八百九十三:泰子さんの話(790) ★歎異抄の話(4)
八百九十三:泰子さんの話(790) ★歎異抄の話(4)
もちろん、これは私流儀の解釈だ。宗教家に見せたら眉をひそめるかもしれない。信心の無い私は、親鸞さんを自分と同じ人間と見ているから、決してあがめはしない。だから、「人として生まれた事自体を悦べ」の教えは、余りに抽象的な表現だ。判り易くもっと血の通った言葉として読み替えられべきと思う:
「恋愛をしなさい・人を愛しなさい・家庭を持ちなさい、そして誰かと共に人生を生きなさい」というのと、同義語だと考えている。結局は人と人との結び付きの中で初めて具体的な形を持つ。孤独の中で人生を賛美することは難しいのだ。
親鸞の生涯をみれば、僧籍でありながら恵信尼を妻とし、子をもうけ、家庭を営んだ。教えを説くだけではなく、セックスを楽しみ「生を悦べ」を自ら生活の中で実践した。だからもったいぶらず、明確にそう言えばよい。親鸞は言葉と行いが言行一致した、宗教者であったと言える。
私はなお宗教を信じる者ではないが、何時も親鸞と同じ問いを持って生きている:人は何のために生きるのか。
若い頃には、その答えは未来にあると思って頑張っていた。定年を過ぎてからは過去の栄光にあるように思えた。けれども今では、そのどちらでもなく、人として生まれ、人を愛したり悲しみながら一日一日を送る。仕事をやり、音楽を聴き、昼休みに原生林を散歩する、その営みの中にしか答えはないと考えている。
もし親鸞が「人として生まれたことを悦べ」と語った真意がそこにあるのなら、私の生活はその通りなのだろう。親鸞に共鳴し、しみじみと良く自覚できるのはーーー、紛れもなく、自分が案外と歳をとってしまったと言う事になりそうだ。
お仕舞い




