表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

55/56

第五十五話 夢にまで見たヴァンドームのお嬢様

その日、俺は朝から落ち着かなかった。


ヴァンドームのお嬢様が、ついに来る。


二曲、用意した。


一曲目はジムノペディ第一番。間違いのない、歓迎の挨拶代わりだ。穏やかで、誰の機嫌も損ねない。前世のサティ先生には足を向けて寝られない。


二曲目は、俺の曲。鼻唄から書き起こして、ベルナール先生に清書してもらった、生まれて初めての自作曲。十二小節目の溜めを直したやつだ。


——準備は、万全。


問題は、心構えのほうだった。


ヴァンドームのお嬢様。美少女幼なじみ。富裕層のお嬢様には当然のように付き従う、ツンデレ気味の美少女護衛。そして向こうにもいるであろう、エミリーに匹敵する美少女メイド。


つまり、ハーレムだ。


落ち着け。落ち着くんだ、俺。


昨日さんざん妄想して、二股がどうの、ハーレム主人公の特権がどうのと自己正当化までしておいて、今さら何を緊張しているのか。むしろ堂々と構えていればいい。前世のなろう小説で、主人公はいつだって余裕綽々でヒロインを迎えていた。


——よし。余裕だ。俺は、余裕の幼児だ。


「お坊ちゃま、嬉しそうですねぇ」


「うっ」


エミリーが、にこにこと俺の頬を布で拭いた。冷たい水が気持ちいい。仕上げに髪を整えられる。今日の俺は、いつもより念入りに身支度をさせられていた。


「うん」


そう、答えておいた。声に出すと、まだ二語三語でつっかえる。内心ではぺらぺら喋れるのに、口がついてこない。もどかしい。


——そりゃ嬉しいに決まってる。運命の出会いだからな。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


玄関ホールに、来客の気配があった。


父さんの「やあ、よく来てくれた」という声。続いて、聞き覚えのある豪快な笑い声。ヴァンドームのお父さんだ。冬至祭りや、去年のあのとき以来か。


俺はエミリーに抱かれて、ホールへ向かう。


胸が、ばくばくしていた。


扉が開く。


そこに、いた。


——ちいさい。


俺と、そう変わらない背格好の、ちいさな子供。若い護衛らしき人物に手を引かれている。栗色の、やわらかそうな髪。ふっくらした頬。長い睫毛。レースのついた、白っぽい服。


——か、可愛い。


可愛い女の子だ。


来た。来てしまった。ヴァンドームのお嬢様、ご降臨である。妄想が、現実になった。なろう主人公の人生、ここに開幕。


俺は、内心で拳を握った。表情には出さない。出さないが、確実に握った。


「ルシアン、ご挨拶なさい」


ヴァンドームのお父さんが、その子の背を、ぽんと押した。


——ルシアン。


可愛い響きだ。きっと素敵な名前なんだろう。フランス語の名前は男女で形が違うものがあると、ジュリアン先生に習った。ルシアン。これは、ええと。


その子が、こちらを見た。


俺の目を、じっと。


そして、口を開いた。


「……エリック」


おお。俺の名前。事前に聞かされていたのか。たどたどしいが、ちゃんと言えている。一歳と数ヶ月にしては、なかなか喋るじゃないか。


「エリック、ね」


俺も、名前を返した。にこ、と笑いかける。


ルシアンの頬が、ぷくっとふくらんだ。むっとしたような顔だ。なんで挨拶しただけで膨れるんだ。


「ルシアンは七月生まれでね。お宅のお子さんと、ちょうど半年違いだ」


ヴァンドームのお父さんが、笑いながら言った。父さんが


「では、同じくらいですな」と応じる。


——七月生まれ。半年下。なるほど、年下のお嬢様か。それはそれで——


「男の子だから、やんちゃでね。きっといい遊び相手になる」


…………。


ん?


