第29話 賢人アルキメデス
【アルキメデス視点】
私、アルキメデスは、かつて理法国メトリアにおいて、最も優れた知能と研究成果を持つとされる『十三人の賢人』の一人であった。
しかし、その仰々しい肩書きとは裏腹に、私の日常は決して華やかで満ち足りたものではなかった。生まれや血筋に関係なく、純粋な学力と実績のみで身分が決まる完全な実力主義のこの国において、私は賢人の『末席』に過ぎなかったからだ。
「アルキメデス殿。あなたの提唱するその数式は、理論としては美しいかもしれませんが、実用性に欠けます。魔力伝導率のロスが三パーセントも生じている。それでは都市全体のネットワークを維持できません」
広場で行われる公開討論会。学者たちが己の論理のみを武器に殴り合う最大のエンターテインメントの場で、私の持論を冷酷なまでに切り捨てたのは、まだ弱冠十代の小僧――国家魔力基盤・首席設計士であるアレン・クロウだった。
「な、なんだと……っ! 長年の経験に基づいた私の計算を、若造が否定するか!」
「経験則は時にノイズとなります。完璧な数式と論理こそが、誰に対しても公平で、世界で最も美しい。そうでしょう?」
アレンが涼しい顔で黒板に書き殴った数式は、私のそれよりも遥かに無駄がなく、圧倒的に合理的だった。
観衆からどよめきと感嘆の声が上がり、私に向けられたのは残酷な嘲笑だった。恩師である老賢人ソクラも、アレンを「歴史的な大天才」と手放しで絶賛していた。
彼が構築する『完璧な論理』の前に、私は幾度となく敗北を喫した。
私より遥かに年下の若造が、国の重要な防衛魔法陣や魔力供給ネットワークの設計を次々と任され、莫大な研究費と名声を手にしていく。
一方の私は、彼に論破された『時代遅れの学者』という烙印を押され、有望な弟子は一人も集まらず、任される国家事業もごく僅か。当然、収入も低く、賢人という名ばかりの惨めな生活を強いられていた。
「完璧な数式と論理こそが美しい……だと? 反吐が出る」
薄暗い研究室で、私は一人毒づいた。
いくら高尚な真理を探究したところで、名声と富が得られなければ何の意味もないのだ。
そんな屈辱と嫉妬にまみれた日々を送っていたある日、私の前に一人の女性が現れた。
世界征服を目論む覇軍帝国ガルディアから、魔法幾何学の研鑽のために留学してきたというその若い女性は、見目麗しいだけでなく、非常に『賢い』女だった。
彼女は他の学者のようにアレンを称賛することはなく、私の古風だが堅実な魔法理論を熱心に学び、そして私の干からびたプライドを心地よくくすぐり続けた。
私は、彼女をたった一人の愛弟子として迎え入れた。
だが、彼女の真の目的が魔法の研鑽などではないことに気づくのに、そう時間はかからなかった。
「先生のその類稀なる頭脳、この小さな国で腐らせておくにはあまりにも惜しい。……我が帝国であれば、先生を国賓としてお迎えし、一生遊んで暮らせるだけの莫大な領地と名誉貴族の地位をご用意できますわ」
ある夜、彼女は私の胸元にすり寄り、耳元で甘く囁いた。
それは、明確な裏切りの誘いだった。
「……帝国は、我がメトリアをどうするつもりだ?」
「ご安心を。この国は高度な技術を持っています。帝国はメトリアを傀儡国家として永続させる方針です。ただ、あの『絶対防衛魔法陣』が少しばかり邪魔なだけでして……。先生のお力で、その扉の鍵を内側から開けていただきたいのです」
彼女の美貌。その柔らかな感触。そして何より、私を末席へと追いやったあのアレン・クロウの『完璧な防衛陣』を、この私の手で無力化できるという暗い愉悦。
私は、そのあまりにも甘美な誘惑に、あっさりと心を売った。
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その夜、アレン・クロウが人生を懸けて構築した美しく論理的な広域防衛魔法陣は、極めてあっけなくシャットダウンされた。
十三人の賢人の一人である私が、帝国の軍勢が攻め入る時間に合わせて内側から防壁の解除をし、国を売り渡したからだ。
防衛の要を失ったメトリアは、たった一夜で陥落した。
空に浮かぶ真理の天球大図書館は紅蓮の炎に包まれて墜落し、数千年の知識の集積は野蛮な帝国兵たちの軍靴に踏みにじられた。
「話が違うではないか! メトリアは傀儡国家として存続するのではなかったのか!」
燃え盛る街並みを見下ろしながら、私は傍らに立つ彼女――帝国のスパイに詰め寄った。しかし、彼女は冷たい笑みを浮かべるだけだった。
「帝国が欲しかったのは技術と資源だけです。歯向かう小国の人間など、生かしておく理由がありませんわ。まっ、せいぜいこの中で生き延びるほどの生命力のある者は奴隷にでも致しますわ」
街の至る所で、抵抗する市民たちが容赦なく虐殺されていく。悲鳴と怒号が夜空に響き渡る。
だが、不思議なことに、更地へと変わっていく故郷を見ても、私の心には一抹の罪悪感も湧き上がってこなかった。
むしろ、あの忌々しいアレンの傑作が崩壊し、私を見下していた賢人たちが逃げ惑う姿に、ある種の清々しさすら覚えていたのだ。
「……いや、これでいい」
私は燃える大図書館を背に、自分自身を納得させるように呟いた。
どれほど完璧な論理や美しいシステムを作っても、それを行使するのは結局のところ『人間』なのだ。金、地位、名誉、そして嫉妬。人間のむき出しの『強欲』の前では、どんな高尚な真理も無力に崩れ去る。
こうして何度も歴史は繰り返してきた。
これこそが、人間の進化の理ではないか。
私は強欲に従い、生き残る道を選んだ。ただそれだけのことだ。
やがて、捕縛されたメトリアの生存者たちが、帝国の兵士たちによって広場に引きずり出されてきた。
その中には、重い鎖に繋がれ、土にまみれたあのアレン・クロウの姿もあった。
私は、あらかじめ用意されていた真新しい帝国の軍服に袖を通し、優越感に浸りながら悠然とした足取りで彼に歩み寄った。
「アレンよ。お前の作った完璧な防衛陣は、内側からだと実に脆かったな」
泥だらけの顔を上げた彼と、視線が交差する。
彼の瞳には、自身の論理が破られたことへの混乱と、かつての恩師であった老賢人ソクラの死を悼むような、深い絶望が渦巻いていた。
「な、なぜ……アルキメデス……あなたが……」
掠れた声で問い詰める若き天才を見下ろし、私は醜悪な笑みを浮かべて言い放った。
「命と金が一番大事だ。お前のくだらない論理で、腹は膨れるのか?」
その言葉は、アレンの人生と、彼が信じていた価値観のすべてを完全に否定するものだった。
彼がどんなに美しい数式を描こうとも、私のこの利己的な裏切り一つで、彼はすべてを失い、名もなき鉱山奴隷へと落ちていくのだ。
「フハハッ! アハハハハッ!」
燃え盛る故郷を背に、私は腹の底から高笑いした。
若き天才に完全勝利し、帝国の名誉貴族としての安泰な未来を手に入れた。私はついに、人生の頂点に立ったのだ。
この時の私は、完全に酔いしれていた。
私が植え付けたこの「論理が強欲に屈した」という強烈なトラウマと絶望が、後にアレン・クロウという男を、人間の欲を徹底的に利用する『最悪の搾取システム』の創造主へと変貌させてしまうことなど、知る由もなかったのだから。




