第26話 兵士の買収
【アレン視点】
数万の帝国軍のど真ん中。重武装の兵士たちが密集する最前線に、僕は音もなく舞い降りた。
土煙が晴れ、仕立ての良いスーツを隙なく着こなした僕の姿が現れると、周囲を取り囲む兵士たちは恐怖と混乱で完全に硬直した。
彼らの顔には、色濃い疲労と絶望が張り付いている。低賃金で最前線に立たされ、上層部の貴族たちが安全な場所でふんぞり返っている間、彼らは使い捨ての駒として命をすり減らしているのだ。
「毎日、血と泥にまみれて戦い、得られるのは僅かな小銭だけ。……そんな非効率な人生、今日で終わりにしませんか?」
僕は懐から、鈍い光を放つ鉄の『アイギスブローチ』を無数に取り出し、彼らの目の前に掲げた。
「君たちに究極の二択を差し上げましょう。このまま無意味に『帝国のために死ぬ』か、それともこのブローチを受け取り『我々のネットワークで不労所得を得た豊かな人生を送る』か」
静まり返る戦場。帝国の規律と、目の前に提示された甘美な『強欲』の誘惑。
その均衡を破ったのは、かつて南国方面の街道で僕と遭遇し、命拾いをしたあの若い兵士だった。
「……アレン様」
ハンスという名のその青年兵士は、震える手で持っていた粗悪な剣を地面に投げ捨てた。
「帝国なんかのために、死んでたまるか……! もう迷わない。俺は、あんたの組織に入って豊かな人生を選ぶ!」
ハンスが真っ先に駆け寄り、僕からブローチを受け取った。その瞬間、彼との間に見えない魔法陣が刻まれ、僕の子会員としてシステムに組み込まれた。
これを合図に、兵士たちの間に張り詰めていた「帝国の忠誠」という薄っぺらい糸が、音を立ててちぎれ飛んだ。
「俺もだ! もうこんな軍隊ウンザリだ!」
「ブローチをくれ! 俺も不労所得が欲しい!」
雪崩を打つように、前線の兵士たちが次々と武器を捨て、僕のブローチを求めて群がってくる。
彼らが契約を結ぶたびに、僕の体内へ流れ込む経験値のパイプがさらに太く、強固になっていく。剣を交えることすらなく、帝国の軍隊が端から丸ごと僕の組織ピラミッドへと買収され、飲み込まれていく。
これこそが、人間の『強欲』を利用した究極の蹂躙だ。
「待てぇぇぇいッ!!」
その時、戦場を揺るがすほどの凄まじい怒号が響き渡った。
寝返る兵士たちの群れを乱暴に掻き分けて現れたのは、重厚な鎧を纏い、歴戦の覇気を放つ猛将――最強の聖騎士団長、ガウェインだった。
「貴様ら、帝国の武と誇りを忘れたか! 敵前逃亡は死罪だ! その薄汚い命で贖え!」
ガウェインは血走った目で激昂し、手にした巨大な大剣を振り上げた。彼の標的は、真っ先に寝返った青年兵士、ハンスだった。
見せしめのために放たれた、聖騎士団長の本気の一撃。
ハンスが絶望に顔を歪め、死を覚悟して目を閉じた――その瞬間。
ガキィィィンッ!!!
鼓膜を破るような金属音と共に、ガウェインの渾身の一撃は、空中で完全に停止した。
「な、なにィ……!?」
ガウェインが驚愕に目を見開く。
僕はハンスの前に立ち塞がり、ポケットから片手を出しただけの姿勢で、その巨大な剣を不可視の魔力障壁で受け止めていた。
「野蛮ですね。私の大切な会員に、軽々しく手を上げないでいただきたい」
僕は氷のように冷たい笑顔を浮かべ、指先を軽く弾いた。
「彼はこれから、僕のために一生懸命『経験値』を稼いでくれる、貴重な資産なんですから」
バヂィィィンッ!!
弾いた指先から、数百万人の労働経験値を圧縮した規格外の魔力を爆発的に放った。
凄まじい衝撃波がガウェインを襲い、彼の巨体は為す術もなく吹き飛ばされた。幾重にも防御魔法が施された特注の鎧がひしゃげ、彼は血を吐きながら大地に叩きつけられた。
「が、はぁっ……! ば、馬鹿な……我ら帝国の武が……こんな、得体の知れない小細工に……」
膝をつき、必死に立ち上がろうとするガウェイン。
しかし、彼を打ちのめしたのは物理的なダメージだけではない。周囲を見渡せば、彼が手塩にかけて育て上げたはずの精鋭部隊すらも、恐怖と欲望に屈し、次々とアイギスブローチを手にしているのだ。
彼が四十年の生涯を懸けて磨き上げた「絶対的な武力」と「帝国の誇り」。
それが、一歩も動かない僕の「強欲のシステム」の前に、あまりにも無力で、何の価値もないという現実を突きつけられたのだ。
「武力や忠誠心というものは、システムの前ではひどく脆く、非効率ですね。ガウェイン団長、あなたの負けです」
僕が見下ろしてそう告げると、ガウェインの目から光が失われた。
最強の武人としての誇りが、根底から完全に崩壊した瞬間だった。彼は絶望に震える手で大剣を取り落とし、うわ言のように呟きながら、ただ地面に這いつくばることしかできなかった。
「勝てるわけが、ない……。これは、戦争ですらない……」
敵将の完全なる敗北。
それを境に、残っていた帝国兵たちも抵抗の意志を完全に喪失し、我先にと僕の足元へひざまずいて契約を懇願し始めた。
僕はその滑稽で美しい光景を満足げに見渡し、城壁の奥、帝都の玉座がある方角へと視線を移した。
かつて僕を奴隷として見下したヴォルグ伯爵と、この国を統べる皇帝ガルディア13世が、今頃あの奥で待っているはずだ。
「さあ、後片付けに向かいましょうか。彼らの無駄に高いプライドを砕くのが、今から楽しみで仕方がありません」
僕は最強の軍隊を手に入れ、底知れぬ魔力の奔流を全身で味わいながら、帝国の心臓部へと優雅な足取りで歩みを進めた。




