第五十話 あと2ヶ月の時間を有意義に使おうとした俺、思わぬ発見をする
夜だった。
ベビーベッドの中で、俺は天井のルーンを見上げていた。寝間着の襟が、首元で軽く擦れた。セリーヌが寝かしつけてから、もうずいぶん経つ。屋敷の中はしんと静まっていて、廊下を歩く誰かの靴音も聞こえない。
頭の中で、ジムノペディが流れていた。
最初の和音。次の旋律。サティの、あの静かで不思議な空気。何度も練習したから、最初から最後まで完璧に脳内再生できる。澄んだ音が、頭の中で鳴っている。
——あれ?
ふと、気づいた。
ジムノペディが脳内再生されている裏で、楽譜が見えていた。
最初の和音は、ここの位置にこの音符。次の音は、四分音符でここ。そのまた次は、付点二分音符でここ。練習を通して何度も見た楽譜だから、当然と言えば当然——だが、見えている解像度が、思っていたより高かった。
「あ」と俺は、声に出さずに頷いた。
頭の中で、楽譜の音符ひとつひとつが、はっきりと位置を持っていた。脳内再生している音と、楽譜の音符が、完全に一致している。指を動かそうと思えば、楽譜を見なくても、頭の中の楽譜から弾ける。
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——他の曲は、どうだろう。
俺はベビーベッドの中で、寝返りを打って、別の曲を試してみることにした。
頭の中で、前世のクラシックを再生してみる。
ショパンのノクターン第二番。
——あれだ。
バーで一人飲みするときに似合うやつ。前世の俺は、二十代後半に入って「そろそろ大人らしい趣味を持たないと」と焦り、薄暗いバーのカウンターで一杯やる男になろうとして、選曲アプリでこれを繰り返し聞いていた。何が「大人らしい」なのか、当時の自分にもよくわかっていなかった。
そのノクターンが、頭の中で流れた。
楽譜が、見えた。
メロディーラインのひと音目から、伴奏のアルペジオ、左手の三連符、装飾音、強弱記号——全部、音と同時に、紙の上の位置として見える。前世で楽譜を見たことは一度もない曲なのに、なぜか、見える。脳内で鳴っている音が、頭の中で勝手に紙に書かれていく。
俺は、ベビーベッドの中で、もう一度寝返りを打った。
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——次。
ドビュッシーの月の光。
前世の俺は、同期との飲み会で「最近、印象派にハマっててさ」と言うために、これを覚えた。何ヶ月か聞いた後、相手の反応がいまいちだったので、次は「最近、ジャズに目覚めてさ」に切り替えた。要するに、教養を装飾品として消費していた。
その月の光が、頭の中で流れた。
楽譜が、見えた。
——次。
ラヴェルのボレロ。
これは年末の特番で何度も流れていたやつだ。前世の俺は、年末になるとビールを片手にテレビをつけて、特番でこれが流れると「あ、ボレロだ」と知ったような顔をしていた。それ以上の感想は、なかった。
そのボレロが、頭の中で流れた。
楽譜が、見えた。
——次。
ホルストの木星。
これも、CMでよく聞いて「これ、知ってる」と言いたいだけのために覚えた曲だ。コンビニで流れてきたら「あ、ホルストの木星」と言って、コンビニの店員から無言の視線を浴びた記憶がある。前世のあの頃の俺は、本当に何のためにあれをやっていたのか、今となっては自分でもよくわからない。
その木星が、頭の中で流れた。
楽譜が、見えた。
——どれもこれも、ろくでもない動機で聞いていた。
俺はベビーベッドの中で、自分の前世の音楽消費の節操のなさを、改めて確認した。
しかし——
楽譜が、見える。
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——待て。
俺は、ベビーベッドの中で、寝返りを止めた。
楽譜が見える。脳内再生から、音符の位置に変換できる。
これって——
——自分のメロディでも、できるんじゃないか?
