第五十五話 夢にまで見たヴァンドームのお嬢様
その日、俺は朝から落ち着かなかった。
ヴァンドームのお嬢様が、ついに来る。
二曲、用意した。
一曲目はジムノペディ第一番。間違いのない、歓迎の挨拶代わりだ。穏やかで、誰の機嫌も損ねない。前世のサティ先生には足を向けて寝られない。
二曲目は、俺の曲。鼻唄から書き起こして、ベルナール先生に清書してもらった、生まれて初めての自作曲。十二小節目の溜めを直したやつだ。
——準備は、万全。
問題は、心構えのほうだった。
ヴァンドームのお嬢様。美少女幼なじみ。富裕層のお嬢様には当然のように付き従う、ツンデレ気味の美少女護衛。そして向こうにもいるであろう、エミリーに匹敵する美少女メイド。
つまり、ハーレムだ。
落ち着け。落ち着くんだ、俺。
昨日さんざん妄想して、二股がどうの、ハーレム主人公の特権がどうのと自己正当化までしておいて、今さら何を緊張しているのか。むしろ堂々と構えていればいい。前世のなろう小説で、主人公はいつだって余裕綽々でヒロインを迎えていた。
——よし。余裕だ。俺は、余裕の幼児だ。
「お坊ちゃま、嬉しそうですねぇ」
「うっ」
エミリーが、にこにこと俺の頬を布で拭いた。冷たい水が気持ちいい。仕上げに髪を整えられる。今日の俺は、いつもより念入りに身支度をさせられていた。
「うん」
そう、答えておいた。声に出すと、まだ二語三語でつっかえる。内心ではぺらぺら喋れるのに、口がついてこない。もどかしい。
——そりゃ嬉しいに決まってる。運命の出会いだからな。
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玄関ホールに、来客の気配があった。
父さんの「やあ、よく来てくれた」という声。続いて、聞き覚えのある豪快な笑い声。ヴァンドームのお父さんだ。冬至祭りや、去年のあのとき以来か。
俺はエミリーに抱かれて、ホールへ向かう。
胸が、ばくばくしていた。
扉が開く。
そこに、いた。
——ちいさい。
俺と、そう変わらない背格好の、ちいさな子供。若い護衛らしき人物に手を引かれている。栗色の、やわらかそうな髪。ふっくらした頬。長い睫毛。レースのついた、白っぽい服。
——か、可愛い。
可愛い女の子だ。
来た。来てしまった。ヴァンドームのお嬢様、ご降臨である。妄想が、現実になった。なろう主人公の人生、ここに開幕。
俺は、内心で拳を握った。表情には出さない。出さないが、確実に握った。
「ルシアン、ご挨拶なさい」
ヴァンドームのお父さんが、その子の背を、ぽんと押した。
——ルシアン。
可愛い響きだ。きっと素敵な名前なんだろう。フランス語の名前は男女で形が違うものがあると、ジュリアン先生に習った。ルシアン。これは、ええと。
その子が、こちらを見た。
俺の目を、じっと。
そして、口を開いた。
「……エリック」
おお。俺の名前。事前に聞かされていたのか。たどたどしいが、ちゃんと言えている。一歳と数ヶ月にしては、なかなか喋るじゃないか。
「エリック、ね」
俺も、名前を返した。にこ、と笑いかける。
ルシアンの頬が、ぷくっとふくらんだ。むっとしたような顔だ。なんで挨拶しただけで膨れるんだ。
「ルシアンは七月生まれでね。お宅のお子さんと、ちょうど半年違いだ」
ヴァンドームのお父さんが、笑いながら言った。父さんが
「では、同じくらいですな」と応じる。
——七月生まれ。半年下。なるほど、年下のお嬢様か。それはそれで——
「男の子だから、やんちゃでね。きっといい遊び相手になる」
…………。
ん?
