02 婚約破棄
「ただいま戻りました」
あれから私は家へと急ぎ、石造りの門をくぐった。
そこでようやく魔物の恐怖から解放されて、玄関の扉を開けたのだった。
(……?)
おかしい。誰も出てこない。
いつもならメイドの誰かが「おかえりなさいませ」と出てくるのに、なぜか今日は一人もいない。
不審に思っていると「まぁお嬢さま、そんな慌てたなりでどうされたのです」と言いながら、家政婦長のマーサが現れた。
帰宅した私の姿を見て目を丸くしている。
全力で走ったから髪も服もグシャグシャだ。
また魔物が現れたらと思うと怖かったのだから、仕方がない。
乱れた息を落ち着かせながら、ゆっくりと屋敷の中へ足を踏み入れる。
「ええ、ちょっと……おじさまとジークは?」
「はい、……グレイ子爵は先程いらして、旦那さま方とお話をされています」
マーサの口元が、ヒクリと強張ったように見えた。
けれどすぐに何事もなかったかのような表情になり「お手伝いします」と言ってついてきた。
私は自室に戻り、学校の制服を脱いで、訪問客を迎えるためのドレスに着替える。
そのままドレッサーの前に座った。
「簡単に仕上げさせていただきます。こんなに髪を乱して」
そう言いながらブラシを動かし、淡い茶色の髪を手早く編み込んだ。
仕上げに髪飾りでまとめると、軽く化粧も施してくれる。
「ありがとう。ジークはきれいだって言ってくれるかしら」
お世辞でも、彼の口から聞くのはとても嬉しい。
彼と過ごす時間は、いつだって私を幸せな気持ちにしてくれた。
手を取られ、甲にキスをされる瞬間、心は空へと舞い上がる。
立ち上がり、おかしなところはないかと鏡の前でくるりと回って見せた。
瞳と同じ森色のピアスの魔石がキラリと光る。
「さ、お客さまがお待ちです。後でお茶をお持ちしますね」
なぜか私の問いには答えなかった。
彼女に促され、リビングへと向かった。
「リディアです。失礼します」
リビングのドアをノックして、ドアを開けた。
父、母、兄、それに執事と父の副官が立っている。
向かい側のソファには、グレイ子爵、ジーク、子爵の補佐が脇に控えていた。
そこは異様な空気に満たされていた。
憔悴した表情の父、母は俯いたままこちらを見ようともしない。
兄は顔を引き攣らせ、鋭い視線を私に向ける。
奥のソファに座っているジークは、焦点の合わない瞳を宙に泳がせていた。
そして――ジークの父であるグレイ子爵は、氷のように冷たい瞳を真っ直ぐに私に向ける。
「お、おじさま……?」
凍った手で心臓を掴まれたような心地がした。
いつも穏やかで優しい子爵がこんな表情を見せるとは、ただ事ではない。
執事の無言の圧力に促され、緊迫した面持ちでソファに腰を下ろす。
重々しく口を開いた子爵から出たのは、ナイフのような言葉だった。
「リディア嬢、私の長男、ジーク・グレイとあなたの婚約を、破棄させていただく」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
私とジークが、なんですって?
「婚約はなかったものとする。あなたが我が家に嫁ぐことは、もうない」
言葉を呪文のように繰り返す。
そこでようやく私はその意味を理解した。
「え……待ってください。そんな、どうして」
息が、できない。見えない何かが首を締めている。
私は溺れたように口をパクパクと動かして、なんとか声をひねり出す。
「どうしてですと?」
グレイ子爵の声は冷たく容赦がない。
「あなたが一番その意味をわかっているはずだ。――魔力の無いあなたには、我が家の跡取りの妻は務まらない」
その言葉が私の胸を貫いた。
「グレイ子爵」
父の声が、腹の底から絞り出される。
血の気のない顔を上げ、納得できないと言葉を吐き出す。
「確かに近年、我が領の魔石の生産量は落ちている。しかし、だからと言って子どもの結婚まで」
「だからです、エルツベルク子爵」
グレイ子爵は父に向き直った。
「こちらにも余裕はない。だから、強い家との繋がりが必要なのです」
表情を崩さず言い切った。
「羊毛の産地である我が家と、魔石を産出する領地を持つエルツベルク家となら、本来なら願ってもない良縁だった。しかし今や見る影もなく落ちぶれ、没落寸前と言っていい。――これが魔石鉱山領主の家ですか」
言いながら天井を飾る魔石シャンデリアに視線を巡らせる。
光の魔石は力を失ったまま取り替えられず、代わりにロウソクの炎が部屋を照らしていた。
魔石は、この世界のあらゆる生活を支えている。
もう魔石なしでは暮らしていけないほどだった。
けれど最近、我が領で採れるのは空の魔石ばかりだ。
魔力のない石など何の役にも立ちはしない。
子爵は真っ直ぐに私を見据えた。
「その上リディア嬢まで魔力なしときては、婚約を考え直すのも当然だ」
沈黙が部屋に流れる。
「父上!」
それを遮ったのは、呆然としていたジークだ。
「私……私は、幼い頃からリディアと仲が良く――」
「それはわかっている。結婚するなら相性の良い方がいい。だから子どもの頃に何人もの令嬢の中からリディア嬢を選んだ。しかし今は状況が変わってしまった」
子爵は鋭く息子のジークに視線を飛ばした。
「彼女ではお前を支えられない。そして、お前も妻の助力なしで家を盛りたてられるほど、優秀ではない」
ひくりとジークの顔が強張った。
「お前には魔力のある、裕福な家の娘と結婚してもらう。それが、領地を預かる貴族としての責務だ」
部屋の中に重苦しい沈黙が広がった。
ジークはしばらく凍りついたように動かなかった。
けれどやがて、顔をあげた。
「リディア、すまない」
唇は震え、目には涙を浮かべている。
「私が、力不足だったんだ」
そう言って頭を下げる。
彼からは――私と作る未来の言葉は、出なかった。
そのことが、ゴーレムの炎よりも深く私を焼いた。
「そんな……!」
私は悲鳴とも、嗚咽とも言えない声を漏らした。
突然部屋が明るくなり、光があふれる。
「な、なんだ……シャンデリアが、灯った?」
「まだ魔力が残っていたのか」
その光はすぐに消えた。
けれど確かに息を吹き返したのだ。
「魔力の切れた魔石が再び光るなど、ありえない。どういうことだ」
専門家である父と兄が互いに顔を見交わした。
「確かに魔力はない。……なのに、なぜ」
シャンデリアの魔石に触れた兄が、険しい表情で言葉を漏らす。
しかし、そんな騒ぎもすぐに収まった。
こうして私はその日、婚約を破棄されたのだった。
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