第五十一話 何したかって?作曲しただけだが?
ベルナール先生から五線紙と鉛筆をもらった日の、その夜。
俺はベビーベッドの中で、頭の中の楽譜を、最終確認していた。
鼻唄から始めた短いメロディを、何度も頭の中で再生し、気持ちいい音の繋がりを探した。「ここでこの音が来ると気持ちいい」「次の音はこれが自然」——絶対音感のある俺には、その判断が、ほぼ反射でできた。
——気持ちいい。
——次もこれで気持ちいい。
——ここでちょっと外して、戻る。
——うん、気持ちいい。
頭の中で、十六小節ほどの旋律が、完成しつつあった。Aメロが八小節、Bメロが八小節。簡潔だが、起承転結のあるフレーズ。同い年への贈り物としては、ちょうどいい長さだと、俺は判断した。
——明日から、書こう。
俺は寝具に頭を沈めて、目を閉じた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
別に難しいことじゃない、と俺は思っていた。
絶対音感がある。前世で聞き散らかしたクラシックの蓄積もある。コード進行とか転調とか、専門用語までは知らないが、「ここでこの音が来ると気持ちいい」「次の音はこれが自然」という感覚は、なんとなく分かる。
だったら、気持ちいいフレーズを繋げていけばいい。
頭の中で鼻唄を鳴らして、気持ちいいと思えば書き留める。気持ち悪ければ消す。気持ちいい流れの先に、気持ちいい次の音を置く。それを繰り返していけば、最後まで気持ちいい一曲ができる。
——なんだ、簡単じゃないか。
俺はベビーベッドの中で、密かに頷いた。
世の中の作曲家がなぜ何年もかけて修行しているのか、最初はいまいち分からなかった。だが、考えているうちに、ひとつの仮説に辿り着いた。
——たぶん、みんな絶対音感を持っているんだ。
そうとしか思えない。俺みたいな前世商社マンの素人でも、絶対音感があるから、気持ちいい音を迷わず並べていける。十六小節くらいなら、ほぼ反射で書ける。これがプロともなれば、絶対音感の上にさらに専門的な技術が積み重なっているはずだ。だから何年もかけて修行する必要がある。
——絶対音感、ないと作曲できないんだろうな。
俺は布団の中で、勝手に納得した。
——絶対音感を持って生まれてよかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
翌日、俺は子供部屋の絨毯の上で、五線紙と鉛筆を広げた。
ベルナール先生がくれた五線紙は、子供向けに線が太く、間隔も広いものだった。それでも、1歳11ヶ月児の手で音符を書くのは、想像以上に難しかった。
まず、鉛筆の握り方。
頭の中では、前世の感覚で「親指と人差し指の腹で挟んで、中指を添える」という大人の握りができている。だが、実際に握ってみると、指の筋力が足りない。グーで握り込んでしまう。グーで握ると、手首の動きで線を引くしかなく、細かいコントロールが効かない。
それでも、書き始めた。
最初の音符。ト音記号。
——……。
ト音記号の渦巻きが、グシャッとなった。
——いや。
俺は、ベルナール先生がくれた消しゴム(小型・子供向け・1歳児が誤飲しないサイズ)で、ト音記号を消した。消そうとした。1歳11ヶ月児の手では、消しゴムを正確に動かすのも難しい。周辺の五線まで一緒にこすってしまった。
……。
一枚目を、絨毯の上にそっと置いた。
二枚目を取った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
数日が経った。
俺は、絨毯の上で、五線紙との格闘を続けていた。
頭の中の楽譜は、完璧に固まっていた。十六小節、全ての音符の位置、強弱、テンポ。全部、はっきり見える。問題は、それを紙に写す物理作業だった。
ト音記号を書く。グシャッとなる。書き直す。やや改善。書き直す。マシになる。
音符を書く。線の上に正確に置けない。書き直す。少し上に行く。書き直す。少し下に行く。書き直す。なんとか線の上に乗る。
旗(八分音符の)を付ける。逆向きに付く。書き直す。
——ちくしょう。
俺は、絨毯の上で、密かに毒づいた。前世の俺なら、こんなものは三分で書けた。だが、1歳11ヶ月の手は、いうことを聞かない。頭の中の完璧な楽譜と、紙の上の歪な音符のギャップに、自分でも苛立った。
それでも、書き続けた。
セリーヌが、たまに部屋に入ってきて、絨毯の上の俺と五線紙を見て、何も言わずに茶の入ったコップを置いていった。エリックが鉛筆と五線紙で何かやっている、という情報は、たぶん家族にも共有されていた。だが、誰も詳しく聞いてこなかった。
たぶん「お絵かきの一種」だと思われていた。
——お絵かきじゃない。
——曲を書いているんだ。
俺は、心の中で、誰にも届かない反論をした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一週間ほどで、十六小節が、紙の上に並んだ。
音符は歪んでいた。線の上にきれいに乗っていない箇所もあった。旗の向きが逆になっている箇所も、二、三あった。書き直した跡で、紙はほんのり灰色になっていた。
だが、読める。
頭の中の楽譜と、紙の上の楽譜は、ちゃんと一致していた。これを読めば、誰でもこのメロディを再現できる。曲としての要件は、満たしている。
俺は、出来上がった一枚を、絨毯の上で見つめた。
——できた。
——お嬢様のための、世界に一つだけの曲。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
月曜日。ベルナール先生のレッスンの日だった。
俺は、絨毯の上で正座して待っていた。膝の上に、書き上がった五線紙を一枚、置いていた。
ドアがノックされた。
「失礼します」
ベルナール先生だった。いつも通り、大柄な体を屈めながら、楽譜の鞄を抱えて部屋に入ってきた。
「エリックくん、こんにちは」
「こんにちは」
ベルナール先生は、絨毯の上で正座している俺と、その膝の上の五線紙に、目を留めた。
「ふむ」
「先生」
「はい」
「できました」
俺は、五線紙を、両手で差し出した。
ベルナール先生が、絨毯の縁に膝をついた。にこにこしながら、優しい手つきで、五線紙を受け取った。
「拝見しますね」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ベルナール先生が、五線紙に目を落とした。
最初は、にこにこしていた。「子供のお絵かきを微笑ましく眺めるお父さん」のような顔だった。
数秒経った。
ベルナール先生の、にこにこが、ふっと、止まった。
丸眼鏡の奥で、目が、五線紙の上をなぞり始めた。最初の小節から、二小節目、三小節目——指でも、軽くなぞっていた。
——あれ?
