第37話 ブローチ返却
【アレン視点】
静寂が支配する玉座の間。
最初に沈黙を破ったのは、ザックの腹の底から湧き上がるような笑い声だった。
「……っはは、あーっはははは!」
ザックは豪快に笑いながら、太い腕で自分の顔を覆った。
「あーあ、ついにこの狂った夢祭から覚める時間が来ちまったか!」
続いてルカも、肩の力を抜いて柔らかく笑い出した。
「全く。せっかく世界一の権力者になれたのに、君ってやつは本当に欲がないね。でも……まあ、十分すぎるほど楽しませてもらったよ」
彼らの反応に、戸惑いを見せていた他の幹部たちの顔からも、次々と憑き物が落ちたように穏やかな笑みがこぼれ始めた。
テオが眼鏡の奥の目を細め、ガンツが豪快に髭を撫でる。
彼らは最初から、この圧倒的な力と富が「復讐のためにアレンから前借りした一時的なもの」であると深く理解していたのだ。システムに溺れて本質を見失った他の下部会員たちとは違う。彼らは、あの絶望の底だった鉱山から僕と共に這い上がってきた、真の同志だった。
「……一般人に戻る、か。悪くないね」
ルカが天井を見上げながら呟いた。
「毎秒経験値が流れ込んでくる生活もスリルがあったけど、少し疲れちゃったよ。僕は南国に戻って、小さな酒場でも開こうかな。今度は詐欺まがいの勧誘じゃなくて、普通のエールと美味い飯を出す、まっとうな客商売をさ」
「へっ、それなら俺も故郷のドワーフの里に帰るか」
ガンツが特注のエプロンをポンと叩いた。
「アレン様のおかげでこの腕を取り戻せた。これからは大量生産の安いブローチじゃなく、丹精込めた本物の武具を打ちたい。……孫の顔も、そろそろ見たいしな」
「じゃあ私は、その酒場か鍛冶屋の常連にでもなろうかしら」
カルメンが扇を閉じ、悪戯っぽく微笑んだ。
「男たちを手玉に取るのも飽きてきたわ。これからは、まっとうで平凡な恋でも探してみようかしらね」
「僕は……もう一度、魔法幾何学を一から学び直そうと思う。今度は人を搾取するためじゃない、世界を豊かにするための数式をね」
テオが魔石演算機を愛おしそうに撫でながら語る。
バッカスもジェスターも、神のような力と決別し、ささやかな日常へと戻っていく未来を、まるで少年のように目を輝かせて語り合っていた。
「おい、アレン」
ザックが僕の前に進み出た。彼は、システムによって異常発達した自分の胸元の筋肉越しに、あの鈍く光るアイギスブローチを鷲掴みにした。
「この魔法陣がなきゃ、俺たちはただのひ弱な人間に戻っちまう。……だがな」
ザックは真剣な眼差しで僕を見据えた。
「このブローチが無くても、俺たちの絆は絶対だ。そうだろ?」
「……ええ」
僕は小さく頷いた。
「あの薄汚い坑道で泥水すすりながら、お前の狂った計画に乗った時から、俺たちの命はお前に預けてある。力が消えようが、富がなくなろうが、俺たちが一緒に帝国をひっくり返したっていう『真実』だけは、誰にも奪えねえよ」
ザックの熱い言葉に、幹部たちが深く頷く。
「そうだな。思い返せば、無茶苦茶な日々だったぜ」
バッカスが笑いながら言う。
「俺なんて、アレン様に腕をへし折られてから、ずっと組織の番犬扱いだ。まあ、生意気な帝国貴族どもを泣かせるのは最高に楽しかったがな!」
「バッカスさんの圧迫は、見てるこっちがチビりそうでしたよ。でも、一番狂ってたのはジェスターの演出だろ? あの大規模セミナーの洗脳空間、今思い出しても鳥肌が立つね」
ルカが茶化すと、ジェスターが大げさに胸に手を当ててお辞儀をした。
「最高の褒め言葉です。人間の強欲を芸術に昇華させた、私の生涯の傑作ですからね!」
玉座の間に、朗らかな笑い声が響き渡る。
泥にまみれ、鞭で打たれ、明日生きる希望すら持てなかった奴隷時代。
そこから詐欺と悪意だけで成り上がり、強大な魔物や帝国軍と対峙してきた過去の苦難。
そのすべてを、彼らは今、ただの笑い話として吹き飛ばしていた。
彼らの魂は、最初から最後まで、誰にも、どんな欲望にも支配されてなどいなかったのだ。
「さて……それじゃあ、夢の時間はこれでおしまいだ」
ルカがスーツの胸元から、輝くアイギスブローチを取り外した。
カチャリ、と小さな金属音を立てて、僕の目の前にある豪奢なテーブルの上にそれが置かれる。
「返しておくよ、アレン」
それを皮切りに、ザックが、テオが、ガンツが、カルメンが。
最古参の幹部たちは次々と、何の未練もない清々しい笑顔でブローチを外し、テーブルの上に並べていく。
一つ、また一つとブローチが置かれるたびに、彼らの体から凄まじい魔力のオーラが消え去っていく。異常発達していた筋肉は本来の引き締まった肉体へと戻り、張り詰めていた緊張感が解け、ただの「ちょっと優秀で、少しだけ人生経験の豊富な一般人」の姿へと戻っていった。
最後のジェスターがブローチを置き終えると、玉座の間には、僕がシステムを構築する前に共に坑道で語り合った、あの時のままの仲間たちの姿があった。
「これで全員だ。……全部、終わらせるんだな、アレン」
ザックが晴れやかな顔で息を吐き出した。
僕はテーブルの上に並べられた、彼らのアイギスブローチを見つめた。
この数年間、僕は彼らに冷徹な合理性を説き、サイコパスのような仮面を被って、数千万の人間を搾取するための「悪のカリスマ」を演じ続けてきた。彼らもまた、僕のその悪魔的な頭脳に心酔し、付き従ってくれていた。
だが、今この瞬間だけは、その仮面は必要なかった。
僕はゆっくりと顔を上げ、彼らを見渡した。
そして、玉座の間という帝国の最も格式高い場所で、僕からすべてを奪った連中が座っていた玉座を背にして――僕は深く、深く頭を下げた。
「……アレン?」
驚く彼らに向かって、僕は顔を上げ、かつて理法国メトリアの図書館で友人と笑い合っていた頃のような、年相応の純粋な顔で微笑んだ。
「今まで、僕のこの狂った復讐に付き合ってくれて……本当に、ありがとうございました」
それは、建前でも、洗脳のための甘い言葉でもない。
心の底からの、ただのいち人間としての本心の感謝だった。
僕のその顔と言葉に、幹部たちは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに皆、照れ臭そうに、けれど最高に優しい笑顔を返してくれた。
「馬鹿野郎。何を改まってんだ。礼を言うのはこっちの方だ」
ザックが僕の肩を軽く殴り、ルカが「そうだね、最高の夢だったよ」と僕の背中を叩く。
帝国への復讐という暗い執念から始まった、人類史上最悪のピラミッド型搾取システム。
その中枢であったはずの玉座の間は今、ただの人間へと戻った仲間たちの、暖かく、そして確かな絆の熱に包まれていた。
こうして、星盾の互助陣を立ち上げた最初期のメンバーたちは、誰に強要されるでもなく、自らの意志で見えない鎖を解き放った。
残るは、システムに依存しきった世界中の数千万の下部会員たちに対する、最後の『清算』だけだ。
僕はテーブルの上のブローチを一つにまとめると、窓の外に広がる、何も知らない平和な帝都の空を見つめ、静かに息を吸い込んだ。




