31 母の刺繍
「お母さま、お願いがあります」
私は久し振りに、本宅を訪ねていた。
母の姿を見つけ、声を掛ける。
母は私を一瞥すると、そのまま歩き出そうとした。
私は咄嗟にその手を捕まえる。
「刺繍糸についてお尋ねしたいのです。魔石の研究に必要なんです」
真っ直ぐな視線を向けて、真剣な表情で訴えかける。
母は根負けしたように息を吐き出した。
「刺繍糸ね。いらっしゃい」
そう言って、自室へと誘った。
「お座りなさい」
父と母の部屋に案内される。
私は言われるがままソファに座った。
母はクローゼットから道具箱を持ち出している。
(この部屋……こんなに殺風景だった?)
シンプルと言うより質素だった。
部屋に入った瞬間に芽生えた違和感が、胸の中に広がっていく。
壁を飾っていた風景画が、ない。
母の故郷を描いたもので、青く輝く大海原にいつか行ってみたいと思っていた。
子どもの頃によくその上で遊んだ、手の込んだ模様が描かれていた絨毯も消えている。
七色のガラスを組み合わせたランプも見当たらず、昔からあるテーブルとソファが中央にあるだけだ。
寝室へのドアが開いていたけれど、暗くて中はよく見えない。
「リディア?」
「あっ、はい」
掛けられた母の声にビクリと飛び上がった。
テーブルの上には、色とりどりの刺繍糸が並んでいる。
まるで流れる川のようだった。
「お母さま、これは?」
絵を描く時のパレットと、水入れのような道具も添えられていた。
それに乳鉢、小さな魔石も一緒に置かれている。
「まず、火属性の糸を作る時は、火の魔石を砕いて粉にするの。これよ」
小さな壺の蓋を開け、赤い粉を見せてくれる。
「乳鉢で擦って、十分細かくなったらこちらの器に移して、この染液を入れます」
透明な瓶を出して私の前に置く。
「魔石の粉を入れて……配合は、出したい色によって変わるわ。鉱山の魔石、火の魔獣の魔石、いろいろね」
元の石も並べて見せてくれた。
「あとは器の中で混ぜながら、ゆっくりゆっくり魔力を注ぐ。手のひらで温める感じかしら」
両手で包み込むようにして、円を描くように器ごと液体を回していた。
出来上がったのは赤く輝く液体だ。そこに糸の束を入れて染み込ませ、定着液を入れてから洗い流す。
かなり手の込んだ染め方だった。
「リディアにできるかしら」
あなたは魔法が使えないのにと、困惑した表情で頬に手を当てていた。
「できます。お母さまに教えてもらったのだから」
私は顔を上げ、キッパリと言い切った。
刺繍糸の染め方を知ることができたのは、とても大きな収穫だ。
でもそれ以上に、母と話せたことが嬉しかった。
私は刺繍糸を抱きしめて、ニッコリと笑った。
部屋に戻り、あれこれ材料をかき集めた。
とりあえず、火の魔石。それに空の魔石も出してある。
粉にするのが大変だった。袋に入れてハンマーで砕いてから、乳鉢ですり潰す。ゴリゴリと音を立てて潰してみても、なかなか細かくならない。
なんとか粉にして染液を入れて、魔法が使えないのでコンロで温めた。
ジジジ、と音がする。
嫌な予感がして、外へ持ち出した。
しばらくすると、ボンッと音がして、中身が飛び散ってしまった。
「あぁ……火が強すぎたのかな……やり直し」
また火の魔石を砕いて粉にする。
なにかいい方法はないだろうか。
パン屋さんが風の魔石で石臼を動かしていたように。
諦めて、ひたすら手で擦った。
今度は慎重に、湯煎で温めながらかき回す。
インクにならない。分裂してしまった。
もうちょっと温度を上げてみる? 別の魔石を使ってみる?
私の試行錯誤は続いていた。
「リディアさん、どうしたんですの? 青いお顔をして」
同じクラスのアデレイドさまが声を掛けてきた。
昨日根を詰めてしまったから、あまり寝ていない。
授業をサボる訳にもいかないから、なんとか前を向いていた。
「大丈夫です。あの、研究室へ行きますね」
そう答えて立ち上がり、フラフラしながら教室を出る。
アデレイドさまが心配そうに見送っていた。
研究室へ戻ると、昨日作りかけたインクが机の上に置かれたままだった。
しかも蓋が開いている。
「あっ、しまった」
家から持ってきて、朝確認をした時に閉め忘れた。
もうすっかり乾いてこびりついてしまっていた。
また最初からやり直しだ。
中身を捨てて、きれいに洗って――。
けれど水で流しても全然落ちない。キラキラと光る粉が貼り付いてしまっている。
「えっと、溶剤を入れて」
クルクルと瓶ごと回してみる。
「えっ……」
赤い光が渦を巻いて、揺らめいていた。
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