俺は、絨毯の上で正座したまま、ベルナール先生を見ていた。
ベルナール先生は、五線紙の最後まで読んだ。それから、最初に戻った。
二回目を読み始めた。
——あれ?
ベルナール先生は、二回目も、最後まで読んだ。それから、丸眼鏡を一度外した。布の端で、レンズを丁寧に拭いた。それから、もう一度掛け直した。
三回目を読み始めた。
俺は、絨毯の上で、だんだん不安になってきた。
——なんか、ヘンか?
——音符が下手すぎて、読めないのか?
——書き間違いがあるのか?
ベルナール先生は、三回目を、最後まで読んだ。
そして、しばらく、動かなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
絨毯の上に、沈黙が落ちた。
俺は、正座のまま、待った。
待ちながら、頭の中で、必死に状況分析をしていた。前世のビジネス交渉で、相手が長い沈黙を作るときの種類を、思い出していた。
——ひとつ、即座に断りを伝えるのが気まずくて言葉を探している沈黙。
——ふたつ、提示された内容が想定外で、頭の中で再評価している沈黙。
——みっつ、相手の言葉が予想外に重くて、自分の準備した返答が全部使えなくなって、新しい返答を組み立てている沈黙。
ベルナール先生の沈黙は、たぶん、二番目だ。たぶん。
——たぶん、二番目。
——たぶん。
俺は、口を開いた。
「先生」
「……はい」
「ヘン、ですか?」
ベルナール先生が、ゆっくりと顔を上げた。丸眼鏡の奥で、瞳が、いつもと違う色をしていた。
「いえ」
ベルナール先生は、静かに言った。
「ヘンでは、ありません」
「うん」
「素晴らしい」
ベルナール先生は、それだけ、短く言った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
俺は、安心した。
「うん!」
絨毯の上で、密かに胸を撫で下ろした。前世のビジネスで言うところの「合格」だ。クライアントの一発OKをもらえるのは、いつだって嬉しい。
ベルナール先生は、五線紙を、丁寧に両手で扱いながら、何かを考えていた。
「エリックくん」
「うん」
「この曲は、どうやって作りましたか?」
——え。
俺は、少し考えた。1歳11ヶ月児の語彙では、複雑な説明はできない。だが、簡単な説明なら、できる。
「あたまの、なかで、はなうたを、ながして」
「はい」
「きもちいいおとを、つなげた」
「……気持ちいい音を」
「うん」
「つなげた」
「うん」
ベルナール先生は、しばらく、絨毯の上で動かなかった。
それから、五線紙を、もう一度、優しい手つきで持ち直した。
「……ありがとうございます」
——え?
ベルナール先生は、なぜか、俺に礼を言った。
「いえ、何でもありません。素晴らしい思いつきです。続けてください」
ベルナール先生は、五線紙を、自分の鞄に丁寧に仕舞った。
「これは、お預かりしてもよろしいですか? 練習用に綺麗な楽譜にし直して、お持ちします」
「うん」
「ありがとうございます」
ベルナール先生は、もう一度礼を言った。
俺は、絨毯の上で、無邪気に頷いた。
——書いた曲を、ベルナール先生が綺麗にしてくれる。
——いいことだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
レッスンが終わって、ベルナール先生が帰る時間になった。
俺は、絨毯の上で立ち上がって、ベルナール先生を見送った。
ベルナール先生は、ドアの前で、一度立ち止まった。
それから、振り返って、絨毯の上の俺を、静かに見つめた。
「エリックくん」
「うん」
「楽しんでくださいね」
ベルナール先生は、少しだけ、いつもと違う表情で、優しく笑った。それから、ドアを開けて、廊下に消えた。
ドアが閉まった。
俺は、絨毯の上で、しばらく立っていた。
——なんか、変だったな。
——でも、合格はもらった。
俺は、絨毯の上に座り直して、棚に立てかけてあるハープを見上げた。
頭の中では、書き上がった曲のメロディが、すでに、ハープの弦の音で再生されていた。




