19 涙の相談
「いけません。お嬢さまはお休みです。淑女の寝室を訪ねるなど非常識な行いはお控え下さい」
「あんたお堅いなぁ。この滞在は親交を深めるためのものだ。いいじゃないか」
その声は笑っていたが、下品ないやらしさが端々に混じっている。
和やかとは言えない夕食会の後、本宅ではブルクハルトさまとマーサの攻防が続いていた。
私はそっと離れに逃げ帰り、ガチャリと鍵と閂を掛けて息を殺す。
一人暮らしを始めてから、心細くて涙する時もあったけれど、恐怖に震えたのは初めてだった。
離れに隔離されていて本当によかったと心から思う。
まさか子爵の娘が独りこんなところに隠れ住んでいるなんて、考えもしないだろう。
ドレスを脱いで部屋着に着替える。履き慣れないハイヒールのせいで足が痛い。
ゆっくりと温泉に浸かりたかったけれど、音を立てて居場所がバレるのも怖いので、体を拭いてメイクを落としてからベッドに潜り込んだ。
どうして急にやってきたのだろう。
いや、理由はわかっている。
貴族令嬢たちに避けられ、庶民の娘すら娶れなかったライアー家の跡取りは、降って湧いたこの縁談を確かなものにしたかったのだ。
あの、舐め回すような視線――思い出すだけで震えが走る。
あんな人の元へ嫁ぐなど、無理だ。
彼の威圧感のある姿を目にすると、恐怖しか感じない。
結婚するなら相性の良い方がいい――。
皮肉にも、グレイ子爵が言っていた言葉が、今更ながら胸に響いた。
翌日、私はまたフランツ先生の研究室を訪ねた。
ドアを開けると、今日はアデレイドさまがいらしている。
「まぁリディアさん、どうされたんですの? そんなお顔をして」
私の顔を見るなり、アデレイドさまは眉を寄せた。
「お困りごとなら相談に乗りますぞ」
先生も穏やかな声を掛けて下さる。
足元に温かさを感じて視線を落とすと、ネイオウが首筋をこすりつけている。
腰を屈め、背中を撫でると、白黒の毛並みから温もりがじわりと伝わってきた。
それだけで、張り詰めていたものがぷつりと切れてしまった。
「先生、私……」
そこまで呟いて、言葉が途切れる。
ネイオウを抱き上げて、すがりつく。気づくと涙が止まらなくなっていた。
「落ち着きましたかな」
フランツ先生が、温かなお茶を入れてくれた。
アデレイドさまも、穏やかな表情で隣に座っていてくれる。
私はネイオウを膝の上に乗せ、カップを口に運んだ。
ハーブティーの香りが部屋に広がり、張り詰めていた心が解けていくように感じられる。
温かさが身体に染み込み、私はほっと息を吐き出した。
「先生、実は――」
私はライアー男爵家のことを話した。
家や犯罪者鉱山の仕事のこともあるけれど、どうしてもブルクハルトさまが受け入れられないということも。
「ライアー男爵家の跡取りですって! 何てことなんですの。乱暴者で、騎士として働いていた時も規律を守らず、問題ばかり起こしていた荒くれ者と聞いていますわ」
真っ先に反応したのはアデレイドさまだ。
やはり令嬢たちの間でも、評判はよくないらしい。
「悪い話しか耳にしませんな。次期鉱山領主としても、搾取に横領、賄賂に賭博――とてもまともな人間とは思えません」
「でも鉱山のお仕事はこなされていて、莫大な利益を上げているとお父さまが……」
「権力と暴力で押さえつけているのですな。その利益もまともな手段ではありますまい」
そう言って目をつむり、静かに首を振る。
「パーティで令嬢たちに無理に迫って、怪我をさせたとの噂なんですの。騎士の皮を被った獣ですわ」
私は震え上がった。そこまで評判が悪かったなんて。
「どうしてエルツベルク子爵は、そんな相手をリディアさんに勧めたんですの」
「そこまで領地経営が上手くいっていないということですな」
「まぁ! リディアさんなら、もっといいお相手が見つかるでしょうに」
いつも穏やかなアデレイドさまが、珍しく声を荒げる。
「そうだね。いくらなんでも娘のことを考えていない縁談だ。貴族に知れ渡れば、家の格が落ちてしまいかねない」
本棚の影から、もう聞き慣れた声が響いてきた。
「んまっ。レオンさま。黙ってレディの話に聞き耳を立てるなんて、非常識というものですわ」
「今日は本当に昼寝をしていたんだ」
悪びれる風でもなく、あくびをしながらアデレイドさまの言葉を受け流す。
「それよりも、その縁談をなんとかしないと」
「リディアさんがライアー男爵家に嫁がされるなんて、国家的な損失ですわ」
さすがに子爵家の娘の結婚話で大袈裟な表現だけれど、私にとっては一生を左右する大問題だった。
「ふむ。我々からエルツベルク子爵に話を通してみるべきですな」
「まぁ。でしたらクラスメイトの私が」
アデレイドさまが心強い言葉を添えて下さる。
「いや、その話――私に任せてはもらえないだろうか」
フランツ先生とアデレイドさまは、ハッと目を見開いて彼に視線を向ける。
白黒の尻尾もピンと立ち上がった。
レオンさまは胸に手を当て、片膝をつく騎士の礼を取り、真っ直ぐに私を見上げた。
「旦那さま。リディアお嬢さまから今日は家に戻らないと、ご伝言がありました」
「なんだと! あいつめ、勝手なことを」
「ブルクハルト氏がいらっしゃるというのに、礼を欠く行いではないか」
エーリヒも苦虫を噛み潰したような表情で言葉を吐く。
「こちらがお嬢さまからのお手紙です」
使用人が差し出した紙を受け取り、目を走らせたエルツベルク子爵の顔色が変わる。
「何? いつの間にそんなことになっていたのだ。これでは反対できんではないか」
「何と書いてあるのです父上」
その内容を見たエーリヒは、思い当たることがあるのかハッと目を見開いた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
よろしければ、続きを読んでいただけると嬉しいです。




