第五十三話 ヴァンドームのお子さんの来訪日が決まりました、なお俺の偽装は大丈夫
水曜日の朝食。父さんが、いつもよりほんの少し早く食堂に来た。
「エリック」
「うん」
俺は、ベビーチェアの上で、フォークを置いた。
「ヴァンドームの方の来訪日が、決まった」
——きた。
俺は、フォークを置いたまま、父さんを見上げた。
「十二月の上旬だ。詳しい日付は、もう少ししたら確定する」
「うん」
「お前は、引き続き、励めばいい」
父さんはそう言って、コーヒーを一口飲んだ。
母さんが、隣でにこにこしていた。
「もうすぐね」
「うん」
エミリーが、壁際でにこにこしていた。
「楽しみですねぇ、坊っちゃん」
——あと、二、三週間。
俺は、頭の中で素早く逆算した。今日は十一月の半ば。十二月の上旬まで、あと二、三週間。完成度の最終調整に入る期間として、ちょうどいい長さだ。
「ちちうえ」
「うん」
「がんばります」
俺は、無邪気な顔で、頷いた。
父さんが、コーヒーカップを置きながら、少しだけ口の端を上げた。
「励め」
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その日のレッスンは、ベルナール先生だった。
俺は、ハープを膝に乗せて、清書された自作曲の楽譜を前に置いた。
「先生」
「はい」
「ともだちが、くる、ひが、きまりました」
「ほう」
ベルナール先生が、丸眼鏡を少し上げた。
「いつごろですか?」
「じゅうにがつの、じょうじゅん」
「あと数週間ですね」
ベルナール先生は、ふむと頷いた。
「では、完成度を上げていきましょうか。エリックくんの曲と、ジムノペディ、両方を仕上げの段階に持っていきます」
「うん」
「最初は、エリックくんの曲から」
俺は、頷いて、楽譜を見た。
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弾いた。
頭の中で何度も流していたメロディが、ハープの弦を通して、部屋に広がった。Aメロの八小節、Bメロの八小節、合わせて十六小節。短いけれど、お嬢様への歓迎の気持ちを込めた、世界に一つだけの曲。
弾き終わると、ベルナール先生が、いつものように震えた。
「素晴らしい!!」
それから、ベルナール先生は、声のトーンを少しだけ落として、続けた。
「ですが、エリックくん、ここを少しだけ、丁寧に。十二小節目から十三小節目への移り、もう少し溜めをとって、それから次の音に入ると、お友達への気持ちが、もっと伝わると思います」
「ためを、とる」
「はい。一拍、息をする感じで」
俺は、頷いて、もう一度弾いた。十二小節目で、ほんの少し、息をするように溜めて、それから十三小節目の音に入った。
「素晴らしい!!」
ベルナール先生が、また震えた。震えながら、丸眼鏡を直しながら、続けた。
「ええ、これです。これがエリックくんの音です」
俺は、絨毯の上で、密かに頷いた。
——完成度、上がっている。
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その日の夜。セリーヌが、寝る前の身支度に来た。
俺は、ベビーチェア——いや、絨毯の上に立っていた。寝間着に着替えるために、シャツのボタンを外してもらうところだった。
頭の中では、まだ自作曲のメロディが流れていた。十二小節目の溜め、十三小節目の入り。ベルナール先生に指摘された箇所を、頭の中で繰り返し再生していた。完成度を上げる作業は、楽しい。前世のビジネスで企画書を磨いていた時と、似たような充実感がある。
セリーヌが、シャツのボタンを丁寧に外していった。手は、いつも通り温かい。
「今天練習得怎么样?」
——順調です。
俺は、反射的に頭の中で答えた。
頭の中で答えてから、一瞬遅れて、自分の口がほんの少しだけ開きかけたことに、気づいた。慌てて閉じた。
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待て。
俺は、シャツの袖から腕を抜く動きを、わずかに遅らせた。
セリーヌは、無表情のまま、シャツを脱がせて、寝間着を持ち上げた。
——今のは。
——中国語。
「今天練習得怎么样」——演奏の調子はどうですか。簡単な、日常会話レベルの中国語。前世の出張先で、夕食会の席で、何度も交わした程度のフレーズだ。
理解できた。理解できてしまった。
——いや、待て。
——ジュリアン先生から、中国語、まだ。
ジュリアン先生は、フランス語・英語・スペイン語・中国語の四言語を教えてくれる。だが、メインはフランス語と英語だ。中国語は、まだ「你好」と「谢谢」レベルしか習っていない。少なくとも、表向きの俺は、そこまでしか習っていない。
反射で理解できる赤子は、いない。
——なぜ、中国語。
——なぜ、セリーヌが。
俺は、寝間着の袖から腕を通す動きを、ゆっくりと再開した。動揺するな、俺。
——動揺するな。
——顔に出すな。
——わかっていないフリ、わかっていないフリ。
俺は、できるだけ無邪気な、ぽかんとした顔を作った。1歳11ヶ月児のぽかんとした顔は、努力しなくても勝手にそうなるはずだった。だが今、努力していた。前世のビジネス交渉でクライアントから難しい質問を投げられたときの、「今のは聞こえなかったことにしよう」という顔を、必死に作っていた。
セリーヌは、シャツのボタンを留め終わった。
それから、何事もなかったかのように、寝間着の襟を整えた。
「失礼しました。ジュリアン先生に、中国語の進度を確認しようと思っていたのですが」
——……。
「もう少し進んでからにします」
セリーヌは、淡々と続けた。表情は、いつも通り、ほとんど動かない。
俺は、ぽかんとした顔のまま、ゆっくり頷いた。
「うん」
——いま。
——いま、なんだった、今のは。
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着替えが終わって、セリーヌがベビーベッドに俺を抱き上げた。
柵を上げて、布団を整えて、軽く頭を撫でて、それから一礼して、部屋を出ていった。
ドアが閉まった。
俺は、布団の中で、しばらく動かなかった。
天井のルーンが、淡く光っている。
——いまのは。
——探り、か?