いま、なんと。


「男の子」


「お転婆ならぬやんちゃで、護衛のクロードも手を焼いている」


男の子。


おとこのこ。


俺は、もう一度その子を見た。栗色の髪。ふっくらした頬。長い睫毛。レースのついた服。


——男の、子。


待て待て待て。レースは。この、いかにもお嬢様然としたレースは何なんだ。睫毛は。なんでこんなに長いんだ。卑怯だろ。


いや、待て。よく見ろ。落ち着いて見ろ。


確かに、言われてみれば。なんというか。眉が、きりっとしている。目力がある。じっとこちらを睨むように見てくる、その視線が、お嬢様というには、少し——


「エリック!」


ルシアンが、急に大きな声で俺の名を呼んだ。びしっと、俺を指差している。


なんだその、ライバルに出会ったみたいな顔は。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


崩壊した。


俺の脳内に建設されていた、ハーレム城が。美少女幼なじみルートが。ツンデレ護衛のデレ育成計画が。美少女メイドとの三角関係(仮)が。


跡形もなく、砂上の楼閣だった。砂ですらない。最初から何もなかった。


護衛のほうを見る。最後の希望。せめて護衛がツンデレ美少女であれば——


「クロードと申します。ルシアン坊ちゃまの護衛を務めております」


落ち着いた、低い声だった。


そこにいたのは、若いとはいえ立派な体格の、淡々とした顔つきの男だった。表情筋がほとんど動かない。お辞儀は丁寧。背筋はまっすぐ。指輪が光っている。既婚者だ。完璧に有能そうで、完璧にツンデレ要素がない、ごく普通の大人の男だった。


「……」


俺は、エミリーの腕の中で、天を仰いだ。


ツンデレは、どこだ。デレは。育成シミュレーションは。俺が一晩かけて練り上げた、あの緻密なハーレム計画は、いったいどこへ行った。


二重で、砕けた。


「お坊ちゃま?」


エミリーが、不思議そうに俺を覗き込む。にこにこしている。霧笛のエミリーだけが、今日も平常運転だった。彼女だけが本物の美少女だ。だが彼女は俺の護衛であって、ヴァンドーム家の人間ではない。


——まあ、いい。


俺は、息を吐いた。


考えてみれば、別に、いいのだ。


お嬢様じゃなかった。ハーレムは幻だった。それはそれとして。


——初めての、友達だ。


そうだ。生まれ変わって二年、俺には同年代の知り合いが一人もいなかった。大人ばかりに囲まれて、すごいすごいと持ち上げられて、自分だけが妙に達観して。そんな日々に、初めて、自分と同じくらいの背丈の存在が現れた。


男だろうが女だろうが、関係ない。


それに——なんというか、可愛いものじゃないか。こんなに小さいのに、一生懸命むくれて、一生懸命睨んでくる。前世の俺なら、甥っ子か近所の子を見るような気持ちだ。


仲良くしてやろう。大人の余裕で、遊びに付き合ってあげようじゃないか。


俺は、ルシアンに向かって、もう一度にっこり笑いかけた。手を、小さく振ってみる。


ルシアンは、びくっと肩を震わせた。それから、ぷいっと顔を背けた。背けたくせに、ちらちらとこちらを見ている。護衛のクロードの脚の後ろに、半分隠れた。


照れているのか。警戒しているのか。


——まあ、子供だしな。


微笑ましい。うんうん、と俺は内心で頷いた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


大人たちが応接間で話している間、俺とルシアンは、絨毯を敷いた一角に下ろされた。


「お子さん同士、遊ばせておきましょう」と、誰かが言った。


遊ぶ。一歳児と、二歳児が。


これがなかなか、難しいのである。


だが、まあ、任せておけ。前世で二十七年生きた俺だ。子供の遊び相手くらい、お安い御用である。


俺は積み木を一つ、ルシアンのほうへ転がしてみた。コミュニケーションの第一歩。ものを介したやり取りが、社会性の芽生えなのだと、前世の育児書で読んだ気がする。さあ、おいで。お兄さんが遊んでやろう。


ルシアンは、転がってきた積み木をじっと見た。


そして、それを掴み、自分の前にぺたりと置いた。


返ってこない。


俺はもう一つ、転がした。


ルシアンは、それも自分の前に置いた。


二つ並べて、満足そうにしている。


「ぼくの」


そう言った。


——回収されている。


これは、遊んでいるのか。遊んでいないのか。判定が、難しい。


そもそも一歳児に「キャッチボール」の概念はない。ものは転がってきたら集めるものだ。そうだったそうだった。これが「並行遊び」というやつだ。一緒にいるが、一緒には遊んでいない。各自が各自で遊んでいる。