いま、なんと。
「男の子」
「お転婆ならぬやんちゃで、護衛のクロードも手を焼いている」
男の子。
おとこのこ。
俺は、もう一度その子を見た。栗色の髪。ふっくらした頬。長い睫毛。レースのついた服。
——男の、子。
待て待て待て。レースは。この、いかにもお嬢様然としたレースは何なんだ。睫毛は。なんでこんなに長いんだ。卑怯だろ。
いや、待て。よく見ろ。落ち着いて見ろ。
確かに、言われてみれば。なんというか。眉が、きりっとしている。目力がある。じっとこちらを睨むように見てくる、その視線が、お嬢様というには、少し——
「エリック!」
ルシアンが、急に大きな声で俺の名を呼んだ。びしっと、俺を指差している。
なんだその、ライバルに出会ったみたいな顔は。
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崩壊した。
俺の脳内に建設されていた、ハーレム城が。美少女幼なじみルートが。ツンデレ護衛のデレ育成計画が。美少女メイドとの三角関係(仮)が。
跡形もなく、砂上の楼閣だった。砂ですらない。最初から何もなかった。
護衛のほうを見る。最後の希望。せめて護衛がツンデレ美少女であれば——
「クロードと申します。ルシアン坊ちゃまの護衛を務めております」
落ち着いた、低い声だった。
そこにいたのは、若いとはいえ立派な体格の、淡々とした顔つきの男だった。表情筋がほとんど動かない。お辞儀は丁寧。背筋はまっすぐ。指輪が光っている。既婚者だ。完璧に有能そうで、完璧にツンデレ要素がない、ごく普通の大人の男だった。
「……」
俺は、エミリーの腕の中で、天を仰いだ。
ツンデレは、どこだ。デレは。育成シミュレーションは。俺が一晩かけて練り上げた、あの緻密なハーレム計画は、いったいどこへ行った。
二重で、砕けた。
「お坊ちゃま?」
エミリーが、不思議そうに俺を覗き込む。にこにこしている。霧笛のエミリーだけが、今日も平常運転だった。彼女だけが本物の美少女だ。だが彼女は俺の護衛であって、ヴァンドーム家の人間ではない。
——まあ、いい。
俺は、息を吐いた。
考えてみれば、別に、いいのだ。
お嬢様じゃなかった。ハーレムは幻だった。それはそれとして。
——初めての、友達だ。
そうだ。生まれ変わって二年、俺には同年代の知り合いが一人もいなかった。大人ばかりに囲まれて、すごいすごいと持ち上げられて、自分だけが妙に達観して。そんな日々に、初めて、自分と同じくらいの背丈の存在が現れた。
男だろうが女だろうが、関係ない。
それに——なんというか、可愛いものじゃないか。こんなに小さいのに、一生懸命むくれて、一生懸命睨んでくる。前世の俺なら、甥っ子か近所の子を見るような気持ちだ。
仲良くしてやろう。大人の余裕で、遊びに付き合ってあげようじゃないか。
俺は、ルシアンに向かって、もう一度にっこり笑いかけた。手を、小さく振ってみる。
ルシアンは、びくっと肩を震わせた。それから、ぷいっと顔を背けた。背けたくせに、ちらちらとこちらを見ている。護衛のクロードの脚の後ろに、半分隠れた。
照れているのか。警戒しているのか。
——まあ、子供だしな。
微笑ましい。うんうん、と俺は内心で頷いた。
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大人たちが応接間で話している間、俺とルシアンは、絨毯を敷いた一角に下ろされた。
「お子さん同士、遊ばせておきましょう」と、誰かが言った。
遊ぶ。一歳児と、二歳児が。
これがなかなか、難しいのである。
だが、まあ、任せておけ。前世で二十七年生きた俺だ。子供の遊び相手くらい、お安い御用である。
俺は積み木を一つ、ルシアンのほうへ転がしてみた。コミュニケーションの第一歩。ものを介したやり取りが、社会性の芽生えなのだと、前世の育児書で読んだ気がする。さあ、おいで。お兄さんが遊んでやろう。
ルシアンは、転がってきた積み木をじっと見た。
そして、それを掴み、自分の前にぺたりと置いた。
返ってこない。
俺はもう一つ、転がした。
ルシアンは、それも自分の前に置いた。
二つ並べて、満足そうにしている。
「ぼくの」
そう言った。
——回収されている。
これは、遊んでいるのか。遊んでいないのか。判定が、難しい。
そもそも一歳児に「キャッチボール」の概念はない。ものは転がってきたら集めるものだ。そうだったそうだった。これが「並行遊び」というやつだ。一緒にいるが、一緒には遊んでいない。各自が各自で遊んでいる。
うんうん、いいぞ。それでいい。お兄さんは怒らないからな。好きなだけ集めなさい。
俺は、鷹揚に頷いた。大人の余裕である。
ルシアンが、集めた積み木をかちかちと打ち鳴らし始めた。けっこう、いい音がする。
——お。
俺は、聞き耳を立てた。木のぶつかる音。乾いた、二つの音程。高いほうと、低いほう。
悪くない。