そうとしか思えなかった。中国語の進度を確認したい、というのは表向きの理由だ。だが、まだ「你好」レベルの俺に向かって、いきなり日常会話レベルで話しかける必要は、ない。
セリーヌは、何かを試した。
俺の反応を、見ていた。
——気付かれているのか?
——俺の中国語の偽装に。
——なぜ?
——不自然すぎたか?
——どこで?
俺は、布団の中で、必死に振り返った。これまでのジュリアン先生のレッスンで、中国語の単語が出てきたとき、自分はちゃんと「わからない」顔をしていただろうか。聞き取りが反射で理解できてしまったとき、ちゃんと隠せていただろうか。
——隠せていた、はず。
——たぶん。
——でも、セリーヌは——なぜ。
俺は、布団の中で、唸った。
——分からない。
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翌日の朝、目を覚ました俺は、しばらくベビーベッドの中で、天井のルーンを見上げていた。
夜の動揺は、まだ少し残っていた。
だが、考え続けても、答えは出なかった。
——冷静になろう。
俺は、ベビーベッドの中で、ゆっくり深呼吸した。
冷静に考えれば、セリーヌが俺の偽装に気付いている、という確証は、どこにもない。
たしかに簡単とはいえ日常会話レベルの中国語だ。だが、セリーヌがどういう意図でそれを口にしたのかは、彼女が説明した通り「ジュリアン先生に中国語の進度を確認しようとした」という可能性も、ある。たぶん、ある。少なくとも、否定する証拠は、ない。
俺の反応も、たぶん、隠せていた。シャツの袖から腕を抜く動きが一瞬遅れただけだ。1歳11ヶ月児の動きは、もともとぎこちない。あの一瞬の遅れが、偽装を見抜くほどの証拠になるとは、思えない。
——そう。
——証拠は、ない。
——気のせいだ。
俺は、ベビーベッドの中で、自分に言い聞かせた。
——大丈夫。
——大丈夫、大丈夫。
——気にしないことにしよう。
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俺は、頭を切り替えた。
切り替えて、それから、自作曲のことを考えた。
十二小節目の溜め、十三小節目の入り。あれを、もっと自然にしたい。お嬢様が初めて聞いた瞬間に、すっと心に入る感じにしたい。
——演奏に集中しよう。
——集中、集中。
俺は、ベビーベッドの中で、頭の中の楽譜を、もう一度再生した。
頭の中で、ハープの弦が、澄んだ音を鳴らした。十二小節目で、ほんの少し溜めて、それから十三小節目に入る。気持ちいい流れ。これが「エリックくんの音」だと、ベルナール先生は言った。
——いい曲だ。
——お嬢様、気に入ってくれるかな。
俺の頭の中では、まだ会ったこともないお嬢様が、テラスで紅茶を飲みながら、俺のハープを聞いている姿が、はっきりと描かれていた。長い髪。優しい笑顔。儚げな少女。同い年の、お嬢様。
——あと、二、三週間。
——準備、できている。
俺は、布団の中で、密かに微笑んだ。
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セリーヌが、朝の身支度に来た。
ノックの音、いつも通り。「失礼します」、いつも通り。表情、いつも通り、ほとんど動かない。
俺は、ぽかんとした顔のまま、いつも通りにセリーヌに抱き上げられて、いつも通りに着替えさせられた。
セリーヌの手は、いつも通り、温かかった。
——大丈夫。
——気のせいだ。
——集中、集中。
俺は、心の中で、自分に三度、言い聞かせた。




