第五十二話 なろう転生者なら魔法チートだろう
書いておこう。
俺の家庭教師は、三人いる。
ベルナール先生だけが来ているように見えるかもしれないが、それは違う。ベルナール先生のレッスンが週三回に増えたから、たまたま登場頻度が高いだけだ。ジュリアン先生とラファエル先生も、ちゃんと来ている。
ジュリアン先生は、語学。週に二回、火曜と木曜の午前中。
ラファエル先生は、魔力。週に一回、土曜の午後。
加えてベルナール先生が週三回、月・水・金の午前。
俺の週は、レッスンで埋まっている。1歳11ヶ月児としては、たぶん異常な密度だが、ここは富裕層の家庭だ。たぶんこれが標準なのだろう。前世の小学生のサッカー教室と公文と水泳と英会話を一日に三つ通わせる方針と、根本的には変わらない。
——書いておこう。
俺はベビーベッドの中で、頭の中の整理を済ませた。自分の頭の中で、こういう整理を時々やる。前世の癖だ。
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火曜日の午前。ジュリアン先生が来た。
「Bonjour, Éric!」
「ぼんじゅーる、せんせ」
ジュリアン先生は、明るい茶色の髪をふわっと揺らしながら、絨毯の上に座った。背が高くて細身で、人懐っこい笑顔で、まあとにかく、いい兄ちゃんという感じだ。
「今日はね、フランス語の絵本を読もうか」
「うん」
ジュリアン先生のレッスンは、フランス語が中心だ。週二回のうち、八割がフランス語。残りの二割で、英語・スペイン語・中国語を「ちょっとずつ触れる」。本格的に習うのは三歳以降、というのがジュリアン先生の方針らしい。
「今日は、絵本のあとに、英語の単語をいくつかやろう」
「えいご」
俺は、できるだけ気乗りしない顔を作った。1歳11ヶ月児が気乗りしない顔を作ると、たぶん変な顔になるが、ジュリアン先生は天然なので、たぶん見抜けない。
「うん、appleとか、bookとか」
「……」
「あれ? エリック、英語あんまり好きじゃない?」
「……うん」
「中国語のときも、こういう顔だったね」
「……うん」
ジュリアン先生は、にこにこしながら、肩をすくめた。
「分かった。フランス語をメインで進めようね。英語と中国語は、エリックの気が向いたときにやろう」
「うん」
——狙い通り。
俺は、心の中で頷いた。
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転生バレ回避を決意したのは、確か一歳の春だった。
俺は、前世の知識を持ったまま転生している。フランス語は、すでに会話レベルまで覚えてしまった。英語は、前世で商社マンをやっていた頃の貯金がある。中国語も、出張先で覚えた会話レベルくらいなら反応できる。スペイン語だけは、前世でほぼ触れていない。
このうち、フランス語は「現地語」だから、覚えるのが早くても言い訳が立つ。母語みたいなものだ。早く喋れて当然。
問題は、それ以外の言語だ。
1歳11ヶ月のフランス人の子供が、英語や中国語に「あ、知ってる」みたいな反応をしたら、誰の目にも明らかに不自然になる。前世の経験から考えても、「異常に語学の才能がある子」として記録に残り、医学的な検査の対象になったり、研究機関に紹介されたりするかもしれない。富裕層の家ならなおさら、外部の専門家を呼ぶ可能性が高い。
それは、嫌だ。
だから、英語と中国語は「あんまり好きじゃない」ということにした。
スペイン語は、本当に分からないので、自然に「普通」レベルで習える。これは演技ではない。
——なんとか、上手くいっている。
俺はベビーベッドの中で、自分の演技力に密かに自信を持った。前世のビジネス交渉で培った「気乗りしない顔」が、ここで活きている。
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ところで、と俺は、絵本を読み聞かせるジュリアン先生の声を聞きながら、ふと思った。
——あれ?
なろう小説では、異世界転生したら現地語が最初から喋れる主人公もいたな。
「言語スキル」とか「自動翻訳」とか、そういう設定で、転生した瞬間からペラペラ喋れるやつ。読み書きも最初から完璧で、現地語を学ぶシーンすら出てこない主人公がいた。むしろ「言葉が通じないとつまらない」という作者の判断で、最初から通じる設定にしているのだろう。
つまり、なろう小説的に言えば、転生者にとって言語設定は、たぶん、重要じゃない。
——重要じゃないはず、なのに。
俺は、絨毯の上で、絵本のページをめくるジュリアン先生を見上げた。
なんで俺、赤ちゃんの時から、必死に言語を習っているんだ?
