第38話 逆流数式
【アレン視点】
最古参の幹部たちがアイギスブローチを外し、ただの「ちょっと優秀な一般人」に戻ったことで、玉座の間にはかつてないほど穏やかで、清々しい空気が満ちていた。
誰もが憑き物が落ちたような顔で、これからのささやかな日常について語り合っている。
しかし、その和やかな空気を引き締めるように、テオが神経質そうに眼鏡を押し上げ、魔石演算機のパネルを弾いた。
「アレン。僕たちが魔法陣から抜け出し、システムを停止させることには賛成だ。……だが、問題は事情を知らない子孫会員たちだよ」
テオの冷徹な指摘に、ザックやルカたちもハッとして表情を硬くした。
現在、『星盾の互助陣』に組み込まれているのは、南国、西国、北国、そしてこの帝国の市民を合わせた数千万人に及ぶ下部会員たちだ。彼らは今この瞬間も、「寝ているだけで経験値が入り、強くなれる」という甘い蜜に依存しきっている。
「急に不労所得の甘い汁を絶たれれば、世界規模の暴動が起きるのは明白だ。あるいは、経験値の流入が止まったことで、深刻な精神的禁断症状を引き起こす者も大量に出るだろう」
テオが演算機に表示された巨大なピラミッド型の組織図を指差す。
「彼らにとって、君は神のような存在だ。その神が突然、何も言わずに梯子を外せば、世界は再び混沌に陥る。最悪の場合、帝国時代よりも酷い略奪や殺し合いが始まるかもしれない」
「チッ……確かにそうだな。暴動が起きたら、一般人に戻っちまった俺たちじゃ止められねえぞ」
ザックが頭を掻きむしり、カルメンも扇を口元に当てて眉をひそめた。
彼らの懸念はもっともだ。人間の「強欲」を極限まで肥大化させたのだ。それを急に奪い去れば、反動で世界が壊れるのは目に見えている。
だが、僕は玉座の肘掛けに寄りかかり、一切の焦りを見せることなく、いつものように優しく笑った。
「心配無用ですよ、テオ。彼らをそのまま放置して逃げるほど、僕は無責任な親ではありません。その暴動の懸念すらも、最初から完璧な数式で計算済みです」
僕は玉座から立ち上がり、テオの元へと歩み寄った。
そして、彼の持っていた魔石演算機を受け取ると、管理者権限でシステムの最深部――アイギス・ネットワークのコア・プログラムへとアクセスする。
「魔法陣をただ消滅させて終わり、なんて野暮な真似はしませんよ。解散の瞬間に備えて、最初からある仕掛けを作っておいたんです」
「仕掛け……?」
「テオ、君は最近のデータ流動を見て、何か気づきませんでしたか?」
僕が演算機の画面をスワイプし、特定のグラフを彼に見せると、テオは目を丸くした。
「これは……君への経験値の流入量を示すグラフか? 莫大な経験値が送値されているはずなのに、君のステータスへの還元値が、数ヶ月前から完全に横ばいになっている……」
「ええ。実は、すでに何ヶ月も前から、僕の能力値は限界に達していました。これ以上は、どれだけ経験値を吸い上げてもレベルアップに消費することはできなかったんです」
僕の言葉に、幹部たちが驚きの声を上げる。
「カンストって……じゃあ、俺たちが送ってたあの天文学的な経験値は、一体どこへ行ってたんだよ?」
ザックの問いに、僕は演算機の画面をさらに切り替え、システム内に隠されていた『巨大なダム』のような蓄積領域を表示させた。
「ここです。僕が消費できなかった最上親の莫大な余剰経験値は、すべてシステム内の裏領域にプールしておいたんです。南国、西国、北国、帝国の数千万人が、何ヶ月もかけて稼ぎ出した経験値の総量……そのすべてが、手つかずのままここに溜まっています」
「な、なんて莫大なエネルギーだ……。一歩間違えれば、世界を二、三個吹き飛ばせるぞ」
テオがゴクリと唾を飲み込んだ。
「さて、ここからが本番です」
僕は魔石演算機のパネルに、高速で新たな魔法幾何学の数式を打ち込み始めた。
「末端から最上親へ向けて吸い上げるように設定していた経験値のベクトルを、たった今から反転させます。そして、このプールされた致死量を超える経験値を、魔法陣の解体と同時に、全会員に向けて一斉に逆流させるんです」
「ぎゃ、逆流させるだって!?」
ルカが声を裏返した。「アレン、そんなことをしたら、彼らの身体が経験値の奔流に耐えきれずに破裂しちゃうんじゃないか?」
「普通の逆流ならそうなるでしょうね。ですが、そこは僕の構築した数式です」
僕はキーを叩く手を止め、完成した複雑怪奇な数式をテオに見せた。
「テオ。君なら、この数式の意図が読み解けるでしょう?」
テオは眼鏡を押し上げ、食い入るように画面を覗き込んだ。
数秒間、彼の目は信じられないものを見るように見開かれ、やがてその肩が微かに震え始めた。
「アレン……君、この還元数式……ッ!」
テオはバッと顔を上げ、震える声で叫んだ。
「ピラミッドの階層を完全に無視している!それどころか、末端の会員であればあるほど、より多くの経験値が分配されるように、極端なウェイトをかけているじゃないか!」
「どういうことだ、テオ?」
ザックが身を乗り出して尋ねる。
「つまりだ、ザック。上の階層で楽をしてふんぞり返っていた親会員には最低限の経験値しか戻らず、一番下で泥水すすって、毎日血眼で魔物を狩らされていた最末端の人間たちにこそ、最大の経験値が降り注ぐように設計されているんだ! 今まで搾取されていた分を取り返し、僅かだが割り増しして直接還元される!」
テオの解説を聞き、幹部たちは息を呑んだ。
アイギス・ネットワークの冷酷な階層社会。上が下を食い物にする、絶対的な不平等。
僕はその構造を利用して帝国を滅ぼしたが、最後の最後に、そのピラミッドを根底からひっくり返す『究極の平等数式』を隠し持っていたのだ。
「……アレン。君ってやつは……」
ルカが、どこか呆れたような、それでいて深い敬意を込めた眼差しで僕を見た。
「あんなに『強欲』だの『合理性』だのと言って、サイコパスの仮面を被っていたくせに。本当は最初から、底辺で苦しむ連中を救うつもりだったのかい?」
「勘違いしないでください、ルカ」
僕は照れ隠しのように、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「僕はただ、完璧な論理と数式を追求しただけです。最も汗水流して、最高の高い経験値を納品してくれた労働者に、一番高いボーナスを支払う。……ビジネスにおいて、これほど合理的で美しい決算はないでしょう?」
僕が言い放つと、幹部たちは一瞬きょとんとした後、こらえきれないといった様子で一斉に吹き出した。
「はははっ! ちげえねえ! お前はやっぱり、世界一の詐欺師で、世界一の天才だよ!」
ザックが腹を抱えて笑い、ガンツやバッカスも嬉しそうに頷いている。カルメンも「本当に、憎めない男ね」と優しく微笑んだ。
彼らの笑い声に包まれながら、僕は魔石演算機の最後の実行ボタン(魔力起動スイッチ)に指をかけた。
「さて。それでは、世界数千万人の働き蜂たちに、僕からのささやかな『退職金』を支払う、総決算のファイナルショーを始めましょうか」