うんうん、いいぞ。それでいい。お兄さんは怒らないからな。好きなだけ集めなさい。


俺は、鷹揚に頷いた。大人の余裕である。


ルシアンが、集めた積み木をかちかちと打ち鳴らし始めた。けっこう、いい音がする。


——お。


俺は、聞き耳を立てた。木のぶつかる音。乾いた、二つの音程。高いほうと、低いほう。


悪くない。


つい、俺も手近な積み木を二つ取って、ルシアンの鳴らすリズムに合わせてみた。かち、かち、と。


ルシアンの手が、止まった。


こちらを、見る。


それから、また鳴らした。さっきより、少し速く。


——お、合わせてきたか。可愛いやつめ。


俺も合わせた。ルシアンが速くする。俺も合わせる。ルシアンがでたらめに鳴らす。俺はそれを拾って、リズムに均してやる。ほら、こうすると気持ちいいだろう。


ルシアンの目が、だんだん真剣になっていった。むきになっている。眉間に、しわまで寄せて。


なんでそんなに必死なんだ。たかが積み木だぞ。


俺は、笑いそうになるのをこらえた。子供というのは、こういうどうでもいいことに全力になる。そういうものだ。微笑ましいなあ。よしよし、付き合ってやろう。


最後、ルシアンが渾身の一打で、積み木を絨毯に叩きつけた。ばすっ、と、音にならない音がした。絨毯は、いい音が出ない。


ルシアンが、はっとした顔をした。失敗した、という顔だ。

それから、かあっと赤くなって、悔しそうに俺を睨んだ。まるで「今のはなしだ」とでも言いたげに。


俺は、つい笑ってしまった。


「上手、上手」


そう言って、ぱちぱちと拍手してやった。完全に保護者の顔である。


ルシアンが、ますます赤くなって、また護衛の脚の後ろに引っ込もうとした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


そろそろ、いいだろうか。


俺は、エミリーの服をくいくいと引っ張った。あらかじめ部屋の隅に運び込んでもらっていた、魔科学ラップハープを指差す。


エミリーが「あら」と微笑んで、それを俺の前に据えてくれた。


ルシアンが、不思議そうにこちらを見ている。大人たちの会話も、少しやんだ。


俺は、弦に指をのせた。


一曲目。ジムノペディ第一番。


ゆっくりと、最初の和音を置く。雲が流れていくような、たゆたう旋律。歓迎の挨拶。どうか、来てくれてありがとう、と。前世の俺なら、こんな曲を子供の前で弾く度胸はなかった。ウケるわけがないと思っただろう。


だが、今は知っている。


正しい音は、相手が誰であっても、届くときには届く。母さんが教えてくれた。


応接間が、静まり返っていた。


弾き終えて、指を離す。最後の余韻が、空気に溶けていった。


ルシアンを見た。


ルシアンは、口を半分開けたまま、固まっていた。積み木を握ったまま。


——お。


それから、続けて、二曲目。


俺の曲だ。十二小節目に、溜めがある。ベルナール先生に「ここで一度、息を止めるように」と言われた、あの溜めだ。誰のものでもない、俺が初めて自分で書いた旋律。


弾いている間、ルシアンは、ずっと俺を見ていた。


積み木のことも忘れたみたいに。じっと、瞬きもせずに。

弾き終わる。


しん、とした。


それから、ルシアンが、ぱちぱちと、手を叩いた。両手で、不器用に。にこりともせず、むしろ悔しそうな、何かを噛みしめるような顔で、それでも一生懸命、手を叩いていた。


「……すごい」

ぽつりと、そう言った。


それから、はっとしたように口をつぐんで、また俺を睨んだ。びしっと、指を突きつける。


「ぼくも! ぼくも、やる!」


何かに火がついたみたいに、必死な顔だった。


俺は、その勢いに、思わず微笑んでしまった。


おお、やる気じゃないか。いいぞいいぞ。音楽に興味を持つのは、いいことだ。お兄さんが、いつか教えてやろう。


——ずいぶん、可愛い友達ができたものだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


帰り際、ヴァンドームのお父さんが豪快に笑って、父さんと固い握手を交わしていた。「また連れてくる。すっかり気に入ったようだ」と。


護衛のクロードが、ルシアンを抱き上げる。


抱き上げられたルシアンは、俺のほうをじっと見ていた。何か言いたげに、口をもごもごさせて。それから、ふい、と顔を背けた。背けたくせに、玄関を出るまで、何度もこちらを振り返っていた。


最後に一度、小さく手を上げた。振る、というには、ぎこちない。けれど、確かに、上げた。


俺も、手を振り返した。


扉が、閉まる。


——行っちゃったな。


エミリーが、俺を抱き直しながら言った。


「いいお友達ができて、ようございましたねぇ」


「うん」


俺は、素直に頷いた。


お嬢様じゃなかった。ハーレムは幻だった。護衛もただのいい人だった。妄想は、一つ残らず砕けた。


それでも。


胸の奥が、なんだか、あたたかかった。


——初めての、友達か。


積み木でむきになっていた、あの必死な顔を思い出す。手を叩きながら、悔しそうに「すごい」と言った、あのきらきらした目を。「ぼくもやる」と、火がついたみたいに叫んだ声を。


次に会うのは、いつだろう。


そのときは、もっといい曲を聞かせてやろう。あいつが、もっと喜ぶような。


うんと優しく、お兄さんとして、仲良くしてやろう。


まあ、いい。


友達だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