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試してみることにした。
頭の中で、適当な鼻唄を作ってみた。短い、八小節くらいの、なんでもないメロディ。子守唄っぽい雰囲気。ハッピーバースデーから離れた、でもジムノペディよりは軽い、ふわっとしたフレーズ。
頭の中で鳴らした。
楽譜が、見えた。
——書ける。
最初の音はド。次はミ。三つ目はファ。四つ目はソ、ソのまま伸ばして——
俺はベビーベッドの中で、想像上の鉛筆を動かした。音符が、頭の中の五線譜の上に並んでいく。鼻唄として漠然と頭の中で鳴っていただけのメロディが、はっきりとした音符に変換されていく。
書ける。
——書けてしまった。
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寝間着の襟が、首元でまた擦れた。
——いやいやいや。
——待て。
俺は、ベビーベッドの中で、もう一度寝返りを打った。
これは何だ。これは何の状況だ。
ジムノペディを一ヶ月かけて練習してきた。仕上がった。あと二ヶ月暇になった。何しようかと考えていた。
そして今、夜中のベビーベッドの中で、頭の中の鼻唄を勝手に楽譜に変換する能力が、覚醒した。
——いやいや。
——これは、まずいだろう。
俺は、頭を布団に押し付けた。
ジムノペディを弾けるようになるだけでも、「ハープの上手な天才児」だ。そこまでなら、まだ「裕福な家のおぼっちゃまの趣味」の範囲に収まる。だが、自分で曲を書く——それは完全に、別の領域だ。
それはもはや、作曲家だ。
吟遊詩人どころか、もっと深い。歌うだけでなく、作る側の人間。前世の俺がぼんやり想像していた「裕福な家のビジネス系後継ぎ」とは、まったく別ルートに足を踏み入れることになる。
——逃げるはずだったのに。
——どんどん、深いところに行っていないか。
布団の中で、俺は唸った。
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——いや、待て。
俺は、頭の中で必死にブレーキを踏んだ。
冷静に考えよう。状況整理。原因分析。対策立案。
何のために、自作曲を書くのか。
——歓迎曲だ。
そう。同い年のお嬢様に、初対面で渡す、心のこもった歓迎曲。前世のビジネスでも、初対面の相手に何かを贈るとき、ありふれた既製品より、相手のために用意した特別なものの方が、印象は深い。
ジムノペディは、無難な選択だ。あれはあれで完成された曲だが、世界中に弾ける人がいる。お嬢様が「ああ、サティね」と思って終わる可能性もある。
だが、自分で書いた曲なら、世界に一つだけだ。「あなたのために用意しました」と言える。これは——
——これは、贈り物だ。
——商業活動じゃない。
——同い年のための、特別な贈り物。
セーフ。
俺は布団の中で、三度目のセーフ判定を下した。これは作曲家ルートではない。一度限りの、特殊な、私的な、お嬢様への贈り物のための、例外的な活動。商業的な作曲家としての一歩ではない。
セーフ理論、もはや三度目の発動。
俺は、自分の判定の連発に、薄々気づき始めていた。これは——何かに、逃げる必要があるのではないか。判定が三度続くということは、判定対象の活動が、判定を必要としているということだ。前世の経理で、毎月「これは経費」と自分に判定し続けるものは、たいてい経費ではない。
——いや、これは違う。
——今回は本当に、贈り物だ。
俺は、自分に言い聞かせた。
布団から顔を出した。天井のルーンが、淡く揺れていた。
——書こう。
——一曲、書こう。
——お嬢様のために。
そう決意して、俺はベビーベッドの中で目を閉じた。
頭の中で、さっきの鼻唄のメロディが、もう一度流れた。
寝る前に、もう一度、楽譜の中で音符の位置を確認した。書ける。明日、ベルナール先生に相談しよう。許可をもらえれば、書き始められる。
——書ける。
——俺、書けるんだ。
何かが、胸の奥で、静かに動いていた。
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数日後の月曜日。ベルナール先生のレッスンの日だった。
いつものように、ベルナール先生が大柄な体を屈めながら部屋に入ってきて、絨毯の上で正座している俺を見て、丸眼鏡の奥で目を細めた。
「エリックくん、今日もいい姿勢ですね」
「うん」
俺は、両手を膝の上に置いた。前世のビジネス交渉のフォームだ。
「先生」
「はい」
「おねがいが、あります」
ベルナール先生が、楽譜の鞄から手を離した。「ふむ」と頷いて、丸眼鏡を少し上げる。
「うかがいましょう」
俺は、できるだけ無邪気な顔で、続けた。
「じぶんで、きょくを、つくっても、いいですか?」
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ベルナール先生が、しばらく動かなかった。
それから、丸眼鏡の奥で、ゆっくりと瞬きをした。
「……ご自分で?」
「うん」
「曲を?」
「うん」
「お友達のために?」
「うん」
ベルナール先生は、しばらく俺を見ていた。
それから、にこにこしながら、楽譜の鞄から五線紙を一冊取り出して、絨毯の上に置いた。
「素晴らしい思いつきですね、エリックくん」
「うん」
「自由に書いてごらんなさい。思いついた音を、紙の上に並べてみる。それだけで、立派な作曲の始まりです」
ベルナール先生は、五線紙の上に、鉛筆も一本置いた。
「鉛筆の握り方は、ご存じですね」
「うん」
「最初から完璧でなくていいんです。書いては消して、また書いて。それを繰り返すうちに、自分の音が見つかります」
ベルナール先生は、にこにこしながら、それから少しだけ声のトーンを優しくした。
「子供の作曲は、宝物のような時間です。私も子供の頃に、たくさん『曲』を書きました。今思えば、めちゃくちゃでしたが、それでもあの時間が、私を音楽家にしてくれました」
——めちゃくちゃ。
俺は、心の中で頷いた。
ベルナール先生は、俺が「めちゃくちゃな」何かを書くと思っている。当然だ。1歳11ヶ月児が作曲できると本気で思う音楽家は、世界に一人もいないだろう。これは「お遊び」として、紙を与えてくれたのだ。
——だが。
——書ける。
俺は、五線紙を見つめた。
頭の中では、すでに、昨晩の鼻唄のメロディが、はっきりとした音符として並んでいた。
「ありがとうございます、先生」
「楽しんでくださいね」
ベルナール先生は、いつもの「素晴らしい!!」のリアクションを、今回はやらなかった。代わりに、にこにこと、優しい笑みを浮かべていた。
俺は、五線紙を絨毯の上に広げて、鉛筆を握った。
——お嬢様。
——お待たせしました。
——いま、あなたのための曲を、書きます。




