表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

50/56

第五十話 あと2ヶ月の時間を有意義に使おうとした俺、思わぬ発見をする

夜だった。


ベビーベッドの中で、俺は天井のルーンを見上げていた。寝間着の襟が、首元で軽く擦れた。セリーヌが寝かしつけてから、もうずいぶん経つ。屋敷の中はしんと静まっていて、廊下を歩く誰かの靴音も聞こえない。


頭の中で、ジムノペディが流れていた。


最初の和音。次の旋律。サティの、あの静かで不思議な空気。何度も練習したから、最初から最後まで完璧に脳内再生できる。澄んだ音が、頭の中で鳴っている。


——あれ?


ふと、気づいた。


ジムノペディが脳内再生されている裏で、楽譜が見えていた。


最初の和音は、ここの位置にこの音符。次の音は、四分音符でここ。そのまた次は、付点二分音符でここ。練習を通して何度も見た楽譜だから、当然と言えば当然——だが、見えている解像度が、思っていたより高かった。


「あ」と俺は、声に出さずに頷いた。


頭の中で、楽譜の音符ひとつひとつが、はっきりと位置を持っていた。脳内再生している音と、楽譜の音符が、完全に一致している。指を動かそうと思えば、楽譜を見なくても、頭の中の楽譜から弾ける。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


——他の曲は、どうだろう。


俺はベビーベッドの中で、寝返りを打って、別の曲を試してみることにした。


頭の中で、前世のクラシックを再生してみる。


ショパンのノクターン第二番。


——あれだ。


バーで一人飲みするときに似合うやつ。前世の俺は、二十代後半に入って「そろそろ大人らしい趣味を持たないと」と焦り、薄暗いバーのカウンターで一杯やる男になろうとして、選曲アプリでこれを繰り返し聞いていた。何が「大人らしい」なのか、当時の自分にもよくわかっていなかった。


そのノクターンが、頭の中で流れた。


楽譜が、見えた。


メロディーラインのひと音目から、伴奏のアルペジオ、左手の三連符、装飾音、強弱記号——全部、音と同時に、紙の上の位置として見える。前世で楽譜を見たことは一度もない曲なのに、なぜか、見える。脳内で鳴っている音が、頭の中で勝手に紙に書かれていく。


俺は、ベビーベッドの中で、もう一度寝返りを打った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


——次。


ドビュッシーの月の光。


前世の俺は、同期との飲み会で「最近、印象派にハマっててさ」と言うために、これを覚えた。何ヶ月か聞いた後、相手の反応がいまいちだったので、次は「最近、ジャズに目覚めてさ」に切り替えた。要するに、教養を装飾品として消費していた。


その月の光が、頭の中で流れた。


楽譜が、見えた。


——次。


ラヴェルのボレロ。


これは年末の特番で何度も流れていたやつだ。前世の俺は、年末になるとビールを片手にテレビをつけて、特番でこれが流れると「あ、ボレロだ」と知ったような顔をしていた。それ以上の感想は、なかった。


そのボレロが、頭の中で流れた。


楽譜が、見えた。


——次。


ホルストの木星。


これも、CMでよく聞いて「これ、知ってる」と言いたいだけのために覚えた曲だ。コンビニで流れてきたら「あ、ホルストの木星」と言って、コンビニの店員から無言の視線を浴びた記憶がある。前世のあの頃の俺は、本当に何のためにあれをやっていたのか、今となっては自分でもよくわからない。


その木星が、頭の中で流れた。


楽譜が、見えた。


——どれもこれも、ろくでもない動機で聞いていた。


俺はベビーベッドの中で、自分の前世の音楽消費の節操のなさを、改めて確認した。


しかし——


楽譜が、見える。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


——待て。


俺は、ベビーベッドの中で、寝返りを止めた。


楽譜が見える。脳内再生から、音符の位置に変換できる。


これって——


——自分のメロディでも、できるんじゃないか?


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


試してみることにした。


頭の中で、適当な鼻唄を作ってみた。短い、八小節くらいの、なんでもないメロディ。子守唄っぽい雰囲気。ハッピーバースデーから離れた、でもジムノペディよりは軽い、ふわっとしたフレーズ。


頭の中で鳴らした。


楽譜が、見えた。


——書ける。


最初の音はド。次はミ。三つ目はファ。四つ目はソ、ソのまま伸ばして——


俺はベビーベッドの中で、想像上の鉛筆を動かした。音符が、頭の中の五線譜の上に並んでいく。鼻唄として漠然と頭の中で鳴っていただけのメロディが、はっきりとした音符に変換されていく。


書ける。


——書けてしまった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


寝間着の襟が、首元でまた擦れた。


——いやいやいや。


——待て。


俺は、ベビーベッドの中で、もう一度寝返りを打った。


これは何だ。これは何の状況だ。


ジムノペディを一ヶ月かけて練習してきた。仕上がった。あと二ヶ月暇になった。何しようかと考えていた。


そして今、夜中のベビーベッドの中で、頭の中の鼻唄を勝手に楽譜に変換する能力が、覚醒した。


——いやいや。


——これは、まずいだろう。


俺は、頭を布団に押し付けた。


ジムノペディを弾けるようになるだけでも、「ハープの上手な天才児」だ。そこまでなら、まだ「裕福な家のおぼっちゃまの趣味」の範囲に収まる。だが、自分で曲を書く——それは完全に、別の領域だ。