つい、俺も手近な積み木を二つ取って、ルシアンの鳴らすリズムに合わせてみた。かち、かち、と。
ルシアンの手が、止まった。
こちらを、見る。
それから、また鳴らした。さっきより、少し速く。
——お、合わせてきたか。可愛いやつめ。
俺も合わせた。ルシアンが速くする。俺も合わせる。ルシアンがでたらめに鳴らす。俺はそれを拾って、リズムに均してやる。ほら、こうすると気持ちいいだろう。
ルシアンの目が、だんだん真剣になっていった。むきになっている。眉間に、しわまで寄せて。
なんでそんなに必死なんだ。たかが積み木だぞ。
俺は、笑いそうになるのをこらえた。子供というのは、こういうどうでもいいことに全力になる。そういうものだ。微笑ましいなあ。よしよし、付き合ってやろう。
最後、ルシアンが渾身の一打で、積み木を絨毯に叩きつけた。ばすっ、と、音にならない音がした。絨毯は、いい音が出ない。
ルシアンが、はっとした顔をした。失敗した、という顔だ。
それから、かあっと赤くなって、悔しそうに俺を睨んだ。まるで「今のはなしだ」とでも言いたげに。
俺は、つい笑ってしまった。
「上手、上手」
そう言って、ぱちぱちと拍手してやった。完全に保護者の顔である。
ルシアンが、ますます赤くなって、また護衛の脚の後ろに引っ込もうとした。
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そろそろ、いいだろうか。
俺は、エミリーの服をくいくいと引っ張った。あらかじめ部屋の隅に運び込んでもらっていた、魔科学ラップハープを指差す。
エミリーが「あら」と微笑んで、それを俺の前に据えてくれた。
ルシアンが、不思議そうにこちらを見ている。大人たちの会話も、少しやんだ。
俺は、弦に指をのせた。
一曲目。ジムノペディ第一番。
ゆっくりと、最初の和音を置く。雲が流れていくような、たゆたう旋律。歓迎の挨拶。どうか、来てくれてありがとう、と。前世の俺なら、こんな曲を子供の前で弾く度胸はなかった。ウケるわけがないと思っただろう。
だが、今は知っている。
正しい音は、相手が誰であっても、届くときには届く。母さんが教えてくれた。
応接間が、静まり返っていた。
弾き終えて、指を離す。最後の余韻が、空気に溶けていった。
ルシアンを見た。
ルシアンは、口を半分開けたまま、固まっていた。積み木を握ったまま。
——お。
それから、続けて、二曲目。
俺の曲だ。十二小節目に、溜めがある。ベルナール先生に「ここで一度、息を止めるように」と言われた、あの溜めだ。誰のものでもない、俺が初めて自分で書いた旋律。
弾いている間、ルシアンは、ずっと俺を見ていた。
積み木のことも忘れたみたいに。じっと、瞬きもせずに。
弾き終わる。
しん、とした。
それから、ルシアンが、ぱちぱちと、手を叩いた。両手で、不器用に。にこりともせず、むしろ悔しそうな、何かを噛みしめるような顔で、それでも一生懸命、手を叩いていた。
「……すごい」
ぽつりと、そう言った。
それから、はっとしたように口をつぐんで、また俺を睨んだ。びしっと、指を突きつける。
「ぼくも! ぼくも、やる!」
何かに火がついたみたいに、必死な顔だった。
俺は、その勢いに、思わず微笑んでしまった。
おお、やる気じゃないか。いいぞいいぞ。音楽に興味を持つのは、いいことだ。お兄さんが、いつか教えてやろう。
——ずいぶん、可愛い友達ができたものだ。
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帰り際、ヴァンドームのお父さんが豪快に笑って、父さんと固い握手を交わしていた。「また連れてくる。すっかり気に入ったようだ」と。
護衛のクロードが、ルシアンを抱き上げる。
抱き上げられたルシアンは、俺のほうをじっと見ていた。何か言いたげに、口をもごもごさせて。それから、ふい、と顔を背けた。背けたくせに、玄関を出るまで、何度もこちらを振り返っていた。
最後に一度、小さく手を上げた。振る、というには、ぎこちない。けれど、確かに、上げた。
俺も、手を振り返した。
扉が、閉まる。
——行っちゃったな。
エミリーが、俺を抱き直しながら言った。
「いいお友達ができて、ようございましたねぇ」
「うん」
俺は、素直に頷いた。
お嬢様じゃなかった。ハーレムは幻だった。護衛もただのいい人だった。妄想は、一つ残らず砕けた。
それでも。
胸の奥が、なんだか、あたたかかった。
——初めての、友達か。
積み木でむきになっていた、あの必死な顔を思い出す。手を叩きながら、悔しそうに「すごい」と言った、あのきらきらした目を。「ぼくもやる」と、火がついたみたいに叫んだ声を。
次に会うのは、いつだろう。
そのときは、もっといい曲を聞かせてやろう。あいつが、もっと喜ぶような。
うんと優しく、お兄さんとして、仲良くしてやろう。
まあ、いい。
友達だ。




