく一礼する姿。拍手を送り、言葉をかける。

「実によい声だ。これならば、王〈シャー〉のお心も、華やぐことであろう」

「ご清聴いただく日が、楽しみでございます」

 和やかな、愛らしい微笑。貴種の血を窺わせる高貴な光が、褐色の差した深緑の瞳に輝いていた。

 垂れ込めていた暗雲が、晴れていく心持ちで、期待をこめる。

「王〈シャー〉の心身をお慰めすることは、何よりの大切な務め。頼りにしておるぞ、ラーミン」

「お心にかなうよう、相つとめます」

 しっかりと躾けられた、隙のない丁重な礼。

 重要な仕事が一区切りついた充実感を胸に、しかと頷いた。

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