それはもはや、作曲家だ。


吟遊詩人どころか、もっと深い。歌うだけでなく、作る側の人間。前世の俺がぼんやり想像していた「裕福な家のビジネス系後継ぎ」とは、まったく別ルートに足を踏み入れることになる。


——逃げるはずだったのに。


——どんどん、深いところに行っていないか。


布団の中で、俺は唸った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


——いや、待て。


俺は、頭の中で必死にブレーキを踏んだ。


冷静に考えよう。状況整理。原因分析。対策立案。


何のために、自作曲を書くのか。


——歓迎曲だ。


そう。同い年のお嬢様に、初対面で渡す、心のこもった歓迎曲。前世のビジネスでも、初対面の相手に何かを贈るとき、ありふれた既製品より、相手のために用意した特別なものの方が、印象は深い。


ジムノペディは、無難な選択だ。あれはあれで完成された曲だが、世界中に弾ける人がいる。お嬢様が「ああ、サティね」と思って終わる可能性もある。


だが、自分で書いた曲なら、世界に一つだけだ。「あなたのために用意しました」と言える。これは——


——これは、贈り物だ。


——商業活動じゃない。


——同い年のための、特別な贈り物。


セーフ。


俺は布団の中で、三度目のセーフ判定を下した。これは作曲家ルートではない。一度限りの、特殊な、私的な、お嬢様への贈り物のための、例外的な活動。商業的な作曲家としての一歩ではない。


セーフ理論、もはや三度目の発動。


俺は、自分の判定の連発に、薄々気づき始めていた。これは——何かに、逃げる必要があるのではないか。判定が三度続くということは、判定対象の活動が、判定を必要としているということだ。前世の経理で、毎月「これは経費」と自分に判定し続けるものは、たいてい経費ではない。


——いや、これは違う。


——今回は本当に、贈り物だ。


俺は、自分に言い聞かせた。


布団から顔を出した。天井のルーンが、淡く揺れていた。


——書こう。


——一曲、書こう。


——お嬢様のために。


そう決意して、俺はベビーベッドの中で目を閉じた。


頭の中で、さっきの鼻唄のメロディが、もう一度流れた。


寝る前に、もう一度、楽譜の中で音符の位置を確認した。書ける。明日、ベルナール先生に相談しよう。許可をもらえれば、書き始められる。


——書ける。


——俺、書けるんだ。


何かが、胸の奥で、静かに動いていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


数日後の月曜日。ベルナール先生のレッスンの日だった。


いつものように、ベルナール先生が大柄な体を屈めながら部屋に入ってきて、絨毯の上で正座している俺を見て、丸眼鏡の奥で目を細めた。


「エリックくん、今日もいい姿勢ですね」


「うん」


俺は、両手を膝の上に置いた。前世のビジネス交渉のフォームだ。


「先生」


「はい」


「おねがいが、あります」


ベルナール先生が、楽譜の鞄から手を離した。「ふむ」と頷いて、丸眼鏡を少し上げる。


「うかがいましょう」


俺は、できるだけ無邪気な顔で、続けた。


「じぶんで、きょくを、つくっても、いいですか?」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ベルナール先生が、しばらく動かなかった。


それから、丸眼鏡の奥で、ゆっくりと瞬きをした。


「……ご自分で?」


「うん」


「曲を?」


「うん」


「お友達のために?」


「うん」


ベルナール先生は、しばらく俺を見ていた。


それから、にこにこしながら、楽譜の鞄から五線紙を一冊取り出して、絨毯の上に置いた。


「素晴らしい思いつきですね、エリックくん」


「うん」


「自由に書いてごらんなさい。思いついた音を、紙の上に並べてみる。それだけで、立派な作曲の始まりです」


ベルナール先生は、五線紙の上に、鉛筆も一本置いた。


「鉛筆の握り方は、ご存じですね」


「うん」


「最初から完璧でなくていいんです。書いては消して、また書いて。それを繰り返すうちに、自分の音が見つかります」


ベルナール先生は、にこにこしながら、それから少しだけ声のトーンを優しくした。


「子供の作曲は、宝物のような時間です。私も子供の頃に、たくさん『曲』を書きました。今思えば、めちゃくちゃでしたが、それでもあの時間が、私を音楽家にしてくれました」


——めちゃくちゃ。


俺は、心の中で頷いた。


ベルナール先生は、俺が「めちゃくちゃな」何かを書くと思っている。当然だ。1歳11ヶ月児が作曲できると本気で思う音楽家は、世界に一人もいないだろう。これは「お遊び」として、紙を与えてくれたのだ。


——だが。


——書ける。


俺は、五線紙を見つめた。


頭の中では、すでに、昨晩の鼻唄のメロディが、はっきりとした音符として並んでいた。


「ありがとうございます、先生」


「楽しんでくださいね」


ベルナール先生は、いつもの「素晴らしい!!」のリアクションを、今回はやらなかった。代わりに、にこにこと、優しい笑みを浮かべていた。


俺は、五線紙を絨毯の上に広げて、鉛筆を握った。


——お嬢様。


——お待たせしました。


——いま、あなたのための曲を、書きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