しかも、覚えすぎないように、英語と中国語を「嫌い」と演技までして、進度を意図的に遅らせている。前世から積み上げてきた語学の知識を、必死に隠している。
これは、なろう転生者の標準的な動きじゃない。
——俺の転生、おかしくないか?
ジュリアン先生は、絵本のフランス語を、優しい声で読み上げていた。
俺は、なんとなく腑に落ちない気持ちのまま、レッスンを続けた。
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土曜日の午後。ラファエル先生が来た。
「こんにちは、エリック」
「こんにちは、せんせ」
ラファエル先生は、長身細身の銀髪。切れ長の目で、表情はほとんど動かない。冷たい美貌、というやつだ。前世の俺が高校生の頃に憧れた、寡黙でクールな先輩の系統。実際に大人になったあと、こういうタイプは大抵プライベートで料理が下手だったり片付けができなかったりするのを学んだが、それは余談だ。
「今日は、球体の光の操作を細かくする」
「うん」
俺は、絨毯の上で球体を両手で包んだ。例の魔力おもちゃだ。中の光の粒を集めたり、回したり、形にしたりする。ハッカー兼ガンマンの修行として、毎日真面目に取り組んでいる。
「光を、円で動かす。次は、八の字で動かす。最後は、自分の好きな図形で」
「うん」
俺は、魔力を流した。光の粒が集まって、円を描き始める。教会回で意図の原則が深まってから、円の描き方は、かなり安定するようになっていた。
「円、いい」
ラファエル先生は、無表情のまま、淡々と言った。
「次、八の字」
俺は、円を一度解いて、八の字を描いた。これも、安定している。
「八の字も、いい」
「うん」
「最後、自由な図形」
俺は、しばらく考えてから、星を描いた。五芒星。前世のなろう小説で見飽きた図形だが、安定して描ける範囲では、これが一番見栄えがする。
「星、上手だ」
「うん」
ラファエル先生は、いつも通り淡々と頷いた。
それで終わりだった。
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俺は、絨毯の上で、ハープを抱える代わりに、球体を抱えていた。
——え。
——それで、終わり?
ラファエル先生は、すでに次のレッスンの説明に入っていた。「次は、光の色を変える」と、淡々と指示を続けている。
俺は、内心、軽くショックを受けていた。
「円、いい」「八の字も、いい」「星、上手だ」——褒めて、いる。一応、褒めている。だが、淡々としすぎている。毎日真面目に練習して、円も八の字も五芒星も、安定して描けるようになった。これは、進歩のはずだ。
ベルナール先生なら、ここで「素晴らしい!!」と五回くらい震えているはずだ。
ラファエル先生は、震えない。
——褒めてはくれているが、驚いてくれない。
俺はベルナール先生のリアクションに、もしかしたら、慣れすぎていたのかもしれない。あの先生の基準で他の先生を測ると、たぶん、世界中の音楽家全員が「冷淡」に分類される。だが、それを差し引いても、ラファエル先生の反応は、淡々としている。
——俺、魔法、普通レベルなのか?
そう思った瞬間、心の中で、別の声がした。
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——え。
——おかしいだろ。
俺は、球体を抱えたまま、ラファエル先生の説明を聞き流して、内心で抗議した。
普通、転生チート、と言えば、魔法だろ。
なろう小説の九割は、転生主人公が魔法でチート無双する話だ。「異世界で覚醒した俺の魔法は、現地の最強魔法使いを凌駕していた」「炎魔法・氷魔法・雷魔法・光魔法・闇魔法、全部使えた」「魔力量が現地の限界値を超えていて、計測装置が壊れた」——そういう話を、前世の俺は山のように読んだ。
つまり、なろう転生者の標準的な強みは、魔法だ。
——魔法の才能があって、他はダメ。
——それが、転生者の定番だろ。
俺は、絨毯の上で、唸った。
俺は、逆だ。
絶対音感がある。前世の知識で言語の聞き取りが反射でできる。ハープが弾ける。鼻歌で作曲ができる。これらは、たぶん、世界水準で見ても異常な部類だ。
でも、肝心の魔法は、普通レベル。
「円、いい」「八の字も、いい」「星、上手だ」程度の評価。ベルナール先生が「素晴らしい!!」と五回震えるような領域には、たぶん、入っていない。
——なんで、俺、逆なんだ。
——なろうの予想と、全部逆になってる。
俺は、球体を抱えたまま、絨毯の上で、軽く落胆した。
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ラファエル先生のレッスンが終わって、先生が部屋を出て行ったあとも、俺は絨毯の上で、しばらくぼんやりしていた。
転生者の標準モデルから、俺は外れている。
