表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1904/1932

八百九十二:泰子さんの話(789) ★歎異抄の話(3)

八百九十二:泰子さんの話(789) ★歎異抄の話(3)


 二十歳そこそこの青年には、人生の目的とは良い大学へ入ることであり、志望の会社へ就職することだし、愛する人と巡り会うことだし、家庭を築くことであろう。また運動選手なら、オリンピックを目指すことが人生の目的かもしれない。決して俗悪な欲望ではない。それらの欲望があってこそ、むしろ生命が未来へ向かって伸びようとする自然な姿で、必要な事だ。


 そんな処へ、「人として生まれた事自体を悦べ」と説いたところで、「それは人生を十分に歩き終えた人の、感想ではないか」と、若い人に返されるだけだ。私自身も長らくそう思っていた。

人生の意味は、年齢とともに姿を変えるものだと思う。若者と老人とでは、同じ言葉であっても、響き方が違う。共通不変の人生観などというのはなくて、案外と、人間の側が作りたがる幻想なのかもしれない。


 けれども、この歳になって改めて考えると、親鸞の言葉もまた別の角度から理解出来る気がする。


 良い大学へ入りたいと願うことも、良い仕事に就きたいと努力することも、人を愛し、家庭を持ちたいと望むことも、その根には「生きていることが嬉しい」という感覚があるからではないか。別の言葉で、生き甲斐といってもいい。生きることそのものに価値を感じなければ、人は未来を求めて苦労などしないではないか。結局は、人の行いはどれ一つをとっても、「人として生まれて来た歓び」に収束していくのが分かる。


 そう考えるなら、人生のさまざまな目標や目的は、みな一本の幹から伸びた枝葉だ。枝葉を支える幹こそが、「人として生まれたことを喜ぶ」という言葉だ。親鸞は枝を語らず、幹だけを語っている。


つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