八百九十二:泰子さんの話(789) ★歎異抄の話(3)
八百九十二:泰子さんの話(789) ★歎異抄の話(3)
二十歳そこそこの青年には、人生の目的とは良い大学へ入ることであり、志望の会社へ就職することだし、愛する人と巡り会うことだし、家庭を築くことであろう。また運動選手なら、オリンピックを目指すことが人生の目的かもしれない。決して俗悪な欲望ではない。それらの欲望があってこそ、むしろ生命が未来へ向かって伸びようとする自然な姿で、必要な事だ。
そんな処へ、「人として生まれた事自体を悦べ」と説いたところで、「それは人生を十分に歩き終えた人の、感想ではないか」と、若い人に返されるだけだ。私自身も長らくそう思っていた。
人生の意味は、年齢とともに姿を変えるものだと思う。若者と老人とでは、同じ言葉であっても、響き方が違う。共通不変の人生観などというのはなくて、案外と、人間の側が作りたがる幻想なのかもしれない。
けれども、この歳になって改めて考えると、親鸞の言葉もまた別の角度から理解出来る気がする。
良い大学へ入りたいと願うことも、良い仕事に就きたいと努力することも、人を愛し、家庭を持ちたいと望むことも、その根には「生きていることが嬉しい」という感覚があるからではないか。別の言葉で、生き甲斐といってもいい。生きることそのものに価値を感じなければ、人は未来を求めて苦労などしないではないか。結局は、人の行いはどれ一つをとっても、「人として生まれて来た歓び」に収束していくのが分かる。
そう考えるなら、人生のさまざまな目標や目的は、みな一本の幹から伸びた枝葉だ。枝葉を支える幹こそが、「人として生まれたことを喜ぶ」という言葉だ。親鸞は枝を語らず、幹だけを語っている。
つづく