なろう小説では、言語は最初から通じるし、魔法は最初から強い。だが俺は、言語は赤ちゃんから必死に習って、しかも一部の言語は隠しているし、魔法は普通レベル。
正直、なろう小説的に言えば、俺の転生は「ハズレ」だ。
——いやしかし、待て。
俺は、自分の落胆に、待ったをかけた。
魔法が普通レベルだとしても、俺には絶対音感がある。前世の音楽の蓄積がある。鼻歌で作曲できる能力もある。これらは、たぶん、何かの役には立つはずだ。
立つはず、たぶん。
——たぶん。
俺は、絨毯の上で、軽く深呼吸した。
魔法が伸びないなら、伸びる方を伸ばすしかない。前世のビジネスでも、苦手な分野で勝負しても勝てない。得意な分野で結果を出すのが、合理的だ。
——よし。
——音楽で頑張ろう。
俺は、絨毯の上で、密かに決意した。
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その決意を裏切るように、月曜日の朝、ベルナール先生が、いつもと違うものを抱えてやってきた。
ノックの音。
「失礼します」
ベルナール先生だった。だが、いつもの楽譜の鞄に加えて、もう一つ、別の封筒のようなものを大事そうに抱えていた。
「エリックくん、お預かりしていたものを、お返しに参りました」
——お預かりしていたもの。
俺が、絨毯の上で正座して見上げると、ベルナール先生は、封筒から、一枚の楽譜を、丁寧に取り出した。
それは、俺が一週間かけて書いたあの楽譜だった。歪な音符、線の上に乗り切らない位置、書き直した跡で灰色になった紙——のはずだった。
だが、目の前にある楽譜は、違った。
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綺麗に、清書されていた。
ト音記号は、流れるような曲線で描かれていた。音符は、線の上に、正確に、優美に乗っていた。強弱記号も、テンポも、装飾も、すべてが、プロの手によって、丁寧に、書き直されていた。
俺が頭の中で想像していた楽譜が、そのまま、紙の上に、現れていた。
「——」
俺は、言葉を失った。
「綺麗な楽譜にしてきました。練習用に、お使いください」
ベルナール先生は、にこにこしながら、楽譜を、絨毯の上に置いた。
「ありがとう、ございます」
俺は、頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。エリックくんの曲を、私の手で清書させていただけたこと、光栄でした」
ベルナール先生は、それから少し、声のトーンを優しくした。
「楽譜には、書き手の意図が、込められています。エリックくんの楽譜には、ちゃんと、エリックくんの意図がありました。私は、それを汲み取って、丁寧に書き直しただけです」
「うん」
「弾いてみましょうか」
「うん」
俺は、絨毯の上で、ハープを引き寄せた。
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清書された楽譜を見ながら、俺は、初めて自分の曲をハープで弾いた。
頭の中で響いていたメロディが、実際の音として、部屋に広がった。
短いAメロ、短いBメロ、合わせて十六小節。子守唄っぽいような、でも少しだけ華やかな、不思議な曲。お嬢様への歓迎の気持ちを込めた、世界に一つだけの旋律。
弾き終わって、俺は、しばらく弦から指を離さなかった。
——いい曲だ。
——自分で言うのもなんだが、いい曲だ。
ベルナール先生が、向かい側で、いつものように、ぶるぶると震えていた。
「素晴らしい!!」
俺は、無邪気に頷いた。
——音楽は、伸びている。
——魔法が普通でも、音楽がある。
——それで、いい。
俺は、絨毯の上で、密かに微笑んだ。
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レッスンが終わって、ベルナール先生が部屋を出るとき、いつもと違うことが、一つだけ、起きた。
ベルナール先生は、ドアを開けて、一歩、廊下に出た。
そして、廊下にいたセリーヌに、何かを、小さな声で、話しかけた。
俺の位置からは、内容は聞こえなかった。
セリーヌが、ベルナール先生に向かって、いつも通り、無表情のまま、静かに頷いた。
それから、ドアが閉まった。
俺は、絨毯の上で、しばらく、ドアを見ていた。
——なんだ?
——ベルナール先生、セリーヌに、何を話したんだ?
俺は、ハープを抱えたまま、首を傾げた。だが、たぶん、レッスンの予定の調整とか、何かそういう事務的な話だろう。レッスンを増やしてもらうとか、減らしてもらうとか。
——うん、たぶん事務連絡。
俺は、自分にそう言い聞かせて、ハープを、もう一度膝に乗せ直した。
頭の中で、清書された楽譜の音符が、はっきりと並んでいた。




