20 アイゼンバルト侯爵家
「ひとまず、数日は家に帰らない方がいい。ブルクハルト・ライアーがいる間は」
レオンさまにそう言われて、私は乗り心地のいい馬車に揺られていた。
「んふっ。レオンさまもたまにはいいことをおっしゃいますわね」
隣でアデレイドさまが嬉しそうに微笑んでいる。
ガタガタと鳴る車輪の響きさえどこか優雅で、揺れを忘れさせるほど穏やかな走りは、まるで雲の上を進んでいるかのようだった。
「お嬢さま。到着しました」
御者に言われて降り立つと、夕陽に照らされて茜色に染まる壮麗な館が目に飛び込んだ。
石を積み上げた柱に、白い壁は大理石の粉を混ぜた漆喰が塗られている。
真珠のような輝きを含み、夜が忍び寄り黒々とした山との対比が、よりいっそう館を際立たせていた。
風に吹かれて、終わりがけの薔薇の花びらが舞い上がっている。
甘い香りが私を包む。花々までも歓迎してくれているようだった。
「お帰りなさいませ、アデレイドさま」
使用人たちがずらりと並んで頭を下げている。
その仕草も洗練されていて、制服のまま訪れた私は少し恥ずかしくなった。
「お友達のリディア・フォン・エルツベルクさんよ。丁重にもてなしてください」
出迎えた執事にアデレイドさまがそう伝えると、彼はより深く頭を下げる。
私たちは風に髪を弄ばれながら、お屋敷へと入って行った。
「お茶とお菓子にございます。軽めのものをご用意しました」
花の香りがブレンドされた紅茶と、薄くスライスされたドライフルーツ、雪のように白いクッキーがテーブルに並べられている。
一口齧ると濃縮された甘みが心の疲れを洗い流してくれる。
「とても美味しいですね。アデレイドさま」
「うちのシェフは研究熱心なのですわ。お夕食も期待していてくださいな」
そう言いながら、ゆっくりとお茶を口に運んでいた。
「この後、落ち着かれたら、家の中を案内しましてよ。リディアさんもきっと気に入るわ」
いたずらっぽい瞳をしたアデレイドさまを、私はただ不思議そうに見つめることしかできなかった。
広い広いお屋敷だった。
案内の方がいなければ、すぐに迷子になりそうだ。
「リディアさんはこの部屋を使って下さいね。客間なので遠慮なさらずに」
そう言われてのぞいた部屋は、まるでお姫さまを迎えるように整えられていた。
最高級のシルクが使われた寝具にクッション、ソファも柔らかな革張りだ。
ビロードのカーテンに毛足の長い絨毯、どれをとっても我が家にあるものとは質が違う。
「リディアさんに見せたいのはお部屋じゃないんですの」
アデレイドさまは瞳をきらめかせ、足取りも軽く先を歩く。
「さ、案内して下さいな」
そう声を掛けられたのは、使用人とは少し違う、学者のように長い上着を着た壮年の男性だった。
「リディアさま、こちらをご覧ください」
そこは、井戸のある水場だった。
実用的なものとは異なり、美しい大理石で造られている。お風呂――ともまた違った。
男性は目を瞑り、水に向かって手を伸ばしている。
「あっ?」
体が淡い光に包まれて、手の先から放たれた光が、水面の上でプリズムのように乱反射していた。
わずかに表面が波立っている。
「光魔法よ」
そっとアデレイドさまが耳打ちした。
彼がゆっくりと目を開ける。体を包んでいた光が消えても、水面はまだ輝きが残っていた。
「これは……?」
何をしているのかよくわからず、一歩近づいてみた。
男性は振り返り、私たちに向けて柔らかく微笑んだ。
「アデレイドお嬢さま。魔法の照射が終わりました。これで、二週間ほどもつでしょう」
「ありがとう。いつもお世話になりますわね」
小首を傾げている私に、アデレイドさまがにっこりと笑う。
「光魔法を当てていただきましたの。これでこの井戸の水は直接飲んでも大丈夫。――しばらくの間はね」
「生水を、直接?」
驚いた。水は沸騰させてから飲まないと、体調を崩すことがある。
だからお茶やスープにするか、湯冷ましにしてから飲むのが普通だ。貴族は皆そうしている。
庶民がするように、生水をそのまま飲むなんて。
「光魔法は悪いものを消す力があることはご存知ですわね。それを、魔法使いがいない間も続くようにしたんですの」
アデレイドさまはコップに水を汲んで見せてくれた。
清らかで透き通った水だ。汚れなどは少しも感じられない。
「素晴らしいです、アデレイドさま。これが庶民にも普及すれば、病気で命を落とす人を減らせます」
「ところがそうはいきませんの。彼のような魔法使いは貴族にしかいませんでしょう? この屋敷の使用人に施すだけで精一杯、とても街の庶民までは回りませんわ」
少しだけ、困った顔をしている。
「他にも色々あるんですの。ずっと長く燃え続ける竈や、食料を冷やして長持ちさせる貯蔵庫など。どれも魔法の応用ですわ」
そういえば、玄関の薔薇も季節外れだった。もう山は雪を被っているほど寒いのに、まだ咲いているなんて。
「さすがですわ、リディアさん。あれも地面を温めて花の時期をずらす実験ですの」
実験――そうアデレイドさまはおっしゃった。
まるでおじいさまが造った離れのようだ。
「うちは父が魔法エネルギー省大臣でしょう? 研究機関だけではなくて、家でも試していることが多いんですの」
温かければ、長く野菜を作れるかもしれない。
そうなれば、飢える人も減らすことができる。
「アデレイドさま――」
こんなにも、人々のことを考えている方がいるなんて。
私はこの侯爵家に来て、今まで知らなかった、いや知ろうともしなかった世界に触れて、心を動かされていた。
「さぁそろそろ夕食ができた頃ですわ。行きましょう」
そう言ってアデレイドさまは私の手を取った。
侯爵家の豪華な夕食の後、お風呂をいただいた。
清潔な水を沸かしたお風呂にはハーブが浮かべられ、とても気持ちがいい。
温泉もいいけれど、薬草で体を癒すのも効果があって、肌はしっとりと柔らかく輝いていた。
「リディアさん、ご覧になって」
部屋に戻ると、アデレイドさまは外を指さした。
3つの月が空に昇り、庭の石を照らし出している。
小石がたくさん集められ、川のような流れを造っていた。
「わぁ素敵」
石で自然を表現するなんて、初めて見た。草木を引き立てて、本当の川より美しい。
私は庭へ下り、岩に手を伸ばした。
触れたところから光がにじみ出て輝き出す。
『天から光が舞い降りる
山は火を噴き赤い川が流れ出す
恵みの水は大地を潤し
木々はやがて豊かな実りを与えるだろう』
私は自然に踊り出していた。
代々伝わる神に捧げる歌を口ずさみ、クルクルと回って両手を伸ばす。
石の川の流れに沿って歩き出すと、ひとつ、またひとつと赤く、青く光が灯った。
蛍が光るように波になり、それは大きな川の流れとなって私を包む。
空を流れる星の川が地上にも現れた。
岩は穏やかな月の光を宿し、足元に広がる小石は優しい光で私を包んでいった。
「あれは、どういうことだ」
夕食を終え、自室から庭を眺めていた男性が声を漏らした。
少女が触れたところから光があふれ、月が光を放つように岩が、小石が、輝いている。
光の妖精が岩に命を与える、幻想の世界の光景のようだ。
「庭の空の魔石に魔力が――注ぎ込まれている?」
アデレイドの父――魔法エネルギー省大臣のアイゼンバルト侯爵が、目を光らせた。
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